#中節 犯人の血は何色か?

 バーミリオンに貰ったニュースサイトのアクセス履歴。この中で最もアクセス数が高いものが、犯人である可能性が高い。

 二ヶ月分しか存在しないが、それだけあれば十分だろう。かなり前に何度もアクセスしていたが、最近はアクセスしていない……そんな状態でもない限り、残っているはずだ。

 それに、そもそもこんな古い記事にアクセスする人間なんて、そうそう居ないはずだ。ざっと見たところ、この二ヶ月でのアクセス数は百二十に満たない。二回以上アクセスした者に関しては、片手で数えられるほどだろう。

 ありがたいことに、アクセス履歴はエクセルファイルでまとめられていた。ジェーンはレポートもエクセルで作ってしまうタイプの人間なので、他の形式で渡されても、上手く扱うことができないのだ。PDFは編集のやり方がわからないし。ギークだったのに。

 他のツールが上手く扱えない代わりに、マクロぐらいは使える。久々の作業なのでぎこちないが、なんとかアクセス履歴からアクセス回数上位のIPアドレスを抽出することができた。

 一番アクセス回数が多かったのは……見覚えのあるIPだった。

(これは……)

 こういう文字列を覚えるのは苦手なので断言はできないが、とても身近なものだった気がする。思い当たるフシもあった。

 ジェーンは、今使っているパソコンのIPアドレスを確認する。

 ドンピシャだった。

 ここ二ヶ月間でこの記事に一番アクセスしていたのは、ジェーンだった。アクセス回数十七回で圧倒的な首位だ。

 つまりこの事件の犯人はジェーン……?

「んなわけあるかい!!」

 思わずセルフツッコミをしてしまう。

 まあなんとなくそんな気はしていた。ここ最近で何度もアクセスしていたため、こうなるのは当然の帰結とも言える。

 気を取り直して、次のIPへ。アクセス回数八回。とてもよくこの記事を見ている。非常に怪しい。後でバーミリオンに委細を掘り出してもらおう。

 そして、三番目。アクセス回数三回。微妙に怪しいが、これは違う、なぜなら、バーミリオンがサブPCでよく踏み台にしているサーバーのIPだからだ。語呂合わせを教えてもらったので、こちらは覚えている。

 後は、一回ずつで横並び。これはノイズのようなものなので、除外して問題無いだろう。

 早々に怪しいIPを発見できたので、これをバーミリオンに送りつけて特定してもらう。個人情報の抜き取りは彼女の不得意分野らしく、セキュリティの発達もあって三日は掛かるらしい。

 その三日間で何もしないのも憚られるので、久しぶりにクリスと会うことにした。進捗の報告と、これからの方針の摺り合わせだ。クライアントとコンサルタントの齟齬によって起きた悲劇というものは、枚挙に暇がない。

 例えば今回であれば、最終的な落とし所についてまだ決まっていない。考えられるパターンは、犯人からボブを取り返すだけで終わりにするのか、被害届を出して社会的な制裁を与えるのか、あるいは犯人の特定までがジェーンの領分でそこから先はクリスが独力で行うのか、などだ。

 ここから先はダイレクトに犯人に関わっていくことになる。最終的な落とし所によってこちらの動きも変わってくるので、これの決定は避けては通れない道だ。

 早速クリスに電話し、約束を取り付ける。

『クリスです』

 お昼休みの真っ最中だからか、ワンコールで出た。

「もしもし、クリス? ジェーンだけど」

『どうしました?』

「今後の方針について打ち合わせしたいんだけど、今日の放課後とか大丈夫?」

『今日は用があるんで明日で』

「オッケー。場所は?」

『ハイスクールの近くにメイプルがあるので、そこで』

「わかった。じゃあね」

 どこかの国の故事に "ツー・カー" なるものがあるらしい。なんでも、ツーとカーだけで会話ができるほどに親しい仲を現すんだとか。そこまでは行かないが、結構クリスと親しくなれたのではないだろうか。

 いや、依頼者と親しくなってどうするのだ、というのはもっともなのだが。久々の依頼者なので、険悪にはなりたくないというか……。

 とにかく、彼女のためにもこの事件は絶対に解決したいのだ。

 例えどんな手段を用いたとしても、だ。



 翌日、クリスと待ち合わせ。場所は彼女の指定通り、ハイスクールの近くにあるメイプルだ。よく考えたら今日は休日なのだが、多分わかりやすい待ち合わせ場所としてここが指定されたのだろう。

 この木――メイプルは、人間の手によってその生態を大きく変化させられた種の代表例としてよく挙げられる。

 二十一世紀の終わり頃、増え続ける人口へのカウンターとして多層化計画が打ち立てられた。それまで人間が暮らしていた層の上下を拡張し、さらなる居住スペースの確保を目指したものだ。

 これに付随する要素として、気候の完全掌握がある。表層に位置する第一層を除いて、屋根ができたことにより気候を完全に制御することが可能になった。人類は、煩わしい異常気象や四季などといった変化から開放されたのだ。

 しかし、それに合わせた生態を持っていた動植物には大きな変化を与えることになる。その影響が最も顕著だったのが、落葉性を持つ広葉樹だ。

 気候が一年を通して安定しているため、落葉のトリガーが刺激されず、正常な落葉が行われなくなってしまった。その中でもこのメイプルは、落葉性を完全に廃してしまった種とされている。

 また、多層化計画は動植物だけでなく層ごとの格差を生み出すなど人間にも大きな影響を与えたのだが、増え続ける人口を前には強行して行くしかなかった。

 ジェーン達が住んでいる三層は、中流もいいところの、いわゆる庶民の生活スペースだ。とにかく、普通。

 因みに一番の貧困層とされている――土地代が安い――のが、第一層だ。太陽から有害な紫外線を直に浴び、更に未だに気候が安定しない層であるため、好き好んで住もうと考える人は少ない。ただし、太陽光を用いた発電施設が多くあり、雇用は多いと言われている。

 とは言え、階層で人柄を判断するのはどこに行っても憚られることとされているので、どこに住んでいるからといって差別されることは (表向きでは) 少ない。確かに差別は存在するのだが、それを表立って言えば非難されることもまた確かだ。

 そもそも貧困層と言っても過去に比べればそこまでのものでもなく、最低限生きていくだけなら滅多なことでは困らないらしい。盗難も、生きるのに困って……というよりも、欲が出たなどという動機の方が多いくらいだ。

 まあ、根っからの三層人であるジェーンは、実際に彼らの現状を見てきたわけではないのだが。

 因みに、他層への移動は各地に点在しているエレベーターなどで行う。ここから一番近いのは、確か北西にあったはずだ。旧式のポンコツエレベーターで、無人式。嘘かマコトか、奇跡的に死亡事故は起きていない。昔、バーミリオンと小旅行で見に行った気がする。

 ……と、そろそろ待ち合わせの時間だ。腕時計を確認すると、あと五分ほど。

「お待たせしましたー!」

 バーミリオンなんかとは違い、クリスは五分前に到着した。ジェーンが待っていたのは、待ち合わせ場所にはきっかり一時間前に到着するように動くという個人的なポリシーの問題なので、クリスに罪はない。

「いや、今来たところ」

 気の利いたセリフが思いつかなかったので、ついつい古典的で月次な言葉を口走ってしまう。これはむしろ何も言えないより恥ずかしい。

 が、別にクリスは気にかける様子もなかった。最近の学生の間では一周回って定番なのだろうか。ジェーンが学生の頃はデートで言えない恥ずかしいセリフの筆頭だったのだが。

(あ、そうかこれデートじゃないからか……)

 一人で考え一人で納得する。無意識下でデート扱いしてたとか、これは恥ずかしい。童貞かよ……似たようなもんだった。

 認識を改めたため、話の摺り合わせはあっさりと進んだ。

 結果として、ボブの奪還までを目的とすることになる。ぶっちゃけこんなの探偵の仕事の範疇ではないのだが、久々の仕事なのでそんなことを言う気にもなれなかった。普通は、犯人と潜伏先ぐらいまで見つけてサヨナラである。

 また、ボブの奪還にはクリス自身が同行したいと言っていたが、危ないのでそれはやんわりと断った。曖昧な言葉でお茶を濁す感じだったが、きっと伝わっただろう。

 それから、二日。とりあえず、相手の拠点に乗り込む準備をして待った。

 遂にバーミリオンから結果が届いた時、ジェーンの緊張は最高潮に達していた。

 これが、盗人の――まだ断定はできないが――アジトだ。ここに乗り込んで、ボブを奪還する。

 バーミリオンが引っこ抜いた住所を地図で探したところ、少し離れたところにある廃倉庫だった。どうにも、根っからのパンピーというわけではなさそうだ。これでは余計にクリスを連れていけない。

 因みに、登録されていた名前は、アレク・ダンプ。性別はわからなかったらしい。男性名だが、偽名の可能性も十二分にある。こちらは参考程度に留めておこう。

 できれば穏便に話し合いで済ませたいところだが、念のためにスタンガンを持ち込むことにした。……これぐらいしか、通用しそうなものがない。

 そもそもジェーンの身体能力では、真正面から殴り合いを挑んでくるような相手にはまず勝てない。ならば搦手で行くしかないというのは、仕方のないことだろう。



 というわけで、翌日の早朝。こっそりを事務所を出て、廃倉庫へと向かう。

 しかし、事務所から少し――十メートル程度――離れたところで、ふと、妙な違和感を覚えた。

 ……尾行されている。

 この距離ではまだ確証は持てないが、明らかに背後に気配を感じる。それも、多分素人だ。今、ジェーンを尾行する可能性のある素人など、二人ぐらいしか居ないだろう。

 そして、その内の一人であるバーミリオンは、この時間帯は寝ている。つまり消去法で導かれるその正体は――

「クリス、駄目でしょついてきちゃ」

「……バレちゃいましたか」

 恥ずかしげに、事務所の陰から姿を現すクリス。サングラスにマスクにパーカーといったとても "らしい" 格好をしているが、ジェーンにはバレバレだった。

 どうやらお茶を濁した程度では彼女を留めることができなかったらしい。もう少し念入りに説得するべきだったと、ジェーンは今になって後悔した。

「これはね、クリス。遊びじゃないの。それにこれは私の探偵としての仕事だから……いや、正確に言うと探偵の仕事ではないけど……とにかく、クリスがわざわざついてくる必要はないの」

 依頼者は首を突っ込まないでと言外に付け足し、突き放すように背を向ける。

 しかしこれで案外粘り強いのがクリスで、いつまで経っても背後の気配は消えないままだった。

 困った。彼女は連れて行きたくないのだが。

「私も行きます」

 何にもで首を突っ込みたがるのが、若者の難しいところだ。もう一度突き放したところで、諦めようとはしないだろう。

 スタンガンを使うか?

 いいや、スタンガンは案外デリケートな武器だ。上手いこと対象を気絶させるためには、相当の技量を要する。無論、とりあえず持っているだけのジェーンは、どこに使うのが効果的かなんて知らない。ヘタすれば、クリスを傷つけてしまうだろう。

 ドラマなんかでよくある相手を気絶させるための手段――腹部への拳打や首筋への手刀も同様の理由で却下だ。

 なら、逆に考えるんだ。クリスがついてきても、安全を確保できる方法を考えるんだ。

 ちょうど、都合のいいものを持っていた。

「じゃ、ちょっと……」

 クリスの背後へ回り込み、フードの裏地にフィルムを貼り付ける。――バーミリオンから貰った盗聴器だ。それと、ジェーンの私物である発信機をポケットへ滑りこませる。

「? なんです?」

「いや、特に何も」

 クリスは気づいていないらしい。当然だ。プロであるジェーンですら感知できなかったものを、トーシローであるクリスに知覚できるはずがない。発信機も、プロが仕掛けたのだから当然だ。

 絶対安全とは言えないが、少なくとも、クリスが行方不明になってもすぐに探せるようにはなった。最低でもこれぐらいの保険は必要だろう。

 後は、探索時にいろいろ気をつけるしかない。悩んでいても仕方がないので、突撃することにした。



 サウスストリートは、臨海部から都市部への中継地点に位置している。以前はよくここで物資の一時保管などが行われていたが、長距離輸送技術の進歩と共に、保管用の倉庫の数も目減りしていった。

 使われなくなった倉庫は低所得者向けの売却物件として新たな役割を与えられたのだが、廃倉庫呼ばわりは変わらなかった。その上そこに住む者もたびたび "バーゲッジ" などと俗称されるなど、周囲からの評判は悪い。そうした元倉庫街は三層の中でも比較的治安の悪い地域とされており、好き好んで近づく者はあまり居なかった。

 ……というのが世間的なイメージであり、人が近寄らないのをいいことに、コカインだとか、ヘロインなどといった、いわゆる非合法な取引に使われるのが実情だ。一度秩序が崩壊しても、ドラッグは相変わらず鼻つまみ者なのだった。

 先程からジェーン達をチラチラと見ている怪しい男が、三人ほど。部外者の来訪に警戒している――といったところだろうか。彼らも突然襲いかかってくるほど脳が溶けているわけではないが、こちらが怪しい素振りを見せればどうなるかはわからない。

 こんな危険な土地なのでクリスは連れて来たくなかったのだが、ついてくると言って聞かないので仕方がない。素人であるクリスを撒くのは簡単だが、それで勝手に一人で動かれるとかえって危険だ。それなら、一緒に行動してつきっきりで監視したほうが安全だろう。

「こんなところに、本当にボブが……?」

 周囲を見回しながら、恐る恐るクリスが言う。

「保証はできないけど、一番怪しいのがここだから」

 かなり乱暴な手段で特定した場所なので、ボブがこの場に存在しているかいないかは半々といったところか。しかし、少なくとも手がかりはあるはずだ。あんな古い記事に何の関わりもないのに高頻度でアクセスするというのは、普通に考えてありえない。

 確かに、こんなところに住んでいる人間がなぜボブを盗むのかと言えば、わからないとしか言いようが無いのだが。

 倉庫街の中ほど。周囲とあまり変わらぬ煤けた倉庫が――二つある部屋の内の東側が、今回のターゲットだ。

 怪しまれないように注意しながら、周囲を観察。特に変わった部分はなく、ごく平凡な廃倉庫ハウスだった。

 ドアや窓周辺のホコリが散っていたり、コンセントがタコ足配線になっていたりと、生活臭はする。ここで誰かが暮らしているのは確定だろう。

 では一体どんな相手が住んでいるのか。それを判断するべく、少し距離をおいて――待て。

「……」

 人が深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているとは、よく言ったものだ。そう、見られていたのだ。部屋の主に。

 積年のブランク故か、見られるまで視線に気づかなかった。

 手の形から推測するに、恐らく男。アレクというのは、本名なのかもしれない。

 こちらを値踏みするかのようにまとわりつく視線。しかし不思議とねちっこさはなく、むしろ鋭さすら感じる。不快……というよりも、不気味な視線だ。

 失敗した。どんな手段を使ってでも、クリスを置いて来るべきだった。後悔先に立たず。今はこの場を離脱するべきだろう。

 視線の主は、廃倉庫の二階。カーテンの隙間からチラリと覗く瞳は、まるでベンタブラックのような闇そのものだった。まともな人間ではないと、直感した。

 視線の主が、動く。

 逃げねば。

 周囲にそれと呼応して動く影はない。邪魔になりそうな障害物も見当たらない。単独犯が相手なら、まだ逃げる余裕はある。

 じりじりと、クリスの盾になりながら後退する。相手の同行に注目、目を離してはいけない。委細を丁寧に観察し、一挙手一投足まで把握しろ。次の行動を読め。

 男の手が、動いた。

「――!! しまった!?」

 銃だ。

 超能力が生まれた昨今であっても、銃は人間に対して有効な兵器だ。比較的低威力でる拳銃ですら音速に迫る初速を持ち、常人が事前準備なしに回避できるものではない。一つの能力しか使えない現行の超能力では、銃弾を防ぐ目的で得た能力でもない限り、生身の人間が銃に勝つことはできない。

 相手の腕前によっては外れることも十分にありえるが、銃の存在はそれだけで脅威となりうるのだ。進行方向に撃てば一瞬でも足止めになるし、デタラメに撃たれればもうどうしようもない。そこに銃が存在するという事実が既に、ジェーン達を縛り付けていた。

 ……いや。

 まだチャンスはある。ジェーンの能力はまだ決まっていないのだ。銃弾を防ぐ能力だって、今から使おうと思えば使える。

 ――だが、本当にそんな能力でいいのか?

 そんなことを言っていられる状況ではないのに、理性のどこかがそう囁く。ジェーンの内なる何かが、決定を邪魔する。

 銃口がこちらを見ている。

 瞬間移動か、バリアーか、何か銃弾に対抗し得る能力を――!

 遅かった。

 銃口が光り、薬莢が弾ける。時間がいやに遅く感じられて、銃弾が迫るのをまざまざと感じられる。美しい直線を描いて飛来する銃弾は、今まさにジェーンの胸元に到達しようとしていた。

 衝撃。

 だがしかし、この衝撃は……。

「危ないところだったね」

 ジェーンは、その言葉で初めて自身の状況を把握した。

 地面に倒れ込む自身の上に覆いかぶさる、若い女性。クリスではない。後頭部よりやや上にアップでまとめられた黒髪は、解けばそれなりの長さになるのだろう。紺色を基調としたこの服は――警察官のものだ。制帽がないのが気になったが、よく見れば少し離れた位置に転がっていた。

 婦警さんは素早くジェーンから離れると、先ほど銃を撃った男に向けて、二、三発ほど威嚇射撃を行う。たまったものではないとばかりに、男は影に隠れて見えなくなった。

 そうだ、クリスは大丈夫なのか。

 起き上がりクリスを見やる。腰を抜かして尻もちをついていたが、どうやら無事らしい。よかった。

 制帽を拾って被り直した婦警さんが、改めて言う。

「ここは危ないから、一旦離れようか」

 もとよりそのつもりだったので、ジェーンは特に反抗することもなく従った。

 あからさまな警察官と一緒にいるので、周囲のゴロツキ共は露骨に視線を逸らしていた。彼女がなぜこんなところに居たのかはわからないが、今は感謝するべきだろう。

 しばらく歩いて、倉庫街から離れた公園――運命の悪戯か、ただの偶然か、ボブが盗まれたであろう公園だった――までやってきた。周囲に人の気配がないことを確認して、婦警さんが口を開く。

「さて、いくつか質問があるんだけどいい? 拒否権は無いよ」

 権利というのは、超能力の出現で形骸化しつつある概念である。というのも、そもそも人を縛る権限なるものは存在せず、秩序のために為政者が権力者となって与えているだけのものに過ぎないからだ。圧倒的な腕力の前に権力などはことごとく無力であり、秩序が壊れてしまえばあっという間に壊れてしまう脆いものである。新たな秩序は生まれたが、人を縛ることが困難になった今、法で定められた権利制度などは簡単に無視されてしまうことが多い。現に、拳銃の所持には口径や装填数などに応じて区分の違う免許が必要なのだが、倉庫街の連中の九割はこれを無視しているという話だ。

 ただし、ネットワーク上などにおいては権力が腕力より上位に位置する場合があるので、まだまだ現役で使われている単語ではあった。そもそも超能力が出現したのがここ数年での話なので、それ以前の世界を生きてきた人間は "権利の存在しない世界 " というものの実感がイマイチ湧いてこなかったりする。

 閑話休題。

 以前の法では職務質問には拒否権があったはずのだが、彼女は無いと言った。まあこれはジョークの類なのだろう。質問の内容は、多分なぜ倉庫街に居たのかなどだ。依頼の件はあまり他言したくないのだが、ここで彼女と険悪になっても困るので、クリスを一瞥しつつ話すことにした。

「どんどんどうぞ」

 促すと、婦警さんはにやりと意地の悪そうな笑みを浮かべる。口元は大きくつり上がっているのだが、目が全く笑っていない。普通に生活していればなかなか拝むことのできない、黒い笑顔。探偵の仕事をバリバリこなしていた頃は、違法行為スレスレの危ない橋を渡る度に何度も見た笑顔だ。

 要するに、疑われているのだ。

 それも思いっきり。

 まあ、疑われても仕方がないだろう。それなりの服を着てあんなところに立ち入るのは、ドラッグのバイヤーか外法上等な借金取りぐらいのものだ。世界最後の秩序の番人からすれば、どちらも気分がいい存在ではない。

「まず最初の質問。あんた方は、どうしてあんなところに?」

 いきなり核心に踏み込んできたわけだが、しかしよく考えればこれ以外に彼女が初手でするであろう質問は 『あんた方は何者なのか?』 ぐらいなことがわかる。こちらの返答如何によって二手から先は変わってくるだろうが、この二つがメインと見て間違いない。

 まあ初手に軽快なジョークを飛ばす者も居るには居るのだが、これまでのやりとりで彼女がそんな性格でないのはなんとなくわかった。ハッキリとモノを言うタイプなのだ。

「ちょっと探しものがありまして」

 頭から話すのも面倒なので、とりあえずこう答える。

「へえ。探しものっていうのは?」

 ジョークの一種として受け取ったのか、彼女は冗談めかして言う。これでも真面目に答えたつもりのジェーンは、真面目一辺倒で押し通すことにした。

「テディベア」

 嘘は言っていないし、それどころか包み隠さず答えを示している。信じる信じないは勝手だが、疑われると困ってしまう。

「子供の死体?」

「いえ、言葉通りの意味です」

 婦警さんは最初こそ疑いの眼差しを向けてきたが、ジェーンが至って真面目であることを察すると、やれやれと言わんばかりに頭を振った。

「そう、わかった。……疑って悪かったね」

「いえいえ」

「でも……本当に、どうしてあんなところに? テディベアなんて、あんなところにはないと思うけど」

 ジェーンもそう思う。

「盗まれちゃったんですよ。この子が」

 言いながら、ジェーンはクリスを指し示した。

「盗まれた? テディベアを?」

 疑っているわけではないが、さりとて真正面から信じているというわけでもないような、微妙な声色。テディベアを盗むような相手の動機が思いつかないのだろう。

「……はい」

 クリスが頷く。こちらも嘘をついていないことを察したのか、婦警さんはふむと腕を組んだ。

「うーん……それで、あんたはどうしてそれを一緒に探してるの? 姉妹だとか、親戚だとか、友達みたいには、見えないんだけど」

 再びジェーンに視線が戻る。

「私は捜索を依頼された探偵でして」

「探偵?」

 冗談は格好だけにしてくれとでも言いたげな表情。今時探偵なんて多くて片手で数えられるだけ、少なくてジェーン一人ぐらいなので、仕方がないだろう。

 それでもジェーンは堂々と探偵を名乗る。今や無職と同等の地位とはいえ、それを誇りに生きてきたのだ。

「ええ。ずっと続けてるんですよ」

 本気のジェーンを見て、婦警さんは納得してくれたようだった。

「へえ……珍しい」

 それからクリスに目をやり、少しかがんで目線を合わせる。

「良かったら、詳しく教えてくれる? 私はカガミ。カガミ・アラタメ。これでもお巡りさんやってるからさ、力になれると思うよ」

 よく見ると、首元から覗いた名札に 『荒為香美』 と書かれている。この辺りで和名は珍しい。

 カガミに提案されるも、クリスは渋る。

「でも、大事にしたくなくて……」

 当然だ。だからこそ、ジェーンに白羽の矢が立ったのだから。

 しかし相手は警察官。そう簡単に退くわけがない。

「じゃあ、こうしよう。この件は私個人で手伝うってことで、警察組織としてはノータッチ。それなら、いいでしょ?」

 使い古された手段だが、それなら確かに (表面上は) 問題はない。使い古された代物というのは、なんにせよ使い古されるだけの理由があるのだ。

 恐らく、犯人確保のタイミングで偶然大量の警察官が雪崩れ込んできて、運良く犯人逮捕……という流れになるのだろうが。

 どうなるにしたって、決めるのはクリスだ。ジェーンが口を挟むことではない。

「なら……お願いします」

「それでよろしい」

 クリスが言うと、カガミは警察特有の傲慢な肯定をする。ジェーンは、昔からこれがあまり好きになれなかった。

 それもあってか、ついついこんなことを訊ねてしまった。

「ところで、カガミさんはどうしてあんなところに?」

 するとカガミは、胸ポケットの真上についた警察バッジを軽く押さえてから、ラフな調子で言い放った。

「今は私事で動いてるし、これからはプライベートな関係に鳴るんだから、呼び捨てでいいよ」

 こっそりと仲間を呼んでおいて、よく言う。警察バッジの裏にエマージェンシースイッチが付いているのを、ジェーンはよく知っているのだ。

「……で、カガミはどうしてあんなところに?」

 ここで喧嘩をしていても仕方がないので、素直に相手に合わせる。極秘任務なら目立つ制服なんか着ないだろうし、多分そこまで重要でもない仕事なのだろう。

 予想通り、カガミは軽口でも叩くかのように言った。

「ちょっと今月は厳しくてね。あそこで適当に素人バイヤー捕まえてポイント稼ごうと思ったんだけどね。そしたら二人が危ないことになってたからさ」

 確かに倉庫街では二十四時間三百六十五日いつでもそういった取引が行われている。警察からすれば、入れ食いの穴場スポットなのだろう。それこそ、制服で行っても捕まえられるような。

「……不良警察官」

 ジェーンが眉をひそめる。バイヤーの逮捕は警察として至極真っ当な行為なのだが、なにしろ動機が不純だ。倉庫街に関しては意図的に放置されているフシもあるので、いくら取り締まっても素直に賞賛はできない。

 それはカガミもわかっているのか苦笑していたが、不意にその端正な顔に影が差した。

「……まあ、それだけじゃないんだけどね」

 詳細を言うつもりは無さそうだったが、一応弁解のつもりだったらしい。不誠実な人間だと思われるのが嫌なのだろうか。あるいは、単純にプライドが高いだけなのかもしれないが。

 『それだけじゃない』……他に一体なんの目的があったのかはわからないが、もしかするとクリスに協力していることと関係しているかもしれない。今後のカガミの動向から目が離せなくなった。

 カガミは再び背筋を伸ばすと、クリスとジェーンを交互に見ながら言う。

「それで……いつ、どこで、どう盗まれたの?」

 状況の把握は捜査の基本だが、しかし今回はいろいろと事情がある。現状の再確認を兼ねて、ジェーンから説明することにした。

「いつ、どこで、どう盗まれたのか……ねえ。実ははっきりしてないんですよ」

「どういうこと?」

「大体は予想がつくんですけどね。……詳細はさておきますが、三週間ぐらい前に彼女はぬいぐるみを持って出かけたんですよ」

「人形遊び?」

 せっかく伏せたというのに、カガミはクイズゲーム感覚で言い当ててしまう。婦警さんの残酷な行動に、クリスは恥ずかしそうに下を向いた。

 まあいい、続けよう。

「それで、用を終えて家に帰ってからぬいぐるみが居なくなっていることに気づいたんですよね」

「そんなアバウトな」

「まあ、帰りにちょうどこの公園で居眠りしていたらしく、その間に盗まれたと考えるのが妥当ですがね」

 ジェーンの説明に、カガミは腕を組む。

「なるほど……断言はできないけど、それ以外に考えられるケースがないってところね」

 どうやら物分りはいいようだ。……だというのになぜ人の心がわからないのだろうか。

「そんなところです」

 これで説明はお終いとばかりにジェーンが言うと、カガミは更なる追求をしてきた。

「……ところで、どうしてあの家が怪しいって結論に至ったの?」

 背後から突然殴られたかのような気分だった。よく考えれば、彼女がその疑問に行き着くのは当然なのだが。

 あの家に辿り着くまでにはいろいろあったが、少なくともバーミリオンのことを公安にバラすのはよくない。詳細を話せば、即・お縄な存在だ。

 ジェーンがした依頼も、お縄されてもおかしくないような内容である。ここは適当なことを言って誤魔化すしかない。

「競馬占いで決めました」

 競馬占いとは、事前に競走馬にそれぞれ選択肢を振り分けておいて、最終的に勝った馬に振り分けていた選択肢を是とする占いである。レースによって馬の数が変わるので、選択肢の数をある程度自由にできるのがミソだ。今決めた。

「競馬占い、ねえ……」

 ジェーンが今考えたものなので、カガミが知るはずがない。しかし詳細を訊ねることなく、彼女は納得した。

「そうだよね。今の時代、筋道立てて犯人まで辿り着けるわけがない。探偵やら推理やらなんて幻想だよ」

 上手く誤魔化すことはできた。

 しかし、カガミの返答が気に入らない。そんなことはないと、声を大にして叫びたい。

 それでもジェーンは、結局何も言い返すことができなかった。

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