第四章 雨の後(4)

 報道によれば、その死体の身元は真中市からほど近い街に住む十四歳の少年で、名前を横山一紀と言った。横山少年は一カ月以上前から行方が分からなくなっており、捜索願いが出されていたところだったという。死体は日光川の下流で桟橋に引っ掛かっているのを付近の住民によって発見された。後頭部に鈍器で強く殴られた痕があり、警察は殺人事件として犯人の行方を追っている。

 僕はこのニュースを見た時、全ての判断を停止するよう自分に命じた。何故なら、テレビニュースではその横山少年の顔写真はまだ公開されておらず、殺された少年が本当にあの横山かどうかはまだ断定できなかったからだ。

 登校すると、校内はそのニュースをめぐって騒然としていた。クラス内に、事件を知らぬ者は一人もいなかった。情報源は皆僕と同じだったはずだが、全員が、殺された横山少年はあの横山だと信じて疑っていなかった。男子生徒達は声高に噂話をし、女子の中には既に泣いている者もいた。何故誰に殺されたのか。一か月も前から行方不明だったとはどういうことか。答えが全くないまま、何度も繰り返し疑問だけが提示され、クローズアップされた。哀悼よりも明らかに興奮の濃度の方が上だった。正直に言って、その感覚は僕にも分かる気がした。横山には友達が一人もいなかった。いつも一人でウォークマンを聞いていて、誰とも会話することが無かった。普段も、そして以前その父親が亡くなった時も、一切詳細を開示しない男だった。そういう彼の人となりから言って、同情よりも謎への疑問の方が先立つのは自然な流れだった。それにただでさえ、これは真中市にとって大事件だった。以前の横山の父親の時とは違い、これは最初から殺人事件だと断定されていたのだから。誰一人具体的な情報は持ちえない中、ホームルームが始まった。

 担任教師の顔は、今まで誰も見たことがないほど暗かった。

 知っている者もいるかもしれないが、と前置きして彼は話し出した。

「九月に転校した横山一紀君が、亡くなりました。これから体育館で緊急の全校集会を行います。そこで校長先生から詳しいお話があります。先生もさっきこの知らせを受けたばかりで、本当に驚いています。とても悲しい知らせです」

 彼は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。教室の中はしんと静まり返って、もう誰も騒がなかった。

 そして体育館で始まった全校集会の間中、僕は自分の心臓が猛烈なスピードで拍動する音に意識を吸い寄せられていた。校長の話の内容は、担任教師が言ったことのほぼ繰り返しに過ぎなかった。わが校の生徒だった、横山一紀君が亡くなりました。警察から今朝連絡がありました。殺人事件として捜査が始まっています。詳しいことはまだ分かっていません。突然の事件と知らせで、私もただ皆さんと同じように驚き、悲しんでいます。とても悲しい、許されない事件です。事件の一刻も早い解決を願い、亡くなった横山君のご冥福を祈り、黙祷を捧げましょう。

 横山が殺された、と僕は考えた。死んだのは本当に彼だった。その事実はぐるぐると全身を駆け巡って回転し続け、何の回答も導き出さなかった。僕も周りの生徒たちと状況は同じだった。全く訳が分からなかった。正直に言って、僕は仮に彼が自殺したという知らせを受けたとしても驚きはしなかっただろう。だが殺されたというのは、その理由が全く見当もつかない。横山の暗い顔が脳裏に浮かんで、僕の中に悲しみが充満しようとするのだが、謎で頭が混乱しているせいで、その感情が一塊になることができなかった。

 全校集会の最後に、用なく街をふらつかないように、また帰宅時には複数人で一緒に帰るようにという指導がなされた。

 もちろん僕はそれを無視せざるを得なかった。夏のところへ行かなくてはならなかったからだ。

 その日から事件捜査のため、日光川の左右両岸は真中市の全域に渡って封鎖された。僕は臨時休校となった学校から帰ると、すぐにいつもの河川敷に向かったが、警察官が点々と立っており、この付近は立ち入り禁止だから近づくなと言った。日光川の上流から下流にかけて、捜査班たちは川に潜って犯行にかかわる物品を捜索しているようだった。想像を絶する過酷な作業だと僕は思った。あらゆるものが沈殿しているこの川で、一体何を探せばいいのだろう。

 とにかくそのような状況だったから、夏の姿はどこにもなかった。自転車にまたがり、彼女が行く可能性がありそうなところ、公園や、神社や、小学校を走って回ったが、彼女はどこにもいなかった。やがて、僕は試しに夏の家を訪ねた。夏の母親が出てきて、あの子は今日はずっと家にいた、と告げた時、僕の肩にどっと疲れが押し寄せてきた。

「あの子に会っていく?」

 僕は頷いて、夏の部屋まで上がっていった。彼女の部屋を訪れるのはかなり久しぶりのことだった。最後に来たのは少なくとも一年以上前だ。その時は確か健一も誠二も一緒で、夏が描いた絵を観て、彼女が弾くピアノを聴き、彼女が好きな音楽CDを聴いたのだった。

 夏の母が部屋のドアをノックしたが、返事はなかった。夏の母はゆっくりとドアを開け、僕を部屋の中に通した。窓が開けられていても、絵の具の匂いの充満した部屋だ。夏はいつもと変わらない姿勢で、僕達に背を向けて絵を描いていた。裕司君が来てくれたわよ、と夏の母が声をかけても、彼女は振り向かなかった。

 僕は部屋の隅にあった椅子に腰かけた。夏の母は僕にオレンジジュースを出してくれた後買い物に出かけ、僕たち二人だけが部屋に残されると、ほぼ完全な静寂が部屋を包んだ。普段の日光川での空間と違い、川の流れる音も風の音も行き交う車や列車の音もしない。

 僕は部屋の中を見回した。その光景はかつて見たものとはずいぶん違っていた。もともとあまり少女性の無い部屋ではあったが、最早完全に消滅して、むき出しになった彼女の精神が部屋全体を覆っていた。とにかく目に入るのは、予期していた通り、壁じゅうに立てかけられ重なった大量の絵だった。ざっと見ただけでも四、五十枚はある。しかもそのほとんどは灰や黒っぽい色で埋め尽くされているため、部屋全体が陰鬱に暗い。床には絵の具のチューブや画用紙が転がり、カーペットはあちこちが絵の具で汚れている。ベッドにはめくれ上がったシーツの上にぐしゃぐしゃの毛布が乗っかっていた。

 僕は、横山が殺されたことを夏に告げるべきかどうか、一瞬だけ考えた。そして、そうするべきではないと判断した。今の彼女にその意味が伝わるようには思えなかったし、もし伝わるとしても、それは夏にとって良い知らせでもなければ、彼女の精神を良い方向に回転させるものでもあるわけがない、と思ったからだ。

 僕は夏の少し後ろに立って、いつものように、彼女が描く絵を見つめた。相変わらず黒く暗い。僕の胸は締め付けられた。あまりにもきりきりと胸が痛むので、まっすぐ立ったままの姿勢でいられなかった。胸に手を当て、少し俯いて、いつまで彼女はこんな時間を過ごし続けることになるのだろうと考えた。しばらく前からそうだったが、僕はとにかく彼女が生きてさえいればよく、彼女の好きなように自由にさせるのを自分はずっと見守っていればよいとは考えられなくなっていた。たとえ僕がよくても、こうした時間を夏が心から望んでいるとは到底思えなかった。

 僕は壁に立てかけられた大量の絵を、一枚一枚取り上げて眺め始めた。多くはどれも同じ、僕がこれまで河川敷で描かれるのを見てきた黒い川と大雨の絵だった。筆致は荒々しく、色はどこまでも暗く、形はどこにもなかった。イメージだけの絵で、どこまでも広がっていき、すぐにでも別の何かに変換可能な絵に見えるのに、過去にも未来にも現在にも、どこにも進んで行かない絵だった。僕はその絵を一枚ずつ、奥歯を噛みしめながら見ていった。

 そして唐突にその絵は現れた。黒ばかりの絵の海から突然、極彩色の空間が現れた。僕はその一枚を取り上げ、両手で持って、目の高さまで掲げた。黒から一転、赤と黄色に埋め尽くされたその絵は、だが、決して輝かしい何かを描いたものではないということは一目で分かった。二人の人物が向かい合っていて、一人の人物は真っ白い衣装を身にまとい、もう一方は黄色と緑のまだら模様の服を着こんでいる。真っ白の衣装を着た方は髪の毛がぼさぼさに伸び、まだら模様の服の方は、頭に白いタオルとサングラスを付けている。真っ白い服を着た男は、片手に白く円い何かを空に掲げている。二人とも、互いを抱え込んで、崩れ落ちそうな体を支えている。平面に戯画化されたその絵はまるで古い宗教画のように見えた。

 僕は茫然とその絵を見つめた。

 描かれた二人が誰なのかはすぐに分かった。日光仮面と、あの神社の男だ。

 そしてこの絵が何を描いているのかも分かった。

 これは二人の体が入れ替わる絵だった。

 神社の男が持った鏡に照らされて、日光仮面と男の体が入れ替わる瞬間の絵だ。

 僕は絵の表面に触れ、この絵があの大雨の前に描かれたものだと直感した。夏が言ったことを僕は思いだした。あの人は生きていたんじゃないか、と夏は言った。この絵を描かなければ夏がそんなことを言ったはずがない。

 しばらくの間、僕は絵の色と線を辿り、立ち尽くした。頭の中で黄と赤と白の色が氾濫した。

 そしてやがて首を横に振った。僕は夏に、止めろと言った。あの夜だけでなく、それまでも折に触れて何度も言った。描いたことは本当になるかもしれないから描くなと言ったのだ。他の誰にも分からなくても、夏にはその意味が分かっていたはずだった。

「描くなって言ったのに」

 息が漏れるようにそう声が漏れた。振り返って夏を見つめた時、彼女も僕を見返していた。それは死体のように冷たい目で、再会して以来初めて僕達の視線が交わった瞬間だった。

 その彼女の目を見た時、僕に湧き上がってきた感情は、激しい怒りだった。その感情は瞬間的に僕の全身を覆い尽くした。それが彼女に対してのものなのか、今僕達が置かれた現実に対してなのか、それとももっと別の何かに対してなのか、僕には分からなかった。分かっていたのは、こんなに激しい怒りを感じたのは生まれて初めてだということだけだった。僕は一瞬で自分が全く別の人間に変わってしまったように感じた。

 僕は夏を睨みつけ、傍らにあったペインティングナイフを取り上げた。そして日光仮面と神社の男が描かれた絵に振り返り、逆手に握ったナイフを高々と掲げ、全力で振り下ろした。

 ナイフがキャンバスに突き刺さり、僕はその絵をまっすぐ縦に切り裂いた。ナイフを放り捨てて、その裂け目を両手でつかみ、思い切り左右に引き裂いた。その瞬間に、僕の背中に夏が飛びかかってきた。彼女は僕を絵から引き離そうともがいたが、僕は構わずにその絵をびりびりと引き裂き続けた。とても人間とは思えない夏の叫び声が僕の耳に突き刺さったが、僕の方も彼女と全く同じような、自分でもよく分からないうめき声をあげていたからまるで気にならなかった。僕は言葉にならない大声を上げながら絵を引き裂いた。

 二度と原型に戻れないほど絵が散り散りになってしまった頃、夏が僕の左耳に噛みついた。彼女の唸り声とともに強烈な痛みが僕の耳を貫き、僕は夏の横顔を右手で思い切り平手打ちした。耳の一部が千切れる感覚がして、夏は倒れ、僕は彼女の体を組み敷いて馬乗りになった。彼女の肩を押さえつけ、額を彼女の額に押し付け、動きを封じた。夏は激しく首を横に振ってそれから逃れようとしたが、僕はごりごりと額を彼女の顔に押し付け続けた。僕の血が彼女の顔に滴り落ちた。

「馬鹿野郎」と僕は言った。

 長い時間が経って、夏の抵抗が止んだ時、彼女は泣いていた。どこにも焦点の合わない目からぽろぽろと涙が落ちていくのを見下ろしていると、僕の目から同じような涙が零れ、僕の血とともに彼女の頬を伝って流れ落ちた。



 

 警察による日光川の全面封鎖は、それほど長くは続かなかった。せいぜい一週間ほどだ。しょぼくれた小汚い川とは言え、その流れの全てを攫うには短すぎる期間だった。僕達市民には何らの新情報ももたらされなかったが、警察はおそらく何かの証拠や手掛かりを見つけ出したのだろう。さもなくば、これ以上ここを探しても何も見つからない、と見限ったかのどちらかだ。少なくともただ単に諦めたのではあるまい。

 しかし横山を殺した犯人は、依然として見つからなかった。捜査の実際がどうであれ、市民には犯人につながりそうな手がかりさえ全く開示されなかったため、漠然とした不安だけが街に留まり続けた。学校の授業もすぐに再開された。悲しみと疑問と不安の混沌はあっても、図形の合同証明や酸化反応や英語の受動態と言った明確なルールはそれとは無関係に進んで行った。じたばたと悩んでも事態は一切解決しないのだから、その無関係性を僕たちは歓迎した。それは少しずつ、僕達を事件から遠ざけ、隠した。実際、数週間を過ぎると、捜査が続いているのかどうかさえ僕達には分からなくなってしまった。人が死に、犯人は捕まっていない、それはつまり、僕達はことによると殺人犯が今も潜む街に生活しているのかもしれないということだったが、その恐怖がリアリティを伴うことはほとんどなかった。それは決して僕一人だけの感覚ではなかった。もしあったとしても、巧妙に、周到に隠されていて、誰一人普段の生活の中でそれを口にしなかった。確かに不安はあるが、生活を止めるわけにはいかない。ある日突然殺人鬼が現れて殺されるかもしれないという想像がリアルだったとしても、それに対して現実的に何をすれば良いのか。今はまだそれは起きておらず、兆しもない。可能性が何パーセントなのか誰にも分からない。僕達は結局、その現実を意識するかしないかに依らず、受け入れて生活するしかなかったのだ。

 捜査の進捗の有無とは何の関係も無く、僕と夏の生活は変わった。夏は、日光川が封鎖された日以来、そしてその封鎖が解けた後も、一切外出をしなくなった。彼女はひたすら家に引きこもって絵を描き続けるようになり、僕が彼女とともに過ごす時間は大幅に減少した。僕は彼女の元に毎日通ったが、長い時間あの部屋にいるのは居たたまれなかった。部屋の空気は依然として重苦しく、彼女は僕を二度と見ようとはしなかったのだ。事象は以前と同じでも、その理由は違った。少なくとも僕にはそう思えた。事情はどうあれ僕は夏を殴ってしまった。他の誰を殴っても、彼女にだけは一生暴力を振るうことはないだろうと思ってきた女が、人生で初めて本気で殴った相手になってしまった。その感触は僕の体の中に重く残り、夏の家の敷居を高くさせた。僕はそうした自分の罪悪感をどうにか叩き伏せて、毎日夏の家に通った。

 僕の耳の傷が完全に治った頃、僕は夏の母と話した。

 夏の母が、夏を連れて家族皆で県外に出ようかと考えている、と打ち明けた時、自分がどんな顔をしたのか思い出すことができない。僕の心の内にあったのは二つの感情だった。それが正しい道だと思う感情と、彼女と離れたくないという感情の二つだ。どちらも、いずれがより正直か比べることができない強い思いだった。

「でもあの子はこの街から離れたがっていないかもしれない」

だから迷っている、と夏の母は言った。僕は彼女に対して、どっちが正しいのか僕には分からないです、と言った。

「でもこの街に残るんだったら、俺がきっと何とかします」

 何の根拠もない台詞だった。僕の言葉を頼りにしたわけではないだろうが、結局夏の家族は真中市の外へ引っ越すことはなかった。家族と僕以外とは同じ空間にいることが一切できない夏が行く場所を、夏の両親は見つけることができなかったのだと思う。

 実を言えば僕の家族も同じ問題を抱えていた。両親は、真中市を出て別の地に居を構える計画を立てていた。ダメージを受けた家と、街を包む漠然とした不穏なムードと、人が変ってしまったような自分たちの息子を見て、二人がそう考えたのも、理解はできた。だが僕はそれには真っ向から反対した。今この街を出て行くことだけは僕はどうあっても了承できなかった。二人が出て行くのはいいけれど俺だけでもここに残らせてほしい、と僕は言った。それによって僕と母は大いに喧嘩したが、結局は両親が折れた。今ここでこの街を出ていけば一生後悔することになると、僕には分かっていたし、両親にもその僕の意志は伝わった。

 そうした日々を過ごす中で僕は中学三年生になった。1996年だ。高校受験は目前に迫っていて、クラスの雰囲気は引き締まり、誰もが来るべき別れの時に備えようとしていた。

 クラスメートとは動機が違ったかもしれないが、僕もそうだった。僕は茫漠とした気分で授業を受けることを止めていた。一分一分集中し、教師の言うことに耳を傾け、机の上に広がるテキストに意識を集中した。そこに意味があるかどうかは分からなかったが、これはこの後に続く未来において、前提的に知っておくべき情報なのだと自分に言い聞かせた。知っていてもメリットはないかもしれないが、知らなければ不利になる可能性が高い。完全に意味がないのであればそうと分かった後で捨てればいい。僕は成長することを欲していた。ずっとそうだったが、それまでに決してなかったほど、僕は一刻も早く大人になりたかった。僕はことによると、これからの人生では二人分を生きなければならないのだ。そうだとしたら僕は一般的な他人にビハインドを背負うことはできなかった。僕の成績表にぽつぽつとではあるがついに「5」がつき始めたのはその頃からだった。

 そして僕は毎週、健一と誠二に宛てて手紙を書いた。

 今読んでいる本や、聴いている音楽、少し前に観た映画、そして夏のことを書いた。表面的には、夏についての描写も含めて、まるで全てが何事もなく順調に進んでいると錯覚しそうなほど、平和で穏やかな手紙だった。事実そうだったのかそうでなかったのか、自分自身にも分からなかった。しかし正直に言って僕は意識してそのように印象を誘導しようとしていたとは思う。僕の中で言葉というものの影響力が日に日に大きくなり、暗いことや忌まわしいことを書けば、事実はどうあれ自分自身もそちらに引きずり込まれることになるのだと感じていた。友達から元気を取り去るような言葉を書くくらいなら、黙っていた方がましだった。僕が二人に伝えたいのはとにかく、僕は元気でやっているということだった。

 毎日勉強し、本を読み、夏の元に通うという日々は夏休みになっても全く変わらなかった。授業があろうがなかろうがどうせやることは同じだ。僕は夏に向かって、健一と誠二に手紙を書くのと同じような調子で、読んだ本や観た映画のことについて話し、時々は今読んでいる本を朗読して聴かせたりしたが、彼女の様子は去年の十一月の終わりに再会した時から全く変わらなかった。

 僕の生活に唯一変化をもたらしたものと言えば、九月の末に僕が通う中学で催される文化祭に、文芸部の引退に合わせて出し物を用意するよう求められたことだった。そう言えば僕は文芸部に所属していたのだが、このころには完全にそのことを忘れていた。僕はもうあの閑散とした文芸部室にほとんど出入りしていなかったし、去年はあの大雨の影響で文化祭自体が実施されなかったから、猶のこと僕の記憶にとどまりようがなかった。夏休み前、同級生の部長が僕の席にやってきて、何か発表できるものを用意するように促した。僕は頷いたが、何を出すのかは全く考えていなかった。

 短い小説を書くことにしようと決めたのは、既に夏休みが半分以上終わったある日のことだった。僕は夏の家に行き、彼女に内容のほとんど無い話をし、そして彼女の隣で絵を描いた。彼女とは比べるべくもない、とても他人には見せられない下手くそな絵だった。しかも夏にとって申し訳ないことに、僕が描いていたのは彼女の横顔だった。仮面のように、朝から晩まで一切表情が変わることがないその顔は、僕の脳裏に既にはっきりと焼き付いていたから、モデルがたとえそこにいなくても僕はその絵を描くことができたぐらいだ。僕は何日も、鉛筆で彼女の顔を何度も何度もデッサンした。僕の絵の中の彼女は、時々は目の前の現実の通り、無感動で無表情だったが、多くの場合は笑顔だった。だがなにしろどうしようもなく下手な絵だったから、大体の場合自分自身に対して不愉快な気持ちになって彼女の家を後にするのだった。

 そうしたある日の帰り道、僕は何か別のことをやるべきだと考えた。絵を描くことは残念ながら自分には向いておらず、これ以外なら何でもいい。そしてその瞬間に直感が現れた。おそらく何か文章を書くのがいい、と。文章を書くのも得意ではないが、少なくとも絵を描くよりはましだ、と考えた。

 僕は机の上に大学ノートを開き、右に90度傾けて、縦書きに文章を書き始めた。どういう話にするのか全く考えずに、一行一行ゼロから考えた。やり始めてみると、それはまるで、恐ろしく霧の深い崖を身一つで少しずつよじ登っていくような感覚の作業だった。手の届く範囲のぎりぎりに触れる岩をつかんで、体を引っ張り上げて少しずつ進んでいく。次の場所に登るまで、そこに何があるのかを予め知ることはできない。僕は小説の書き方など知らなかったので、知っていることだけを文章にするしかなかった。知らないことを描かなければならない場合は、仕方がないので想像力でその空白の輪郭だけを覆い、後は余白とするという方法を取った。結果出来上がったのはノート15ページ分という非常に短いテキストだったが、どうにか物語と呼ぶべきものとなった。僕はほとんど一日中机にかじりついて文章を書き続けたにもかかわらず、それを仕上げるのに2週間もかかった。

粗筋はこうだ。あるところに少年と少女がいる。ごく普通の、中学生くらいの男女だ。二人は恋人同士でもないし、友達同士でもない、どう名付けたらよいのか分からない関係にあり、長い間つながりが続いている。おそらく少年は少女を愛していることが示唆されるが、少女の方が少年をどう思っているのかは分からない。ある日少年は、自分の身に特別な力が備わったことに気がつく。空を飛ぶ能力だ。自由に空を駆け巡るその能力を使って、少年は旅に出ることにする。少年は少女に言う、「この力でいなくなった友達を探してくる」、と。しかし、どれだけ空を飛びまわって遠くへ行っても、いなくなった彼らの友達は見つからない。少年は思う、「友達がいるのはもっと遠くだ」と。彼は世界の果てまで旅をする。世界の果てまで飛んでも見つからないので、今度は反対側の世界の果てまで飛ぶ。それでも結局見つからない。彼の体はぼろぼろになる。少年は気がつく、「もっと遠くというのは、時間も空間も超えた、今の僕には分からないどこか遠くだ」と。その時、彼の体はその場所から消えてしまう。そして、長いのか短いのかどれだけ時間が経ったのか分からないある日に、少女は友達に囲まれて談笑している。少年がずっと探し追い求めていた友達に。その輪の中に、少年の姿はない。彼らは少年の事を決して口にはしない。彼らが少年のことを覚えているかどうかも分からない。彼らの頭上に影が落ちる。ふと空を見上げると、鳥の一群がはるか上空を横切っていく。

そんな物語を、文化祭にコピー本にして提出した。それは何人かの人の手に取られ、いくつかは残った。しかし、もとより全く期待していなかったが、僕にその物語の感想を告げる者はほとんどいなかった。根本的な文章の精度の問題はさておき、自分で振り返ってみても、この物語はあまりにも個人的過ぎたから当然だった。僕と僕の友達にとっての意味はあったかもしれないが、それ以外の人たちにとっては実体のない、現実的な意味でも物語的な意味でもリアリティに欠けた妄想にしか見えなかったことだろう。しかし僕にとっては切実な物語だった。書き始める前はこれが自分にとって切実かどうかなど全く考えていなかった。そもそもどんな物語を書くのか考えていなかったし、より正直に言うなら自分が書こうとしているのが物語なのかどうかすら考えていなかった。だが書き続けると、そこに刻まれた一文字一文字の意味がどんどん膨れ上がっていった。僕は自分が、物語に描いた少年と同じように、たとえ代償があっても、空を飛んで、それでも足りないくらいに果てしない成長とか突破を求めているのだと感じた。

 たった一人だけ、僕の小説に感想を送ってくれた人がいた。文化祭が終わると三年生の文芸部員は自動的に引退となったが、その時に一人の女子生徒から手紙を渡されたのだ。彼女は、一年前にあの雨が降るまでは、僕とともにいつも部室で本を一緒に読んでいた数少ない部員の一人で、同級生だった。部員達には予め、文化祭での発表物は共有されていたから、彼女はとっくに僕の小説を読み終えていたわけだ。

 僕は、ありがとう、と言って手紙を彼女から受け取った。彼女は微笑んで、恥ずかしいから後で一人で読んでね、と言った。手紙の前半部分に僕の小説の感想が書いてあった。とてもいい小説で、あなたの気持ちがとてもよく分かる、とそこには書かれていた。

「私も同じようなことを思います。今の自分じゃない誰かになって、ここじゃないどこかに行きたいといつも願っています。主人公の少年が愛する人の為に、見返りを求めないで飛んでいく気持ちが、私にもよく分かります」

そして、後半に書かれていたのは僕への告白の文章だった。

 僕のことがずっと好きだった、と手紙には書かれていた。

「中原君のことがずっと前から好きでした。あなたが私のことを好きじゃないのは知っています。でも、このまま何も言えずに後悔したくないから、この気持ちはどうしても伝えたいと思います」

 僕はその手紙を何回も読み返した。そして茫然とした。心底から戸惑ったし、ショックさえ受けたと言っていい。全く予想もしない初めての経験だったし、自分のことを誰かが好きになることがあるなどと、僕はそれまで可能性すら考えたことがなかった。笑えない冗談ではないかと現実逃避しそうにもなったが、手紙に刻まれた切実な雰囲気はどう読み取っても真実だった。いつも部室で静かに本を読んでいた彼女の姿が瞼の裏に浮かび、僕は記憶の中で彼女の感情の根拠を探ろうとしたが、兆しさえ見つけ出せなかった。僕はこの時、自分がいかに周りのことが見えない、自己中心的な男かということを実感した。

 結局、他には一つも方法が思いつかず、僕は手紙の返信を書くことにした。

 僕は最初に、ありがとう、と書いた。感想を書いてくれて本当にうれしかった、このことは忘れない、と。そしてその後に、ごめん、と書いた。俺には好きな子がいて、自分のことをどう思っているのか分からない相手だけど、その子から離れることはできない。

 大体そういう内容の、短い手紙だった。僕はその手紙を彼女の下足箱に投函し、僕達はその後二度と話し合うことはなかった。

 僕は自分の小説が書かれた冊子を健一と誠二にも郵送することにした。僕は彼らにも読んで欲しかったし、彼らの感想が聞きたかった。彼らにはこの物語に書いたようなことは、改めて文章にするまでもなく既に伝わっているような気はしたが、読んでもらうということそのものが重要だと思った。

 だが僕は結局それを直前で取りやめることになった。文化祭の数日後、僕が郵便局に行こうとしたその日に、僕達の街で第二の殺人が起こったからだ。

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