第4話

 さて、ご覧のとおりぼくは、平均的な中学生よりもはるかに頭がいい。とくに数学や理科に関しては、おそらく進学校の高校生かそれ以上の知識を持っている。それならば一般生徒の学習ペースなど無視してさっさと上の学年に進んでも良いのではないか、と思うかもしれない。そうしないのは主にふたつの理由による。

 第一に、ぼくは学習する事に対して不透明人間よりも慎重にならなければならない。つまり、分からない事があっても「ノートを見返す」とか「教師に質問する」とかいった事ができず、自分の記憶しか頼れるものがない。だから授業でやっている事を完全に理解して、誰かを指導できるレベルになってから次に進むようにしている。誰か、といっても誰も聞く人はいないので、頭のなかで指導のシミュレーションをしている。ぼくが誰とも会話をしたことがないのに、これほどスラスラと喋れるのはこのためだ。正直この学校の教師はお世辞にも優秀とは言いがたいので、もしぼくが不透明であったらはるかに立派な教師になれたと思う。

 第二の理由はよりシンプルだ。ぼくは透明であることを除けば普通の中学生なのだから、もちろん恋だってする。つまり、こういうことを言葉にして説明するのは正直性に合わないんだけど、要するにぼくはこのクラスに好きな女の子がいて、その子に会うために毎日この教室に来ているというわけだ。

 ぼくはどう見ても(見えないけど)人類である。身長が一六〇センチ程度で二本足で歩いて人語を解する生物がヒトでないとすれば、ただちに捕獲して学会に連れて行くべきだ。そうならないという事実がぼくが Homo Sapiens であることの証明といえる。そしてぼくは異種の生物を愛するほど性的に倒錯してはいない。

 透明なら透明同士で恋愛をするべきかも知れないが、ぼくが自分以外の透明人間を見たことない以上、不透明な女の子に恋することは致し方ない。もし日本人の男の子が単身アメリカに放り込まれたら恋する相手はアメリカ人になるだろう。それくらい当然のことだ。


 彼女は去年の夏にこの学校に転校してきた。それまで町をふらふらしていたぼくがこの学校に通うようになったのもその時からだ。

 先に挙げた転校生ガールとはつまり彼女のことである。曲がり角でぶつかったのは事実だが、食パンを咥えて「ちこくちこく〜」と走っていたのはぼくの後付け設定である。実際の彼女は自転車に乗っていた。おかげで衝突は古典ラブコメにくらべて遥かにパワフルで、ぼくの体は空中を体感で数秒間舞い、おまけに跳ね飛ばされた先にちょうどいいタイミングで現れたトヨタ・カローラにぶつかってブロック塀にぶつかってその他色々なところにぶつかった。もちろん彼女にもカローラにもブロック塀にもなんの反作用もなく、ぼくが一人で全身バキバキの痛みに悶絶していた。

 人や車にぶつかることも、まったく謝られないことも、ぼくにとっては日常だ。ぶつけた相手の特徴などすぐに忘れてしまう。でもどういうわけか、その時はぼくは彼女のことが頭から離れなかった。

「これが憎しみという感情か」

とぼくは痛みの中で思った。

「ついにぼくは祟るべき相手を見つけた。やはりぼくは幽霊だ、あの女を祟る悪霊なのだ」

などと思った。いま思えば中二病満開といったところだ。すぐに立ち上がって、制服から推測される彼女の中学にダッシュで向かい、教室をひとつひとつ覗きまわった。見つけたのはちょうど担任の教師が

「渡辺マキノさんです。みんな仲良くしましょう」

と担任教師が紹介しているタイミングだった。その日以来、ぼくはそのクラスに居座り彼女をあらんかぎりの霊力(あるのかどうか知らないが)で憎み続けると心に誓ったものだ。

 思春期の男子の未分化な精神にとって、恋心と憎悪にあまり明確な区別というものはない。


 それから今に至る一年ちょっとの間、ぼくは自分の観察趣味の半分ほどの時間を、この渡辺マキノという少女を観察するのに費やした。

 ぼくは透明人間であるから、当然、彼女の家について行って部屋に入り込むことができるし、生活の隅々を観察することも出来る。このあたりは全国の中学生男子の妄想のとおりである。ストーカーと言えばそのとおりだが、透明人間である以上あらゆる行為はストーキングなので、それを恥じるつもりは毛頭ない。

 ただ諸君に一つアドバイスをするとすれば、透明人間でもお風呂に忍びこむのはやめた方がいい。実は、シャワーというやつは透明人間にとって凶器そのものなのだ。

 シャワーから出てくるのは液体の水だ。液体と固体は密度に大きな差はなく、違いは触って変形するかどうかである。つまり、そもそも物に触れないぼくにとって、液体と固体の違いにはあまり意味が無い。しかも水滴はぼくの体に刺さっても反作用が生じないので、ガンガン体内に貫通してくる。そうなればシャワーというのは、石つぶてをすさまじい速度で毎秒何十発も打ち出してくるガトリング砲と大差ない。要するにものすごく痛いのだ。風呂の狭い空間に彼女と一緒にいる以上、このウォーター・マシンガンを掻い潜るのは難しい。女性に機関銃で撃たれることに快楽を感じる高尚な趣味をお持ちでないお客様にはオススメしない。ぼくはもう二度としない。

 というわけで彼女の体をまじまじと観察する機会こそ無いが、それ以外についてはもしかしたら本人よりも多くのことを知っている。彼女の名前はマキノという。これは滋賀県のマキノで生まれたという事からとった名前という事だが、臨月間近のお母さんがスキーと温泉の地に来るという事はない。つまりマキノで生まれたのではなくマキノで「出来た」からマキノだ。出来た場所が特定できるというのはそれなりの事情が伴っており、これは彼女の両親が話していた事から知っている。それについて母親がどう思っているかも、近所のおばさん方と話していた内容から知っている。両親はそういう事情をいつか本人に話すつもりでいるが、きっかけが掴めないことも知っている。

 学校でのマキノもあまり真面目な生徒ではないが、家でのマキノは絶賛反抗期進行中で、両親との会話は必要最小限しかしていない。兄弟はおらず、家ではいつも自分の部屋にこもっている。ベッドに寝転がって携帯を見て誰かとメッセージを送り合って、そのまま寝てしまう場合が多い。彼女は寝相がよく、寝ているあいだはほとんど身動きをしないので、そのあいだぼくは横で添い寝している。透明人間にとって起きて動きまわる不透明に抱きつくというのはかなり危なっかしい行為で、安心して触れていられるのは寝ている時だけなのだ。「マキノ、ちゃんと布団かけないと風邪ひくよ」「でもぼくには布団をかけられないから、代わりにそばにいるよ」とかそんなことを話しかけている。

 透明人間に性欲というのは無用だ。少なくとも透明人間の男が不透明な女の子と交わって子孫を残すことは出来ない。無用なはずだが、きっちり存在する。まったく厄介なことだ。

 不要な機能がある理由というのは大体、他の目的で作られたものを急ごしらえに転用したせいだ。もともと生物種というのは女がメインで、男というのは女と女の遺伝子の交換を媒介するための運び屋にすぎない。だから男の体は女をベースにちょっと下半身をいじっただけの手抜き製品で、使いもしない乳首が残ってるのはそのためだ。

 このことから類推するに、おそらく透明人間というのは不透明と独立に生まれたものではなく、不透明がなんらかの原因で透明化して生じたものだと思われる。そうでなければこんなにも形が似ているはずがないし、透明人間に不要な性欲が備わってるはずもなく、布団もかけずに眠っているマキノにベタベタ触れている理由もない。

 でも実をいうと、ぼくがそうしてマキノの肌に触れている時、感じるのは性的興奮よりも、途方のない孤独感なのだ。

 ぼくには彼女の肌の滑らかさとか、温かさといったものを感じることが出来る。でも彼女はぼくの存在をまったく感じていない。そのことがぼくをたまらなく孤独にさせるのだった。

 いま自分が彼女にしている事は、不透明人間の道徳や法律に照らしあわせて、きちんと軽蔑されるべき行為だろう。でもぼくは彼女に嫌われることさえ許されていないのだ。

 ぼくは学校でクラスの皆の会話を聞いていても、テレビを見ていても、街を歩いていても孤独を感じることはない。そんなものには生まれた時から慣れている。ぼくが「孤独感」と呼べるものをはじめて感じたのは、そうやって寝ているマキノの肌に触れたときだった。

 もし神様が願いをひとつ叶えてくれるとしたら、ぼくは不透明になることを望むだろうか。不透明になれば、彼女と喋ったり、手をつないで歩いたり出来るのだろうか?

 ぼくは自分の顔を知らない。手で触れることで目や鼻のおおまかな配置は把握できるけれど、全体としてどんな顔なのか、芸能人でいえば誰に似てるのか、そういう事は皆目わからない。

 あまり考えたくない事だけど、もしかしたらぼくは、フランケンシュタインの怪物のように醜い顔をしてるかもしれない。そうであれば、不透明になってもぼくは彼女に相手にされないだろう。今だって相手にされてはいないけれど、こうやって彼女に触れていることは出来る。不透明になってしまってはそれも出来なくなる。失うものしか無い。不透明になるのなら、美しい不透明でなければならない。

 シンデレラも人魚姫も、それぞれ貧しかったり人外だったりしたけれど、美しかった。だから魔法でチャンスを与えられれば王子さまと結ばれることが出来た。魔法が与えるのは衣装だとか馬車だとか脚だとかその程度のもので、美しさは生来でなければならない。化粧でごまかすのはダメ、美容整形もダメ、魔法で美しくなる事すら許さない。それが不透明の世界だ。

 ヒトの「美しさ」という概念は、もともと遺伝子を適度にシャッフルするために生じたという。野生においては強い者だけが子孫を残せるが、それだけでは遺伝子があまりに偏ってしまい、多様性が減って環境変化に耐えられなくなる。だから「美しさ」という生存に役立たない撹乱要素を入れることで、多様性を保持したのだという。

 けれど、この高度に文明化された社会で「弱い」という理由だけで死ぬことはまず無い。だから、かつてシャッフルのための要員だった「美しさ」が、逆にシャッフルを妨げる結果になってしまった。不透明人間は、とっくに実用性を失った野性時代の遺産を抱えて苦悩しているのだ。ぼくはそんな世界で生きていけるのだろうか?

 もしかしたらぼくの両親は、生まれたばかりのぼくがあまりに醜い子供だったから、この不透明世界の理不尽からぼくを守るために、神様に願ってぼくを透明人間にしてくれたのかもしれない。だったらぼくは自分が不透明になりたいなんて望まない。世界中みんな透明人間になればいい。この不透明の引きずる負の遺産から全人類を解放したい。

 ぼくは彼女のベッドの中でそんな過激なことを考えている。彼女はそれに気づきもせず、携帯で誰かとメッセージを送り合っている。

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