天使のレディウ人
「えっと、どこまで話したのかの?」
戻って来たジンク先生は、椅子に座りながら僕たちに尋ねる。
「トリティの里で生まれた天使のレディウ人が、里を追い出されるところです」
「おお、そうじゃった、そうじゃった」
ジンク先生は、美味しそうにまたコーヒーをすする。
「トリティの里を追われた天使のレディウ人は、そのうちに突然変身するんじゃよ。どうなるか分かるかの?」
「我々みたいに、気体になって消えてしまうとか……?」
「はははは、そうなったら話はここで終わりじゃ。はい消えておしまい、という具合にな」
「では、消えないんですね」
「そのとおり。まだ消えないんじゃよ」
レディウ人なのに消えないとはどういうことなのだろう。
さすがは天使のレディウ人。神から誕生しただけのことはある。
隣を見ると、ネフィーも興奮気味に先生の話に聞き入っていた。
「いいかな、その変身について言うぞ。ちゃんとメモするんじゃよ」
僕たちはペンを握り直す。
「ラジウム二二八はアクチニウム二二八に変化した後、すぐにトリウム二二八になるんじゃ」
ラジウム二二八、アクチニウム二二八、トリウム二二八……。
僕とネフィーは、次々と出てくる単語をノートに書き取っていった。
物質の名前は違っていたが、幸い数字は同じだった。それに『アクチニウム』以外は聞いたことがある。そのおかげで、なんとか一回でメモを取ることができた。
そしてメモを見直して気がついた。アクチニウムというのはよく分からないけど、最後はトリウムになるということに。
――ラジウムがまたトリウムに!?
それってどういうことだろう? レディウ人が再びトリティになるってこと?
「先生、トリティの里を追われた天使のレディウ人は、またトリティに戻ってしまうんですか?」
僕はたまらず質問する。すると先生は、満足そうに自分のあごを撫で始めた。
「そうなんじゃよ。不思議じゃろ?」
僕はネフィーと顔を見合わせる。
彼女も驚いたという様子だった。
しかし本当に不思議な話だ。天使のレディウ人は、時間が経っても消えることがなく、またトリティに戻ってしまうとは。
「あっ、もしかして先生。シリカちゃんは、その『再変身したトリティ』ってことなんですか?」
突然、ネフィーが叫んだ。
そうか、そうだったのか……。
僕はノートのメモで確認する。
再変身したトリティを形作る物質はトリウム二二八。普通のトリティのトリウム二三○よりも数字が二つ小さい。
先生が『わずかに軽い』と言ったのは、このことだったのか!
「わしはそう感じたんじゃ。あくまでも勘じゃがの」
ジンク先生は静かに言った。
シリカは、トリティになる前は天使のレディウ人だったかもしれない。
先生の話は、僕の想像をかきたてる。
レディウ人に変身したためにトリティの里を追われ、一人で流浪の旅に出るシリカ。立ち寄った田舎町の宿で発作に見舞われ、再びトリティへと変身していく……。
そんな僕の想像を、先生の言葉が遮る。
「さあ、今まで話した物質の半減期を言うぞ。頑張ってメモするんじゃよ」
はっと我に戻った僕は、急いでメモの準備をする。
先生は僕たちの準備が整ったのを見て、一気に数値を並べ立てた。
「ラジウム二二八の半減期は五年九ヶ月、アクチニウム二二八は六時間、トリウム二二八は一年と十一ヶ月じゃよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。速すぎます、先生……」
泣き言を言う僕に、先生は笑い出す。
「ははははは。一つずつゆっくり話すかの。まず、ラジウム二二八じゃ」
僕は先ほどのメモの『ラジウム二二八』の下に、『半減期』と書き加えた。
「ラジウム二二八の半減期は五年九ヶ月じゃ。我々のラジウム二二六の千六百年に比べたら、あっという間じゃの」
確かに、もし人生が五年九ヶ月だったら、それはちょっと短いような感じがする。
でも、トリティの里を追い出された天使のレディウ人が、五年九ヶ月も流浪の旅を続けると思うと、それは長いような気もするけど。
「そして、アクチニウム二二八は六時間。これは本当に短い。短すぎて変身する余裕がない。レディウ人の姿のまま昏睡状態に陥るんじゃ」
先生の話によると、これはアクチニウム化と言うらしい。
流浪の旅に疲れた天使のレディウ人は、場末の宿屋で昏睡状態に陥るのだろうか。宿屋の主人はびっくりしてしまいそうだ。
「最後にトリウム二二八は一年と十一ヶ月。つまり約二年じゃ」
僕は、五年九ヶ月、六時間、一年十一ヶ月という三つの数字をノートに書き込んだ。
メモの数字を見ながら僕は考える。
まず、シリカはトリウム二二八で出来ているかもしれない、という話だった。
そして、そのトリウム二二八の半減期は一年十一ヶ月だ。
ということは、ということは……、シリカは二年以内に、五〇パーセント以上の確率で変身するってことじゃないか!!
変身って、シリカはレディウ人になるのだろうか?
そうだとしたら、レディウ人になったシリカに会えるってことだ。
シリカって、どんなレディウ人に変身するんだろう?
僕の頭の中にはそんな妄想が勢いよく溢れ、グルグルと回り始めた。
「するとシリカちゃんは、もうすぐレディウ人になるんですか!?」
興奮気味にネフィーが質問する。彼女も同じことを考えていたようだ。
「そうじゃ。わしの勘が正しければな、このトリティはもうすぐレディウ人になる」
やはりシリカはレディウ人になるんだ。僕の胸は期待に膨らむ。
「さあ、このトリティがレディウ人になって、そして消えて行くまでの物質名を言うぞ。しっかりとメモするんじゃよ」
先生は僕たちをサボらせてくれない。
僕たちがペンを握ると、先生はまた物質名を並べ上げた。
「トリウム二二八はラジウム二二四に変化し、このラジウム二二四はラドン二二○に変化するんじゃよ」
必死にメモした内容を見ていると、僕はあることに気がついた。
あれれ、これは僕達のような普通のレディウ人とよく似ている……。
僕は、二つのケースを一緒に並べて書いてみた。
『天使のレディウ人:トリウム二二八 → ラジウム二二四 → ラドン二二〇』
『普通のレディウ人:トリウム二三〇 → ラジウム二二六 → ラドン二二二』
すごくよく似ている。数字が違うだけで。
「先生、僕たちの変化とほとんど同じです」
「そうじゃ、よく気付いたの。先週の勉強の成果が表れとるぞ」
先生はちょっと嬉しそうだ。
すると、今度はネフィーが質問する。
「先生、数字が四つずつ減っていくのはなぜなんですか?」
そうか、ネフィーは、この『四』という数字についての先週の先生の話を聞いていないんだ。
ここはネフィーにいいところを見せるチャンス!
僕は「えへん!」と一つ咳払いをした。
「ネフィー、数字が四つずつ減っていくのは、魂や記憶が抜けていくからという説があるらしいよ」
鼻高々に説明すると、ネフィーが鋭いところをついてくる。
「だったらホクト君、シリカちゃんがレディウ人になったとしても、それまでの魂や記憶が無くなっちゃうってことじゃない」
僕ははっとした。
そうだ、その説が正しいとしたらそういうことになる。
僕が記憶を失ってレディウ人になったように、シリカも記憶を失ってしまうのか?
たとえシリカがレディウ人になったとしても、今までの楽しい事は何も覚えていない。
アンフィたちと買い物に行ったこと、ミモリの森で必死に芽を守ったこと、そしてネフィーと一緒に遊んだこと……。
運命のいたずらは、なんという試練を僕たちに与えるのだろうか。
その時の僕は、よほど悲しい顔をしていたに違いない。先生は恐縮しながら、さらに衝撃的な事実を追加した。
「申し訳ないが、もう一つ悲しい知らせがある」
えっ、悲しい知らせって?
研究室が静まる。
「ラジウム二二四の半減期についてじゃ」
ラジウム二二四の……?
先ほどのメモを見る。
ラジウム二二四って、シリカがこれから変身するラジウムのことだ。つまりその半減期は、この先シリカが僕たちと一緒にレディウ人として過ごせる期間を暗示している。
今日は驚くことばかりだった。もう何を聞いても驚くことはないと思っていた。
しかし、続く先生の言葉は、その覚悟を軽々と打ち砕いてしまった。
「それはたったの三日と十六時間なんじゃ」
「えっ!?」
僕とネフィーは言葉を失ってしまった。
それからのことはあまり覚えていない。
――シリカはおそらく二年以内にレディウ人になる。でもそれは、たったの三日間だけなのだ。
僕の頭の中は、すっかりそのことで占領されてしまった。
ジンク先生の研究室をどうやって出たのかも分からない。
そして肝心のシリカは僕の元には居ない。ジンク先生からもう少し詳しい検査をしたいという提案があり、研究室に一晩泊まることになったからだ。
僕とネフィーは、重い足取りで学園の廊下を歩く。
先生の話は、最初は良かった。
シリカがトリティの里を追われた天使のレディウ人であったかもしれない、というところまでは。何かロマンを感じさせてくれる話だった。
しかし、その後に聞かされたのは、あと二年くらいでシリカは消えてしまうという衝撃の事実だったのだ。最後の三日間だけレディウ人になって。
しかも、僕達と過ごした楽しい記憶は失われている……。
笑えない話だ。ロマンの欠片も何も無い。
その後の授業は、内容が全く頭に入って来なかった。
僕はシリカのことばかり考えていた。
帰り道、ネフィーは何も言わず僕に寄り添ってくれた。
その心配りが嬉しかった。
今の僕の心には、誰の言葉も届かない。
他人がシリカを心配する態度は偽善に感じられる。
ネフィーもそれを察したのだろう。
無言という行為にも優しさが溢れていることを、僕はひしひしと感じていた。
「ホクト君、ご飯作ろうか?」
アパートに着くとネフィーが声をかけてくる。
陽もすでに落ちかけていた。
「ありがとう。でも今日は遠慮しとく」
僕はネフィーの顔を見る。彼女は心配そうに僕の瞳を見つめてくれた。
ネフィーの心配りは本当にありがたかった。でも今夜は、一人でシリカについて考えたかった。
「明日、私もジンク先生のところに行ってもいいかな?」
「もちろんだよ。ネフィーが来てくれると助かる」
「じゃあ、明日の朝、ジンク先生の部屋の前で」
「わかった。じゃあ、また明日」
そして僕は部屋で一人になった。
五月というのに部屋は寒々としている。
そういえば、僕が誕生してから今日まで、一人で寝たことはなかった。
いつも、僕のそばにはシリカが居た。手を伸ばせば必ず、きゅるるるるという鳴き声があった。
でも今、シリカはここに居ない。
――二年後には、この状況が毎日になってしまうんだ。
シリカの居ない世界。
僕がミモリの森で生まれたことを証明してくれる唯一の存在が消えてしまう。
そう思うと、胸が張り裂けそうになる。
――はたして僕はそれを受け入れられるだろうか?
ネフィーと一緒に暮らしていれば、そのうちに忘れてしまうのかもしれない。
でもそれは嫌だった。
シリカのことは決して忘れてはいけない。たとえシリカが僕のことを忘れてしまったとしても。
今夜は、ただただシリカのぬくもりが恋しかった。
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