帰る場所
「さあ、行こうか。少年」
僕が落ち着くと、ミューさんが車椅子を押し始める。
「行こうかって、スクーターはどうするんですか?」
「ああ、スクーターね。後で歩いて取りに来るわ。とりあえず君を病院に送ることが優先よ」
その言葉を聞いて胸が熱くなる。
自分が誕生した時、ミューさんってすごくいい加減な人だと思っていた。
でもそれは違っていたんだ。彼女は誰よりも弱者の気持ちを知っている。
だって、早く消えてしまいたいという若者の希望を受け入れて、何回も移植手術を繰り返してきた人なんだから。
「ありがとうございます」
僕の口からミューさんに対するお礼が自然と漏れてきた。
車椅子が森に差し掛かると、ゆっくりとミューさんが語り出す。
「あれは八年前だったわ、シリカちゃんに初めて会ったのは……」
僕は驚いて、車椅子を押すミューさんを振り返った。
「えっ、ミューさん、シリカのこと知ってたんですか?」
「そうよ、あなたのこともね」
そう言って小さくウインクする。何でもお見通しという素振りで。
「今まで黙っているなんてズルいですよ」
「だって私、知らないなんて言ってないわよ。それに訊かれてもいないしね」
意地悪そうに笑うミューさん。
いやいや、訊かれたって黙っていたでしょ、きっと。
「八年前、あの花畑でシリカちゃんはレディウ人になった。その時、あなたはまだトリティだったわ」
僕は想像する。八年前の出来事を。
その日もきっと、気持ちの良い日だったに違いない。
「肌が透き通るように白くて、森の緑や花の青に映える綺麗な子だったなぁ、シリカちゃんて。そういえば、病院で会った時もそんな感じだったわね」
一度目はミモリの森で、二度目は僕が入院する病室で、シリカはレディウ人になった。そのどちらの現場にも、ミューさんは駆けつけたということになる。
「シリカちゃんはね、右手で胸を隠して、左手であなたを抱いて下を隠してたの。そう、いつかのあなたのようにね」
あはははは、シリカだって同じことをやってたんだ。
「それでね、私が彼女に名前を付けてあげようとしたとたん、思い出しちゃったのよ。『私はシリカだから余計なことをしないで』って怒られたわ。そしてホクト、あなたの名前も教えてくれた」
これも全く同じじゃないか、僕がレディウ人になった三週間前と。ただ、シリカと僕が入れ替わっただけで。
「それからは、よく街でシリカちゃんを見かけたけど、いつもあなたと一緒だったわ。あなたはちょろちょろとシリカちゃんの後を追いかけてて、それは本当にほのぼのとした光景だったんだから」
車椅子を押すミューさんがしばらく間を置く。
きっと、その時の様子を思い浮かべているのだろう。
「でもね、二年前くらいからそんな光景は見られなくなった。噂では、シリカちゃんがトリティになったって聞いたわ」
二年前、シリカはアクチニウム化を経てトリティに戻った。
アクチニウム化――つまり、夢に出て来る青白く光る女性というわけだ。
その後はお互いトリティとして、一緒にこの森で過ごしていたのだろう。
「そして三週間前、あなたはレディウ人になった。この森で」
その時、僕の隣にシリカが居た。
それは必然だったんだ。
ミューさんの話によると、少なくとも八年前から僕達はずっと一緒だったことになる。姿かたちを変えながら。
でもシリカは消えてしまった。
二人で過ごす時間は、もう二度と来ることはない。
急に視界が開けた。
ミモリの森を抜けたのだ。
「ほら、あなたの未来が見えるわよ」
ミューさんに諭されて前を見る。
前方からは、ライトとネフィーがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。これからミモリの花畑に水やりに行くのだろう。
「今は無理かもしれないけど、ちゃんと前を向きなさい。あなたには、あなたを必要とする存在がちゃんといるんだから」
――ネフィー。
僕は彼女と一緒に過ごすために手術を決断した。
そして彼女は、僕と過ごす未来を夢見て不安な夜を乗り越えたのだ。
「きゅるるるる……」
ネフィーが悲しそうな声をあげる。
彼女だって気付いているのだろう。シリカがこの森で消えてしまったことを。
「ホクト、どうしたんだよ、その服。まさか、シリカが……?」
ライトも驚いた顔をする。
まあ、当然か。名残惜しそうに僕は、シリカの服を抱きしめているのだから。
するとネフィーは、ライトのもとから走り出してこちらにやって来る。そして僕の膝の上に登り、シリカの服に身を寄せた。
「ありがとう、ネフィー。シリカの心配をしてくれて」
ネフィーのキツネ色の毛をなでると、彼女はこちらを向く。
その時。
二人の目が合う。
瞳を通じて二人は繋がった。
ネフィーの気持ちが僕の体の中に流れ込んで来るのを実感する。僕のことを心から心配してくれている瞳だった。
――やっぱりネフィーは、トリティになってもネフィーなんだ。
倒れて看病してもらった時と同じ感覚が僕を包み込んでいく。
瞳と瞳で通じる気持ちは、レディウ人であろうがトリティであろうが関係ない。そのことを僕は知る。
――僕には帰る場所がある。
ネフィーとシリカの服を一緒に抱きしめながら、ゆっくりでいいから前を向いて歩いて行こうと僕は誓った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます