第2話
ぼくは透明人間であることを不幸だと思ったことはない。そもそも生まれ持った性質に対して幸不幸を云々するというのはナンセンスだとさえ思っている。もしぼくが不透明に生まれていたら、おそらく今のぼくとは全然違う価値観を持ったべつの人間になっていただろう。透明性はぼくの人間性に根ざした性質なのであって、それだけを分離して語るのは道理に合わない。
しかしそれは建前として、やはり「透明は不幸ではない。しかし不便である」とは思っている。こう聞くと君は「なんで?透明なら女子のスカートとか女子の着替えとか女子のお風呂とか覗き放題じゃん」と思うだろう。オーケイ、この助平猿どもが。それはまあ否定しないし実際やった事もある。だが話はそんなに単純じゃない。ちょっと長くなるが、ここで「透明人間の物理学的実態について」を説明しておきたい。
まず、ぼくの今までの人生経験(何歳なのかはっきりしないが)から得た結論として、透明人間というのは「ニュートンの第3法則が通用しない人間」と定義できる。
たとえば転校初日の女子中学生が「遅刻遅刻〜!」と食パンを口にくわえて見通しの悪い曲がり角にダッシュしてきたとしよう。食パンをくわえたまま「ちこく」と発音できる彼女の発声器官の構造問題については本題と関係ないので触れない。
ここで曲がり角の反対側から同じく遅刻しそうな男子生徒が走ってくる。急ぎのあまりブロック塀の向こうからやって来る彼女に気づかず、交差点においてクラッシュ、運命的なボーイ・ミーツ・ガールを果たす。誰もが人生で一度は経験する事だろう。だがここで彼と彼女の運命はニュートンの第3法則に媒介されていることは見過ごされがちだ。
ミーツの瞬間、ガールとボーイは第3法則に従い互いに向きが逆で大きさが同じ撃力が与えられる。これによって二人にはニュートンの第二法則に従って加速度が生じ、アスファルトの上で転倒する。この加速度がどの程度なのかについては彼女の体重に依存するため、プライバシーの観点から触れない。しかしここで重要なことは、どの角度に、どれだけの距離飛んだとしても、彼女はパンツの見える形で転倒するという事である。宇宙で光速が普遍であるのと同様の確実性をもって彼女のパンツの色が確認できる。
このあと転校生ガールと在校生ボーイは教室で「あっ」「あーっ」と再会してストーリーが始まる。以上の過程を「古典的ラブコメにおける力学法則 classical mechanics in romantic comedy」略して古典力学という。
ところが、ボーイが透明人間、つまりぼくであった場合、このような古典力学は通用しない。それはプランクやシュレディンガーが築き上げた量子力学か、はたまた人類がまだ知らぬ領域なのか、そのへんは一介の中学生であるぼくのあずかり知るところでは無い。
だが結論を言えば、ここにおいては「作用・反作用」は対をなさない。一方的作用だけが生じて、ぼくはアスファルトの上を転がり、彼女は何かにぶつかった事を気付きもしない。パンを加えたまま「遅刻遅刻〜」と走り去ってしまう。
無事学校に到着した彼女は「転校生のナントカさんです、みんな仲良くしましょう」と紹介を受ける。彼女は登校中にぼくにぶつかった事に気づいておらず、この教室に無慈悲かつ一方的なインシデントの被害者であるぼくが憮然として座っていることにも気づかない。運命の出会いもあったもんじゃない。パンツの色が確認可能であるという点のみが古典力学と一致する。
もちろん光もぼくの体を透過する。透明人間とは文字通りそういう事だ。ぼくは日光を浴びると熱さを感じるが、日光はぼくに吸収されることなく日陰もできないので地面もいっしょに温める。冬だったら実に省エネ設計だ。
お分かりいただけただろうか。透明人間とはすなわち、作用を受けても反作用を与えられない存在なのだ。君臨すれども統治せず、受容すれども影響せず。森羅万象にノーリアクション。それが透明人間です。Q.E.D.
ここまで説明すれば、透明人間の生活がいかに「不便」に満ちているかがわかると思う。
たとえばぼくはドアを開けられない。ドアを開けるという事はつまりドアと自分の手の間に作用と反作用が生じることだが、透明人間であるぼくの手はドアに「押される」けれどドアを「押す」ことは出来ない。それ以前にドアノブを回せない。だから部屋に閉じ込められると結構困る。
アニメとかで幽霊は壁をすり抜けることが多いけどぼくには出来ない。そんなことが出来たら明らかに人外である。ぼくは透明であること以外は普通の人間なので、ドア板や壁がぼくの浸透を阻む力学的な「作用」はきっちり存在するのだ。ぼくがドアに「反作用」できないだけなのだ。
だいいち壁が抜けられるなら、床や地面もすり抜けてしまわないと不公平だ。「壁」と「床」なんて人間が便宜上呼び分けているだけで、物質的には同じものだ。そうなると地殻もマントルも抜けて地球の中心部まで落ちていくはずなので、壁抜けが出来ないことには感謝するべきだと思う。熱いの嫌いだ。
というわけで、ぼくが建物に入るには、誰かがドアなり窓を開けた隙に「するり」と忍びこむしかない。当然、ドアおよび開けた人にぶつからないようにするので、これにはかなりの訓練を要する。透明人間とはいえ、何かにぶつかると人並みに痛い。
こういう身の上なので、不透明の皆さんには定期的に空気の入れ替えを要求したい。バリアフリー社会などと言っているが、あくまで不透明な人間のためのフリーであって、透明人間にとっては世の中はまだまだバリアだらけである。遠く離れたアフリカの最貧国の子どもたちに同情を寄せる気力があるなら、すぐ近くにいる透明人間とも共存共栄を図っていくべきではないだろうか。どちらも生活に影響しないという点では一緒だ。
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