第四章 雨の後(3)

僕はその瞬間を自分の中で予期していたように感じた。秋の涼しい風が僕のシャツをばたばたとはためかせ、背中に夕暮れの太陽光が突き刺さった。僕は自転車に乗っていて、これまで数百回渡ってきた、日光川をまたぐ橋の上にいた。

 僕の目に最初に映ったのは木製のイーゼルだった。視線の下方、日光川の河川敷のコンクリートの上にそれは据えられていた。それは一瞬、誰かが川岸に立てた看板のように見えた。しかし直後、背後に誰かが座っているのに気がついたとき、僕の自転車のペダルは自分の意識を超えて自動的に踏みしめられ、猛烈な勢いで回転した。

 橋を渡ると、引き倒すように自転車から飛び降り、転げ落ちそうになりながら堤防を駆け降りた。そこはかつて日光仮面が住んでいた河川敷と全く同一の地点だった。もちろん既に彼の住処も彼の姿もない。ドナルドダックの落書きも、「日光仮面参上」の落書きもない。補修されたコンクリートに塗りつぶされてしまったのだ。僕達の秘密基地と同じく、そこは既に過去の面影を全く残していなかった。ただ静寂と空白があるだけの無味乾燥な空間だった。僕はそこに降りてきて、バランスを崩しそうになった体勢を、膝に手を突いて支えた。最初に僕に見えたのは折りたたみ式のキャンプチェアに座る後ろ姿だったが、それが夏だということはすぐに分かった。彼女の髪は短く切り揃えられており、幾分背が痩せ、まるで小学生に戻ったような雰囲気だったが、彼女だということは分かった。

「夏」

 僕はそう呼んだ。

 反応はなかった。夏、と僕はもう一度呼んだが、それでも彼女は身じろぎもしなかった。彼女はイーゼルに立てかけられたキャンバスに向かって、筆を握りしめて静止していた。

僕は彼女の隣に立って、そこにある絵を見つめた。

 既に堤防下の河川敷は影に包まれていて、キャンバスの全体は灰色に沈んでおり、そこにある色はほとんど判別できなかった。何が描かれているのか、その輪郭を辿ることは難しく、ぼんやりとしか見えない。だが十分な太陽の光があったとしても、ほぼ同じことだったろう。それは具体的な形を取り出すことのできる絵ではなかった。ただ、ぐしゃぐしゃな混沌が叩きつけられているようにしか見えない。無軌道な曲線と、規則性のない種々の絵の具がその空間に飛び交い、空気の流れをそのまま布に写したような渦があるだけだった。

 でも僕にはそれが何の絵なのか分かった。不思議なのだが、一目見た瞬間に、僕はその絵が何なのか分かった。それは僕の勘違いで、ただの思い込みに過ぎなかったかもしれない。彼女は答えを自分の口からは教えてくれなかったのだから、そうであっても仕方がない。だが僕には見間違いようもなく、自分があの日見たものと目の前の絵が全く同じものに見えた。

「あの夜の雨の絵だ」

 僕は呟いて、夏の横顔を見つめた。短く切られた髪の下で、彼女のまつ毛が風に震えるのが見えた。夏は僕の方を向こうともせず、じっとキャンバスを見つめたままだった。

 彼女はずっと無言だった。

 僕は身をかがめ、椅子に腰かけた彼女と目線を同じにした。彼女の唇はひび割れ、固く閉じられていた。筆を握りしめる細い手指は震えていて、イーゼルと彼女の体の中間で、どちらに行くべきか揺れ動いていた。すぐ傍に僕が立っていることなど全くどうでもよいことのようだった。彼女の意識が僕には無く、キャンバスに描かれた絵の中にしかないということを、僕は直感で理解した。

 あっという間に日が暮れていき、あたりはほとんど暗闇に包まれた。最早画板には渦の痕さえ見えない。彼女の目に何が映っているのか分からなかったが、もう今日ここで色を塗るのは無理だった。

「帰ろう」

 僕はそう言って、彼女の右手にそっと触れた。川の水のように冷え切った手だった。そして夏の反応は全くなかった。僕がその手に触れていることに気付いてさえいないような風だった。僕は夏の手を両手で包みこんでもう一度、帰ろう、と言った。

 夏はその時初めて僕の方に振り向いた。暗闇の中で彼女の表情はほとんど分からなかった。だがその目が僕の顔を全く見ていないということだけは分かった。

 僕は微笑んだ。

 夏は立ち上がり、画材を片づけ始めた。僕はそれを手伝い、大きなキャンバスバッグに荷物を詰め込み、イーゼルを脇に抱えた。夏は歩いてここまで来ていたので、自転車を押しながら彼女の隣に付いていった。彼女がどこに行くのか初め不安だったが、見知った道を歩んでいると分かるとほっとした。夏が向かっているのは僕がよく知る彼女の自宅だった。

 辿りつくと玄関で夏の母親が出迎えた。彼女は夏を抱きしめ、家に上げると、僕の顔を見て驚いた。

 僕はそこで夏の母から、簡単に夏の身に起こったことを聞いた。夏の両親は、あの雨の夜の後、小学校にいる夏を見つけた。だが娘の様子が異常なことは一目で分かった。彼女の顔からは表情が消えていて、一切口を利かなかった。親戚の家にいったん避難したが、そこで夏は暴れ狂った。手近なものを投げつけて回り、暴力をふるった。医者に連れて行っても暴れて押さえつけることが難しかった。全く口を利かないので、何が彼女の望みなのか誰にも分からなかったが、ある日紙とペンを見つけると、そこに猛烈な勢いで絵を描き始めた。わけの分からない、ただ線をぐしゃぐしゃに走らせただけのでたらめな絵だった。家の中に拘束すると暴れ、付き添っていても暴力を振るったが、画材道具一式を渡すと静かになったので、両親はそのままにさせた。そして夏は昼間の間、一人で外に出て絵を描き続けることになった。迎えに行ったり見張ったりすると怒り狂うので、医者とも相談した結果、彼女は一人で自由に絵を描くことになった。そして昨日、夏の一家はこの真中市に戻ってきた。

 だから、夏の母親にとっては、僕が夏を伴って歩いてきたことが驚きだったのだ。あの夜以来、夏が誰かを傍に置いて暴れないのは初めてのことだったらしい。

 これからも夏に会いに来てほしい、と夏の母親は言った。

 僕は頷いた。頼まれなくともそうするつもりだった。

夏の母親に会釈して去り、自転車を押しながら僕は家路に就いた。その途中、僕の頭の中で幾つもの思考が渦を巻き、言葉が浮かんで消えた。自室の明りを消して、ベッドに腰掛け、しばらくの間、僕は夏の顔を思い浮かべ、夏の描いていた絵を思い出した。僕は知っていた。僕だけでなく、僕たち四人とも、夏のような人間をずっと以前から良く知っていた。そして僕はその事実を受け入れた。

夏はあの人たちになったのだ、と。

 



 僕は毎日、授業が終わると日光川の河川敷に通うようになった。夏はいつも既にそこにいた。僕は絵を描く彼女から数メートル離れた場所に腰を下ろし、文庫本を開いて読んだ。日が暮れると僕は夏の手を取って家に帰った。場所が変わっただけで二人ともやっていることは以前とほとんど変わらなかったわけだが、もちろん僕の心の中では何もかもが違った。僕は以前よりも遥かに集中して本を読んだし、以前よりも遥かに夏のことを想った。

僕は健一に電話をし、誠二に手紙を書いた。

 内容は同じだ。「夏は見つけた。僕が傍にいることにする」。

 健一との会話はごく短いものだった。来週の土日に会いに行く、と彼は言い、僕は、分かった、と応えた。

 誠二からは、やはり返事は返ってこなかった。彼は言葉を連続して伝えることができなくなっていたのだから当然だった。僕の手紙を読むことができたのかどうかすら分からない。彼の病状が少しでも回復に向かっているのか、僕には知ることができなかった。僕が誠二に送った手紙を彼の両親が読み、代わりに返事を書いてくるという可能性も考えられたが、そうはならなかった。いつまで経っても返事は返ってこなかった。

 結局僕は電話をした。だが僕にとってはそれは辛いことだった。電話をしたところで誠二は出られないだろうということは分かっていたからだ。話す相手は誠二の両親になる。友達に会いに行くのにその許可を両親に得るなど、僕達にとってはそれまで絶対にあり得なかった異常な行為だった。電話に出た誠二の母親に、僕は、誠二に会いに行きたいんですが会えますか、と相談した。

「誠二と話したいことがあるんです」

 電話の向こう側でしばらく沈黙が続いた。それは誠二の母親が首を横に振る間合いだった。

 誠二の母は、それはできない、と言った。誠二は今、誰かと会ったり話したりできる状態ではない、と。

「そんなに悪いんですか」

 体も重症だけどそれよりも、と誠二の母は言った、〈あの子はあなた達のことも、自分のことも、半分くらいしか覚えてないの〉

それは記憶喪失ですか、と僕は半分自分に向けて言うように呟いた。

〈だからしばらくはゆっくりさせたいの。そして少しずつ思い出してほしい。あなた達が来て、自分が本当にたくさんの事を忘れてしまったと気がついたら、誠二はつらい思いをすると思うから〉

 僕はその後ほとんど何も言えなくなった。電話が切れた後、僕は受話器を強く握ったまま、俯いて、しばらく動けなかった。

 何故こんなことが起きたのか、と僕は考えた。健一も、誠二も、夏も、その両親も、僕達の友達はみんな、何故よりによってこんな目に遭っているのか。僕ではなく彼らだった理由は何なのか。これに一体何の意味があるのか。

 理由はないし意味もない、僕の理性はそう告げていた。起きたことは起きたことでしかない、と。それだけなのか、と僕は自分に向かって問いただした。だが、こだまになって疑問のまま跳ね返ってくるだけだ。僕の体は恐怖におびえていて、想像力を起動させられなかった。想像力は、自分を今以上に混乱させるに違いないと思い、それに頼ることを僕は断固として拒否し続けていた。

 健一は約束通り、週末の休みを使って真中市に帰ってきた。彼の右脚は義足で支えられており、歩かずに直立している限りは不具と分からなかった。松葉杖を補助に持っていたが、ほとんどもう用は無くただの保険だと彼は言った。

「普通の生活だけをするなら、もう以前とあまり変わらない。俺は今まだ成長期だから義足を合わせるのに苦労するけど、それが終われば自分の足とほとんど同じになると思う」

 僕達は二人で並んで歩いて夏のいる日光川の河川敷に向かった。少し右足を引きずるように歩く彼と、誠二の事について話した。誠二の母が言ったことを伝えると、健一は表情を変えずに頷いた。そして小さな声で、おじさんとおばさんは辛いだろうな、と言った。僕は頷いた。誠二の両親が彼の身に起きたことへのショックから立ち直っていないのは明白だった。あのずば抜けた秀才、どこまで知性を伸ばしていくのか想像もつかなかったほど、可能性の塊だった息子が突然その能力を失ったのだから、それも自然なことと言えた。僕達やこの街のことなど彼らはもう思い出したくもないかもしれない。

僕は夏の状態について話した。夏はあの人たちになった、僕達の事を覚えているかどうか分からない、と言うと、健一は、生きてればそういうこともあるだろう、と応えた。

「俺が今回分かったのはそういうことだ」

夏が川に向かってひたすら絵を描き続けている間、僕と健一は少し離れた場所でキャッチボールをした。もう何年も使っていないぼろぼろのグローブ二つを、家の押入れの中から引っ張り出してきたのだ。それは既に僕達の手には小さすぎ、手首がむき出しになった状態だったが、事は足りた。健一は足を踏ん張れないので上半身だけでボールを投げたが、彼のコントロールは以前と変わらず完璧だった。僕は悪送球をしないよう細心の注意を払ったが、結局多少送球が逸れても彼は美しいグラブ捌きと僅かなステップでボールを受け止めた。やがて僕はほとんど彼の足の事を気にせずにスローイングするようになった。

 その間、ほとんど会話は無かった。夏は休みなく絵を描き続け、僕と健一は延々とキャッチボールを続けた。それは何時間も続いた。風と、橋の上を通り過ぎていく電車と車、そして鳥の鳴き声が、無音と等しいBGMとなり、ボールは僕と健一の間でメトロノームのように規則正しく行き交った。

 日が陰り、前触れもなく夏が立ち上がった。それが同時にキャッチボールの終わりだった。画材を片づけ、僕と健一は夏を家まで見送った。

 別れ際に、健一が夏に声をかけた。

「じゃあな夏。裕司をよろしく頼む」

 夏は、僕に対してそうであるのと同じように、健一の方を見もしなかった。

 健一は一晩僕の家に泊まることになっていた。僕の家族とともに夕食を取り、風呂に入った。一応補助の為に一緒に風呂場に入ったが、義足を外した彼の挙動は既に手慣れたものだった。風呂に入る時と出る時以外、彼は僕の助けを必要としなかった。

僕達は寝る前に僕の部屋で映画を観た。

「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」だった。健一が観たいとリクエストしたのだ。

 主人公たちがエンドクレジットとともに荒野に向かって去っていくと、僕はビデオを止めて、健一の布団を用意し、部屋の明かりを消した。僕はベッドに横たわり目を閉じた。

 健一は眠る前に、呟くように僕に声をかけた。

「裕司、お前、あの夜のこと覚えてるか? あの雨の夜のこと」

 ああ、と僕も小さな声で応えた。

「俺は覚えてないんだ。全く思いだせない。何が起こったのか未だによく分からない。誠二も夏もそうかもしれないよな。だからお前には覚えておいてほしいんだ」

「分かった」

「受け入れるしかないんだ。大したことじゃない。毎日自分にそう言い聞かせてる。その通りかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でもどっちにしてもこれが現実だ」

 健一はそこで一旦言葉を止めた。彼の深呼吸する音が静寂の中で聞こえた。

「俺はインディ・ジョーンズじゃなかったんだ」

 そう言うと、やがて健一は眠りに落ちた。僕もしばらくして寝入ったが、途中で目が覚めた。僕の隣で、健一がうなされている声が聞こえてきたからだ。体を起こし、暗闇の中で目を凝らすと、眉間に皺の寄った苦しげな彼の表情がぼんやりと見えた。その彼の声を聞くと、僕はもう眠ることができなかった。僕も同じような夢を観てうなされているかもしれないのを、彼に知らせたくなかったからだ。

 夏と再会して、僕が悪夢を観る頻度は減っていた。だが消滅はしていなかった。

 それまでと違い、夢の内容はいつも異なっていたが、どれも悪夢には変わりない。ある夜は、真中市から人が一人もいなくなる夢であり、別の夜はこの街が崩れ落ちる夢だった。僕以外の誰かが追われたり殺されたりして、僕自身は何もできない。僕は健一や誠二や夏が殺される夢も観た。そういう夢を見て目覚めた朝は、目に映る街の光景がひどく歪に、まるで出来の悪い映画のように非現実的に見えた。そしてやがて悪夢が脳裏に残らなくてもそうした気持ちの悪い朝の方がほとんどになり、僕は自分の住む街がかつてと同じとは思えなくなった。僕にとって恐ろしいことに、それが自分の感覚のせいなのか、実際に本当に変わってしまったのか、どちらなのか全く見分けがつかなかった。

 僕は最初、そうした話を健一としようと思っていた。僕は彼に訊きたかったのだ、「この街は前と同じに戻ったと思うか」と。

 だが結局訊けなかった。同じだと言われても変わったと言われても、僕にとってはどちらにしても恐ろしい回答だったし、何よりもその質問が彼の悪夢の勢力を助長するとしか思えなかったからだ。彼の観ている夢が僕と同じだったかどうかは分からない。しかし間違いなくその地平の先で僕の夢と繋がっていただろう。だとしたら僕は友達の前でだけはできるだけ平気な顔をしていたかったのだ。

 



 僕と夏はこの真中市で二人きりになった。それとも、夏の意識が僕の目の前にあるとは言えなかったから、僕は一人きりになったのかもしれない。

 毎日の生活には全く変化がなかった。僕は放課後になると河川敷にやってきて本を読み、夏はひたすら絵を描き続けた。彼女がそれを破り捨てたりしていない限り、彼女の部屋には既に凄まじい量の絵が完成して重なっていただろう。彼女の絵はいつも同じだった。少なくとも僕にはそう見えた。ただ、どす黒い水のうねりのようなものが、正体のつかめない何物かを押しつぶしてばらばらにし続ける絵だった。

 短い秋が終り、真中市に冬が訪れた。僕が最も忌む季節だ。周囲を山脈に囲まれた真中市には、山から吹き下ろす冷たい風がやってきて、朝から晩まで凍てついている。その年の冬は一段と寒かった。

 そうした冬でも、夏は毎日河川敷に通って絵を描き続けた。風の逃げ場がないそこは真中市で最も寒い場所と言ってよい。夏はそんな場所で、学校にも戻らず、相変わらず毎日絵を描き続けた。だが、歯をがちがち言わせながらキャンバスに向かう彼女の筆の動きは、明らかに鈍かった。絵の具さえ凍ってしまいそうな寒さだ。僕も多くの日には悠長に文庫本のページを繰っていられず、手をこすり合わせてその場で足踏みをした。僕は家から毛布を持ってきていて、夏の肩に掛けてやり、話しかけた。

「絵を描くななんて言わない。でも、どこか別の場所にしないか? ここは寒すぎる」

 夏は僕を無視してキャンバスに筆をぶつけた。

「分かった」と僕は言った、「付き合うよ」

 僕は夏の背後に立ち、彼女の肩に触れた。そして彼女を抱きしめたい衝動に駆られ、それを堪えた。僕がそうしたら、彼女は筆を取り落としてしまうだろう。

 抱きしめることと、お前の声が聞きたいと口にすることを、僕は何百回押し留まったか分からない。実際そうした方が良かったかもしれない。しかし僕は、僕達があの夜の前まで一度もしたことのないことを、今の彼女に対してする気にどうしてもなれなかった。

健一が言ったように、受け入れる、ということが既に僕の生活にとっても最も重要なものとなっていた。健一と誠二がいなくなったことも、夏があの人たちになってしまったことも、この街が以前と別の街に変わってしまったように見えることも、それにまつわるこの生活の何もかもも、僕は受け入れる必要があった。これは現実で、泣いても喚いても事態は何も変わらないのだ。この状況についての整理はついておらず、諸々がこれからどうなるのかの予測も全く無かったが、これからも僕はここで暮らしていくと決めていた。夏の傍には誰かが必要だと思った。今は他に誰もいないし、何よりも僕がそうしたいと望んでいる。僕はこの街で夏と二人で生活していかなくてはならない。その意識においては、むしろ僕の生活は以前よりも遥かにはっきりとした意味を持つようになった。僕の精神は最早昔とは違っていた。昔は困ったら逃げれば済んだが、今はそうはいかないし、そうするつもりもない。

だから僕は、自分の全身を何重にも包む重苦しい閉塞感にも抵抗しなくてはならなかった。僕と夏は二人ともこの日光川の河川敷に影を縫い付けられていて、日が沈んで影が溶けてしまった時だけ家に帰ることができる。そして日が昇ったらまたここに戻らなくてはならない。そういう、自分の人生が牢獄に囚われているという感覚から逃れられないのを、僕は必死になって乗り越えようとしていた。こんな生活がこれからどれくらい長い時間続いて行くのか、という自分からの問いに、永遠に続くわけがない、とほとんど根拠もなく言い張り続けた。どうなるかは分からなくても、これまでもそうだったように、少なくともずっと同じ生活が続くわけがない。

 そしてその通りになった。僕は最初、その存在に気がつかなかった。先に気が付いたのは夏で、彼女が指差す方を見やっても、それが何なのかまだ分からなかった。

 彼女はキャンバスから視線を外して、日光川の汚い川面を指差していた。

 昔から日光川はあらゆる種類のゴミを上流から下流に運んできた。工場の排水に始まり、廃材や、朽ち果てたボートや、折れた木々や、腐った魚や動物の死体や、ありとあらゆる家庭のゴミを。何らかのゴミが漂っているのが通常の状態なのだった。

 彼女が指差す先にあるそれも、そうしたいつもの何かに違いなかった。汚い川の水に隅々まで汚されきった大きな布袋が、ぷかぷかゆっくりと河口に向けて流れ落ちていくのを、僕は夏と並んで見つめた。彼女がしばらくして再びキャンバスに目線を戻すと、僕もそれから目を離した。僕はそれが何なのかをほとんど考えさえしなかった。

あえて最初に目に映った瞬間の印象を言うなら、それはまるで人間の死体に見えた。本当にそうだったと僕が知ったのは、翌朝のテレビニュースでだった。そして死んだのは、横山一紀だった。

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