第五章 二十一世紀(1)

第五章 二十一世紀




 高校を卒業するにあたって僕が進学先となる大学を選んだ際の条件は二つだけだった。一つには、学費が安いこと。もう一つには、できるだけ「線」から離れていること。

 十九歳になる年、僕は初めて、あの長く細く東西に引かれた線の東の端を超えた。超えられたのはほんの僅かな距離で、できればもっと離れてしまいたかったが、僕の成績ではそこが限界だった。僕が一人移り住んだのは、真中市以上に何もない街で、僕が知っている人間も僕を知っている人間も、一人として存在しない街だった。

 それは僕が何年も待ち望んでいた、新しい生活だった。

 講義の合間には、僕は大体いつも同じ場所にいた。図書館か、さもなければ経済学部棟のすぐ傍の並木道に沿って据えられたベンチだ。初めてそのベンチを通りがかったとき、そこにはこう張り紙がしてあった。

「天は自ら助くる者を助く」

 僕はその紙が張られた隣に座り込んで本を読んだ。そこはちょうどいい具合に銀杏の木の木漏れ日が射す、やさしい風が吹く、数十分の時間を潰すにはうってつけの場所だった。

 僕は大体MDウォークマンで音楽を聴いていたので、他の学生たちが大騒ぎしながら目の前を通り過ぎていっても気にはならなかった。数え切れないほどの人々が僕の前を通り過ぎて行ったが、僕と同じように彼らも僕のことを全く気に留めなかった。僕は多くの本を読んだ。多くの音楽を聴き、そしてそれ以上に多くの映画を観た。

 地方の国立大学においては、文学を専攻する学生というのは限られた存在だった。それが男となれば尚更だ。時代は不況の真っただ中にあり、将来のことを少しでも真剣に考えるならば、文学を勉強しても何の意味もないという結論に達するのが当たり前だったから、それはごく自然で正常な状態と言えた。僕はフランス文学を専攻しようとしていたが、それは単なる興味本位であり、工学や経済学や法学に興味があればそちらを選んでいたかもしれず、どちらにしても将来のことなど全く考えていなかった。

 次の講義の時間が近づくと、MDを止め、本を閉じ、立ちあがって尻を手で払って歩き出した。

 教室では正面前方の席に座り、ノートに教授の言葉を書き込んだ。講義名は「宗教学概論」だった。その教授が語るところによれば、宗教において、それが広く一般化する主要因となるのは多くの場合、教義の理解ではなく、個々の儀礼の習慣化によってであるとのことだった。つまり十戒や、復活思想や、般若心経の意味を理解するよりも、それを繰り返し唱えること自体や、洗礼の儀式、祭礼における定型的な振る舞いといったものが、宗教を敷衍し、一般民衆に宗教的意識を植え付ける働きを持つことになるのだ、と。

 講義が終わると、三々五々学生たちは散っていく。今日の飲み会の話や、サークルの話や、単位が危ないとかそういう定型的な話が聞こえてくる。僕は誰にも声をかけないし、誰も僕に話しかけはしない。

 この時に始まった話ではなく、僕は一人だった。友達は一人もいなかった。

 大学に入学してからというもの、僕はこれ以上ないほど規則正しい生活を続けていた。朝7時に起きて朝食を摂り、講義に出て、時間がある日には授業の予習をし、ときどきアルバイトをして、家賃2万3千円の安アパートに帰ってくると、レンタル屋で借りてきた映画を一本観て0時に眠る。ただひたすらそれを繰り返した。

 コミュニケーション能力に致命的な不全があったわけではないので、授業中やその合間には、同年次の連中や隣の席に座った誰かと話はした。ただ一歩教室の外に出てしまうとその会話や関係がぷつりと途切れるというだけだった。時々、誰かが僕に携帯電話の番号やメールアドレスを訊ねたりしたが、僕は携帯電話も固定電話も持っていなかったので、結局それ以上物語が続かないのだった。

 そんな風に過ごしていると、一年次の7月ごろには見事に一人の孤独な大学生が出来上がった。ただしそれは別に珍しくもなければ独特でもない。そんな学生は僕以外にも数え切れないほど存在して、常に構内を思い思いの方向にうろついていた。事情はそれぞれ違っただろうが、僕たちは日々の習慣の自然の帰結として一人になっていったのだ。

 僕はほとんどの場合、過去三年間に身に付けた習慣を押し広げることで生活していたが、新たに始めた習慣がないこともなかった。中古の楽器屋で安物のアコースティックギターを一本買ったのだ。僕は一人でマニュアル本を読んで練習した。休日や、夕方前までに授業が終わった時などは、アパートの周囲に人の気配はなく、僕はレッド・ツェッペリンの「天国への階段」やボブ・ディランの「激しい雨」やビートルズの「ディア・プルーデンス」などの楽曲をたどたどしく弾いて、小さな声で歌った。

 ギターは僕の心を冷たく落ち着かせた。音楽が僕の耳と、そして指先と体全体に振動となって伝わり、口から歌声となって出ていく。それが何度も何度も回転するように繰り返され、自分自身が永久機関になったような感覚がした。そして曲が終わってしまうと、そこには何も残らない。僕の体だけがそこに残り、魂は音となって抜け出してしまい、空気の中に消えてしまった後だ。生きているのか死んでいるのか、自分ではまるで分からない。

 もちろん僕は生きていた。頭で理解する限りでは生きていた。しかし自分が何故ここにいて、これから自分の人生が一体どうなるのかということは全く分からなかった。今ここにいるのが、何一つ他人の求めた結果のものではなく、自分自身が望んでそうした結果なのだと知っていても、今よりほんの一瞬でも未来のことはまるで見えなかった。そして同時に、すべてが見えていた。明日も明後日も一カ月後も、僕はこうしてギターを弾き、大学の授業を受け、アルバイトをして、本を読んで、映画を観て、悪い夢も良い夢も見ずに眠るだろう。何一つ変わらずに、永久に続いて行くように思える。

 永久に続くわけがない、と頭の中では思った。

 一年は続くかもしれない。でも三年後は。十年後は? 

 続くわけがない。いつか途切れるにきまっているのだ。これまでそうだったように。僕の中に切実な感覚として永遠があるわけではない。そんなものは全く感じない。永遠とは全く逆に、ただ単に僕の、未来に対する想像力が限りなくゼロに近づいているだけなのだ。

 あの冷たい夜の後、すべての友達が完全に真中市を去り、そして僕自身も高校の入学と同時に、母親の立てた計画に従って町を出た。僕がそれ以上何かをする必要はなく、健一がすべてを終わらせていた。報道では彼の実名は明かされなかったものの、それによれば、宮田健一少年はその日、真中市を訪れた際、月光仮面と名乗る男に襲撃され、持っていたナイフでこれに抵抗した。その結果、宮田少年は右腕と腹部と左脚に重傷を負ったものの、「月光仮面」の胸部にナイフを突き刺し、絶命させた。死亡した「月光仮面」は真中市在住の男性で、警察は男がこの町に起こった連続殺人の犯人であると断定した。死亡時に彼の遺体のそばに凶器と思しき金属バットが転がっており、そこから彼の指紋とこれまでの一連の死亡者の血液が発見されたからだ。現実は誰の目にも明らかなものとなった。健一がナイフを持ち歩いていたことなどほとんど問題にならなかった。なぜ県外に住む健一が真夜中に真中市をうろついていたのかということにさえ、誰も疑義を申し立てなかった。彼はおそらく、前に住んでいた街のことがただ懐かしく寂しくなってそうした、とでも証言しただろうが、彼が何を喋ったところで結論は同じだったはずだ。何しろ彼は連続殺人犯を発見し、襲撃を受け、これと戦って勝った英雄であり、この事実がすべてに優先した。所属していたサッカー部で優秀な成績を修め、いつも明るく優しく礼儀正しく、クラスメートや教師の誰からも尊敬されていた彼の素性が明らかになると、尚更彼の行動の理由など追及する者はいなくなった。僕も事情聴取を受けたが、余計なことは一切語らなかった。僕が話したのは、必要なことだけだった。「あの日の夜、子供のころに作った秘密基地が無性に懐かしくなり、どうしても行きたくなって訪れた。するとそこに健一と月光仮面が倒れていた」。それ以上の説明を誰一人求めることはなかった。そしてこの日以来実際に、真中市から一切の刃傷沙汰は途絶えた。一年がたち、二年がたち、三年半が経ったこの時になってもそうだった。

 闇は晴れ、呪いは消え去ったようだった。退屈でどこにも辿りつくことのない日常が、冬が終わる前には僕自身にも真中市にも戻った。それが僕たちの誰もが求めるものだった。ふと背後を振り返ると誰かがつけまわしているような感覚、どの暗がりにも誰かが潜んでいるような感覚は、太陽に溶けて消えた。少しずつ、子供が成長するように、木々が天に向かって伸びていくように、目には見えない速度で、真中市は元の真中市に戻っていった。僕は同級生たちとともに、残りほんの僅かの限られた時間、受験勉強に集中した。

 だが、僕は忘れることができなかった。

 どうあっても忘れられるはずはないが、この街を去る際に、一つの現実が、ひと際僕の胸を強く刺した。

 どれだけ時間が経っても、あの人たちは戻って来なかったのだ。殺された八人以外にも何人もいたはずの彼らは、結局僕がこの街を去るまで、一人も姿を見せないままだった。僕はそれが耐えられないほど寂しかった。

 夏と別れた日、それは僕が県外の高校に入学手続きをする前日だった。この町を出て行くことを決めたのは僕よりも夏の家族の方が先だった。夏の家庭は最早彼女だけではなく、その母親にも問題を抱えていたから、夏の父は町を出ていくことをしばらく前から決めていたのだ。だが、夏の家庭がどうあろうと、僕が町から出ていくことには変わりなかっただろう。最初は母がそう決め、僕自身は迷い続けていたのだが、あの夜を越えて、そうしなければならないと考えるようになっていた。月光仮面を殺すと決めた瞬間から、僕がこの街を去ることは決まっていた。

 その良く晴れた冬の朝、夏の家を訪ね、彼女と真中市を散歩して歩いた。僕が夏の手を引くと、彼女は黙ってついてきた。僕たちはその日一日かけて町中を歩いた。柔らかい日差しが射す中、小学校を訪れてグラウンドを一周すると、近所の本屋を訪ね、色あせたネオン看板が掲げられたスナックを通り過ぎ、橋の上から日光川をしばらく眺め、潰れた駄菓子屋の前を通り、スーパーのおもちゃ屋に入り、駅前の電車が行き交う高架下をくぐり抜け、神社の前のたこ焼き屋にやって来た。僕たちはベンチに腰掛けて二人で一箱のたこ焼きを食べ、店主にお茶を奢ってもらった。ありがとうと僕が言うと、店主は髭面にしわを寄せて微笑んで、可愛い彼女だなぁおい、と言った。僕は頷いてもう一度、ありがとうと言った。

 神社をお参りしておみくじを引くと、僕の運勢は小吉で、夏は大吉だった。「大願間もなく成就すべし」とそこには書かれていて、僕たちは近くの竹囲いにおみくじをくくりつけた。

 そしてまたゆっくりと街を歩き、日光川まで戻ってきた。堤防の階段を下りて河川敷を歩き、かつて日光仮面が住んでいた橋の下を通り過ぎた。橋を支える柱の足元に、誰かが供えた花束が枯れていた。日光仮面に対するものなのか、この川が決壊して何人かが死んだことを忘れないためのものなのか、それともその全部に対してのものなのか、分からない。その花束以外にはそこには何もなかった。つるつるのコンクリートが上流から下流まで延々と続いている。最早この川にゴミを捨てるものさえ存在しない。むやみにここに近付く者もあまりいない。だから日光川は、僕たちが初めて出会った時よりも少しずつその清涼さを取り戻しつつあった。

 僕たちは堤防に上り、下流に向かって歩き、かつて秘密基地があった場所に近付いて行った。だが僕たちはそこを通り過ぎただけだった。そこにはもう何もなかったのだ。僕たちの基地はもちろんのこと、あの瓦礫の塔のようなゴミの集積もなく、純粋な空き地と化していた。いつかこの場所は誰かによって別の何かに埋め立てられ、ここが月光仮面が死んだ場所だということは僕たち以外の全員から忘れ去られるだろう。僕はそう思った。

 そして僕たちは、ゆっくり歩いて夏の家に戻った。風が柔らかく吹いていて、空は深い水色に滲んでいる。どれだけゆっくり歩いても、太陽が沈むまでまだあと数時間あった。時間が止まったような感覚がして、僕は永久に歩き続けていたかった。僕たち以外の何もかもが静止している。僕は、彼女と握りあった手で汗がにじむ感覚を永遠に味わっていたかった。僕は帰り道を引き延ばして、路地をぐるぐると回ったが、やがてどう足掻いても彼女の家の前の道に差し掛かった。僕は立ち止まり、彼女と向かい合った。そして夏の唇にそっとキスをした。

 何かを言うつもりだったのだが、結局は何も言えなかった。僕は彼女に自分のことを覚えていてもらうことと忘れてもらうことの両方を望んでいて、その気持ちを表現する言葉がどうしても見つからなかった。僕たちは今ここで別れ、もう二度と会うことはないかもしれないし、いつかもう一度会うかもしれなかった。どちらなのか全く分からなかった。その気持ちをどうしても伝えたいのだが、言ってしまった途端にどちらかの意味に傾いてしまうことは分かっていた。僕の本当の感情は音楽のようなもので、まだ何物にも結びついておらず、声に出した瞬間に消えてしまってもう二度と再現ができない。今僕がただ一つ正直に願うことは、彼女に、僕を含めた、この町のありとあらゆるものから離れて欲しいということだけだった。

 僕が手を振ると、彼女も手を振った。そして僕たちは別れた。



 

 僕は健一と誠二にも、同じように別れを告げたくて連絡を取ることも考えた。だがそうすることはできなかった。事件の後、健一が面会謝絶の病室に押し込められ、基本的に父親以外は誰も会うことができなかったからではない。僕なら頼めば会えただろう。僕は彼の命を救った――真実は、救ったどころか彼を殺しかけた男だったのだが――友達だったのだから、誰が拒めただろう。しかし僕はそう望んで押し通しはしなかった。それどころか病院に近付こうともしなかった。僕たちはこれ以上関わりあうべきではなく、このままばらばらに別れるべきだと考えた。この事件について僕たちが話し合う必要はない。いつか誠二が言ったように、話し合えば関わりが生まれてしまう。ここで終わらせたいのなら話し合うべきではない。それが僕の結論だった。

 誠二も同じだ。誠二が言った通り、僕は彼に手紙の返事を書いてはならなかった。そうすれば関わりが戻り、彼の言葉に意味が生まれ、月光仮面を僕たちが計画的に殺したことが明らかになる。僕が誠二に手紙を送れば、いつか誰かがそれを観て何かを読み解くかもしれない。普通の人間には気がつかなくても、観る人が観ればそれは分かる。僕は誠二の手紙を、引っ越す前に家の裏で焼いて捨てた。

 二人に会いたかった。健一の怪我が深刻だったことは、その体から溢れる血を浴びた僕には誰よりもよく分かっていた。死ななかったのが不思議なくらいだ。おそらくあのナイフの深く突き立った右腕と左脚には、重い後遺症が残るだろう。誠二も同じだ。彼は少しずつ、知恵と知識を取り戻しつつあるだろう。しかし記憶についてはどこまで戻るのか分からない。彼には長い時間の記憶が欠けていて、それを正確に持っているのは僕なのだ。僕は彼らに対して何かを負っている。重大で取り返しのつかない何かを。だからどうしてももう一度会いたい。会って話がしたい。

 僕はその感情を押し殺した。

 何のために?

 何かのために。

 その何かのことを考えれば、僕が彼らに会うべきでないことは明らかだった。なぜ健一が僕に黙って月光仮面を殺しに行ったのか。なぜ誠二が返事を書くなと言ったのか。それを考えれば僕のすべきことははっきりしていた。

 重要なのは、友達ともう一度会うことじゃなく、俺が忘れないでいることだと僕は考えた。そして健一も誠二も夏も生きているということが重要だった。自分たちに何が起こったのか、僕はまだはっきりとした整理や理解ができないでいる。しかし、とにかく四人とも生きている。それがこの町を去ろうとする僕には何よりも重要なことに思えた。僕は一人かもしれないが、それでもいい。三人が僕のことを覚えていなくても、考えることができなくても、場合によっては憎んでも、生きているなら、僕が忘れない限り、誰かにわざわざ言う必要もなく、僕にとって彼らは友達だった。

 僕は、可能な限り何もかもを忘れないことにした。あの人たちのことも、友達のことも、あの雨の夜のことも、あの夜に自分自身の体に充満した殺意があったことも、友達が僕の代わりにしてくれたことも。僕はそれらとともに生きていくべきだと思った。

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