第5話
「観察者」に徹するぼくにも、どうしても容認できない事がある。
もちろんぼくは不透明たちの世界に干渉できないのだから「容認」しようがしまいが彼らには関係ないのだが、それにしたって言いたい事くらいはある。テレビアニメの視聴者だって、自分の好きなキャラが死ぬ展開を容認できないと思うことがあるだろう。それに比べればぼくの世界は正真正銘のリアルなのだから、その「容認できなさ」はずっと正当だ。
マキノが普段チャットを送り合っているのは主に学校の女子で、ちょっと男もいるが別にとくだん仲が良いというかんじではない。ただ、最近になって急にマキノと仲良くなった男がいる。どうやらSNS経由で知り合った男らしく、彼女よりだいぶ年上の二十代の大学生らしいが、顔写真を見ると、見まごうことなきあの二十代イケメン大学生、の皮をかぶった四十代無職の性犯罪者である。頭が薄くてそれ以外にも色々と薄いあの男である。
あの四十代無職、ぼくが観察していた頃は女子高生専門だったはずだが、最近になってターゲットを中学生にまで下げてきたらしい。そして、慣れた話術で上手いことマキノをたぶらかして、ある土曜日の午後に駅前で会う約束をとりつけてしまった。
ぼくとて透明人間としての自覚は持っている。いくらぼくがマキノを好きでもそれが届くことは無いし、マキノはいずれ誰かほかの男を好きになるわけだろう。それは受け入れようと思っていた。しかしこの展開はあんまりにもあんまりではないか。
何とかしなければならない。
どうにかしてマキノにこの男の正体を教える方法は無いだろうか。どうにかしてマキノがこの男に会いに行くのを阻止する方法はないか。何か方法はあるはずだ。頭の良さだけが取り柄なのだから何か思いつけ。
冷静に考えよう。まずぼくは不透明たちの世界に対して作用を起こすことは出来ない。つまりマキノがこの男に会わなくなる「原因」になることは理論的に不可能だ。一方、マキノがこの男に会わなかった「結果」としてぼくに何かが起きることは可能だ。この事を利用して「結果」から「原因」を引き起こすことは出来ないだろうか。ダメだ。まず論理として倒錯している。もっと真面目に考えろ。
結局何も思いつかないまま土曜になってしまった。前の日からマキノの部屋に居座って、出かけようとするマキノを止めようとありとあらゆる干渉を試みたがなんの作用も与えられなかった。
やつの家に向かえば何か方法があるかも知れない、と思い、急いで四十代無職のほうの家に向かった。
マキノの家は駅の西側にある。駅の東口を出てすぐのところに大きな川があり、川をわたって少し歩いたところに公営住宅がある。そこがあの四十代無職の家だ。その日は天気もよくて気温が高く、ちょっと走っただけで汗がだくだくと垂れてきた。
息切れを堪えながら、いつ開いてもいいように玄関ドアの前に立った。ドアスコープから部屋の明かりを覗きこもうとすると同時にドアが開いた。ぼくは思いっきり鼻をぶつけて倒れこんだ。鼻血がぬるっと出てきたが、男はそんなことに気づきもせず玄関を出て階下へと降りていった。
男は駐輪場にあった自転車に乗ってさっさと行ってしまったのでぼくはまた来た道を走って戻る羽目になった。こう見えてもぼくは運動も得意で、百メートルを十二秒で走れる(正確に言えば、十二秒の陸上部員の横を並走できる)のだが、さすがに自転車には追いつけない。
公営住宅から駅側に回る橋は少なく、男はかなり遠まわりをして川を渡らなければならない。ぼくは手間を惜しんで川の上を走った。透明人間にとって固体と液体の差にあまり意味がないことは前述したとおりだ。公園の池のような穏やかな水面ならほぼ地面も同然だ。ちょっとフカフカしてるけれど。ただ川ともなると少し事情は違って、動くベルトコンベアを横断するようなものだ。何度か足をとられて転び、結局目的の場所よりもだいぶ下流で対岸についてしまった。横着せずに橋を渡ったほうが早かったかもしれないが、そんなことを後悔している場合じゃない。とにかく駅まで急いだ。途中なんども車にひかれそうになった。
駅についた。男はもう待ち合わせ場所に立って、携帯で何かメッセージを書いているようだった。マキノはまだ見当たらない。
どうにかしてマキノをここに来させない方法はないか。ぼくは周囲を走り回った。あまり回りを見ずに走り回ったので、後ろからカゴいっぱいに買い物袋を積んだ自転車に思い切り追突され、ぼくの身体はそのまま歩道を五メートルほど転がり、駅前交差点のガードレールと地面の隙間に肩のあたりがはさまった。ぼくはその状態で動けなくなった。
「え?」
ぼくの体は壁や床にはぶつかるように出来ている。しかし正確に言うと、少なくともぼくの理解によると、密度の差で反発力が決まるらしい。つまり壁よりも空気のほうが密度が低いから、ぼくの手を壁に当てると、壁から空気のほうへ一方的な抗力が働く。だからぼくは密度の低い気体の側に押し出されてしまう。固体と液体にほとんど区別がないのは、この二つに密度の差がほとんどないせいだ。
しかし今はガードレールと地面の間に肩が思いっきり深く差し込まれて、上半身の部分が全く動かなくなってしまった。おそらくアスファルトとガードレールから生じる抗力が上手い具合に拮抗しているんだと思う。いや全然うまくないんだけど。そして困ったことに、下半身の部分がまるごと車道に投げ出されていた。
必死で膝を曲げようとしたけれど、どう頑張っても外に足がはみ出してしまい、車との接触を避けられそうにない。体が硬すぎるのだ。もっと普段から柔軟体操をしておくべきだった。歩行者信号が点滅して赤になった。あと数秒で車が動き出す。
いやいやマズイ。これ死ぬんじゃないか。ぼくは今まで自転車やジョギング中の人にはなんども撥ねられているが、自動車にもろに「轢かれる」という経験はない。でもこのままだと両脚がタイヤに磨り潰されるのは確実だった。脚だけなら死なずに済むんだろうか。透明人間が出血多量による失血死なんてことあるんだろうか。
頭の中で走馬灯がくるくると回りだした。よく「死の危機が迫ったときにそれまでの人生を思い出して、生存の役に立ちそうな情報を走査する」って言われてるやつだ。でもぼくの走馬灯はどれも他人の家でテレビを見た記憶ばかりで、ろくに役に立ちそうなものが無かった。料理番組の進行が「今日はひき肉と白菜のあんかけです!」と笑顔で言うシーンが目に浮かんだ。
透明人間が死んだら、その場で不透明になってはじめて周囲に認知されるとかそういうオチがあったりしないかな。そしたら急に路上に轢死体が現れるから大騒ぎになって、マキノも今日はあの男に会うどころじゃなくなるんじゃないかな。そりゃ悪くないな、身を挺してマキノを守ったヒーローになれるぜ。でも服着てないからここで不透明化するのは嫌だな。そんなことをすごい勢いでぐるぐる考えた。
車が来た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます