第四章 雨の後(7)

 自転車に乗って真中市の中心街に向かった。市の警察署の入り口をくぐり、受付で、今起こっている連続殺人事件の情報を提供したくて来た、と話した。

 僕はしばらくロビーの長椅子で待った後、廊下を曲がった奥の会議室まで通された。煙草の匂いがかすかに残っていて、二人掛けの茶色いソファが二つ向かい合っている。二人の警官がテーブルを挟んで僕の目の前に座り、名前や住所といったプロフィールを尋ねた。両親はどうしたのかと訊かれたので、両親は仕事に行っていて、自分は今日学校が休みで、一人で来た、と答えた。

 そして僕は自分の中にある情報を全て話した。殺されているのは全て、この町に住む「あの人たち」と僕が呼ぶ人々であること。あの人たちというのは、この街を奇抜な衣装で徘徊したりあるいは一地点で独特の行動を繰り返す人たちのことで、僕が把握しているだけでも十数人は存在する。何故彼らが殺されているのかは分からないが、犯人は無差別に殺しているのではなく、彼らだけを狙っている。一人目は横山、二人目は料理おばさん、三人目は軍隊じいさん、四人目はエイリアンじいさん。おそらく犯人は月光仮面と自称する男で、一年前の雨のあとにこの町に現れた。僕も一度しか会ったことはなく、その後姿は見かけていない。本名も分からない。

 警官二人は僕の話をじっと聞いていた。一人は若くせいぜい20代後半で、もう一人は腹の出て禿げ上がった中年だった。二人とも、表情から感情が読めなかった。それは普段からそうなのか、僕の話が荒唐無稽すぎてそうなっているのか僕には分からなかった。

 いつこのことに気が付きましたか、と若い警官が聞くので、ついさっきだと僕は答えた。

 そして彼は、どうして月光仮面という男が犯人だと思ったのですか、と尋ねた。

「彼が、正義の味方は一人でいい、と言ったからです」

 僕はそう答えた。重ねて彼はその言葉の意味を尋ねてきたが、僕にはそれは説明できなかった。僕の想像の中ではそれは明確な殺人の意志そのものであったわけだが、言葉の意味としては要するに彼が何らかの排他的で不寛容な信念を持っている証明であること以外には、何も分からない。だから僕は別の言葉を付け加えた。

「あいつは『悪に天誅を下す』と言っていました」

 僕が当初に予期していたよりも、警官二人の僕への聴取は熱心だった。門前払いされてもおかしくないと思っていた僕にはそれが驚きだった。僕は、僕に限らず中学生の時分にありがちなことだが、公職を生業にする人々とその組織に対してあまり信頼感を覚えていなかったし、何より自分の頭がおかしくなって、ありもしない事実をでっち上げているだけなのではないかという自分自身への疑念に囚われていたのだ。警察署にやってきたのはほとんど自暴自棄であり、また誠二がそうしろと言ったからというだけだった。

 だが考えてみれば、四人が共通してあの人たちであることは、僕が敢えて言い張るまでもないことだった。周囲に住む住民に聞き込みをすればそれが事実であることはすぐに分かる。おそらく警察にも既に断片的に情報は集まっており、間もなくその事実にはたどり着いただろう。

 彼らが何より注目したのは、僕が殺された四人全員のことを既に知っている、という事実だった。つまりそれは、これから殺される可能性があるのが誰なのかをも知っているということだったからだ。

「君の言うあの人たちのことを教えてください。他に誰がいるのですか?」

 僕は頷いて、答えようとしたところで、その説明が厄介であることに気が付いた。

 僕は彼らのことを、その行動や習性については知っていても、それ以外のことは何も知らなかった。

 彼らの名前も住所も顔写真も、僕は何一つ知らないし持っていないのだ。そして彼らがどこかに閉じこもってしまってからもう一年数か月が経っている。今もまだ彼らが真中市に住んでいるのかどうかすら僕には分からなかった。

 それでも僕は記憶の中から、一人一人のあの人たちについて語った。彼らそれぞれの行動様式、出没した場所、目撃した時間帯、身にまとっていた衣装の傾向を。

 それには長い時間がかかった。警官二人はボイスレコーダーとメモを使って僕の言葉を聞き取り続けた。僕の目には、熱心にそうしているように見えた。彼らはおそらくきっとこの情報を捜査本部に伝え、それは今後の捜査に多少の影響を及ぼすだろう。どこまでのシリアスさで伝わるかは僕には想像もつかなかったが、他に何も明らかになっていない以上、事実を完全に無視することなど出来はしない。

 長い時間連続で話し過ぎて、僕が声を掠れさせながら喋り続けていると、警官がお茶を出してくれた。

 そのお茶を飲み干して、話を続けようとした時、僕は唐突に言葉に詰まった。

「どうしましたか」と警官が尋ねた。

「あの人たちのことだけじゃなく、犯人の話をしてもいいですか。月光仮面のことを」

 二人の刑事は顔を見合わせ、腹の出た中年の刑事の方が言った。

「いいえ、結構です。そのお話はもう分かりましたから」

「でもまだほとんど説明できてません」

「大丈夫です。捜査上の秘匿事項ですから詳しくは申し上げられませんが、犯人については我々の方で捜査が進んでいますから」

 そして彼は僕に、あの人たちのことについて話し続けるように促した。

 そんなはずはない、と僕は思った。だが、よく考えてみれば、月光仮面のことを話そうとしたところで、僕が彼について語れることはほとんどなかった。一度しか会ったことがないのだ。さっき彼らに伝えたことが全てだ。僕は止むを得ず頷いて、話を再開した。

 だが、既に僕はどこか上の空だった。口は勝手に動き続けたが、自分の意志とはほとんど関係が無かった。僕の意識は立ち止まってしまっていた。何かに引っ掛かって動かず、自分で自分を呼んでいた。振り返って見てみると、そこにあるのは疑念だった。それは空になった湯呑の中から突然現れ、抑えることができなかった。自分の意識が自分から遠ざかり、喋っている僕を背後から見ていた。

 犯人は捕まらないのではないか、と僕は思った。

 今ここで、僕がどれだけ話しても。

 彼らは殺されるかもしれない人については心底熱心に聴いているように見える。しかし、それは僕が本当に話したいことではない。彼らは、もっと重要な、犯人については全く聞こうとしていない。あの人たちの年齢や顔形、話した言葉や交友関係について細かく尋ねても、冒頭以後、彼らが犯人について僕に追求する気配はない。

「のび太おじさん」の容姿や言った言葉について話しながら、どうしてなのか、僕は考え続けた。彼らはどうして「月光仮面」について興味を示さないのか。彼らは月光仮面という人物の存在を、僕から聞いて初めて知ったようだった。なのに何故気にならないのか。結局、僕の言い分は推理にもなっていない出鱈目で、人を納得させられるような論理性は皆無だったのだから、彼らが無視するのも当然なのかもしれなかった。だがそれだけではない気がした。何かが変だった。この違和感は何なのだろう。

「変ですね」と若い警官が言った。

 僕は話を止め、目線を上げて警官を見た。

「何がだ」と中年の方が訊いた。

「聞き込みで街を回った時には、出てこなかった話ばかりだ」

「誰もそんなもんに関係があると思ってなかったんだから仕方ない」

「そうなんですけど、確かにこんな人たちが以前この街には結構いて、でも私もそんな人たちのことはすっかり忘れてたんですよ。言われてみて思い出したんです。それが変だなって」

 そしてまた僕の話を催促した。僕が話を再開すると、私もだんだん思い出してきた、と若い警官は言った。

「知ってますか、のび太おじさん」と僕は訊いた。

「知ってるよ。すげえ短い半ズボン履いてて、すね毛濃すぎで。でも見た目は面白いけど、ヤバそうでお近づきにはなりなくなかったね。君よく話しかけたなって感心するよ」

 そう言って彼は笑い、僕も微笑んだ。

 僕は話を続けた。

 頭の中で、口の動きとは全く別の思考が、かちりと音を立てて嵌まった。

 そうか、と気付いた。

 当たり前だ。

 変に決まっているし、違和感があるのは、当たり前だった。

 最初から話がずれていたのだった。

 あの人たちがこの街にいたことは多かれ少なかれ皆が知っている。僕は月光仮面のことを話した。彼らは月光仮面のことを知らなかった。それ自体がおかしい。僕しか月光仮面のことを知らないのは、どう考えても変だ。

 疑問が腑に落ち、更なる疑問になって跳ね返ってきた。

 何故僕しか彼のことを知らないのだろう。

 つまりそれは、彼について警察に一件の目撃情報も入っていなかった、ということだ。彼らは彼らが言うとおり、僕がかつて別の目的のためにそうしたように、事件の解決のためにこの街中を走り回って手がかりを探しただろう。彼らは彼らのやり方で、この街の全てを知り尽くしたと思っていることだろう。しかしその捜査の間に彼らが月光仮面に出会うことはなかったのだ。彼らは興味を示さないのではなく、示すことができないのではないか。月光仮面の存在は誰にも知られていない。彼らにとってそんな人物は存在するはずが無い。存在の可能性がゼロのものに対して興味を持つ者などいない。だからひょっとしたらこの僕の証言だけは捜査本部に伝わらないかもしれない。それは何の証拠もない、誰にも確認されていない情報だから、他人の目には狂気としか映らない。真実の中に狂気が混ざっていたら、真実の真実性が侵されてしまう。だから彼らは伝えないのではないか。少なくともそこに深刻さは伴わないのではないか。それが僕の最も伝えたいことだというのに。

 僕の頭の中からその疑惑が離れなかった。

 彼らには何も分からない。

 犯人は月光仮面だ、と僕は言った。そして今もそう思っている。でもそれだけは、殺された人々や殺されていく人々とは違って、根拠が何もない。僕の記憶と直感の中にしか存在しない。誰か僕以外に彼を見たものがいれば、と僕は思った。僕以外に誰かたった一人でも月光仮面に出逢っていれば、きっと全てが明らかになるのに、と。僕の頭から離れないのはあの噂のことだ。「日光仮面に殺されるぞ」というあの言葉が本当に噂として流通しているとして、学校に行って誰かに尋ねれば、僕と同じように、日光仮面によく似た別の者を誰かが目撃しているのだろうか。僕はまだ何も確認できていない。だが既に僕にはどうしてもそうは思えなかった。いつもそうだ。噂の情報源が明らかになったことなど、これまで一度もない。そこにたどり着くことは、日光川に潜って犯人の遺留品を探す作業に等しく困難なのではないかと思った。話せば話すほど、僕の中だけで恐怖が増殖していき、それが決して外には出て行くことのできない分厚い壁に阻まれているのを感じる。

 何故自分の中ではこんなにもリアリティがあることが、言葉になって少しでも外に出ると一瞬で無価値な妄想になってしまうのだろう。何もかもが馬鹿げていて、一瞬後には全てつまらない冗談になってしまうように思えてならなかった。

 サタンの爪の前には公権力など無力だ、というかつてどこかで聞いた言葉が僕の頭の中に響き、何度も跳ね返った。僕はそれでも一つ一つ事実を話し続けた。




 家に帰ったころには既に夕方になりかけていた。僕は話し疲れてリビングのソファに深く腰掛けて、頭を後ろに倒した。外では冷たい風が吹き続けていて、僕の喉は猛烈に渇いていた。何度か深呼吸した後、体を起こして、キッチンでグラスに水を注いで飲み干した。

 電話が鳴った。

 僕は口元を手の甲で拭って、受話器を取り上げた。

〈もしもし、裕司か?〉

 健一の声だった。僕の顔は自然にほころび、ああ、と言った。

〈話が聞きたくて電話したんだ。事件のこと。お前は大丈夫か〉

 ああ、と僕は言った。

〈お前も気が付いてるんだろ。殺されたのはみんな『あの人たち』だ〉

 僕は頷いた。百キロ以上離れた場所から聞こえてくる健一の言葉が、僕の耳に沁みた。もし妄想だったとしても、それを見ているのが僕だけではないと分かって。

「さっき警察に話してきたよ」と僕は言った。

〈警察は何て言ってた?〉

「ご協力感謝しますって。僕は、まだ事件は続くに違いないって言った」

〈信じると思うか?〉

「分からない」

〈裕司、お前誰が犯人なのか知ってるのか?〉

 月光仮面だ、と僕は答えた。彼はあの雨の後にこの町に現れた。前から潜んでいたのかもしれないが、僕の前には雨の後に現れた。日光仮面と同じ格好をして、僕たちの秘密基地があった場所に現れたが、今は姿を隠していて、僕以外にはこの町の誰に知られているのかも分からない、と僕は話した。

〈それは誰だ? 中身は誰だ?〉

「分からない」と僕は答えた。

 どれだけ考えても分からなかった。分かるわけがないのだ。彼らの行動規範の第一条には「正体を明かすべからず」と太い大文字で書いてある。月光仮面は日光仮面がそうであったように、誰でもない誰かなのだ。

 中身はきっと、ただの親父だ。明かされたところで誰もががっかりし、納得も感動もない。理屈も同情もない、ただの殺人鬼だ。僕は自分にそう言い聞かせた。

〈なあ裕司、お前大丈夫か?〉

「大丈夫だよ、さっきもそう言ったろ」

〈声が疲れ切ってる〉

「警察署で何時間もぶっ続けで喋ったからな」

〈それだけじゃないだろ。夏は大丈夫か?〉

「夏?」

〈まだ家で絵を描いてるのか?〉

 僕は答えようとして、口を開いたまま、その瞬間に何も言えなくなった。

 僕は息を飲み、受話器を握って立ち尽くした。

 それは完璧に突然だった。予感も前兆もなかった。いきなり空から飛来した隕石のような気付きが巨大な鉄槌となって僕の後頭部を殴りつけた。頭の中が一瞬でホワイトアウトして、その衝撃だけになった。それは実際は唐突な知らせでも何でもなかった。既に僕の中にあり、僕が認識するのは遅すぎた。僕は警察に行って証言をするような暇があれば、先にそれに気が付くべきだった。

 それは後にも先にも、僕の人生において最も恐ろしい気付きだった。足元のすぐ傍に、奈落の底まで通じる巨大な穴が開いていた。

 夏が殺される。

〈もしもし? 裕司。夏はどうしてる?〉

 健一の声がよく聞こえない。彼は、自分の言葉が落雷となって僕の頭を殴りつけたのに気が付いていなかった。僕は必死に呼吸を整えて、夏は大丈夫だ、と言った。

「夏は大丈夫だ。今から会いに行く」

 真中市に住むあの人たちが殺されていく。夏はあの人たちになった。

 つまり、夏は殺される。

 一度認識してしまうと、なぜ今までそれに思い当たらなかったのかが理解できないほど単純で明確な論理的帰結だった。

〈まだ絵を描いてるのか?〉

 健一はもう一度僕にそう尋ねた。

 僕はゆっくりと何度も首を横に振った。そして、ああ、と答えた。

「昨日も今日も描いてる。たぶん明日も」




 夏はもう絵を描いてはいなかった。それどころか家にもいなかった。夏の母は相変わらず彼女の行方を知らず、僕は昨日と全く同じように、また夏を探して自転車で町中を走り回ることになった。僕が行く場所はいつもと同じで、彼女がどこにいるのか分からないのも同じだ。全てが既視感に包まれていて、それだけでも僕の頭はおかしくなりそうだった。一年以上経っても全く前進せずに同じことを繰り返している。

 だが、僕の全身を覆う恐怖は、昨日の比ではなかった。昨日までは破滅の可能性は1パーセントだと思っていた。今はそれが100パーセントに変わってしまったのだ。なんとしても今すぐに彼女を見つけなければならないのだと思うと、恐怖を通り越して吐き気がした。

 だが僕は昨日のように彼女を見つけ出すことができなかった。完全に町が夜の闇に包まれ、星の光が僕の全身に降り注いで、自転車のハンドルを握りしめる僕の両手からは感覚が失われていった。たこ焼き屋の前はもちろん、他のどの場所にも夏はいなかった。僕は探す途中で既に門の閉じた学校や、神社の本殿に忍び込みさえした。

 喉が渇いてたまらなかったが、戻ったり立ち止まったりするわけにはいかなかった。そうした瞬間に、今はまだどちらでもない事実が悪い方に確定してしまうような気がしたからだ。僕は意味もなく左手首の腕時計で何度も時刻を確かめた。破滅のタイムリミットを過ぎているのかいないのか、僕には時間を見たところで全く分からなかったが、時間の経過を確認するという行為自体が、同じところをぐるぐる回っているだけではないという証明として必要だった。

 僕は声を上げてもいなかったし、泣いてもいなかった。無言で、冷たい風が吹きつける暗い道を走り続けた。一切の感情とか感覚とかは真っ黒に染まって、具体的な形をとることがなかった。眼だけがぎょろぎょろと動き続けていて、そこに映るものを脳に投射し続けた。そしてその全てが、一瞬にして濾過されて後方に消えて行った。何もかも今の僕には必要のないものばかりだった。

 ある時僕の背後から車のハイビームが照らされ、直後に、そこの君止まりなさい、とマイクで拡声された声が聞こえた。僕はそれを無視して走り続けた。聞こえなかったのでも敢えて逆らったのでもなく、僕に対して言っていると思わなかったからだ。

 車が加速して僕の隣に並走すると、それがパトカーだと分かった。助手席の窓が開いて、止まりなさい中原裕司君、と警官が僕に声を掛けた。

 僕はブレーキに手を掛けた。

 パトカーから降りてきた警官は、僕の両親が僕を探していることを告げ、今すぐ家に帰るように言った。

 僕は首を横に振って、帰れないんです、と言った。

「まだ帰れない」

 何をどうすれば帰れるのかを口にしてしまうと、感情が決壊してしまう気がして、僕はただ、帰れない、とだけ言った。

 ご両親も友達も心配しているからとにかく一度帰りなさい、と警官は言った。

 僕には友達はいません、と僕は言った。「今ここには」

 でも君のうちにいるぞ、と警官は言った。

 僕はその言葉の意味が分からなくて、警官の顔をただ見返した。腕時計を見ると、時刻は既に夜の十一時を回っていた。

 自分の中で何の判断も付かないまま、警官に促され、僕は自転車を自宅に向けて走らせた。パトカーが僕に並走し、道の先を照らしていた。その光をぼんやりと見つめながら自転車をこぎ、頭の中はほとんど空っぽだった。ともし火に導かれる幽霊のようだった。

 家に辿りつくと、僕の両親とともに、夏はそこにいた。彼女は玄関の前に腰かけていて、僕が近づくと立ち上がった。

 玄関の明かりに背後から照らされた彼女のシルエットを、僕は目を細めて見つめた。

 何故こんなところに夏がいるのだろう、と僕は思った。彼女がここにいる理由なんか、一つもないはずなのに。

「どうして」と僕は言った。

 そう言って、その後は声が続かなかった。

 彼女の顔とその表情は、僕には全く見えなかった。彼女まであと数歩のところまで近づいた時、僕の目から涙がぼろぼろと零れ落ちて、何も見えなくなったからだ。僕は暗闇の中で彼女を抱き寄せて、肩に顔を埋めて泣いた。どうしてもその感情を抑えられなかった。その時、僕も、夏も、僕の両親も、誰も何も言えなかった。

 僕が夏を離さなかったので、その結果、彼女は僕の部屋に泊まることになった。両親が諦めて夏の家に電話をして、夏ちゃんを今夜家に泊めても良いですか、明日必ずお送りしますので、と話した。会話は僕の耳には聞こえなかったが、夏の母はあっさり了承したようだった。

 僕は彼女が僕のベッドで眠ったのを確認して、自分は隣に敷いた布団の上に座り込んだ。体はくたくたに疲れ切っていたが、全身の神経と細胞がざわついて、まるで眠る気がしなかった。僕は真っ暗な部屋の中で、何度も目を閉じたり開いたりを繰り返した。そうするうちに少しずつ、僕の体の中の振動は収まって行き、やがて、完全な鏡面のように静まり返った。

 僕はそのままじっと、身じろぎもせずに考えた。

 鏡のような自分の心のすぐ下で、記憶が凄まじい渦を巻いていた。

 あの雨の日から、今夜に至るまで起こったことが思い起こされ、自分の体の中に、一つの大きな流れがあるのを感じた。暗闇の中で彼女の寝顔を長いこと見つめていて、そうしているうちに自分の中で決意とか覚悟とか名づけられるものが定まるのを感じた。もう三月を待つまでもなく、何もかもがはっきりし、既に全て決まったと僕は思った。自分がやらなければならないことが分かった。

 そして、僕はもう悪夢を見ることはないだろう、と思った。現実で起こるかもしれないこと、果たせないかもしれないことが悪夢になるのだとすれば、僕はこれから、その全てを消してしまうからだ。

 俺が殺す。

 体の中にその言葉が響き、細胞全体に行き渡った。重さも苦みもなく、しっくりとくる手ごたえがあった。外からやって来たものではなく、僕の体の中から生まれた。

 俺が月光仮面を殺す。

 僕はそう決めて、目を閉じた。

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