第十一話:まなざし
白い光が閃いた。
そう思った時には、全てが終わっていた。
とん、と軽い音をたてて地面に落ち、赤黒い線を引きながら転がってきたそれに、マルクはよろよろと歩み寄り、抱え上げる。
「う、あ。ああ、あああああ…………」
頭の中が真っ白になる。
脚から力が抜けて、地面にへたりこむ。
嘆きとも泣き声ともつかない声が、ひとりでに喉からあふれ出す。
腕の中にすっぽりとおさまったまだ温かいそれは。
スターグの、首、だったのだ。
付き合いやすい相手とは言い難かった。
意見が合わないことも、何度もあった。
大切な家族を危険な目に遭わせることさえした。
……だけど、
『お前も一緒に来るか?』
こんな風に死んでいい人じゃ、絶対になかったのに。
どこか満足そうな表情をしたスターグの首をきつく胸に抱きしめる。
その時、頭上に影が差した。
物を考えることができないままのろのろと顔を上げると、
「――――お前が匿っていたな?」
剣の先から赤々と血を滴らせた騎士が凍るような目で見下ろしていた。
「…………あ、」
時間が停まったような感覚。
直後、びゅッ、と鋭く風が唸り、
「ダメえええええええッッ!!」
目の前に小さな人影が飛び出した。
「リーゼッ!?」
剣を振るったユルグがまともに顔を強張らせ、しかし一度放たれた刃をすぐには止めることができず、
――間一髪、リーゼの頬に切っ先が食い込む寸前、ユルグが剣を制止する。
……本当に危なかった。間に合わないかと思った。
ほう、とマルクが胸を撫で下ろすと、ユルグもまた短く息を吐きながら剣先を下げる。
危うく大怪我するところだったにも関わらず目の前の騎士を睨んだまま微動だにしないリーゼに、ユルグは改めて視線を向け、
「……そこをどけ」
「いやです!」
「そこをどくんだ。そいつは危険だ」
「危険じゃありません! マルクの事を何も知らないくせに、わかったようなこと言わないで!」
毅然と拒み続けるリーゼに、ユルグは目つきを険しくする。
「王国の歴史の中でどれほど多くの人間がゴブリンに命を奪われたと思っている。君がいま命を落とさずに済んだのは、単に運が良かっただけだ」
……全然知らなかった、そんなこと。
ゼニスたちがスターグを追っていたのは、そんな理由があったからなのか。
リーゼは目の前の騎士が命がけで自分を救おうとしてくれたことを思い出したのかやや怯んだ声になり、
「……だ、だけどっ! マルクが私たちを危険な目に遭わせるなんて絶対ありません! ゴブリンだからって決めつけるのはおかしいです!」
「そいつがゴブリンの戦士を匿い、この村に危機を招いたのは紛れもない事実だ」
「それは……、そうかもしれないけど、でも!」
「いずれにせよ、そいつの居場所はもうない。――周りを見ろ」
す、とユルグが指を伸ばす。釣られてマルクは振り返り、
「あ……」
…………血の気が引いた。
怖れ。怒り。嫌悪。侮蔑。
長年一緒に暮らしてきた村人たちの、負の感情に満ちた無数のまなざしが、じっとマルクに注がれていた。
もちろん全員ではない。フレッドや村長など心配してくれている人もいる。だが、
「ほら見たことかい! 私の言ったとおりじゃないか! いつか絶対こんなことになるって最初からわかってたんだよ!」
フレッドの育ての親でもある老婆の金切り声に、異を唱える者は誰もいない。
夕暮れ近づく空の下、村人たちの影が幾重にも連なり、マルクとの繋がりを断ち切るように冷たく大地に落ちていた。
まるで暗くて深い地溝が両者の間に口を開けていて、どんなに努力を重ねても決してマルクには踏み越えることができないのだと無言のうちに告げているかのようだった。
「――――こんなの、」嘘だと。
そう口にできたらどんなに楽だっただろう。
物心ついた時から顔を知っている人たちなのだ。道ですれ違えば挨拶してくれる人だって何人もいた。
彼らの拒絶のまなざしを、とても事実だと受け入れることができなかった。
だけどスターグの首にわずかに残る体温が、唇を湿らせる涙の苦さが、目を背けることを許さない。
すべて、現実なのだ。
「これでわかっただろう」
夜の森に住まう獣の遠吠えみたいな低い響きが、真っ暗な胸を震わせる。
「人間とゴブリンが共に暮らすなど最初から無理な話だ。ましてそいつは罪を犯した。見過ごすわけにはいかない」
ユルグが剣を握り直す。
目の前の騎士が自分をどうするつもりかはわかっていたが、抵抗する気力なんて身体のどこにも残っていなかった。
「待ってください!」
無理やりユルグを遮ったリーゼの声も、悲鳴に近い。
声を上げたものの続く言葉が出てこないのか唇だけを苦しげに動かすリーゼに、心臓を握り潰されるような痛みを覚える。
やめてよリーゼ。そんなことしたって、もう。
胸に満ちる暗闇がマルクの口を割らせようとするが、言えばきっとリーゼは今よりもずっと悲しい顔をしてしまうだろうから、唇を噛んでこらえる。
「……もうやめろ。これ以上庇い立てするなら、君まで罪に問わねばならなくなる」
騎士の勧告に、けれどどうしてかリーゼは一筋の光を見つけたようにすっと背を伸ばした。
「リーゼ? 一体なにを――」疑問が形になるよりも早く、
「私もマルクと同じです! 私もスターグさんのこと知ってました!」
血濡れの剣を握ったままの騎士に素手で挑みかかるように、真正面から告げていた。
「……なに?」
「リーゼッ!? ダメだっ!」
なんてことを言いだすのか。
リーゼの口を塞ごうと急いで手を伸ばすが、リーゼは後ろ手にマルクを押し返しながらなおも続ける。
「マルクと一緒に匿ってたんです! マルクがスターグさんを助けたことが罪だっていうなら、私だって同じだわ!」
叩きつけるような告白に、周りで聞いていた村人たちの間にどよめきが走る。
「……自分が何を言っているのか理解しているのか。きみは」
どうしてだろうか。ずっと信じていたものに裏切られたみたいにユルグが顔を歪める。
「私は王国の騎士だ。法を犯したと耳にした以上、捨て置くことはできない」
「わかっています! だから――」リーゼは決意を固めるように短く息を吸い、「だから、私もマルクと同じ罰を受けます!」
「リーゼッ!? なんで! なんでだよっ! なんでそんなこと!」
意味がわからなかった。
自分から身を危険にさらす必要なんてどこにもなかったのに。
「あら、そんなの当たり前でしょ?」
けれど、振り返ったリーゼの瞳には春の陽射しのような温かさがあった。
「私たちは家族なのよ? 私がマルクをひとりぼっちにするわけないじゃない」
「…………リーゼ」
じわりと目の奥が熱くなった。
頬を伝って落ちたのは、先ほどまで胸を貫いていた痛みとはまるで違う涙だった。
「――そういうことなら、一番悪いのは俺だろうな」
頭の上に大きな手が乗せられる。
「え、グラハム…………!?」
いつの間にか傍らに立っていたグラハムはいつもと変わらず頼り甲斐のある笑みを浮かべ、覚悟を決めたまなざしをユルグにぶつける。
「今回の件は、親である俺の責任だ。実のところお前さんから話を聞いた時点で、息子がゴブリンの戦士を匿ってることには薄々気がついてたしな」
「……なぜ今まで黙っていた」
「我が子かわいさで、ついな。お前も、自分の子どもを持てばわかるさ」
最初から騙されていたと知ったユルグは唇を苦々しく歪めるが、やがて忌々しさを払うように首を振ると、ゆっくりと口を開く。
「……お前たちの犯した罪は、王命に背くにも等しい重大なものだ。覚悟はできているのだろうな」
「――――はい」
「子どものやったことだ。こいつらは勘弁してやってくれ」
「リーゼ…………、グラハム…………」
口々に言い募るふたりの姿に、マルクはぎゅっと手のひらを握りこむ。
焼けるように、胸が痛い。
罰を受けるのが自分だけなら、我慢できた。
けれど、自分のせいで大切な家族がつらい目に遭うのはどうしても耐えられなかった。
――どうすればいいのかは、だから最初からわかっていた。
「…………ボクが、全部悪いんです」
「マルクっ!?」
静かに告げると、ふたりの家族が弾かれたように振り返る。
マルクはふたりに微笑み返すと、ユルグの前に進み出る。
「リーゼもグラハムも、ボクが巻き込んだんです。悪いのはボクだけだ。だから――」
「……罪を犯したのはお前だけだと言うのだな?」
狩りに出る直前、風向きを確かめる狼のような目つき。
マルクは大きく息を吸い、
「……はい。ボクだけです」
そう伝えると、はっきりと何かに決着がついたような空気があたりに満ちた。
「マルクのバカっ! なんでっ!? なんでよっ!?」
リーゼにしがみつかれる。グラハムが苦しそうに首を振る。
……ふたりともごめん。でも、どうしてもこうする必要があったんだ。
マルクの言葉を受け取ったユルグは沈黙したまま動かない。
これからどうなるんだろうと不安に思っていると、見知った人物がユルグに近づいてきた。
「……隊長、よろしいですか?」
「ゼニスか。なんだ」
どうしてかゼニスは固い表情で続ける。
「ゴブリンを匿うことは確かに王国の法に反しています。ですが、過去の事例がほとんど存在しないため、審問官がいないこの場で罰の内容を決めることは難しいでしょう。よって、ここでの裁断は保留し、王都まで連行するのが適切かと思います」
「そんな手間を踏む必要はない。こいつはゴブリンだ。この場で処分すればいい」
「……借りを、」
「なに?」
「借りを、お返しするのではなかったのですか?」
まるで今から処罰されるのが自分であるかのような声。
ユルグは深々とため息をつく。
「……わかった」
忌々しげに首を振り、改めてこちらを見つめる。
「明朝、王都へ出発する。逃げ出せば命は無いと思え」
断ち切るような宣言が、冷たく空気を震わせた。
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