匂い
すべてが昨日の夢と同じだった。
こんなすごいことが起きているのに冷静でいられたのは、夢のおかげかもしれない。
「誰って、シリカ、僕を覚えていないのか?」
――レディウ人に戻ったトリティは記憶を失っている。
頭では分かっていたが、心では納得できるものではない。
「知らないわよ、あんたなんか」
シリカの言葉は僕の心を深くえぐる。
「それよりも、着る物をなんとかしてよ。女性をいつまで裸のままで居させるつもり?」
「と言っても、僕はベッドから動けないんだよ」
「マジ? 使えないわね」
そう言いながらシリカは立ち上がった。豊満な胸を揺らしながら。
目のやりどころに困った僕は、思わず視線を逸らす。すると僕の体を覆っていた毛布がいきなり取り払われた。
「おいおいシリカ、何をするんだよ」
「あんたの毛布、借りるわよ」
視線をシリカに戻すと、彼女は僕が使っていた毛布を体に巻いているところだった。
「ちょっと! 返せよ、寒いじゃないかよ」
「嫌よ。って、この毛布、なんだか懐かしい匂いがする」
毛布を鼻に付けるシリカ。僕の体臭を嗅いでいるのだろうか。それはなんだか恥ずかしい。
「あと『シリカ』って何? それって私の名前?」
「そうだ、君の名前はシリカっていうんだよ。ちなみに僕はホクトだ」
まさかシリカ相手に自己紹介することになるとは。そんな未来は想像していなかった。
「へえ、シリカねぇ。いい名前じゃない。気に入ったわ、ホクト」
レディウ人になったシリカに名前を呼んでもらう。そんな状況も予想外だ。その時――コンコンとノックの音がする。
『こんにちわ。市役所の歓送迎課の者ですが、入ってもよろしいでしょうか?』
部屋の外から駆けられた言葉。それは聞きなれた女性の声だった。
「どうぞ」
僕の応答にガチャリとドアを開けた女性は、やはりミューさんだ。
「なんだ、ホクト君か……」
「それはこっちのセリフですよ。やっぱり分かっちゃうんですね、レディウ人の誕生が」
「そうよ、これが仕事だからね。それで新人さんはあなたね」
ミューさんは毛布をまとうシリカを見ながら、担いでいる大きなバッグを床に置いた。
「こんにちわ、シリカちゃん。久しぶりね」
「久しぶりって言っても無駄ですよ。シリカは記憶を失ってるんだから」
僕が言うと、ミューさんは「そうね」と相槌を打つ。
そんな僕達の会話に、シリカはイライラし始めた。
「なに? この人。それよりも誰か、私の服を持って来てくれないの?」
「あら、あなたの服ならこの中にあるわよ」
ミューさんが床のバッグを指さす。
「さて、あなたに合う服はどれかな……?」
しゃがんでバッグの中身を物色するミューさん。きっとまた変な服を探しているに違いない。
「あった、あった。この服がサイズもシチュエーション的にもぴったりじゃないかな?」
ミューさんは巾着袋を一つ取り出した。
サイズはわかるが、シチュエーションって……?
「ありがとう」
シリカはミューさんから奪うように巾着袋を手にする。一応、お礼を言うくらいの常識は持ち合わせているようだ。
「それと、これはシリカちゃんの身分証とアパートの地図。名前は私が書いちゃっていい?」
「勝手にすれば」
シリカは巾着袋の中身を覗き込みながら、いい加減な受け答えをする。その態度にカチンと来た。
「おいおい、シリカ。もっと真剣になれよ。身分証って大切なものなんだからさ」
身分証は電子マネーになっている。
それに新人の三日間は、フリーパスなんじゃないか。
「身分証なんてどうだっていいじゃない。私をいつまでも裸でいさせたいの? て、何、この服……」
巾着袋の中身を確認して表情を曇らせるシリカ。
――おいおい、ミューさん。今度はどんな服を仕込んだんだよ。
きっと今のミューさんはしたり顔をしているに違いない。
その表情を伺おうと首を回すと、なんとミューさんは忍び足で病室を出て行くところだった。
「じゃあねぇ~。ホクト君、後の説明はよろしく」
「ちょ、ちょっと、待って下さいよ、ミューさん!」
僕の叫びも空しく、ミューさんは病室から去って行く。
「これを私に着ろって言うの?」
嘆きの声を上げるシリカは、純白のナース服を持って仁王立ちしていた。
「嫌よ、こんな服……」
シリカはナース服を巾着袋に押し込むと、病室の隅に向かって投げ捨てる。
「でも、いつまでもそんな毛布姿でいるわけにはいかないだろ?」
僕の説得も聞かず、シリカはぷいっとそっぽを向いた。
というか、毛布がないと本当に寒いんですけど……。
「頼むから、いい加減毛布を返してくれよ」
「なによ、ホクトってそんなに私の裸が見たいの?」
そ、そりゃ、見たい――じゃなくて、お願いだから機嫌を直してくれよ。悪いのはミューさんなんだから。
困った顔を見せるとシリカがニヤリと笑う。なんだか嫌な予感。
「じゃあ返してあげるわ。あなたの毛布」
シリカは体を巻いていた毛布を解くと、バサリと僕の目の前に広げる。そして次の瞬間――毛布と一緒にベッドに転がり込んできた。
毛布の中で、僕の腕とシリカの体が密接する。彼女の肌のぬくもりが伝わって来た。
「この毛布、とっても懐かしい匂いがするの。なんだか離したくない。それに、ちょっと眠くなっちゃった……」
ほんの数秒で、シリカは僕の腕に抱きついたまま、すうすうと寝息を立て始めた。
いやいや、こんな状況で寝ないでくれないかな。
しかも彼女は素っ裸。
シリカの呼吸に合わせて、腕に密着するなんだか柔らかいものの圧力が増減する。僕は一人悶々としながら、毛布の動きを見続けていた。
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