第十二話:約束の朝
「――――」
鼻腔を刺激する、濃厚な血の臭い。
草むらに埋まっている無数のゴブリンの死体はほとんどが女や子供のもので、武装した戦士の姿は一つもない。
グラハムが従団牧師として籍を置く騎士団の一隊が、王都の東に広がる深い森の奥にあったゴブリンの集落を襲撃したのが、半刻ほど前のこと。
恐らくは戦いとも呼べなかっただろう戦場の跡地を、グラハムは一人、歩いている。
ひどく気分が悪かった。今にも嘔吐しそうなほどに。
気分の悪さは後ろめたさと似ていたが、いったいどこからそんな気持ちがやってくるのかわからない。
血の匂いに酔っているわけではない。仕事柄、もっと多くの死体を前にしたこともあるし、人間やゴブリンが戦場で死んでいく姿も数えきれないほど見てきた。
だから、――――慄れなど。
いまさら感じるはずもないのに。
命の気配の失われた集落をさまよい歩くうち、小さな家の前にたどり着いた。
この辺りのゴブリン特有の、泥と木板を寄せて建てられた、細工箱のような家だ。
入り口の奥では背中を鋭く斬り裂かれたゴブリンの女が息絶えており、死体の脇には短い棒が転がっている。
何気なく拾い上げると、それは小指の先ほどの窪みが拵えられた木のスプーンだった。
大人の口には小さすぎるから、子供用かもしれない。
自分の娘と同じくらいだろうか。そう考えたとき、正体のわからない震えがグラハムを襲った。
きっと、このスプーンを使って赤子へ食べ物を食べさせる母親がいた。
きっと、このスプーンを使って母親から食べ物を食べさせてもらう赤子がいた。
きっと、彼らは幸せそうに笑っていたに違いなかった。
昨日までは。グラハムたちが正義の旗を振りかざしてやってくるまでは。
人間であれ、動物であれ、親子の愛は尊いものに違いない。
ならばなぜ、ゴブリンにとっても同じだと今の今まで気づけなかったのか。
天の御方が大地に敷いた様々の中でもいっとう神聖なそれを、グラハムたちは無惨にも踏みにじったのだ。
なんて愚か。自分が神の道へ入ったのは、こんなことをするためだったのか。
……どれくらい長い間、立ち尽くしていただろう。細い泣き声が不意に耳を打った。
のろのろと緩慢な動きでそちらを見る。泣き声は倒れた棚の下から聞こえていた。
ゆっくりと棚を持ち上げ、泣き声の正体を確かめる。
息を呑んだ。
傷一つないゴブリンの赤子が、そこにいた。目が合うと、赤子は一際大きく泣きはじめた。
スプーンは誰のためのものだったのか。求めていた答えが目の前にあった。
……ゴブリンは一匹残らず殺せ、と教会からは布告されている。それが正義だと、人間の幸せのためなのだと、信仰は慈愛に満ちた微笑みでグラハムの背中を押す。
グラハムは懐にある護身用のダガーのことを考えた。華奢な見かけによらず、切れ味は鋭い。きっと苦しませることなく天の御方の御許へ赤子を送ることができるだろう。
このまま生きていても不幸になるだけ。赤子のためだ。何度も繰り返し己に言い聞かせながらグラハムは懐に手を差し入れる。
その時、グラハムは赤子の服の胸元に小さく文字が刺繍されているのを見つけた。
名前と思しきそれを、グラハムは半ば無意識に読み上げ――、
「――ごちそうさまでした」
マルクの静かな声に、グラハムは我に返る。
朝食のテーブルには用意できる限りのごちそうを並べていたが、あまり手をつけた様子はない。
「……もう、いいのか?」
するとマルクは力ない笑みを浮かべ、
「……うん。なんだか食欲なくてさ。それに朝からこんなには食べられないよ。リーゼも部屋から出てこないし」
「そうか……。でもな、マルク。王都までは長いぞ。無理をしてでも食べておいた方がいい。もしかしたら――」
その先を口にすることはできなかった。
昨日のユルグの態度からは、旅の途中でマルクに満足な食事が与えられるとは考えにくかったのだ。
腹を空かせてやつれたマルクの姿を想像するだけで胸が痛くなってくる。
「……そうだね。そうするよ。グラハムのご飯もしばらく食べられなくなるしね」
こちらの表情から何事か感じ取ったのか、マルクは無理に笑みを浮かべ、食事を再開する。
時間がない。
食事が終われば、息子は王都へ連れていかれてしまう。
マルクを救う手立てはどこかにないのか。昨日からずっとそのことを考えていた。一睡もすることなく、ただただそのことだけを考え続けていた。
だが、どうしても方法が思いつかない。教会の周りは一分の隙もなく見張られている。マルクが逃げたと判れば騎士たちはどこまでも追いかけ、今度こそ命を奪うだろう。仮に逃げおおせたとしても、恐らく二度と会うことはできまい。いや、それでもいいのだ。無事でさえいてくれれば。どこかで幸せになってくれるならば……。
グラハムは目を閉じ、必死に天へと祈る。
尊き天の御方よ、どうかお知恵を授けてください。俺の息子はあなたの善良なしもべであり、これまで悪いことなど一つもしたことがないんです。そりゃあ年相応のやんちゃはありますが、物心ついた時から娘と一緒に俺の仕事を手伝ってくれ、善き村の一員として人々の助けとなっていました。今回だって、息子はあなた様の教えに従ってけが人を助けたに過ぎません。それがどうして罪になるというのですか。
あなた様は聖典で、汝の家族、汝の隣人を愛しなさいと説かれました。家族や隣人にゴブリンが入っていてはいけないのですか。あなた様の愛、あなた様の恩寵は人間にしか届かないのですか。ゴブリンが神の子ではないとは、俺にはどうしても思えません。人間もゴブリンも関係ない。少しばかり肌の色が違い、背の高さが違い、顔の形が違う。ただそれだけのことではないですか。彼らもまた家族を愛し、隣人を愛することに変わりはないのです。俺はどうなっても構いません。どうか息子を助ける知恵をお授けください。
どうか。どうか。どうか。どうか――。
「…………グラハム」
マルクの声に、目を開ける。
どれほどの間祈りを捧げていたのか、テーブルの料理はだいぶ少なくなっていた。
目を閉じる前と何も変わらない、動かしがたい現実がそこにあった。
「ごちそうさまでした。おいしかったよ、とても」
「……そうか」
もっと気の利いた言葉もあるだろうに、それしか答えられなかった。
だって、他にどう言える。気にいったならまた作ってやるなんて、どうして言えるというのか。
マルクはすぐには席を立とうとはせず、優しいまなざしでゆっくりと食堂を見回した。
使い古した木の皿や棚に置かれた水差しなどに目をとめては時折微笑みを浮かべている。
まるで、今までの思い出を一つ一つ取り出しては大切に心の中へしまうように。
やがて、食堂を一周し終えたマルクの目がなにかが溢れ出すのを堪えるようにきつく閉じられ――、
――けれど、再び開かれた時には決意の光が灯っていた。
マルクが、席を立つ。グラハムも、同じように席を立った。
「……すまない、マルク。俺には、……俺には、お前を救うことができない」
旅立つ息子の前で泣き声にならないように堪えるのが精一杯だった。重ねた年齢など何の役にも立たなかった。
マルクはそんなグラハムを責めるでもなく、まっすぐに見つめてくる。
「今までボクを育ててくれてありがとう、グラハム。グラハムがボクのお父さんで、ボク、幸せだったよ」
そうか、とはとうとう口にできなかった。マルクの背中に腕を回し、強く抱きしめる。マルクの体温が服越しに伝わってくる。
「……身体に気をつけろよ」
「うん」
「変なものを食べたりするな。悪いことには手を出すなよ」
「うん。うん」
「無事で、」
どうか無事で。他には何も望まないから。
「無事で、帰ってこい」
「――うん。わかった」
マルクの手がそっとグラハムを押した。
グラハムはゆっくりとマルクの身体を離す。
そのままじっと見つめあった。
名残は尽きない。尽きるはずもない。
しかし、別れの時は来てしまったのだ。
マルクは瞳を潤ませ、けれど声は震わせずに、
「――行ってきます」
微笑んで、告げた。
◆
礼拝堂の扉を開けると、堂内に満ちる夏の朝特有のひんやりとした空気が優しく肌を撫でた。
軽く息を吸うと、並んだ椅子や床板から香る清潔な木の匂いをかすかに感じる。
まだ時間が早いためか、堂内は無人だ。
マルクは長旅に備えて用意した荷物を床に置き、ゆっくりと堂内を見渡してから祭壇の前でひざまずく。
――この礼拝堂でお祈りするのも、もしかすると今日で最後かもしれないな。
そう思うと、胸の前で組み合わせた両手に自然と力がこもる。
いや、お祈りに強いも弱いもない。大切なのは、自らの心のうちを正直に告白することだ。
マルクは静かに目を閉じ、今の一番の気がかりを天の御方に伝える。
「天の御方、どうかお願いします。ボクがいない間、リーゼとグラハムが健やかに過ごせますよう、見守りください」
……どれくらいの間、そうしていただろう。
祈りを終えて立ち上がったマルクは、教会の外へと続く背後の扉をそっと振り返る。
扉までは、数歩でたどり着ける距離だ。
そのたった数歩の距離を埋めることが、今は怖くてたまらなかった。
行きたくない。
行きたくない。
行ったところで良いことなんて一つもないに決まってる。
ただただ悪いことだけが待ち受けているに違いない。
殺されたスターグの亡骸が瞼の裏に焼きついて離れなかった。
暗闇の奥から血まみれの首がじっと見つめてくるようだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お前もすぐにこうなるのだと、光を失った瞳が無言のうちに告げていた。
――それでも、
深く息を吸い、吐きだす。
何度も何度も、繰り返す。
知らないうちに閉じていた目を、ゆっくりと開ける。
それでも、マルクの胸に宿っていたのは恐怖や苦しみだけではなかった。
少ないけれど、誇らしい気持ちだって確かにあったのだ。
だって、自分が行けばリーゼとグラハムを守ることができるのだ。
二人の役に立てると思えば、こんなに嬉しいことはなかった。
家族のことを思うだけで、冷え切っていた胸が暖かくなった。
その暖かさを励ましにして、マルクはゆっくりと足を踏み出す。
そうして扉の前にたどり着き、
扉を見つめ、ひとつ深呼吸をした後で、
両手で扉を、押し開く。
――強い風が頰を洗った。
風の向こう、朝の光を浴びて教会の前に佇んでいたのはユルグをはじめとした数名の騎士たち。
教会の扉が開かれたことに気づいたのだろう。一様に険しいまなざしを向けてくる。
目の前に、ユルグが立った。
「遅かったな」
剣の刃のように鋭く冷たい声。
事実、こちらを見下ろす金色の目は少しでもおかしな真似をすればこの場で首を落とすと無言で語っていた。
……負けるもんか。
お腹に力を込めてまっすぐユルグを見上げ、
「天の御方にお祈りしてたんです。家族が無事に過ごせますようにって」
「……その願いが叶うかは、お前の心がけ次第だ」
冷ややかな調子で言い放つとユルグは背を向ける。
「総員、準備はできているな。王都へ出発する」
ユルグの号令で騎士たちが一斉に動きはじめるのに、マルクは慌てた。
「ち、ちょっと待ってください! もう出発なんですか!?」
いくらなんでも早すぎる。まだリーゼや村のみんなとだって挨拶を済ませてないのに。
けれど、こちらの訴えに返ってきたのは虫を見るような一瞥だ。
「この先、お前を見失った時は即座に逃亡したと見なす。そうなれば今の願いも危うくなると思え」
「そんなっ!? 逃げるつもりなんてないです! ボクはただリーゼやみんなに一言伝えたくて――!」
背中に向かって繰り返し訴えるが、ユルグや騎士たちが振り返ることはない。
唯一、ゼニスだけが感情を押し殺したような目で近づいてきて、
「……ほら、行くぞ」
「ゼニスさん、だけど……!」
切羽詰まって見上げると、ゼニスの瞳が心なしか揺らぐ。
教会の扉が勢いよく開かれたのは、その時だった。
「マルクっ!」
「リーゼ!」
誰よりも大切な家族がいまにも泣き出しそうな顔で駆け寄ってくる。
後ろには厳しい表情をしたグラハムの姿もあった。
ゼニスは背後を振り返り、
「隊長」
「――総員、停止せよ」
苦りきったため息に、騎士たちの足が止まる。
マルクの前で立ち止まったリーゼは苦しそうに息を吐き、じっと見つめてくる。
「リーゼ……」
「……これ、お守りにして」
差し出された手のひらに乗せられていたのは、小さな首飾りだった。
丈夫そうな麻紐の先には白くてすべすべした石が結わえてあり、石の真ん中には聖典教会の紋章が彫られている。
リーゼを見ると目の下がわずかに黒ずんでいた。
もしかすると昨夜寝ないで用意してくれたのかもしれない。
「……ありがと、リーゼ。大事にするよ」
するとリーゼは無言でぎゅっと眉を寄せ、こちらの首に紐を掛けてくる。
「……天の御方のご加護が――」
首飾りをかけながら祈りの言葉を紡いでいた唇の動きが、けれど途中で止まる。
「……リーゼ?」
「……こんなのおかしいわよ……」
ささやく声の震えには、血を流すような痛みがこもっていた。
「あなたは何も悪くないのに、どうして行かなきゃいけないの……? マルクと会えなくなるなんて、私……」
崩れるように顔を押しつけられた肩が熱く濡れはじめ、マルクもまた唇を強く噛む。
明日の朝、目覚めた時には、リーゼもグラハムもそばにはいないのだ。
その時のことを想像するだけで、不安で息苦しくて頭がどうにかなりそうだった。
……だけど。
「泣かないで、リーゼ」
旅立たなくちゃいけないんだ。
「そんなに泣かれたら、ボク、安心して出かけられないよ」
間違った道だとわかっていても。
「なによマルクっ……。あなた、私と別れるのがっ――」
怒ったように振り上げられた手が、けれどこちらの頰をなぞるなり、小さく震えはじめる。
いいや。だからこそ勇気をもって踏み出す必要があるんだ。
「つらいよ。いやだよ。リーゼのことが大好きだもの。ずっと一緒にいたいに決まってるよ」
「マルク……っ、ええ、私だってそうよっ、決まってるじゃない!」
怯まないために。
立ち止まらないために。
最後まで歩ききるために。
「……だから約束するよ、リーゼ」
気持ちのいい朝だった。いつもと同じ、フィエナの村の平和な朝。
何人か、村の人たちが見送りに集まってくれていた。村長さんの隣で、フレッドが大泣きしていた。グラハムも顔を手で覆っていた。
リーゼだけじゃない。グラハムも、フレッドも、みんなみんな大好きだった。
そうだ。誰かが決めるんじゃない。誰かに決めてもらうのでもない。
「必ず生きて帰ってくるから。それまで元気で待ってて」
――ボクの居場所は、ここなんだ。
「帰ってきたら旅の話をたくさんするよ。お土産だってたくさん持ってくる。もしかしたら友達だって紹介できるかも」
「本当よっ? 本当の本当に約束だからね!? ウソついたら絶対許さないんだからね!」
「大丈夫だよリーゼ。知ってるでしょ? ボクはとってもウソが下手なんだ」
「もうっ、マルクってばこんな時にっ!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を微笑ませ、伸ばした手で首飾りの紐を小さく直し、
リーゼは最後にそっと頰に口づけしてくれた。
「天の御方のご加護が…………どうかマルクにありますように――――」
<一章:終了>
ヒトとケモノのクレバス ねめしす @nemesis
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