第43話
空港にて、ゼロシキは搭乗ゲートでイスに座り、外を飛んでいる飛行機を見つめていた。天井も壁も全てフラーレンダイヤモンドでコーティングしたガラス張りになっているので、視界が空までひらけているのだ。太陽を背にした流線型の影が、頭上を横切っていく。騒音に配慮して開発されたエンジンのおかげで、音は全く聞こえない。まるで、映画の回想シーンの中を飛ぶ一羽の鳥のように、静かに、ゆっくりと、飛行機は視界の外へと消えていく。ゼロシキは何の荷物も持っていなかった、空港に預けた荷物すらない、ただ単に、ゼロシキには何を持ってきて良いのか分からなかったし、そもそも、何も持ってくるべきものなどなかった。財布やクレジットカードすら必要ない、生体認証により金銭のやり取りができるシステムが、すでに世界中に普及していた。戦いの報酬と口止め料として政府機関から受け取った金は、今までろくに金を持ったことのなかったゼロシキにとって、使い道など想像もつかないほどの額だった。戦いを終えたゼロシキには、何もやることはなかった、何をして良いのかも分からなかった。だから、世界中を旅してみることにしたのだ。空港など来たこともなければ、飛行機に乗ったこともない、今までろくに教育など受けてこなかったから、外国に何があるのかも知らない。それでも、あるいはだからこそ、ゼロシキはそこへ行くことにしたのだ。単純な好奇心と楽しみと、そして、この世界で、いったい何が可能なのかを見極めるために。
「おまたせ」
顔を上げると、タチバナがそこに立っていて、水の入ったボトルを差し出している。
「サンキュー」
ゼロシキはそれを受け取り、少しだけ口に含ませてのどを潤す。タチバナもゼロシキと同じように、どこにも行く場所はなかったし、帰る場所もなかった、だから、二人は一緒に旅に出ることにしたのだった。ゼロシキとは違い、タチバナはバッグを一つ抱えている。
「何が入ってるんだ、それ」
ゼロシキがバッグを指さして聞く。
「何か、いろいろ。これでも厳選したんだけど」
「別にいるものなんかないだろ」
「ゼロシキが物に執着しなさすぎなんだって。手ぶらで海外行くなんて、ゼロシキくらいしかいないよ」
「そうか?」
首をかしげ、ゼロシキは周囲を見回す、確かに、いったい何をそんなに詰め込んでいるのか、誰もがぱんぱんに膨らんだカバンを大事そうに抱えている。
「ほら、やっぱそうでしょ」
タチバナも周囲の人々を手で示しながらそう言った。
「そうらしいな」
自分が何も持っていないことを両手を広げて表現しながら、ゼロシキが笑う。
「ねえ」
「ん?」
「……ゼロシキ、よく笑うようになったね」
「何だよ、急に」
「別に。何か今、そう思っただけ」
一瞬だけ二人の間に訪れた沈黙を待っていたかのように、飛行機への登場を案内するアナウンスが聞こえてきた。
列をなしてゲートを通過していく乗客たちを眺めていたゼロシキは、ふと、ガラスの壁の向こうに見える飛行機に目をやった。
「あれ、空を飛ぶんだよな」
「そうだよ。どうかした? もしかして、飛行機に乗るのが恐いのかな」
いたずらっぽく、タチバナが聞いてくる。
「いや、何か不思議だなと思って」
「今まで《機械》を使って宙を飛んだりしてた人間の言葉とは思えないけど」
「確かにそうだな」
ゼロシキはうなずいて笑った。
「行こうよ」
列を作っていた人が減ってきたのを見計らって、タチバナがそちらを指さす。ゼロシキはうなずいて立ち上がり、搭乗ゲートまで歩いて行く。二人は、一番最後の乗客だった。
「何か窮屈だな」
飛行機の中で自分の席に座ったゼロシキが、足を伸ばしながら呟く。
「昔はもっと窮屈だったみたい。狭いところにたくさん人を詰め込んで、しかも料金もかなり高くて、そんで乗ってる時間も嫌になるくらい長かったらしいよ」
「これより狭い所にそんなに長いこと? 昔の人は、よく我慢したな。俺なら、絶対そんな飛行機には乗らないよ」
「でも、昔の人は、飛行機に乗って旅をするほうが良かったのかもね」
「何でだ?」
「だって、もっともっと窮屈な世界で生きてたら、ちょっとくらい窮屈なのを我慢してでも、どこかへ行きたくなるでしょ?」
「なるほど。そんなんだったら、俺も旅をしてたかもな」
喋っていた二人のところに、青い髪をしたフライトアテンダント・アンドロイドがやって来て、安全ベルトを作動させるボタンを押すように言う。この飛行機はほとんど揺れたりすることもないし、間違いなく事故など起こらないのだが、一応そういう装置を作動させることが義務付けられているらしい。
「何だよ、結局今の時代も飛行機ってのは窮屈だな」
ぶつぶつ文句を言うゼロシキを見て、タチバナが笑っていた。
離陸準備の整った飛行機は、滑走路の前にとどまり順番を待つ。ゼロシキはぼんやりと、窓の外に広がっていた海を眺めていた。
「ねえ」
ゼロシキは、ぼうっとしていて、タチバナに話しかけられたことにしばらく気付かなかった。
「ゼロシキ?」
「ああ、悪い。気付かなかった」
「もう」
「いや、何か、今まで狭い世界で生きてきたせいで、見たことないものばかりだからな」
「戦いが終わってから、ホント雰囲気変わったね」
「別人みたい、か?」
「ううん、でも、やっぱりゼロシキだなって思うけど」
「何だそれ」
タチバナは何だか楽しそうにしながら、ゼロシキと同じように窓をのぞき込んだりする。飛行機が、動き始めていた。ゆっくりと前進し、そして滑走路へと入っていく。
「東京とも、日本とも、お別れだね。ずいぶん、いろんなことあったけど」
「……ああ」
「もう、死神が出てくることってないのかな」
「たぶんな」
「でも、人間の虚無って、絶対消えないよね」
ゼロシキはしばらく考えて、うなずいた。
「消えないだろうな。そして、俺自身にしたって、それを完全に克服したとも思ってない」
「……また、虚無に支配されるかもしれないってこと?」
静かに、音も立てず、飛行機は滑走路を走りはじめ、そして加速していく。
「いや、そうじゃない。たとえ、再び虚無が俺を飲み込もうとしたとしても、そして、死神が現れたとしても――」
飛行機が羽を広げていく、いよいよ、空へ飛び立とうとしているのだ。ゼロシキは、ずっと考えていた。これからも、やっぱり自分は強さへの執着を捨てないだろう。強くならなきゃいけない、誰にも傷つけられずにすむように、誰も傷つけずにすむように、そして、タチバナといっしょにいるために。ゼロシキはじっと自分を見つめていたタチバナの顔を見てほほ笑み、そしてひと言だけ付け加える。
「――何度でも、たたき潰してやる」
君を想う、死神降る荒野で teoremachine @teoremachine
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