第3話
そうはいっても結局ぼくが不透明な人間たちになにかを要求することは出来ないわけで、この不透明人間を前提に設計された社会で透明人間はいかに生きるべきか、といった問いには自分自身で答えを引き出すしかない。そのためには、不透明たちの築き上げた知識も積極的に取り入れていこうと思っている。
といってもぼくは不透明人間に質問することも、本のページを開くことも、「透明人間 正体」で検索することも出来ない。そうなると、こちらが操作をせずとも一方的に情報を流してくれるツールに頼るしかない。学校の授業と、テレビである。
学校の授業はきちんと他の生徒と一緒に「進級」していけば、段階的に高度な知識が身についていく。しかし今のところ「透明人間」の正体について何かつかめる気配はない。どうも不透明な人間たちは全体として「透明人間」の存在を知らないらしい。あくまでフィクションの登場人物として理解しているようだ。
五千年前のエジプト文明や数百億光年かなたの宇宙について見てきたかのように語る教師たちが、自分の教室に透明人間が座って授業を聞いてることは想像もしていないのだ。なんともバランスが悪い。
ここでちょっとむずかしい話をしよう。不透明な人間の築き上げた科学と呼ばれる体系には、「オッカムの剃刀」と呼ばれる物騒なルールが存在するらしい。これによると、現象を説明するのに必要のない仮説は、無いものとして扱われるそうだ。
つまり「この教室には透明人間が存在する。しかし彼は目に見えず、さわれず、その他クラスになんの影響も及ぼさない」と仮定しても「この教室に透明人間なんていない」と仮定しても、どちらにせよ矛盾は生じない。この場合、透明人間という仮定は「不要」なものとして削ぎ落とす。これがオッカムの剃刀である。
冗談じゃない!
あまりに身勝手じゃないか。たしかに不透明人間の側から見ればぼくがいてもいなくても一緒だが、ぼくから見れば「ぼくが居るのか居ないのか」はこの世界の何よりも重要な事なんだ。それなのにぼくは不透明人間たちに「不要」と見なされて剃刀で切り落とされてしまうのだ。透明人間のためのバリアフリー社会を作れとは言わないが、このルールだけは本当になんとかして欲しい。仲間を集めて「オッカム被害者の会」を結成したい。
そういう訳でぼくは不透明人間のうち科学者という人種はとりわけ信用していない。なにが真理の探求だ。あいつらは単に自分の見える範囲のものに適当な数式を与えて解釈しているだけなのだ。遠い宇宙やら素粒子を見ているような気分になっていても、すぐそばにいる透明人間のことは見えてないのだ!
おっと失礼、少し取り乱しすぎた。この話題になるといつも感情が高ぶってしまう。
ともかく学校ではそんなふうに過ごして、それ以外の時間、つまり放課後や休日は、どこかの電気屋でテレビでも見ているか、適当な人を観察して過ごしている。
「趣味は人間観察」という人は不透明にも多いが、たいていは「ちょっと変わった自分」を演じたい自己紹介のファッションにすぎない。そこへいくとぼくにとって人間観察は「趣味」と言えるレベルではない。プロフェッショナルだ。いや、レゾンデートルだ。存在理由そのものだ。
観察の手順は簡単だ。学校の授業が終わると人通りの多い駅前に来て、適当に相手を決めてずっとついていくだけだ。選り好みの要素はあまり無いが、なるべく家族持ちの人を選ぶ。
なぜなら、不透明人間の家に押しかけるにあたっては「清潔であること」と「規則正しい生活をしていること」が不可欠だからだ。なにしろぼくは自分で玄関のドアも開けられないので、あまり汚らしい部屋に閉じ込められるのは嫌だ。まためったに外に出ないタイプだった場合、ぼくが翌日学校に行けなくなってしまう。家族がいればこういう条件をクリアする可能性が高い。
一方で観察のエンターテイメント性という点では一人暮らしのほうが面白い。この場合は人を定めるというより家を先に定める。窓から覗いてあまり不潔そうでない部屋を選んで、そこに来る人間を待つのだ。人間はたとえ家族でも、他人といることでいくらかの社会性は出てしまう。その点で一人暮らしの相手を見ていると、本当に人間の性向というのは実に多種多様だと考えさせられる。
それにしても不透明人間というのはよく不透明なままで生きていけるなと思う。早く言えば、みんな嘘ばかり抱えて生きている。もちろん多少は他人にバレるし、気づいた方も気づいた方で「気づいたことを気づかせない」ように生きている。すごい複雑怪奇だ。学校の不透明クラスメイトたちがぼくより遥かに頭脳の程度が低いのは、こういう嘘に脳のリソースを使いすぎてるせいだと思う。
例をあげよう。ぼくが一時期観察していた、ある比較的裕福な家庭がある。四十代くらいの夫婦に、小四の男の子と小一の女の子。建売り住宅のCMに出られるくらい幸せそうな家庭だったけれど、ここの夫婦はお互い浮気していた。
夫のほうは外に女を作っていて、「仕事が長引いて」と称してそっちの女の方に行ってて、会社に連絡が入っても問題ないように職場の同僚とも口裏を合わせているという念の入れようだ。妻のほうは家族のいない時間に間男を家に連れ込んでたり外に会いに行ったりするが、絶対にバレないように上手くスケジューリングをしている。透明でもないのに、よく相手の行動時間を見抜いて計画を立てられるものだなと感心してしまう。
でもこんな嘘だらけの夫婦でも、べつに互いが自分の利益のために、相手を不当に貶めているというわけでもない。
たとえばこの夫のほうは、自分の浮気が裏切り行為とは思っていない。これが日々のストレス(この幸せそうな男にもストレスがあるらしい)を発散させるための行為であり、それが無ければそのストレスが自然と家庭に向くのだから、外部で発散させるのは家族の平和のために必要な要素なのだ、と同僚に話している。なるほどそういう一面もあるのかな、と思う。
一方で妻のほうは、夫の不貞行為にはちゃんと気づいていて、それでも「気づいたこと」を気づかれないようにしている。このへんの駆け引きが複雑すぎてぼくの透明な脳はちょっとパンクしそうになる。しかしこの妻のほうも、自分のことを棚に上げて夫の浮気を突き詰めたところで、それは結局家庭の崩壊を招いて罪のない子どもたちが不幸になる事を知っているのだ。あちこち嘘で固めているけど、結局互いのことを考えているのだ。
他にはこんな人も知っている。彼は四十代無職で頭の薄い中年男だが、SNS上では他人の顔写真を使って二十代の大学生を名乗り、知り合った女子高生とよくチャットのやりとりをしている。なるほどぼくが観察した経験からも、世の中には他人に話を聞いてほしいだけの女子高生は山ほどいるので、適当なイケメンの顔をくっつけてネットで話を聞いてあげるのであれば、それは社会貢献と言えなくもない。誰も損をしない。そもそも世の中には、単に話を聞いてほしいだけの相手に余計なアドバイスをしたがる男が多すぎる。彼はそういう需要をうまく突いてると言えるだろう。
しかし、およそ理解しがたいことだが、この二十代大学生を名乗る四十代無職は、その話し相手の女子高生と会って、ニュース用語でいう「わいせつな行為」におよぶのである。
一度その一部始終を目撃したことがある。だいたい相手のほうからそれとなく会いたいと思っていることを仄めかすので、この男はそれを目ざとく突いて場所と時間のセッティングを行う。その顔で会いに行ったら一発でバレるだろうと思ったら、なんの細工もせずに平然と会いに行く。その上で「ちょっと都合があって遅れる、それまでにこういう人が行ってるから対応していてほしい」と、自分の「本物」の顔を送る。にわかに信じがたい事だが女子高生の方はこれで信用してしまうらしい。「あれだけ誠実な人が嘘をつくはずがない」なんて思っているようだ。それで性犯罪被害に遭うまで気づかないというわけだから、恋は盲目にもほどがある。
まあこんな感じで、見ればみるほど不透明人間の社会は嘘と秘密ばかりでできていると思う。ぼくが不透明になったら、ストレスで一瞬で死んでしまうだろう。
でも不思議な事と言えば、こういう不透明な精神を持つ不透明人間たちも、自分たちの不透明な内面をどこかにさらけ出したいと思っているらしい。先ほどの浮気夫にたいする浮気妻は、よくネットの匿名掲示板で自分の浮気談を告白している。「夫に対して申し訳ないと思っている」ということを書いている。こうやって書くことが何かの免罪になると思ってるんだと思う。
こういう罪の告白需要はインターネットの出来るずっと前から古今東西にあるらしく、ヨーロッパの教会には、顔を見せずに神父に罪を告白する「懺悔室」があるそうだ。
要するに、これも一種の「不透明人間の透明化願望」だと思う。肉体の透明化を望む思春期の少年がいれば、精神の透明化を望む大人たちもいるのだ。さっき語った四十代無職の性犯罪者も、さすがに自分の行為を友人に話すようなことはしないが(そもそも友人がいるのかどうか分からないが)、顔に似合わず整頓された部屋では己の破廉恥行為を告白する日記をしたためている。
こういう人達を見ていると、不透明人間のように高度な文明を持つ生物にとって「秘密を持つ」とか「嘘をつく」というのは、文明を維持するために不可欠な能力であるように見える。不透明人間はサルから進歩したというけれど、野生のサルたちが暴力の支配する世界だったのに対し、ある段階で「秘密」と「嘘」を獲得することで「情報による支配」という新しいパラダイムに進行し、文明を築き上げたんだろう。
あれほど高度で深遠な数学体系を構築した不透明人間たちが、それで何をしているかと言えば、通信を暗号化して個人的なヒミツを守るのに使っているらしい。しょっぱい話だ。
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