第四章 雨の後(5)

 僕は横山が殺された時と同じように、朝、テレビニュースでその事件を知った。

 リビングから会話が消えた。暫くして母が、ええっ、と声を上げた。母は何度も、ええっ、とだけ言った。

 僕は無言だった。ただ目を見開いてニュース映像を見つめた。

 殺されたのは四十八歳の女性だった。彼女は生まれも育ちも真中市で、この街から一歩も出たことがなく、日々のほとんどの時間を自宅の軒先で過ごしていた。友達や知り合いは多くはなく、彼女自身口数も少なかったから、彼女の周囲に立ちこめる孤独は壁画のようにその地に固着した。彼女には夫がいたが、子供はいない。いつも同じエプロンを身につけて、風が吹こうが雨が降ろうが雪が降ろうが必ず玄関前の同じ場所にいた。時々野良犬や野良猫が彼女の前を通りかかると、彼女は餌を投げてよこしてやったり、何もせず無視したりした。

 こうしたことは、新聞やテレビで報道されたわけではない。最初にニュースが僕に知らせたのは、彼女の顔と名前、そして彼女が後頭部を鈍器で殴られて死に、神社の裏手の林の中で倒れていた、という情報だけだった。それなのにどうしてそんな彼女のプライベートについて説明できるのかと言えば、僕は彼女の事を前から知っていたからだ。僕だけではない。健一も誠二も夏も同じように、殺された女性のことを知っていた。

 彼女はあの人たちだった。僕達が小学生の時に出会って回った真中市に住む多くのあの人たちの内の一人だ。彼女は僕達に「料理おばさん」と呼ばれていた。その名の由来は至極単純で、彼女がいつも自宅の玄関の前で、燃え盛る薪にくべられてぐつぐつと煮立った鍋を、いつまでもいつまでもかき混ぜていたからだ。断続的に食材がその鍋に投下され、そしてドロドロに溶けてしまうまでかき混ぜる。彼女がその料理を完成させて食べているところも、誰かに食べさせているところも、僕達は見たことがない。僕達は一度だけ鍋の中身を覗き込んだが、僕達が昔、公園の砂場で作った泥の料理にそっくりの姿形だった。それはまるで魔術的な儀式のように見えないこともなかった。

 その「料理おばさん」が殺された。僕はもちろん、真中市に住む誰もが、一年前の殺人事件を思い出した。横山を殺した、あの事件の犯人は相変わらず捕まっていないのだ。直接の死因は二人とも同じであったから、犯人は同一人物であると誰もが考えた。もちろん二件目が模倣犯という可能性もあったのだが、一人が二人を殺すだけでも十分すぎるほど異常なのに、二人も殺人犯がこの街にいるなどということはそれ以上に狂った事態であったから、誰もその可能性については考えなかった。

 殺された二人の人物に共通項がないかと警察もマスコミも探ったが、そういったものは全く見つからなかった。二人には過去に何の関係もなく、共通の知人もなく、年齢や性別も全く違うし、社会的な立場にも全く共通点がなかった。

 殺された理由も、彼らを殺した犯人も、誰にも全く見当がつかなかった。

 この事件によって真中市は瞬く間に一種の恐慌状態に陥った。誰一人授業に集中などできず、休み時間の間は常にその話題で教室全体が埋め尽くされた。僕は無言で、同級生たちが繰り広げる、延々と同じ仮説と噂話が循環する渦の中にいた。テレビのニュースコメントでの一言、週刊誌の記事の切れ端、関係者の噂話。教師もそれを制御することなどできなかった。彼らとて同じように、意味不明な事態の原因が全く分からず、不安に駆られていたのだ。殺された女性があの人たちであることを知っているのは僕だけだったようだが、僕は一言も喋らなかった。

そうした恐慌が起こったのは学校の中だけではなく、街全体だったが、外で起こったのは、学校の中とは全く別の現象だった。それは急速に、空気となって僕の肺に染み込んだ。道という道から人の気配があっという間に減少し、音が遠ざかったのだ。誰もがいそいそと歩いていき、誰の声も聞こえない。一年前の時とは違った。あの時はどこか非現実的な雰囲気が事件全体を覆い、それが日常を生きる人々の生活にまで害を及ぼすものかもしれないという想像力はぼんやりとしか存在しなかった。横山少年は、何らかのトラブルの結果、真中市の日常を生きる人々とは無関係なところで、たまたま殺されてしまったのだと思われていた。だが今回は違う。現実感があろうとなかろうと現実に次の殺人は起こり、さらに犯人がどこかにいて今後も誰かを殺す可能性があることがはっきりしたのだ。一度だけの例外ではなく、続いていくかもしれないと示されたのだ。小学生は保護者の同伴での帰宅が義務付けられ、中学生以上も複数人で下校し、寄り道せずに十七時までに必ず帰宅することが厳命された。市民がいなくなった一方、連日マスコミが街を闊歩し、あちこちで私服制服を問わず警官を目にした。

 僕は夏の家に通わなくてはならなかったし、両親が二人とも働きに出ていたから、十七時以降も少しは街を出歩くことになった。その時僕が目にした夜の街の風景は、かつての真中市の様子とは完全に違っていた。人通りが無いのはもちろん、車さえほとんど通らない。遠くから電車の走る音が聞こえるだけで、動くものの姿がほとんどない。虚無的な光景だった。この時点での真中市は、僕の目にはどう見ても普通の街ではなかった。僕がかつて夢に観た光景に近かったが、空虚さという意味ではそれよりもひどい。僕はそうした街の様子を目にしながら、自分の書いた小説に思いを馳せること、この文章を書いた時の感覚を他人と共有したいと思うことがあっという間にできなくなった。既に物語よりも現実の事態の方が先に進んでいて、僕の現実感を上書きしてしまったのだ。僕は健一と誠二に、小説を送るのではなく、手紙を書いた。


「二回目の殺人が起きてから、街中が静かになった。

 神社の前のたこ焼き屋だけは相変わらず繁盛しているけど、出入りする客は子供とか家族とかじゃなくて、取材や捜査をしている真中市の外から来た人たちだ。

夏の様子は何も変わらない。家から出ていないから、あいつが街の状態を知っているわけはないけど、それにしても変わらなさすぎるくらい何も変わらない。毎日ひたすら絵を描いているだけだ。

受験が目の前に迫っているから、僕は家に帰ると毎日勉強しているけど、こんなことをしていていいのかどうか分からなくなる。

どうも変な感じがするんだ。それをどう説明したらいいのか分からない。住んでいる街で人が殺されたんだから、二人とも自分が知っていた人間なんだから、そしてその犯人が誰だか全く分からないんだから、不安なのは当たり前かもしれない。でもそういうことだけじゃなくて、この街でこんな事件が起こることが変に思えて仕方ないんだ。だってそうだろ? 昔から、僕達にとってはこの街は何も起こらない街だった。それが今、事件のど真ん中にいる。一番変なのは、それと同時に、俺がもう、どうして何も起こらないと信じていられたのかが、分からなくなってしまったことだ。

犯人が早く捕まってほしいけど、捕まらない気がする。どうしてそう思うのかも分からない」


 そういう内容の文章を、健一と誠二両方に送った。

 そして僕の理由の無い直感の通り、犯人が捕まることはなかった。テレビのワイドショーで犯人のプロファイリングが試行されたり、殺された「料理おばさん」の人となり――非の打ちどころのない、近所でも評判の穏やかで優しい人物像――が明かされたが、犯人の具体的な情報は、一週間たっても、一ヶ月経っても、一切示されなかった。そしてやがていつもの通り、報道から真中市の情報は消え去った。新しい情報がないのだから、消えていく以外に仕方なかった。

 しかしもちろん真中市の住民たちの頭の中から消え去ることはなかった。戦争中の日本本土というのはこれに似た雰囲気だったのではないだろうかと僕は思った。日常はぎりぎり保たれているが、いつどこに非日常が出現してもおかしくないと、皆が想像している。あるいは、日常と非日常が混ざり合って、その境目が全く分からない。真中市には、空襲警報が鳴るわけでもないし、防空頭巾も竹槍もない。しかし携帯用の防犯ブザーを持たない小学生は最早一人もいなかったし、家の扉にチェーン鍵を必ず掛けることは習慣化し、街のスポーツ用品店で金属バットが売り切れた。殺人犯も、空のどこかを飛んでいるB‐29も、脅威の正体が一切僕達の目に見えないという点においては変わらなかった。

 そうした生活の中では、日を追うごとに、精神的に衰弱したり、うつ病を発症したりする人が異常に増えた。学校を休む同級生や下級生が何人も現れ、県の教育委員会から派遣された心理カウンセラーが真中市内の学校を順繰りに回って生徒たちのケアを行った。授業の合間に、同級生たちの間で冗談を言い合う声にも空々しい響きがある。誰もがそれを自覚していたと思う。恐怖が頭の中で増幅する、その気持ちは僕にもよく分かった。僕がその恐怖を堪え、生活から足を踏み外さずにいられたのはおそらく夏がいたからだ。彼女が事件が起こる前と後とで全く変化がなく超然と絵を描き続けていることが、僕の気持ちをいつも落ち着かせたのだ。

 精神に負担がのしかかっているのは子どもたちだけではなかった。教員にさえ失調を訴える人がいたし、この街で生活を営むありとあらゆる人にその火種があった。そしてその症状は、僕の母にも顕れた。

 ある日母は、父と僕に向かって、断固としてこの街を出るべきだ、と言った。

 母に言わせれば、既にこの街に住む理由は何一つなかった。仕事場からも遠く、生活にも不便で、娯楽も少ない。去年の大雨の後でその不便さには拍車がかかっている。家もダメージを受けたし、何よりも、人殺しが住む街にどうして好き好んで住み続けなければいけないのか、と。

 その母の意志は、以前に同じ計画を立てた時とは切実さが違った。母は僕や父の了解を得ようとすることもなく、次に移り住む街を決め、賃貸のマンションを探し、引越しの準備を進めていった。その母の表情には鬼気迫るものがあり、僕の反論を許さなかった。真中市からの転居はあっという間に中原家にとって既定事実となり、全てに対する最優先事項となった。

 父は僕に、静かな声で話した。いつも静かな声で話す人だったが、この時は一段とそうだった。

「俺からも頼む。もういろいろと潮時だと思わないか。事件のことはきっかけにすぎない。いつかこうなったんだ。今を避けても、それはすぐ後でまたやって来る」

父が訥々とそう話しかけるのに対して僕は、頷くことも首を横に振ることもできなかった。

 実際に、僕は迷った。母のことは心配だった。だが、母には父がいる。夏には僕しかいないかもしれない。遅かれ早かれこうなった、という父の言葉が頭の中でリフレインした。しみじみと呟くように言ったその言葉には、理屈を超えた説得力があり、僕の中で静かに揺れ動く感覚にそっと触れた。確かに、夏の様子はどれだけ時間が経っても何一つ全く変わらないように見える。しかし、変化を全く求めない人間が絵を描き続けることなどできるのだろうか? 彼女は実は変化を求めていて、そのためには僕がいない方がいいのではないだろうか? 僕は長い静寂の中で、何度もそう思うことがあった。だが今、正直な回答を自分に求めようとしても、どこまで行っても最終的には沈黙しかない。自分がどうしたらいいのか分からなかった。

 とは言え、事は僕がどう考えるかという次元の話ではなかった。母は誰が何と言おうとこの家を売り払って出ていくことを決めているのだ。

 結局ただ一つ、僕は母に頼んだ。それは、今通う中学は、ここで卒業させてほしい、ということだった。

 協議の後、父も母もそれに同意し、引っ越しはそれまで先送りされることになった。高校入試まであと数カ月、今ここで急に環境を変えるのは、僕にとって良くないことと判断したからだが、僕がそう頼んだ理由はもちろん受験とは全く関係なかった。夏と一緒にいる時間を、できる限り引き延ばし、結論を先送りにする。そして同時に「来年の三月まで」と期限を決める。そのためだった。そこまで待っても何も起こりはしないかもしれない。僕は自分に対してはともかく、夏に対して性急な変化を望んではいなかった。僕が見定めようとしていたのは、今後も夏のすぐ傍にいることが彼女にとって良いことかどうか、という一点だった。距離を置くのが良いのであれば、一生会えなくなるわけでもなし、僕は両親についてこの街を出ていく。そして傍にいるべきだと思うのなら、僕は家を出て、真中市に留まる。十六歳、一人立ちするには早すぎる年齢でもない。あるいはそこまでしなくとも、真中市にも幾つか高校はあるのだから、ただ外の街からそこに通うだけで、今とあまり変わらない生活が実現するだろう。

 こうした自分の考えを僕は一切両親に話さなかった。誰にも、健一にも誠二にも、毎日顔を合わせる夏にも話さなかった。ただ自分の中でその考えは分かりやすい指針となった。僕は再び猛烈な勢いで勉強を始めた。それは、殺された二人や殺人犯についての想念が僕にまとわりつくのを取り払うためでもあった。見知った二人の死を悼もうとすれば、その感情はやがて、その死をもたらした者の正体を詮索することになる。その、姿の知れない殺人犯について想像を巡らせることを僕は避け続けていた。具体的な情報は何もなく、イメージが雑然とあちこちに散らばっているだけの状況で、それについて考えようとすれば、その姿はどんなものにでも形を変えてしまうことになる。道を歩いているただの隣人も、同級生も、教師も、警官も、誰もかれもが殺人犯に見えてくる。だから、僕は考えなかったし、考えることができなかった。夏のことについてさえ、彼女が傍にいない時は考えなくなりつつあった。それは死と殺人の想念とは逆で、彼女の存在は僕の体の中にイメージとなって住みつき、限りなく実体に近い姿で動いていたので、わざわざ頭で思わなくてもいつも彼女の存在を感じることができたのだった。

 そうしていると、時間は閊えるものなくどんどん過ぎ去っていった。秋がやってきて、真中市に吹く風が冷たく鋭くなり、夏と再会してからちょうど一年が経った頃に、誠二から手紙がやってきた。

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