第四章 雨の後(8)
翌朝のTVニュースを、僕は夏とともに観た。それは僕をもう驚かせはしなかったし、ほとんど感情を揺さぶりもしなかった。そこにある知らせは全て事実の追認に過ぎなかった。
昨日の朝から今日の未明にかけて、真中市及び日光川で新たに合計四名の遺体が発見された。そのうち、昨日の夜に真中市の路上で殺されたのは一名のみで、後の三名は全て、少なくとも昨日より以前に殺された。そのうち一名は一か月以上前から行方が分からなくなっていた真中市住民であり、残りの三名の身元はまだ判明していない。死亡者の内、一名は新聞配達のアルバイト従業員が路上で発見した。のこり三名の遺体を発見するきっかけとなったのは日光川の河口に住む漁師の男性で、所有する漁船の船底にドラム缶が漂着しているのを警察に届け出たところ、中身は果たして死体だった。河口付近を捜索したところ更に二つのドラム缶が発見された。遺体の中には死後一年以上経過しているものもあると見られており、警察は全ての遺体の身元の確認を急ぐとともに、全ての遺体に頭部への挫傷が見られることから、市内で連続している殺人事件と同一犯の犯行とみて捜査を進めている。
そして、身元の分かった一名とは、あの「空き缶じいさん」だった。あの空き缶の館は、雨の晩に既に全て破壊されていた。あのとき彼は僕に「空き缶で堤防を作る」と言っていたが、それももちろん間に合わなかった。最後には自分自身が巨大な空き缶の中に詰め込まれて殺されたわけだ。彼が作ったものは最早何一つ残っていない。僕は目を閉じて、彼のことを想った。
おそらく当然のことだったが、真中市の全ての学校は連日の休校となった。母も仕事を休んだ。「家の外に出るな」と何度固く言い聞かせても従わない息子に対しては、直接見張るしかなかったのだろう。
だが僕は今、外に出るつもりはなかった。まだ夏が僕のすぐ隣にいて、外は晴れていて恐ろしく寒い中を警官やマスコミたちが歩き回っている。出ていく理由がない。
TVは、憂鬱な殺人事件の続報以外には、TVタレント同士の交際が破局した知らせと、僕たちにとっては悪い冗談としか思えない恋愛ドラマと密室殺人事件もののサスペンスドラマしか映し出さない。母がTVの電源を切ったので、僕はレッド・ツェッペリンのライブアルバムをリビングのオーディオコンポで再生しながら、夏とともに日光仮面の日記を読んだ。
頭から最後まで読んだが、別にそこに新しい発見は無い。どこを切り取っても同じような日光仮面の戦いと苦悩の日々が記されているだけだ。見当違いの何かに向かって、過剰な行動力でぶち当たっていく、頭のおかしな一人の男の姿が浮かびあがる。僕は今、日光仮面の気持ちが分かった。これまでずっと、彼は僕の反対側にいて、僕は彼と違う方を向いていた。でも今僕たちは同じ場所にいて、同じ方向を見ていると思った。そんな気がしてならなかった。
夕方になって日が暮れる前に、僕は夏を家まで送り届けた。僕は彼女とつないだ手を離し、今日は絶対に家から出るな、と言った。
「頼む。最後のお願いだ」
夏はまっすぐ前を向いていて反応しなかった。
彼女の髪を撫でて、手を振って別れた後、僕は近くのホームセンターで軍手を買った。それ以外には特に新たに準備するべきものを思いつかなかった。
家に戻ると、間もなく父が仕事から帰ってきた。今日は早く切り上げてきたのだと父は言った。みんな仕事になんかなりはしない、と。そして僕たち家族三人は平日の夕食を共にした。それは久しぶりのことどころか、記憶の中で遡っても最後のそれがいつだったか思い出すことができないほどの稀な出来事だった。
テレビのニュースでは事件の続報が伝えられていた。不明だった三つの遺体の身元が判明し、名前と年齢と顔写真が明かされた。もちろん僕はその三人の顔を知っていた。「河童おじさん」と「ロケットおじさん」と「ドッジボールおじさん」だった。河童おじさんは、昔日光川の上流で河童を見た、と主張してやまない中年男で、かつて河童を探して明けても暮れても日光川の近くを歩きまわっていた。ロケットおじさんは、コーラで作った炭酸エンジンで空を飛ぶことを夢見て日々ロケットの開発に執心していた男だった。ドッジボールおじさんは、毎日倉庫の壁に向かって透明な子供たちとドッジボールをしていた男で、物凄い数の子供の声色を使い分け、一人で何十役もこなしながらボールを壁に投げつけていた。三人とも、テレビに映る写真の顔は以前僕たちと会った時は違う、生きることの苦痛に満ちた表情に見えた。
風呂に入り、勉強するからと言って自室に戻った。椅子に腰かけ、机の上で両掌を上に向けて、十本の指先をじっと見つめた。長い時間じっとそうしていて、これから自分がすることを何度も繰り返し入念に想像した。何度も繰り返すうち、言葉にはどうしてもできない、たぶん自分自身以外には決して理解できない、その瞬間限りの納得感が僕の体の隅々まで行き渡っていた。この感覚は多分、十年後はもちろん、一年先、ひょっとしたら一カ月先の自分自身にさえ理解してもらうことはできないだろうと思った。放っておいたら消えてしまい、空中に紛れ、影の中に溶けて、もう二度と取り返すことはできない。
両親が寝室に入り、完全に気配が消えてしまうと、僕は立ちあがった。時刻は二十三時半を回っていた。既に着替えは済んでいる。唯一の道具である、ローリングスのケースに入った金属バットも昨日のうちに押入れから引っ張り出してある。タオルは要るだろうか、と僕は考えた。血が出たときに拭くためのタオルは要るだろうか。僕は自分に向って、何度言えば分かる、タオルは要らない、と呟いた。血を拭くためのタオルを持っているなんて不自然だ。少しだけ深く呼吸をして、音を立てずにドアを開けて部屋を出た。家の中の明かりは全て消えている。真っ暗闇の中で、ゆっくりと階段を降り、玄関で屈みこむと、履いた靴の紐をきつく縛り、買ってきた軍手を嵌め、バットを背負い、黒い影が隙間から這い出て行くように静かに家を出た。
吐く息は煙草の煙のように白い。僕は歩き出した。自転車は使わない。いくら油を差してもじゃこじゃことやかましい音を立てるあの自転車は、今日の仕事に向いていない。誰にも見られるわけにはいかないのだ。僕の足にぴったりと貼りついたスニーカーはほとんど何の物音も立てない。そして周囲からは何の音も聞こえない。僕はこの街で無音の夜を何度も過ごしてきたが、その中でも最高の沈黙が街全体を包んでいた。風も吹いておらず、ただひたすら空気が凍てついている。ほとんどの家の明かりが消え、空には月もない。三夜連続で人死にが出たこの町にとって、今夜こそ誰も外に出るわけがない夜だ。暗闇と静寂の中で、僕自身さえそこにいないように見えた。
状況は僕に有利だ、と僕は自分に向けて言った。それは、無音と暗闇の中でこの行動が誰にも見つかりそうにないことだけではない。そもそも全てが最初から僕にとって有利なのだ。殺した後で、僕はこう言うだろう。友達の家からの帰り道、殺人犯に襲われたので、護身用に持っていたバットで応戦した、と。今日、今であれば、おそらくその論理は成立するだろう。彼が犯人であることは間違いないが、彼の正体はまだ誰も知らないのだから、僕が計画的に殺したことなど誰にも分からない。しかし、僕が逮捕されるかどうかはどうでもいい。僕が有利だというのはその点だ。この後で何が起こっても構わない。僕が背負ったバットで月光仮面を殴り殺した時、その時点で僕の勝利なのだ。それは今の僕にとってとても強固な事実だ。これ以上に強いものは他にない。
月光仮面がどこにいるのか、僕は既に知っていた。僕はこの一年数か月、誰よりもこの街を隅々まで走り回った。この街の物ならば、すべてを見て回り、すべてを通り過ぎてきた。だから僕には分かっている。彼はまだあそこにいる。あれからずっと、僕が避けてきた、行くことができなかった場所にいる。そこ以外の場所は既に全て僕の足跡で潰して包囲した。彼はそこ以外にいることはできないのだ。
彼は、僕たちの秘密基地があったあの場所にいる。
幹線道路を横切って、僕は住宅区域から水田地帯へと進んでいく。街灯が遠ざかり、人の住処が遠ざかる。四方が開け放たれた空間で、星が曖昧に輝く夜空と突き当たりのない大地に挟まれて僕は歩いていく。無風の冷気が僕の全身を包む。少しずつ日光川が近づいてくる。アスファルトで舗装された道が途切れ、生え放題の雑草と轍に敷き詰められた砂利の道が眼前に広がる。
かつて誠二の家があった場所の近く、数十メートル四方の雑木林の端に開けた空き地、僕たちが数年前までいつも集まり続けたその場所に僕は近づいていった。懐かしさや、その逆の後ろめたさや、その他感傷的な思いは、僕の中にほとんど存在しなかった。僕の中にあるのは緊張感だけだった。背の高い伸び放題の雑草に身を隠して進んではいるが、どれほどひっそりと歩いても、砂利道を踏みしめる足音が頭の天辺まで響いて消すことができない。この音は自分の体の中にしか聞こえない音だから大丈夫だと言い聞かせても、百メートル先まで届いて相手に僕の接近を知らせている気がしてならなかった。外気に触れている顔面以外の体中からじっとりと汗が噴き出して、今すぐ駆け出してしまいたい欲求に駆られた。僕は何度も深呼吸を繰り返して、バットケースから金属バットを抜き、右手に強く握った。僕は両手で何度も開いて握ってを繰り返し、全力でスイングするイメージを頭の中に描いた。あくまでコンパクトに、ためらいなく、できれば背後から頭部に振り下ろして一発で終わるのが理想だが、それより重要なのは終わるまで何度も繰り返すことだ。
ざくざくと生い茂る雑草の合間、暗闇の中に、うず高い影が見えるのに気がついた。僕たちの基地があったちょうどその空間だ。徐々に姿を現したのではなく、気がついたときにもうそこにあって、僕はそっと足を止めて見上げた。
ゴミの山だ。星の光の下、夜の世界に慣れた視界の中で、その輪郭は最初にうっすらと、そして目を凝らすごとにはっきりと見えた。材木やトタン、折れた木や土塊、自転車やバイクや冷蔵庫やエアコンの室外機、そのほか粉々に砕けて原型が何だったのか判別できない、町中のありとあらゆる行き場のないゴミが積み上がり、高く高くそびえていた。それらは今にも崩れ落ちそうにも、今にも続々とゴミが生えて空に向かって伸びていくようにも見えた。
あの雨の夜以来、ここを片付けなかったのは僕たちだけではなかったのだ。
僕は右手のバットを握りしめて深呼吸した。どれだけゆっくり歩を進めても、道はもうあと数歩で途切れ、隠れる場所のない真正面に出ていかざるを得ない。月光仮面はそこにいる。
本当にそこにいるのだろうか? 僕の頭の中だけではなく、実際にそこに?
僕には分からなかった。間違いなくいるだろうと思う。しかし同時に、決してここにはいないだろうとも思う。僕は自分を信じてはいない。いつも半分は自分を疑っている。確かめるためには、実際に歩いて行って、見てみるしかない。
ゆっくりと最後の雑草の壁の手前から顔を出して覗き込んだ。ゴミの山の全貌が視界に入る。鉄錆と油と黴の混ざった臭いが鼻孔を刺す。ゴミがミンチのようにぐしゃぐしゃに固められたその山は、近付くほど僕に向かって倒れ掛かってくるように感じられた。そして近づくほどそれが何によって構成されているのか見分けがつかなくなる。山からあふれ出したマグマのようにゴミの残骸が足元に散らばって、無軌道に突き出したパイプや木材の鋭角が、距離を隔てた僕の眉間でひりひりする。僕は目を凝らした。そこに、動くものの気配はない。
既に僕の全身は四方八方星の光にさらされ、開け放たれた空間に立っていた。ゆっくりと歩を進めるが、あちこちに粉々に砕けた家財や機械の部品が散らばっていて物音を立てそうになる。僕は少し身を屈めたまま、素早く周囲に目を凝らし続けていたが、引き続き動くものの気配はなく、誰の姿もない。だが次の瞬間に、ゴミの山の麓から月光仮面が現れるかもしれないのだ。僕は緊張を解くことなど決してできなかった。
僕はうず高く積み重なった山の方に気を取られすぎていた。僕は近づきすぎていた。無造作に打ち捨てられた、足の折れたベッドや砕けた硝子サッシやブラウン管テレビやボロボロの畳の合間に、誰かが横たわっているのに気がついた時、僕とそれとの間にはほんの数メートルの隔たりしかなかった。
月光仮面だ。
僕の呼吸はその瞬間止まった。泥だらけの白いスラックスとスニーカーの足だけが見えて、体の全体は、捨て置かれた箪笥に遮られて見えないが、僕の呼吸を止めるには十分だった。足しか見えないが、間違いなくあいつだ。あいつ以外に今誰がこんなところにいる? 彼は眠っているのだ。バットを握りなおし、さらに身をかがめ、ゆっくりと足を下ろして近づいた。その時僕は完全に夜に同化した。頭が見えたら、そこに向かってバットを振り下ろす。頭が見えたら、そこに向かってバットを振り下ろす。
僕はたった一つそれだけしか考えなかった。
時間が異常にゆっくりと進み、僕の目にほんの少しずつ、物陰に隠れて横たわる月光仮面の姿が、足元から上に向かって現れていった。彼はあお向けに横たわり、全身が泥にまみれている。スラックスも、ベルトも、ホルスターから二丁拳銃が滑り落ちていて、背負ったマントは真っ黒に湿っている。真っ黒に染みて、白い部分などほとんど残っていない。特に、胸のあたりに広がる染みは闇よりも濃く、じわじわと広がっていきさえするように見えた。さっきまでは微かだった、鉄と生臭い何かが混ざった臭いがどんどん強くなっていく。サングラスとマスクに覆われた顔が見えた。汚れてはいても、暗闇の中で、その体躯と身に纏う全ての衣装のディテールは、記憶にある彼と完全に同一だった。間違いなく月光仮面だった。僕はバットを振りかぶった。脳裏に、彼の頭を叩き割る完璧なイメージが描かれた。両手に渾身の力を込めた。
その瞬間、バットが、空中で何かに引っ掛かった。
僕は反射的に空を見上げた。だがそこには暗闇以外何も無い。どれだけ目を凝らしても、僕のバットと月光仮面の間には何もない。
何も無いのに腕が動かない。
振り下ろせ、そう自分に命令したが、動かない。
僕は視線を下ろし、月光仮面の顔をじっと見つめた。
彼のサングラスを見つめ、汚れきって全く動かない彼の全身を眺めた。何故こいつこんなところで寝ているんだろうと僕は思った。そんなことはどうでもいい、何も考えずに早く終わらせてしまえ、その声は腕まで伝達される途中で、体の中のどこかにぶつかって弾かれた。その衝撃でぜんまい仕掛けが外れてしまったように、イメージの中でバットを振り下ろす自分の動きが緩慢になった。そして現実に握りしめたバットはぴくりとも動かなかった。顔が見えたら直ちに振り下ろすつもりだった。だが僕はそうしなかった。自分でも何故なのか分からなかった。もう一歩だけ彼に近付いた。そしてただじっと彼の顔を見つめた。更にもう一歩近付いた。
躊躇いじゃない、と僕は自分に確認した。違和感だ。
何か、変だ。
全身を高速で流れ続けていた僕の血は、その回転の勢いのまま、自分のバットが高速で振り下ろされ、彼のサングラスを叩き割って頭蓋骨を粉砕するイメージをもう一度描こうとした。だが駄目だった。殺せ、今しかない、その声が頭の中で何度も響き続けていたが、神経と心臓が全く反応しない。何度言い聞かせても駄目だった。どうしても腕が動かない。言うことを聞かない自分の体のどこかから、無駄だ、という声がした。知っている、という声もした。僕は目の前のこの体が放つのと同じ気配を、数年前に味わっていた。それは拭いがたく、だれにも否定できない、避けることのできない、決定的な意味を持つものだった。僕は、これが何なのか知っている。
殺意のイメージが四散し、急速に、僕がバットを握る手から力が抜けて行った。右手にかろうじて引っ掛かり、力無く足元に突き立った。
僕は月光仮面の顔を見つめた。バットで彼の体をつついたが、何の反応もない。
彼は死んでいた。
僕は茫然とその体を見下ろした。彼はぴくりとも動かない。胸に広がった黒い染みだけが、生きているかのように広がっていく。血だ。刃物で深く刺された痕だ。それはすべてが静止したこの空間の中で錯覚にしか見えないが、間違いなくどんどん広がっていく。風のない空気の中に血の臭いが充満していく。僕の呼吸は回復したが、その臭いを吸い込むことができなくて、反射的に後ずさった。
そして心臓が物凄い勢いで僕の全身を叩いた。無音の空間の中で、僕の心臓の音だけが地震のようにやかましく鳴り響いた。
僕は周囲を見回した。相変わらず全く動くものの気配がない。ずるずると後ずさると、転がっていた自転車のフレームに金属バットが触れ、甲高い音をたてた。その音に自分で驚いて振り向いたとき、僕の視界を、うつ伏せに倒れている別の誰かの姿が横切った。
あお向けに横たわる月光仮面の足が指す方向、十メートルほど向こうに、散らばったゴミの残骸に紛れて、誰かが倒れている。
僕は金属バットを捨てて、その誰かに駆け寄った。足元で硝子が割れ、何かのケーブルが足に絡まるのを引きちぎり、僕は屈みこんで彼の体をひっくり返して抱きかかえた。
その顔を見つめるよりも早く、僕は彼が誰なのかが分かった。
それは健一だった。
彼の体も顔も、月光仮面と同じように泥にまみれ、そして、血の臭いに包まれていた。服はあちこち破れていて、左手には汚れたナイフが握られ、抱きかかえた僕の手が彼の右の二の腕でずるずると滑った。血がどくどくとあふれている。僕はその腕の脇の下を両手でぎゅっと握りしめた。反射的な行動だった。
目を閉じて全く動かない彼の顔を見つめた時、僕の動きも停止した。動くものは本当に何一つ無くなり、一瞬、世界全体の時間が止まった。
それを破るように、健一、と僕は呼びかけた。大声で、何度も何度も呼びかけた。握りしめた両手のなかで、彼の脈を微かに感じた。だがそれは今にも消えてしまいそうだった。
僕は空を見上げ、周囲を見回した。誰もいない。半径数百メートル、人はおろか鳥や野良猫の気配すらない。
健一の左手のナイフと血、倒れて死んでいる月光仮面とその胸から溢れ出す血。
僕の頭の中で、言葉と同時にイメージが炸裂した。この場所でほんの少し前に起きた現実が、克明な映像となって僕の中で再生された。
二人は殺し合ったのだ、ついさっき、ここで。
僕はなぜタオルを持ってこなかったのだろう。どうしてこうなると予想できなかったんだろう。
僕は泣いていた。涙の粒が幾つも幾つも健一の体に零れ落ちた。僕は上着を脱ぎ、シャツを脱いで健一の右腕の付け根できつく縛った。そして上着だけを羽織って彼の体を背負い、泣きながら歩き出した。健一の左手から力が抜けてナイフが地面に落ちた。よろよろと歩きながら、健一、と僕は何度も何度も彼の名前を呼んだ。彼は目を閉じたままで、何の反応もしなかった。ほんの僅かに、口の隙間から息が漏れていて、すぐに空気に溶けて消えていった。
どうしてなんだ、と僕は思った。実際に声に出した、「どうしてなんだ」
どうして健一がここにいて、どうして健一が月光仮面を殺すんだ。
俺は馬鹿だ、と僕は自分を罵った。彼は、俺と同じ思考を辿って、殺されているのがあの人たちだということに気が付いていた。月光仮面が犯人だということも彼は知っていた。月光仮面がここにいるであろうことまで僕は喋ってしまっていた。彼はいつも僕たちのために体を張った。彼は本当に優しくて強い男だ。彼が、俺たちの代わりに、月光仮面を殺そうとするのは当たり前のことだ。健一だったら、それを自分の役目と思い、そうするに決まっている。何で俺にはそんなことも分からなかったんだろう。
どうしてなんだろう、と僕は考えた。どうして僕は肝心なことはいつも何も分からないで、何の役にも立たないで、間に合わずに、友達に押し付けて、通り過ごしてしまうんだろう。どうして僕はいつも少しずつ遅れていて、いつも後悔してしまうんだろう。どうして俺は何もかも、いつも、何かが足りないんだろう。
「どうしてなんだよ」と僕は言った、「何やられてんだよ。健一。何であんな奴なんかに。あんな奴、お前なら楽勝のはずなのに」
両足が揃っていたらお前は無敵で、誰にもやられなんかしないのに。
健一の体から僕の体に少しずつ血が伝わり、足元に落ちていく。僕は間違えた、そう思った。何もかも間違えていた。
僕は言葉よりも意味よりも、もっと大事にすることがあった。僕は小説を書くよりも絵を描くよりも、もっと他にすることがあった。
例えば、僕は音楽を演奏するべきだった。下手でも構わないから、意味よりも前に、言葉よりも早く、宙に舞って消えてしまっても、何かに混ざって行き残り続ける音楽を奏でれば、僕も夏も健一も誠二も、こんなことにはならなかったんだ。何かのためでも誰かのためでもなく、ただ美しいものが必要だったんだ。僕たちにはそういう、生きている美しいものが欠けていたんだ。
僕の思考はその訳の分からない地点で止まり、動かなくなった。あとは健一を背負って歩き続け、ただひたすら彼の名前を呼び続けているだけだった。
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