壊れたもの(2)
「うっわ……雰囲気あるじゃん」
夕暮れ、秋の空。
秋の西日を浴びたその建物を見て、妹の
祖母の家から車で二十分。その場所は、祖母の家からの最寄駅ではなく、その駅から東へ一つ離れた駅。始発でもあり終着駅でもある駅から徒歩五分の場所にある集合団地だ。
「確かに、最寄駅だけど」
「ごめんね。ここがいろいろ融通利いて」
同じ市内だけマシだ。満足はしよう。そうは思うものの、ニュースが言うほど色付いていない広葉樹を眺めて
車一台分用意された駐車場に母の車を止めて降車すれば、これから世話になる建物を見上げる。
何故だろう。建物の見てくれが古いせいだろうか。新しい生活が始まるのだというのに心躍らず。いや、両親が離婚したせいだ。だから、こんなに冷たい風が由美子の心に、吹き付けるのだ。秋の空気が、冷たい、そんな訳では……。
「っ……」
ふと、何処からか視線を感じた。そして、由美子の見つめる視界の中で何かが揺れた。
見つめる先の、自分たちの住む棟の、四階西側の部屋辺りだ。
よく目を凝らして見てみるが、何も居ない。
その部屋はとても静かで、カーテンが取り付けられていないということは、空き部屋ということだろう。なら、何かの勘違いだ。
「……」
そう思い込んでも、視線が離せないのは何故だろう。
由美子の場所から見上げる、ピンクの手すり付きの小さなベランダ。窓はたくさんあるのだけど、そのベランダ奥にある、大きな窓が気になって仕方がない。
見つめていると、視界がだんだん暗くなり、視線から意識までもがその窓に吸い込まれてしまいそうになる感覚に、由美子は体が動かせないでいた。
「うわー! ボロいっ」
「!」
が、テンションが上がっている真子の声に、力が抜けたように視界が揺れた。
「こら。そういうこと言わないの!」
「……うるさ。ちょっと静かにしてくれる?」
何が真子のテンションを上げているのか、由美子には分からなかったが、対照的な娘たちに母は苦笑をすれば自ら先陣を切って歩き出した。
「え、ちょっとマジで? ねぇ、ウチらここに住むの!?」
真子の声が、静かな団地敷地内に木霊する。
そう、ここは団地。
目の前の四階建ての建物が、私たちに側面を見せてずらりと横一列に並んでいる。
その、702と書かれた建物棟を目指して母は歩く。
「うわ、やばっ、雰囲気ありすぎマジ怖い! トイレ一人で行けないわ!」
「こら、真子! いい加減静かにしないとお母さん怒るわよ!」
「……お母さんも声でかいから」
外観を見る限り、決して綺麗とは言えない。新築ではないのは一目瞭然だが、本当にお世辞でも綺麗とは言えなかった。
敷地内にはゴミ置場、駐車場、植え込みの木々は立派だが雑草が背を伸ばしていた。大きな蜘蛛が至る所に巣を作っている。注意しなければ、自分たちが引っかかりそうだ……。由美子は、建物入り口に回りながら、心の中で呟いた。
建物玄関、と言うまでに立派なものではないが、棟の階段入口の前には駐輪場置き場があり、そこを見る限りだと三輪車が置いてあることから、幼い子供がいる家庭がいくつか入ってるということだろう。
そして、遠目から見て気がついたが、団地の前をまっすぐ歩いた所に、人気のない公園がある。
「見た目はちょっとあれだけど……中は意外と綺麗なのよ」
階段を七段上がれば、一階住居の生活に必要な電気配線などが仕舞われている電気メーターの扉―― メーターが覗けるように人の頭の高さのところに小さな窓がついている ――が、二家庭分並んで目の前に見え、その両脇に扉が現れた。
一階につき扉は二つ。その扉の中は玄関だろう、扉は向き合うようになっていて、タイミングが合えば扉を開いて向かいの住人と、おはようございますがあるかもしれない。
踊り場を歩けば、また七段ほどの階段。次の踊り場は外が見えた。下をのぞけば、今自分たちが上ってきた階段入口が見える。目の前にはこの棟専用の自転車置き場を挟んで同じような集合団地。とある家庭を覗いてみれば、リビングが見えた。
で、また七段登れば玄関の扉がある踊り場だ。二階に上がったみたいだ。
しかし、気になるのは夕方になるというのに人の気配が全くないこと。
それに、階段前に設置されていた集合ポスト。
横目で見ただけだが、投入口がいくつかガムテープで塞がれていた。
人が住んでいないのか……。
「ほら、ここよ」
三階に上がれば、母の声とガチャガチャと玄関のドアノブを回す音。
どうやら、住居は三階になるみたいだ。
「あら? 開かないわね……」
「ああ、もう。貸してよ」
扉を開けることに苦戦する母に変わり、私がドアノブを握ると
――ギィ……
「……あ」
開いた。
ドアノブは回していない。
あれだけ母が苦戦していたにも関わらず、ドアノブは勝手に開いたのだ。
まるで、由美子のことを待っていたかのように鈍い音を立てて、その開いた隙間から夕暮れにも関わらず真っ暗な部屋の中を覗かせて。
吐き出された冷気のようにひんやりとした空気が、由美子の頬を撫ぜた。
「っ……」
――ギイィッ、
いや、冷気ではなく零下が正しいかもしれない。頬に振れればチクリと赤み、背中をゾクリと震わせた。
真っ暗な部屋の中へ、視線が行ってしまう。目を逸らしたいのに、逸らせない。
何もいないはずなのに、いないはずの何かを探してしまう。
空き部屋だったこの部屋の中、一体何がいるのだというのか。
暗闇の中、ただ、闇を見つめる。
大丈夫、何もいない。当たり前だろう。
扉が開いたのは、何かの勘違いだ。無意識のうちに力を入れてしまったに違いない。
「!」
すると、
微かだが、部屋の中から何か音が聞こえた。
耳を澄ませて、その音の正体を探る。地を這うように、いや、転がるように。
音は軽い。
「っ……」
ごくり。
と、固形物を飲み込んだ時のような
視線が、その音の正体を探そうと必死に暗闇の中を泳ぐ。
右、左、正面、上、下……いない。何もいない。
ドアノブを握った手が、まるで凍ってしまったのかのように動かない。扉が開いた、その薄い隙間から覗く由美子の視線は、正体を探ろうと忙しくなった。
この暗闇の中に……この部屋の中に、一体何が潜んでいるというのか。
「……」
音に、集中する。
転がる何かが近づいてくる音を見つける。
いた。
真正面。赤い何かが由美子の視界を左から右に横切った。
あれは一体……。
「お姉ちゃん!」
「っ……」
背後から掛けられた声に驚けば、扉が思い切り開かれた。
立ち尽くす由美子に腹を立てたのだろう、真子の
「あ、待って入っちゃ……!」
「何言ってんのよ。ほら、中は思ったより綺麗でしょう」
玄関に立つ母と真子の背後に広がるのは、西日が差し込むオレンジ色の部屋。
先程までの重苦しい雰囲気はなく、慌てて靴を脱ぎ、赤い何かが転がった場所を確認してみたが、そんなものは辺りを見渡しても無かった。
キッチン、だろうか。真新しいガスコンロと食卓テーブル、冷蔵庫、電子レンジが揃っていた。
「ドア開けたなら早く中入れよ、気になるんだから」
「あ……うん、ごめん」
見間違い、か……。
いろいろ考えすぎかもしれない。うん、そうだ。だって今はこんなに西日を部屋中に受け入れて輝いて見える。
「ちょっと、何かの勘違いだったみたい……かな?」
由美子の歯切れの悪さに、真子の眉が寄る。
そして玄関の扉が少し遅れて閉まったことに、由美子たちは気づかなかった。
支えのないはずの扉が、音もたてずに静かに閉まったからだ。
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