第四章 雨の後(6)

 朝、起きてすぐにポストから新聞を取り出すのは僕の役割だったから、手紙が届いているのに気が付いたのも僕だった。僕はそれを手に取り、書かれた住所と名前に目を奪われた。一瞬で眼が覚めた。何の変哲もない、ごく普通の茶封筒に普通の切手が貼られ普通のサインペンで宛名が書かれた手紙だったが、だからこそ僕は息を飲んだ。

 封筒に書かれた宛名は僕の名であり、裏面に書かれた差出人は間違いなくあの西島誠二だった。最後に彼の直筆を見たのは一年以上前で、その時のものとは筆圧や文字のバランスなどが少しずつ違ったが、確かに彼の筆跡だった。

手が震えた。

 僕は胸元に手紙を差し込み、玄関のシューズラックの上に新聞を置くと、すぐに二階の自分の部屋に上がって、カバンの中に手紙をしまい込んだ。そして急いで顔を洗い、朝食を摂り、学生服に着替えると、始業の1時間以上前に家を出た。

普段の通学ルートを離れ、まだ人気のない中古車ディーラーの裏手の道で自転車を停め、カバンから手紙を取り出して読んだ。


「裕司へ


 電話だとうまく話せないから手紙を書く。

 人が二人も死んだがもっと死ぬかもしれない。

 お前たちが心配だ。

 お前の言うとおり事件が起きてるのは変だ。

 しかし現実に起きてるのだから変じゃない。

 いきなり始まることなんかない。

 ずっと前から始まってる。

 横山とかいうやつは犯人を知ってたはずだ。

 あいつには金も地位も何もない。

 だから殺された理由としてはそれが一番自然だ。

 料理おばさんもそうだ。何もない。

 だから犯人は日光仮面かもしれなかった。

 しかし日光仮面が殺すのは変だ。

 最初から日光仮面の身元は警察に知られてる。

 ずっと昔からだ。

 これまで何度も警察に捕まった時に確認されたはずだ。

 日光仮面が殺したならすぐに容疑者になって捕まる。

 日光仮面のはずはないから変なんだ。

 犯人は日光仮面じゃない誰かだ。

 他に横山が知っているやつがいないか?

 お前が考えた方がいいのか考えない方がいいのか分からない。

 お前に関係なくもうすぐ解決するかもしれないから。

 でもお前に伝えたかった。

 日光仮面が犯人じゃないぞ。

 だから安心しろ。

 でも別にいる。

 前から町に住んでる誰かだ。

 この手紙の返事は書くな。

 すぐに焼いて捨てろ。

 犯人が分かったら警察に知らせろ。」


 読み終わると、僕は周囲に誰もいないことを確認してもう一度最初から最後まで読み、手紙を折りたたんでカバンの奥深くに突っ込んだ。

 自転車にまたがって、中学校に向かって走っていくと、気が付かないうちに、僕の目に涙が滲んでいた。

 間違いなく誠二の手紙だった。彼らしくない文章の飛躍や字の崩れはあっても、張り詰め過ぎていて性急な余裕のない文章ではあっても、間違いなく、論理的で冷静で、最後にはいつも僕を思いやる言葉は、誠二のものだった。手紙に書かれた内容のほとんどは不吉で重苦しいテーマだったのだが、その意味を咀嚼する前に、ただ彼が回復しつつあることを喜ぶ感情が僕の中で溢れ返った。とても短い、ほとんどただ一つの用件だけの手紙だったが、彼がとても長い時間を掛け、何度も書き直してこれを書き上げたであろうことが僕には手に取るように分かった。指で文字に触れると彼の感情が伝わってきそうな気がした。手紙には、すぐに焼いて捨てろ、とあったが、僕にはそんなことはできなかった。もう少しだけ待ってくれ、と頭の中で誠二に返事した。もう一度だけ、家に帰ってもう一度だけ読んだらそうするから、と。

 頭の中で何度も手紙に書かれた文章が繰り返され、学校にたどり着いて深呼吸して息を整えた頃に、ようやく言葉の意味が身の内に染み込んで、それについて考えることができるようになった。

 だからその日は久しぶりに全く授業に集中できなかった。僕は誠二の言葉について考え続けていて、ノートに言葉にならない文字をうねうねと書き連ねていた。

 日光仮面が犯人じゃないから安心しろ、と誠二は書いていた。

 何故いつも、この男は俺の気持ちが分かるのだろう、と思った。それこそまさに、僕が誰かに告げてもらうことを求めていた言葉だった。僕が押し隠し、夏が不吉に思い描いた想像をくぐりぬけて生き残る言葉だった。誠二の言う通りだと思った。日光仮面の正体が未だに謎であるのは僕らにとってだけで、過去何度も交番にしょっぴかれた日光仮面は、住所不定無職無名で押し通せたはずはなく、警察にはとっくにその正体を明かしていたに決まっているのだ。かつて流布した、横山とその父と日光仮面の噂は誰もが知っていた。警察も知らないわけがない。だから今も日光仮面が生きていれば、既に容疑者になって捕まっているか、参考人として召喚されている。

 僕は深いため息をついた。

 日光仮面は死んだのだ、と僕は思った。それは論理としての理解と、感覚としての理解の両方だった。僕と彼が最後に交わした妙な約束によれば、彼はあの雨の日に死んだのであり、僕の心の奥底はあの時既にそれを事実として受け止めていた。しかし日光仮面の本名を知らない僕は、雨の後にこの街で見つかった死体の中に彼がいたのかどうか分からず、その死に現実的な根拠を与えられなかった。そして街に原因不明な忌まわしい事件が起こり、解決の兆しも見えないことが、僕の中に彼の影を留まらせ、僕たちの約束を行き場もなく孤立させていたのだ。僕は、あの雨によるこの街の数十人の死亡者たちの名前の中に、日光仮面の本名が埋もれていることを確信した。

悲しくはなかった。ただ、僕の体の中で、日光仮面のイメージが魂のような漠然とした塊に変化して消えていくような感覚がした。

 誠二は手紙に書いていた。犯人は日光仮面じゃない誰かだ、他に横山が知っているやつがいないか? 

誠二も分からないと書いていたが、僕も、自分が引き続き考えを推し進め、それを探求するべきなのかどうか分からなかった。まだ分からない。むしろ、漠然とした言葉にならない妄想がかき消され、これで僕と殺人事件との距離は遠ざかったのだ。横山についても料理おばさんについても、僕は彼らのことをそのほんの一部しか知らない。彼らが共通して知っている誰かがいて、その誰かが彼らを殺したのだとしても、僕にその誰かが確定できるはずもなく、想像力の中であまねく誰かが殺人犯になり得る状況に今も変わりはない。僕にとってこの事件は、真中市で生活する他の六万五千人の人々と何ら変わりがない、謎と不安を抱くだけの対象に戻ったのだ。

 それに、僕の胸は一人の人間の死で一杯になっていて、それを受け止める以外に体の機能を使うことができなかった。雨の後、数多くの人が死んだというのに、その死が実感として僕の胸を満たすのはこれが初めてだった。

 日光仮面は死んだ。今この瞬間、それだけでたくさんだった。




 秋にしては寒い日で、冬と呼ぶにはまだ風に容赦があるその日、僕は放課後に担任教師と進路相談をしていた。

 県外の高校に進む予定があるのはクラスで僕だけだった。概ねの方針は両親との三者面談で共有済みだったのだが、入学願書や調査書などの細々とした書類の申請や準備については少々面倒で、個別に随時行わねばならず、その段取りを確認したのだった。

 一見、僕は教師のレクチャーにひたむきに頷いていたが、我ながらそこには真剣味が無かった。進む高校が決まろうとしているということは、僕の退路は刻一刻と断たれようとしているということだったが、進学先などいざとなればどうとでもなると思い、決定的な瞬間までは両親と担任の言うとおりにただ頷いていればよいと思っていたのだ。

 その日何度目か「分かりました」と言った時、担任が僕の目をじっと見つめて言った。

「中原、お前本当はどうしたいんだ?」

 僕は担任の目を見返した。真剣な眼だった。

「本当にこの高校に行きたいのか? それとも別にやりたいことがあるのか?」

 僕は答えに窮した。

 何故担任が僕にそんなことを聞くのか、正確な意図は分からなかったが、僕の迷いか、あるいはいい加減さが伝わったのには違いない。

 彼は真面目な教師で、僕に真面目に訊ねていた。だから正直に答えたかったが、全てを話すことはできない。

「自分でも分かりません。この高校がいい高校なのか悪い高校なのか、まだ見たことが無いので、分からないですから。でも、どっちにしてもあまりこだわりは無いんです」

 そうか、と教師は言った。顎に指を当て、僕が言った言葉の意味を考える風だった。

「どんな道を選ぶのもいいけど、よく考えた方がいい。よく考えておけば、後悔が少ない。お前には、後悔してほしくない」

 僕は頷いて、ありがとうございますと言って立ち去った。

既に日が傾いていて、廊下はほとんど静寂に包まれていた。木々を揺らす風の音と、遠くからカラスの鳴き声が聞こえる。

僕はぼんやりと進学先について考えた。両親の計画通り県外に進むにしても、この街にとどまるにしても、どちらの道にもまだ現実感が無かった。どちらにしても今の生活とは大きく変わる。習慣が変わってしまうことに対する現実感が無いのだ。

下足ロッカーで上履きからナイキのスニーカーに履きかえようとした時、少し隔たった場所から聞こえてくる男子生徒たちの会話の中の一言が、僕を振り向かせた。

「日光仮面に殺されるぞ」

 それは笑い声の中に混ざってすぐに消えて行った。

 僕はスニーカーを二本の指にぶら下げたまま立ち尽くし、その笑い声が遠ざかっていくのに耳を澄ました。おそらくほんの数秒間のことだったが、僕の足はその場に釘づけにされた。

 辺りが完全な静寂に包まれた時、僕は我に返った。スニーカーをロッカーに入れ直し、校内に戻った。廊下の左右を見渡したが、そこには既に談笑していた生徒たちはもちろん、他の誰の姿もなかった。

 誰かが通りかからないかと、僕はしばらく廊下に留まった。誰でもいいから、今僕が確かに聴いたはずの一言について真意を問いただすつもりで。だが待つうちに、最初に現れたのは教師だった。眼鏡をかけた額の広い数学の教師で、彼は僕の姿を認めると、どうしたんだ中原、と声をかけた。

 教師に訊くわけにはいかない、と僕は反射的に思い、今帰るところです、と応えた。

「気を付けて帰れよ」

 僕は頷いて下足ロッカーに向かった。スニーカーを履き、校門まで歩いて行く途中、周囲を見まわして誰でもよい誰かの姿を探したが、生徒の姿は何故かどこにも一人も見つからなかった。学校全体がまるで廃墟のような静寂に包まれ、コンクリートの壁は影の色が濃すぎる夕闇を纏おうとしていた。僕は自転車のペダルをこぎながら、自分の頭の中に巨大なクエスチョンマークが点灯しているのを自覚した。

 どうして日光仮面に殺されるんだ? 

 僕の幻聴だったとしてもおかしくないほど一瞬だけ聞こえたさっきの言葉が、どういう筋道からやってきたものなのか、僕には全く分からなかった。だが、それが明らかに何らかの物語的文脈を伴っていて、しかも会話の中にごく自然に登場していたことは分かった。ということは、それは複数の誰かに予め共有された情報だ。僕にとって全く唐突であっただけで、僕以外のこの学校の生徒たち全員にとって周知の事実にすぎない、そういったニュアンスさえ感じた。まるで、昨夜のテレビ番組で、日光仮面が誰かを殺してしまうドラマなりコントなりが放送されでもしていたような、軽い響きだった。

 毎朝、新聞だけは必ず一通り読んでいたから、それが公になった事実であるということはあり得なかった。噂だ。以前、根も葉もなく断続的に蔓延ったものと同じように、今、日光仮面が生きていて、誰かを殺しているという噂が流通しているのだ。

 それはあり得ないことだ、と僕は考えた。日光仮面は死んだのだ。あの雨の夜の中で、彼はその力を使い果たして消え去った。彼自身がそう言ったからというだけなく、論理的に僕はそう考えた。誠二の手紙だけが理由ではない。そうでなければ夏を探してあれほどこの街を走り回ったあの時に、僕が彼に再会しなかったはずはないのだ。

 唯一いたのは「月光仮面」とかいう彼の紛いものだけだ。その月光仮面にも、一度出くわしたきりでその後の消息は知れない。皆ひょっとして、あの偽者が日光仮面だと勘違いしているんじゃないだろうか、と僕は考えた。そうに違いない。本当のことを知る者はどこにもいない。皆好き勝手に、情報の断片をつなぎ合わせて、想像力でその空白を無理やり埋めて、戯れているだけだ。

 目の前の信号が赤になり、僕は自転車にブレーキを掛けた。太陽が西の山の向こうに隠れ、一分ごとに辺りを覆う暗闇の幕が一枚一枚増えてゆく。フロントライトを点けた一台の車が僕の目の前を横切って行った。車の窓ガラスに僕の顔が一瞬写り、その瞬間、全身に鳥肌が立った。

 関係ない。

 最初にその一言が僕の頭の中にやってきた。僕は自分に向かって首を横に振った。何度も首を横に振り、何が関係ないのかと、自分自身に尋ねた。

 あの偽物が日光仮面だろうと月光仮面だろうと関係ない。

 あの偽者が日光仮面だったとしても月光仮面だったとしても、蔓延る噂には何の関係もない。

 俺は馬鹿だ、と僕は思った。

 誠二が言っていたじゃないか。犯人は日光仮面かもしれなかった。しかし日光仮面のはずはない。犯人は日光仮面じゃない誰かだ。横山が知っている誰かだ。

 誠二には見当が付いていた。しかしこの街に住んでいない彼には具体的にそれが誰なのかまでは分からなかった。だから僕に手紙を書いたのだ。僕にならそれが分かるかもしれないと思って。

 俺はどうして考えもしなかったんだろう。

 日光仮面じゃない誰か。

 誰かを殺すのに、偽者も本者もない。勘違いかどうかなど関係ない。あれが月光仮面だろうと日光仮面だろうと、見たままは日光仮面そのものだった。みんなが話している日光仮面が、もし本当は月光仮面のことだったとしても、話に、噂に、矛盾は一切発生しない。横山もそうだ。最初から、横山が日光仮面と月光仮面を取り違えていなかったと、どうして断言できる? 月光仮面は、僕が知らないうちに、あの雨の前からこの街に棲んでいたのかもしれない。そして、横山にとっての日光仮面は、実は最初から月光仮面だったのかもしれない。日光仮面はいなくなった。代わりに日光仮面そっくりの月光仮面が現れた。日光仮面に殺される。もしこれらがすべて正しい情報だとしたら、つまり、あの男が、月光仮面が殺人犯だ。

 腹の底が冷えるような感覚がして、僕は深呼吸した。両手をこすり合わせて、息を吹きかけた。信号が青になり、僕は再びペダルをこぎ始める。動悸が猛烈に早い。それに気がつくと、馬鹿馬鹿しい、と僕は自分の心臓に向かって語りかけた。いつもの僕の悪い癖だ。たったの一言だけで、ほんの僅かな兆しだけで、確かかどうかも分からないものを、一度に拡大解釈して全部の事実に転用させようとするのだ。馬鹿げている。仮定に仮定を積み重ねた幼稚な憶測でしかない。大体、月光仮面とかいう男が殺人を犯さなければならない理由が全く分からない。するべきことは明日学校で、あの一言が本当に噂となって流通しているかどうかを確認し、そしてその源を探ることだ。

 僕はそう考えながら、夏の家にたどり着いた。明日確認すればいい、そう自分に言い聞かせていたのに僕の頭の中はまるでもやもやとしたままで、インターホンに呼ばれて出てきた夏の母の言葉が最初、全く耳に入らなかった。

「夏は出かけてるわ」

 頷きかけて、言葉の意味が分からなかった僕が訊き返すと、夏は出かけてるわ、と夏の母は繰り返した。

どこへ出かけているのか、と僕が訊くと、夏の母は首を横に振って、分からない、と言った。

「分からないってどういうことですか」

「いつもそうだったじゃない。あの子が行くところが分からないのは」

「でもこんなに暗くて寒いのに」

「でも、久しぶりに外に出たのよ、あの子が」

 僕は首を横に振った。僕は唖然としていたと思う。そういう問題じゃない。そんなことは、よりによって今日である必要は全くない。この、真夜中よりも暗い夕暮れに外に出ていく必要は、誰が何と言おうとこれっぽっちもない。

 僕は夏の母の顔を覗き込んだ。何も感じないのだろうか、と思って。今この街を包んでいる、誰にも説明も解決もできない空気を感じないのだろうか? そんな中に娘が一人で出かけているのに何も感じないのだろうか? だが彼女の表情はまるで、夏にそっくりだった。何を考えているのか全く読み取れない、考えることも感じることもずいぶん前から放棄しているような顔だった。そう言えばかなり以前から、夏の母の顔はこんな風になっていた。僕の母の顔とまるっきり逆だが、昔の表情から隔たっているという意味では同じようなものだった。

 探してきます、と僕は言い、踵を返して自転車にまたがった。

 そして僕は学生服姿のままで真中市中を走り回り、僕達が通った幾つものいつもの場所を一つずつ辿った。日光仮面のいた橋の下、川の傍の公園、小学校、既に潰れてしまった駄菓子屋、そして、今はもう誰も住んでいない誠二の家、跡形もない健一の家の跡を。

 だが夏はどこにもいなかった。夏どころか一人の人間の姿さえなかった。呼吸の間隔が自分でも気がつかないうちに少しずつ短くなっていき、僕は彼女の名前を呼んだ。あの凄まじい轟音に包まれた雨の夜と違い、街は静寂に包まれていて、僕の声はそこら中に響いて遠くどこまでも飛んで行くように感じた。しかしどこからも跳ね返って来る気配がしないのは全く同じだった。僕に備わった彼女を探すための道具は目と声と耳しかなく、目に映る街の光景は暗黒のみになりつつあり、どれだけ耳を澄ませても風以外にはせいぜいカラスの鳴き声しかしない。そのため僕はどれだけ反応が無くとも声のボリュームを上げるしかなかった。

 自転車にまたがって、僕は茫然と街中を走り続けた。何時間も走り続け、風はどんどん凍てついていく。夏は既に家に帰っているかもしれない、と思った。だが、もし帰っていなかったら、と思うと僕は戻れなかった。この町には殺人鬼がいて、今夜1パーセントの確率でそいつと夏が出会い、彼女は殺されるかもしれない。その1パーセントは僕が夏を見つければゼロパーセントになるが、見つけられなければ永久に残り続ける。

 自転車の灯火以外に何の明かりもない暗闇の中で、その想像はどんどん膨れ上がっていった。今ここではない、誰もいない道を夏が一人でぽつぽつと歩いている。その彼女に誰かが背後から忍び寄る。そいつは右手に金槌を持っていて、ゆっくりと彼女に近づいていく。足音はまったくしない。男が腕を振り上げ、夏が振り返る間もなく、彼女の体はがっくり崩れ落ちる。

 僕は大声で夏を呼んだ。恐怖が体中に染み渡って、まるで抑えられなかった。昨日までは夢で済んだ。でも今は何もかもが現実に起こるかもしれない。数時間後に目を覚まして胸を撫で下ろすというわけにはいかず、もう二度と取り戻すことができない。目に涙が滲んで、心臓が異様な速度で打ち鳴らされた。時折車が横を走り抜け、高架の上を電車が走って行き、ぽつぽつと民家の明かりは点いている。だが僕は、生きているのが僕だけのように思えてならなかった。全てが凍りついていて、死んでいるか、殺されるのを待っているような気がしてならなかった。

 受け入れるしかない、と健一が僕に言った。どうあがいても現実なのだから受け入れてどうにかするしかない、と。

 僕は今、それは嫌だ、と思った。他の何もかもを受け入れなくてはならなくても、それだけは嫌だ。何もしないまま、何もできないまま、彼女を見つけられないまま帰るのは絶対に嫌だ。

 真中市の神社の入り口前にさしかかったとき、僕は両手のハンドルブレーキを握りしめた。

 鳥居の目の前を通る道を挟んで向かい側に、僕たちが昔何度も通ったたこ焼き屋の明かりが点いている。

 僕は深く息を吐いた。

 店の前のベンチに腰掛けてたこ焼きを突いている夏の前に立った時、僕の顔は汗と頬に滲んだ涙でぐしゃぐしゃになっていた。彼女は頬を膨らませて、はふはふとたこ焼きを食べながら、僕の姿に気がつくと顔を上げた。

「お前、たこ焼き食う金なんて持ってたのか」

 僕がそう呟くと、夏は僕を無表情に見つめたまま、たこ焼きを頬張り続けた。

 僕は夏の隣りに腰かけ、深く背を倒して、ため息をついて空を見上げた。月の周りに星が瞬いている。そのすぐ外側には雲が薄くかかり、僕が呼吸を繰り返すたびに月を避けるように通り過ぎて行った。たこ焼きのソースの甘い匂いが僕の鼻をくすぐり、思い出したように猛烈な空腹感がやってきた。

「一個くれよ」

 僕はそう言って、夏の膝の上に置かれた、発泡スチロールの容器に敷き詰められたたこ焼きを指差した。

 夏は頷いた。

 ありがとう、と僕は言って、指でたこ焼きをつまんで口の中に放り込んだ。星の塊のように熱いそのたこ焼きを、僕は夏と同じように口の端から息を漏らして食べた。全身の水分が口の中の涎に集中するほど旨かった。

 もう一個くれ、と僕が言うと、夏は再び頷いた。

 僕と夏は交互に一つずつたこ焼きを食べて、あっという間に平らげた。食べ終わった後、夏の顔を見ると口の端にソースと青のりが付いていて、僕は彼女の顔に手を伸ばしてそれを指先で拭き取った。

 夏は僕の顔をじっと見返して、僕の顔に手を近づけた。そして僕がしたのと同じように、僕の唇の端をそっと指で撫でた。

 僕は右手で夏の肩を抱き寄せて、髪を撫で、彼女の頭に頬を寄せた。夏は僕にされるがままでじっと動かなかった。夏の髪は凍りつきそうに冷たく、僕は右手でごしごしとこするように彼女の頭を撫でた。空っぽのたこ焼きの容器をまだ抱えている両手も冷え切っていた。僕は容器を受取って脇に置き、彼女の両手を重ねて左手でまとめて握りしめた。

 全ての呼吸が落ち着いた時、背後でたこ焼き屋の明かりが消えた。

 帰ろう、と僕は呟いて、夏の手を取って立ち上がった。片手で自転車を押し、もう片方の手で夏の手を引いて歩いた。

 遠くからサイレンの音が聞こえた。一台ではなく、何台もの音だった。遠くから恐竜が押し寄せてくるような、不吉な響きだった。僕はその音に耳を澄ました。今夜また何かが起こり、また何かが変わるのかもしれなかったが、僕は考えるのを止めた。何も考えずに夏の手を握って歩きたかった。

 



 翌朝のTVニュース、僕はリビングのソファに腰かけて、画面に映し出される情報を食い入るように見つめた。

 それは既視感を覚える、おなじみの殺人事件のニュースだった。僕は昨晩このニュースを既に夢の中で見ていたような気さえした。

 だが、だからこそ僕にとって恐ろしいニュースだった。

 リポーターが深刻な表情で伝えている。昨夜未明、真中市の路上で新たに二人の遺体が発見されました。亡くなった二人はいずれも後頭部を鈍器で強く殴られた形跡があり、二件の殺害現場は互いに一キロほどしか離れていないことから、警察は同一犯の犯行とみて捜査を進めています。

 ニュースは引き続き、真中市で連続している殺人事件を簡単に振り返り、付近の住民へのインタビューを映し出し、日光川を映し、僕の家のすぐ近所の水田を映した。ただごく普通の街を映しているだけなのにもかかわらず、部分的にモザイクのかかった映像全体が、この町は最悪の不幸に見舞われていて、完膚無きまでに呪われているのです、と宣言するかのようだった。

 僕の開いた口はしばらく塞がらなかった。

 二人が同時に殺された。そのことに打ちのめされているのではなかった。ショックではあったが、既に二人が殺され、犯人もその目的も分かっていない以上、そういうことも起こり得るだろうと心のどこかで思っていた。

 しかし新たに死んだ二人がどちらも僕の知っている人間だったというのは完全に予想外だった。

 亡くなった一人は、僕たちが「軍隊じいさん」と呼んでいた老人だった。彼はカーキ色の古臭いぼろぼろの軍服に身を包み、日光川の堤防の上で、背筋を伸ばしてたった一人毎日ひたすら行進を続けていた。彼はかつて僕たちが「どこへ行くんですか」と声を掛けた時、ただ一言、戦争はやめろ、とだけ言った。それ以外のことは、どう話しかけても一切口にしなかった。戦後ほぼ50年が経って未だに軍服を着ていたのだから、おそらく生粋の愛国者で日本軍の完全な復活と大東亜共栄圏の完成を望んでいたのには違いないが、その達成は平和的な手段でなされるべきだと考えていたのだ。いかつい顔をして、全身に緊張感をまとわせてはいたが、誰かを殴ったり怒鳴ったりすることは絶対になかった。その「軍隊じいさん」が殺された。

 そしてもう一人は「エイリアンじいさん」だった。あの、毎日日光川のすぐ傍の公園で、「メニアル星人」を呼び寄せる祈祷を繰り返していた老人だ。彼はいつの日かメニアル星人がやってきて、自分を宇宙に連れ去ってくれることをずっと待ち望んでいた。僕は彼の殉教者じみた表情をよく覚えていた。穏やかで、一つのことをまっすぐに信じきった顔だ。僕たちが彼に出会ったのはもう六年以上も前で、いつまでも事態の進展しない彼との付き合いに飽きて、彼のもとを訪れることは早い段階でなくなってしまった。でも僕は彼のことを忘れたことはなかった。彼が死んだということを、僕はリアルな事象として咀嚼することができなかった。

 二人とも、少なくともあの雨の後には一度も見かけたことはなかった。あの日以来、あの人たちは根こそぎこの町から消えたのだ。皆家に閉じこもったか引っ越してしまったか、どちらだったのか僕には分からない。何故いなくなってしまったのかも、なぜ彼らが殺されたのかも分からない。ほとんど全て分からない。今テレビに映し出されているレポーターやコメンテーターと全く同じように。

 だが僕は、ニュースで伝えられない事実を一つだけ理解した。

 それは、この一連の殺人が、あの人たちを標的にしている、ということだった。

 この期に及んでそれは明らかだった。僕がこれまでそれに気付くことができなかっただけだ。六万五千人の住む町で、そうでなければせいぜい十数人しかいない彼らがたまたまターゲットに連続してなることなど考えられない。理由は全く分からないが、犯人は彼らを狙って殺しているのだ。

 そうしてテレビの画面に目を奪われていたのはほんの数分のことだったが、このままじっとしていたらやがて、キッチンでがしゃがしゃ音を立てて洗い物をしている母の発狂を真正面から受け止めることになるだろうと思った。リビングのソファから立ち上がり、学校へ向かおうとした。だが、上着を羽織った時に電話が鳴った。

 電話は、休校の知らせだった。もちろん事件を受けてのことだ。明日の登校がどうなるかは明朝再び連絡する。母が緊急連絡網でそれを次の家に伝えると、絶対に今日一日家の外に出るな、と言い残して仕事に出て行った。父は仕事に向かう前に、僕の肩に手を置いて、気をつけろ、とだけ言った。

 誰もいなくなった平日の家、僕は自室のベッドの上に仰向けになった。風で窓枠ががたがたと震え、その外は目に突き刺さるような青空が広がっている。胸の中で何かが抑え難くざわついた。事件に対する恐怖も、死者に対する哀悼も、この時僕の胸の内には無かった。ただ疑問とそれに対する試論だけが行き交った。天井を見上げながら、僕の頭の中で、光が明滅して導火線が結線するように、思考がぱちぱちと爆ぜた。

 殺されているのは真中市のあの人たちである。

 二人目に料理おばさんが殺された時、僕には気付きは何もなかった。最初に殺された横山はただの僕の同級生だと思っていた。だから僕は今日までその傾向に気が付かなかった。だがこの連続性は最初に殺された横山もあの人たちだったことを示唆している。僕が認識する暇がなかっただけだ。その萌芽はあの雨の夜に確かに僕も目にした。一度認識してしまえば、見間違いようがない。あの人たちは互いの生活、性別、職業、年齢、その他社会的な身分にも一切共通点はなく、彼ら同士の交友関係も全く存在しないことを、僕はよく知っている。横山も含め、彼らは彼らであるということ以外に共通点は全くないのだ。そんな被害者が四人も偶然して続くのは極めて不自然だ。

 だがその理由が分からない。なぜ彼らを殺さなくてはならないのか。

 もし、彼らが彼らであるという理由だけで殺されているとしたら、あえてあの四人が選ばれたわけではないということなのか。あの人たちであれば誰でも良かったのか。それはつまり、今まで死んだ四人だけで殺人が終わらないということなのか。

 そうだとしたら、僕が気にかかるのは、犯人がどこまであの人たちを「あの人たち」と捉えているのか、だ。「あの人たち」とは、僕とその仲間たちの間だけに定められ流通する、極めてローカルな人種区分のルールであって、僕らの間では厳密に運用されていても、明文化されているものなど何もない。この町には僕の知っている限りでも十数人のあの人たちが残っているが、犯人にとってのあの人たちの定義が僕たちと同じである保証は全くない。彼にとっての殺害対象の定義が、もし、単なる精神薄弱者や人格障害者や、もう少し広い範囲を示すものならば、殺す対象もより多いということになる。それが分からなければ僕は、次に殺されるのが誰なのか正確に把握できない。

 僕は首を横に振った。それは止むを得ない。犯人の頭の中を覗くことなどできないのだから、結局それは諦めるしかない。

 知るべきことと、分かっていることを整理するよう、僕は自分に言い聞かせた。

 僕が分かっていることは、ほんの僅かしかない。

 だが同時に、知るべきことも決して多くはない。

 犯人の動機は、不明。

 犯人の目的は、あの人たち、もしくはそれに類する人たちの殺害。もしそうだとしたら、この殺人はまだ続く。犯人が捕まるまで、あの人たちを全員殺し尽くすまで続く。そう仮定する方が、途中で止めなければならない理由がまだ見つからない以上、現時点でリアルだ。

 犯人は誰か。

 僕はそれを知っている。

 それは月光仮面だ。

 その名前は僕の中にほとんど自動的に現れた。あいつしかいない。それは昨日とは違う確信を伴っている。もう噂を確かめる必要はない。何故なら、殺されているのがあの人たちだと分かったからだ。動機は分からない。彼が何者なのかも分からない。だが彼は確かこう言った。

「正義の味方は月光仮面ただ一人」

 そして、自分が天誅を下す、と言った。この街に「悪」が隠れ潜んでいて、生き延びている、と。月光仮面にとって「悪」とはあの人たちのことだ。あの日から、真中市から姿を消してしまったあの人たちのことだ。僕は横山のことを思い出した。横山は「日光仮面に父親を殺してもらうように頼んだ」と言った。無論それは本当は日光仮面ではなく月光仮面のことだった。横山はあいつを知っていた。だから最初に殺されたのだ。あの人たちになり、且つ、あいつを知っていたから殺された。それで全ての物語が一本に繋がる。

 僕の頭の中で、既にそれは仮定ではなかった。記憶と想像力が僕の体の中に瞬く間に強固な城を作り上げ、怒りが僕の全身に充満して、事実よりももっと強く僕の背中を押す何物かになった。

 僕は立ち上がり、部屋を出た。

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