奇跡

「シリカっ! どうした!?」

 僕の叫びもむなしく、シリカは倒れたまま何の反応も示さない。


 ――ま、まさか、シリカが消えてしまう!?


 早く彼女の所に行かなくちゃ!

 必死に車椅子を走らせる。が、焦れば焦るほど前には進まない。

 花畑に近づくと、今度は車輪が土に埋まって動かなくなってしまった。

 勢い余って身を乗り出した僕は、車椅子から転げ落ちる。

「くそっ、こんな時に!」

 足がうまく動かせないのがもどかしい。

 這いながら、転がりながら、泥だらけになって、やっとのことでシリカのところに辿り着いた。

 幸いなことに、まだ彼女は消えていなかった。


「おい、シリカ! シリカっ!!」

 横たわるシリカの肩に手をかけてゆすってみる。すると「ううん……」と彼女の口からうめき声が聞こえてきた。

 どうやらシリカは気を失っているようだ。

「おい、起きろ。シリカ、起きろ!」

 僕は叫んでみるが、一向に起きる気配はない。

 仕方が無いのでシリカの横に足を伸ばして座り、上半身を抱きかかえるようにして自分の膝の上に彼女の頭を乗せ、上向きに寝かせてあげる。

 目を閉じる彼女は、特に苦しそうな顔をしているわけではない。

 それどころか、時折口元をもごもごと動かし、楽しそうな表情を見せる。それはまるで夢を見ているかのように。


 そういえば、僕もシリカと同じようにこの花畑で倒れたことがあった。

 あの時は、頭の中に何かが入って来たような感じがしたんだっけ。それから僕は、青白く光る女性の夢を見るようになった。

 ということは、シリカも何か夢を見ているのだろうか。


「シリカが匂いを嗅いでいた花ってこれだよな……」

 だんだんと落ち着いてきた僕は、目の前の花を観察する余裕が生まれてきた。

「これって、シリカが育てていた花じゃないぞ……」

 彼女が匂いを嗅いでいた花は、嵐の日に彼女が守った花ではなく、そのだったのだ。

 見間違いなんかじゃない。だって、彼女が守った花は前に重し石が置かれている。

「なんで……?」

 僕が頭を悩ませていると、膝の上のシリカに動きがあった。

 ゆっくりと目を開けたのだ。

「あなたは……」

 瞳を大きく見開いたシリカは、静かな声で一言つぶやく。

「誰……ですか?」

 怪訝そうな表情を浮かべながら。



「ホクトだよ! シリカ、君はまた僕のことを忘れちゃったの?」

 シリカがまた記憶を失ってしまった?

 でもこれは一体どういうことだろう?

 ジンク先生の話によると、シリカはもう記憶は失わないはずだったと思うけど……。

 困惑する僕に向かって、彼女は今までとは違うとても優しい声で語りかける。

「ホクトなら忘れたことはないわ。私にとって大切な存在だもの」


 ええっ、それって……?

 僕の名前は覚えている?

 でも、僕が誰だかわからない、ってどういうこと?

 しかし一つだけ、僕には心当たりがあった。

 ――この声の感じ、どこかで聞いたことがある……。

 それは一体どこだろう?

 僕は必死に記憶をたどる。


「あなた、すごく懐かしい感じがする。本当にホクトなの?」

 この声……、そうだ、思い出した! 

 これは、夢の中で青白く光っていた女性の声だ。

「ああ、ホクトだよ」

 僕が答えると、彼女は横になったまま腕を上げ、僕の顔に手を伸ばす。

「へえ、レディウ人になったホクトって、こんな顔をしているのね」

 僕のほおに手を添えて、まじまじと顔を見つめるシリカ。

 それはまるで、僕の顔を初めて見るかのように。

「そして私もレディウ人になっている……」

 しばらく僕の顔を見つめていた彼女は、ポロポロと涙をこぼし始めた。

「これは神様がくれた奇跡だわ。こうしてお互いがレディウ人になって再び会えるなんて」


 シリカの瞳の吸引力に導かれるように、僕も彼女を見つめ返す。

 すると突然、瞳を通じて熱い感情が僕の心に溢れてきた。

 ――この人と一緒に居たい。

 愛おしさと切なさで、思わず僕はシリカを抱きしめていた。


「ありがとう。瞳を見ればわかる。やっぱりあなたはホクトだわ」

「シリカ……」

 僕達二人は、ずっと一緒に暮らしていた。

 それは何万年もの間。

 恒久的な幸せの感情が流入して僕の心は一杯になる。

「ホクト、会いたかった……」

「僕もだよ」

 僕はシリカを抱き寄せる。

 それは二人にとって当たり前の行為。

 するとシリカはゆっくりと目を閉じる。

 ――愛しているよ。

 熱い衝動に背中を押されるようにして、僕はそっと唇をシリカの唇に重ねた。

 懐かしくて心が震えるような、そんな感覚が僕を包み込む。

 唇を離すと、シリカは満ち足りた表情で僕を見つめていた。

「素敵な瞬間だった。神様、ありがとう。そしてホクト、さようなら……」

 シリカは目をつむると、再び僕の膝の上に頭を置いて寝息を立て始めた。



「ネフィー以外の女性と、キスしてしまった……」

 だんだんと我に返った僕は、今度は困惑と反省で心が一杯になる。

 ――先ほどの出来事は、一体なんだったのだろう?

 弁明が許されるのであれば、シリカとキスするのが当然のように思えた、と言うしかない。

 あの瞬間、僕達はそんな雰囲気に包まれていた。

 そもそもシリカは、お昼までのシリカとは別人だった。

 そう、僕とキスしたシリカは、あの夢の中で青白く光る女性その人だったのだ。

 

『これは神様がくれた奇跡だわ。こうしてお互いがレディウ人になって再び会えるなんて』


 シリカ、いやさっきの夢の中の女性はそう言っていた。

 この言葉をそのまま信じると、二人はお互いがレディウ人ではなかった時に会っていた、ということになる。

 それって、もしかして……、僕たちの昔の記憶?


「う、うう……」

 そんなことを考えていると、膝の上のシリカがうめき声を上げる。

 どうやら気がついたようだ。

「シリカ!」

「あれ? ホクト。こんなところで何してんの?」

 それは先ほどまでの優しい声ではなく、この場所に来るまでの自由奔放な声。

「大丈夫か? シリカ」

 僕はシリカの瞳を見つめる。

「何? どうしたの? そんなに見つめちゃって」

 シリカはぽっと頬を赤らめ、僕から目を逸らす。

 残念ながら、先ほどのような熱い感情は湧き上がって来なかった。シリカは昼までのシリカに戻ってしまったようだ。


「私、大丈夫だから、そんなに見つめないでよ。ちょっと変な夢を見ていただけなんだから」

 夢?

「夢を見てたって?」

「うん、そうなの」

 やっぱりシリカは夢を見ていたんだ。

 もしかしたら、彼女の頭の中にも何かが入って来たような感覚がしたのだろうか?

「それはどんな夢?」

「なんか、変な夢だったなあ……」

 シリカは僕の膝に頭を預けたまま、雲を眺めながら答える。

「私ね、小さな動物になっちゃうの。そしてホクトも同じ動物なの」


 それって、お互いがトリティだったということ?

 そうか、そういうことだったのか。

 ――二人がトリティだった時代。

 僕達の歴史の中には、そういう時代もあったはずだ。

 それは一体、何年前のことなのだろう?


「それでね、笑っちゃうんだけど、二人は恋人同士なのよ。フフフフ……」

 おいおい、最後のふくみ笑いは何なんだよ。

「でもね、とっても懐かしくて、とっても優しい感じがした。私にとっても、ここが故郷って感じがする」

 シリカは首を動かして辺りを見渡す。

 ミモリの花は優しく風に揺れていた。


「ゴメンね、ホクト」

 シリカがぽつりとつぶやく。

「ゴメンって、何が?」

「ホクトにプレゼントを買ってあげられなくて。だってフリーパスは嫌だって言うんだもん」

「あははは、そんなことを気にしてたのかよ」

「あー、そんなこと言うの? 私、真剣に悩んだのに。だからね、今日はちゃんと働いたんだよ。褒めてくれる?」

「ああ」

 優しくシリカの銀髪をなでてあげる。

 すると彼女は嬉しそうに目を細めて、一つ大きなあくびをした。

「夢の中でもこうやってホクトに膝枕をしてもらってたんだよ。私、なんだかまた眠くなっちゃった」

 こんな穏やかな時間が永遠に続けばいいと僕は思う。

「また眠ってもいい?」

 本当に眠たそうなシリカ。子供のようなその仕草に僕は可笑しくなった。

「いいよ、お休み」

 ミモリの森で昼寝というのもとても素敵だ。

 夕方になればライトとネフィーもやって来るはずだから、ジンク先生の花がどの花だか教えてもらえるだろう。それまで膝枕をしてあげるのも悪くない。

「うん。ありがとう、ホクト……」

 再び髪をなでてあげると、シリカはゆっくりと目を閉じる。


 その時。

 彼女の体がふわっと軽くなったような気がした。


「えっ!?」

 驚いてシリカに伸ばした僕の手は、むなしく空を切る。

「シリカッ!!」

 後には、バサリと彼女の服だけが残された。

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