十六日目(日曜日)

心配

 朝起きると、すでにシリカは居なかった。

 ベッド脇に、パジャマを入れた巾着袋が置いてある。きっと今晩もやって来るつもりだろう。

 僕は寝返りを打ってみる。昨日よりもスムーズに体を動かすことができた。これなら明日は、本当に出かけられるかもしれない。


『ホクトのために何か買ってあげる』

 昨日のシリカの言葉はすごく嬉しかった。

 彼女の前ではあんなことを言っちゃったけど、たとえフリーパスでも僕に気持ちを向けてくれたことが嬉しかった。

 早く体を動かせるようになって、いろいろなところにシリカを連れて行ってあげたい。

 しかし、シリカと居られる貴重な時間は、今この時にも着実に失われつつあるのだ。

 ラジウム二二四の半減期は三日と十六時間。一方、シリカがレディウ人になって、すでに一日と十八時間が経っている。


 ――あと二日か……。


 せめて、シリカが育てていた芽が花を咲かせるところを見せてあげたい。

 ライトの話によると、そろそろ花を咲かせる頃だろう。

 ――チャンスは明日だ。

 なんとかシリカを説得して、明日は一緒にミモリの森に行こう。今はできるだけ体力を回復させることが重要だ。

 はやる想いに心を焦がしながら、僕は病室の天井を見つめ続けていた。



「よっ、具合はどうだ?」

 お昼を過ぎた頃、ライトがやって来た。

 話を聞くと、アンフィの回復具合も僕と同じくらいという。

「シリカのことは、心配しなくていいぞ」

 自信満々に語るライトに、僕は可笑しくなった。


 ――おいおいライト、昨日シリカがどこに泊まったのか知ってんのかよ。

 知っていたら、心配しなくていいぞなんて言えるわけがない。

 でもそれは、僕とシリカだけの秘密だ。


「昨晩な、シリカの様子をバイト仲間のカオリンのところに聞きに行ったんだ」

 カオリンって、昨日シリカが話していた女性だな。

「昨日はシリカと一緒に遊んで、その後ちゃんとアパートに送り届けたってさ」

 そうか、シリカはその後でここに来たんだ。

「今日も朝から迎えに行くって言ってたぞ。化粧の仕方を教えてあげるんだって」

 ということは、シリカは迎えが来る前にアパートに帰ったということだ。

 ――なんだ、意外としっかりしてるじゃないか。

 シリカがちゃんと計画性を持っていることを知り、僕はほっとする。


「今日もこれから、ネフィーとミモリの森に行くんだろ?」

 僕が尋ねると、ライトは窓の外に目を向けた。

「ミモリの森か……。最初は面倒くせぇって思ってたけど、最近だんだんと興味が湧いてきてな。だってあの草、もう花が咲きそうなんだぜ」

 あの草、じゃねえよライト。

 それはシリカがジンク先生の最期にもらったミモリの花の種。

 もうそこまで育ってるとは、さすがの成長スピードだ。


「あんなに成長が早いなんて知らなかったからさ、俺、ビックリしてんだよ。あっという間につぼみが付いて、もう花だろ? お前達が夢中になるのも、ちょっと分かるような気がするぜ」

 ライトにも興味を持ってもらえるのはとても嬉しい。

 先々週のことを思い出す。

 嵐の中、シリカは必死につぼみを守っていた。

 あの時は大変だったなあ――そう思うと、やっぱりシリカとは一緒にミモリの森に行かなくちゃいけないような気がする。


「なあ、ライト。明日は、シリカと一緒にミモリの森に行こうと思うんだ」

 驚いた顔をするライト。

「ミモリの森って、お前、その体で行けるのかよ」

「車椅子を使えば出掛けられるって、病院の先生が言ってた」

「俺、車椅子なんて押さねえぞ」

 あからさまに嫌な顔をするライト。

 彼には散々お世話になっているから、今回は頼むつもりはない。

「いいよ、明日はシリカに頼むから」

「シリカに? って、あははは、それは無理じゃね?」

 高らかに笑うライト。僕だってちょっと自信はない。

「頑張って説得するよ。だからシリカに会ったら、明日の午後はここに来るようにって伝えて欲しいんだ」

「せいぜい頑張ってみるんだな。まあ、一応伝えておくぜ」

「ありがとう」

「そうだ、ホクト。もしシリカに連れて行ってもらえることになっても、お前、車椅子から絶対降りるなよ。車椅子に乗ってりゃ、また気を失っても何とかなるからな」

 そうか、そのことをすっかり忘れてた。


 先々週、僕はミモリの花の匂いを嗅いで気を失ったんだっけ。

 それ以降はネフィーが止めてくれたから、花畑に近寄らないで遠くから見てたんだ。

 でも逆に考えれば、車椅子ならミモリの花を近くで見れるってことだ。それって久しぶりだなぁ……。なんだか楽しみ。


 そんな期待に胸を膨らませていると、ライトが何かを思い出したような顔をした。

「そうだ。ミモリの森といえば、昨日、不思議なことがあったんだ」

 不思議なことって?

「この間、ネフィーが芽の場所を間違えたって言っただろ。あれは間違いじゃなかったんだよ。昨日行ってみたら、あの場所からも小さな芽が出てたんだ。ネフィーのやつ、それを知ってたんだな」

 そうか、きっとネフィーはその場所に何かを植えたんだ。ジンク先生の芽の時のように。

 場所を間違えたと聞いた時の違和感が、すっと僕の中で解消されていく。


「ネフィーも大変だな。二か所も水やりをしなきゃいけないなんて」

「ああ。でも彼女、頑張り屋だぜ」

 耳に水をためて必死に運ぶネフィーの姿が目に浮かぶ。

「じゃあ、ネフィーとシリカのことを頼むよ」

「ああ、わかった」

 ライトは手を振りながら病室を出て行った。



 病室で一人になると、僕は体を起こして窓の外を眺めていた。

 本当はゆっくり寝て、体力の回復に努めなくちゃいけないのだが……。

 ――こうしている間にもシリカは消えちゃうんじゃないか。

 そう思うと居ても立ってもいられない。

 ――体が動かせないのがこんなにももどかしいなんて……。

 もう、とても眠る気にはなれなかった。


 日は暮れて、窓の外は真っ暗になった。

 ライトもネフィーと一緒にアパートに戻っているだろう。

 もしシリカが消えてしまったら、カオリンやキャルからすぐライトに連絡が入るに違いない。

 便りが無いのは良い知らせ。

 そんなことをいくら自分に言い聞かせても、心が落ち着くことは一向にない。

 ――シリカ、早く戻って来てくれよ。

 僕はずっと、シリカが置いて行った巾着袋を見続けていた。



 夜も更けて来た頃、ギギギと病室のドアが開いていく。

 ひょっこりとドアからのぞいた顔を見て、僕は思わず叫んでしまった。

「シリカ!」

 シリカはまだ消えずにいてくれた。

 嬉しくて嬉しくて、その想いが爆発しそうになる。

「ちょっと、大声を出さないでよ。無断宿泊がバレちゃうじゃない」

 確かに叫んでしまったのはまずかった。彼女がここに来れなくなったら僕も困る。

「ゴメン。シリカが消えちゃうんじゃないかって、もう心配で心配で」

「消えちゃう? 私消えたりなんかしないよ。パジャマだってちゃんと置いてるじゃない」

 ヤバい。シリカが消えてしまうことは内緒だった。

「いや、その、とにかく心配だったんだよ……」

 これで誤魔化せただろうか。

「それよりも私、明日もカオリンやキャルと約束しちゃった」

 ふう、良かった。シリカの頭の中はすでに明日のことで一杯のようだ。

 というか、明日はシリカと一緒にミモリの森に行きたいんだけど……。

「おいシリカ。お前の身分証がフリーパスなのは今日までだぞ」

「知ってるわよ。だから明日はバイトを紹介してもらうの。二人がバイトしているところで働こうと思って」


 おお、そうなのか。

 バイトを始めることは良いことだ。

 でも明日は、明日だけはシリカと一緒にミモリの森に行きたい。いや、行かなくちゃいけないんだ。だから一日中バイトをしてもらっては困る。


「シリカ。申し訳ないんだけど、明日はお昼からここに来てくれないか?」

 断られるんじゃないかと思った。

 が、幸いにもその心配は無用だった。

「そういえば、ライトもそんなことを言ってたわね。いいわよ、それで何するの? 買い物?」

 ライトはちゃんとシリカに伝えてくれたんだ。

 心から彼に感謝する。

 ていうか、まだ買い物に行きたいなんて、どんだけ好きなんだよショッピングが。


「買い物もいいけど、その前に行きたいところがある」

 僕はシリカの瞳をまっすぐに見た。シリカもそれを分かってくれたようだ。

「どうしたの? 急に改まっちゃって。そんなにいい所なの?」

 いい所?

 確かにいい所だ。それだけは自信がある。

「ミモリの森、というところなんだけど、僕が初めてシリカに会ったところなんだ」

 するとシリカは不思議そうな顔をする。

「初めてって、私がホクトに初めて会ったのはココなんだけど」

 そういえばそうだ。

 今のシリカにとっては、この病室が僕との最初の思い出だったんだ。

「だからシリカは毎晩ここに来るんだろ? 同じように、僕もシリカと一緒にその場所に行きたいんだ」


 その言葉はシリカの心に届いたようだ。

 しばらく考えていた彼女は、「いいわよ」と一言つぶやいた。

 そのとたん、どっと疲れが出てしまう。シリカが消えてしまわないか心配で心配で、今日は心を休めることができなかった。


 ものすごく眠い。とにかくシリカが消えなくて、本当に良かった……。

「じゃあ、着替えるからあっち向いてて……ってもう寝てるじゃん。明日からバイトして、そのお金でホクトが欲しいものを買ってあげるからね」

 何か言われているような気がしたが、僕はあっという間に眠りの淵に落ちてしまった。

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