第四章 雨の後(2)

 僕が健一に再会し、彼が負った重大な外傷について知ったのは、彼の母親の葬式に出席した日のことだった。健一の母親が亡くなったことを知らせたのは僕の両親だった。僕が病院にいるうちに、二人は僕に代わって友達の行方を追ってくれて、早い段階でその事実を知った。僕たち四人が長い付き合いであるから、互いの両親たちにもそれなりの関係があったのだ。僕は両親とともにその葬式に出席したのだが、僕はこれほど陰鬱で悲しい葬式に立ち会ったのは初めてだった。

 健一の自宅は、決壊した堤防から押し寄せた多量の水に押し潰されて全壊した。骨組みと一部の壁と屋根だけが残り、健一の母親はその時に亡くなった。健一の母親にはずっと以前から半身麻痺と腎不全という重い持病があり、自宅で安静にしているのが常だった。食前にインスリン注射をして、母親を二階まで運んで眠らせた後、健一は判断を誤った。一刻も早く自宅から離れるべきだったのに、彼はそこに留まったのだ。その時既に押し寄せた雨水は家の周囲を取り囲み、母親をおぶってでは避難できない段階に達していた。

 それとも、そうはできない事情があったのかもしれない。健一の母が、普段とは異なる重篤な状態にあって、どうしても家から動かすことができなかったということも考えられる。僕にも、他の誰にもそれは分からない。健一はこの後もずっと、その生と死の境目で何があったのかについては誰にも話そうとしなかったからだ。

真中市の外れの葬儀場で、健一の父親が、自分の涙でかき消されそうな声で弔辞を読み上げた。息子の健一は今ここにいませんが、息子は本当によく頑張った、と健一の父は言った。息子は大雨の中、妻を背負って逃げようとしたんです。

 そして二人は暗い水の中に飲み込まれた。健一の母は亡くなり、健一は重傷を負って病院に運び込まれた。

 葬式の後、僕は健一の父に声を掛けた。彼の全身からは精も根も全く感じられず、近づくことも憚られたが、それでも僕は健一の居場所を聞かなければならなかった。

 あいつはひどい怪我をして、ひどく落ち込んでいるから、ぜひ裕司君に見舞いに行ってほしい、と健一の父親は言った。健一がいるのは、僕が三日前まで入院していた病院だった。

 行かなければならないのは間違いないことで、どうしても会いたいのも本当の気持だった。だが僕の心は果てしなく重かった。バスに乗って病院へ向かいながら、一体自分が健一に何を話すつもりなのか、全く想像ができなかった。

 健一の病室まで続く廊下が、ひどく暗かったのをよく覚えている。そして物音がほとんどしない。僕が入院していた部屋とは階が異なっていたとは言え、僕がいたときには常に誰かが騒がしくしていたのが、まるっきりの正反対の静寂しか存在しないために同じ建物とは思えなかった。

 健一の病室は、その静寂の延長線上にあった。だが外の廊下と違って、大量の光が窓から射し込み、部屋全体が真っ白い空気に覆われていた。僕は額に手をかざしながら、部屋の奥にある健一のベッドに近づいた。

「健一」と僕は声を掛けた。

 健一は窓の外に顔を向けていて、僕の声に反応して振り向いた。彼の顔は治りかけの擦り傷でいっぱいで、あの雨の日の最後に別れたときに比べて痩せていた。

「裕司、久しぶり」

 健一はほんの少しだけ唇を曲げてそう言った。会うのはたったの一週間ぶりだったが、それまではほぼ毎日顔を合わせていたのだから、僕も同じ気持ちだった。僕も、久しぶり、と言った。

 座れよ、と健一は言って、ベッドの横に立てかけられたパイプ椅子を指し示した。僕はそこに腰かけながら、傷の具合はどうかと訊いた。

 健一は首を横に振った。そして僕たち二人の目線が、半分しかない健一の右足で交わった。

「母さんの葬式に出てくれたんだろ。ありがとな」

 僕は首を横に振って、残念だ、と言った。

「うん、残念だ。心の底から残念だ」

 健一はそう言って唇を噛んだ。

「裕司の家族は大丈夫だったか?」

 大丈夫だ、と僕は言って頷いた、「俺が足を捻挫しただけで、それと家の一階が水浸しになっただけで、後はみんな無事だった」

「そうか、よかったな。本当によかったな」

 僕は頷いた。

「誠二と夏は? 二人とも無事か?」

 僕は首を横に振った、「まだ分からない。連絡が取れないんだ。誠二の家に行ってみたら雨でやられていて、窓がガラスの代わりに板で閉じてあって、誰もいなかった。夏は市外に避難しているらしくて、連絡先が分からない」

「探して、見つかったら教えてくれ。頼む」

「分かった。ここに連れてくる」

「必ずだぞ」と健一は言った。「約束しろ」

 僕は、約束する、と応えようとした。

 だがその、約束する、という短いセリフの最後で、突然喉に音が詰まって、正確に発音することができなかった。

 僕の頭の中に突然現れた、一つの映像のせいだった。それは何年も昔の、僕達四人がサッカーをしている風景だった。僕たちはいつも必ず健一にボールを集めた。彼は相手が何人いようとその両足を駆使した美しいドリブルで抜き去り、ゴールに向かって行く。彼を止めることは誰にもできなかった。そしてボールが完璧な弧を描いてゴールに吸い込まれる。僕たちは健一に駆け寄ってゴールを祝福する。健一がいる限り、僕たちは同年代の者に負けたことは一度もなかった。

 一瞬で頭の中を覆い尽くそうとするその映像を、僕は途中で振り払った。そして咳払いをして、約束する、と改めてはっきり言った。

 健一はそこで初めてにっこりと笑った。その目を見て初めて、僕は彼も感情をこらえているのだということ、特に涙をこらえているのだということが分かった。だとしたら僕も笑うべきだった。うまく笑えたかどうかは分からないが、健一に顔をまっすぐ向けて、またすぐに会いに来る、と僕は言った。

 だが僕は約束を守ることができなかった。誠二も夏も、僕の力ではこの病室に連れてくることができなかった。




 誠二に会えたのは、僕が退院してから一カ月以上経った後だった。そのころになると、大雨の爪痕はまだ街のあちこちに刻まれて残ってはいるものの、既にほとんどのインフラは回復し、学校の授業も再開されていた。僕の足も治り、どこまで歩こうが走ろうが何の問題もなくなっていた。表面的な日常は、自分自身や身内に被害があった人を除き、市民の下に戻りつつあった。

 もちろん僕にはまだ、日常など戻って来はしなかった。

再開された学校に健一と夏の姿は無かった。他にも県外に一時的に避難したり、引っ越してしまったりして、何人かの生徒の姿が無かった。あの横山一紀もいなくなっていた。ホームルームで担任教師が、彼は母親を亡くして一人になり、親戚の下に身を寄せることになった、と説明した。

 僕はそれを悼むより、あの夜のことを思い出し、心底からただ暗い気持ちになった。母親を殺した、と横山は言った。あの時それが本当なのかどうか僕には分からなかった。横山自身にも分かっていないようだったが、どちらにしても僕は考えたくもなかった。だが彼の母親が亡くなったことは少なくとも本当だったと示されたのだ。これで、一つの事実が逃げ場のない方向に塗りつぶされたのだ、と思った。彼の言った一つの事が本当であったのなら、他の言葉も本当であった可能性は高いということなのではないだろうか。僕はこのことを誰にも喋るつもりはなかった。そして深く考えることを引き続き拒否した。これについて考えていくと、僕の頭は本当におかしくなってしまいそうだったし、正直なところ、深く考えている余裕がなかった。今ここにいない横山のことまで、自分に関係があるように考えることができなかった。友達の事を考えているだけで精いっぱいだった。

 健一は間もなく退院することになっていたが、どちらにしても元の学校に通うことはもう無いだろうという話を僕は彼から直接聞いていた。全壊した家を建て直すよりも、父方の実家に身を寄せてその近くの中学に通うことになるのだと彼は言った。

 それを自然な正しい選択だと思う僕と、拒否する僕がいた。四人の無事が確認できないうちに、一人が真中市からいなくなってしまうことが、僕にはさみしくてたまらなかった。

「その方がいいんだ」

 そう健一は言った。なぜその方がいいのか、彼は詳しく話さなかったから、僕も問いただしはしなかったが、彼が一つの道を選んだのだということは分かった。健一にあったのは二つの道だ。自分のことを知っている者がいる場所で傷を癒すか、誰も知らない場所でそうするかという二つに一つで、彼は後者を取ったのだ。

 夏については、何の情報もなかった。学校にも全く連絡がなく、彼女がどこにいるか知る者は誰もいなかった。僕は担任の教師に、本当に夏のことを何も知らないのかと尋ねたが、逆に彼女の行方を中原の方こそ知らないかと訊き返された。僕は首を横に振った。僕が知っているのは、それが本当のことだとしてだが、夏は雨の翌日に両親に連れられて隣町の親戚の家に避難しているということだけだった。そしてその家の連絡先は誰も知らない。

 誠二の状況も同じだ。むしろ夏以上に、一つの手がかりさえない。

 つまり、僕にとってはまだ最も重要なことの三分の二が明らかになっていない状態だった。そんな僕が学校の授業などに集中できるはずがない。僕は一日中上の空で、授業中も、家に帰ってからも、夢の中でも、二人の行方を捜していた。僕は警察に行き、誠二の通っている私立中学に行き、夏の通う音楽教室を尋ねたが、手がかりはゼロだった。僕はあの大雨の真夜中の悪夢がまだ終わっていないことを受け入れざるを得なかった。目は間違いなく覚めているのに、走っても走っても目的地にたどり着けない悪夢を見続けているような気がした。僕の全身は完全に恐怖の虜だった。この夢から覚めたいという強迫観念が僕の背中を押し、ほとんどの時間じっとすることを許さなかった。

 ある日僕は健一の病室に訪れ、彼にそうした報告――前回と全く変わり映えのしない報告――をした後で、病院のロビーでコーラを飲んでいた。今日も暗い嫌な一日だったと、僕はため息交じりの息をついて俯いていた。誠二との再会は、その時唐突に訪れた。

 何人かの患者達がいるロビーで、僕の隣の、茶色い長ソファに、誠二が腰かけていたのだ。彼は白いパジャマを身にまとい、NHKの大相撲を映し出すブラウン管テレビを眺め、僕が隣にいることに気がつかなかった。

 僕は誠二の横顔をまじまじと見つめた。あまりにも自分にとって予想外のタイミングだったため、僕は隅から隅まで彼を見つめて、それが間違いなく誠二だと、僕がこの世で最も頼りにする友達だと確かめる間が必要だった。

 誠二、と僕は声をかけた。

 だが彼は振り向かなかった。彼はテレビに映る大相撲の中継映像に意識を集中しているようだった。誠二、と僕はさっきよりも大きな声で彼に呼び掛けた。

 ゆっくりと誠二が振り向いた。

 彼の目は虚ろだった。真っ白い顔で、筋肉が半分くらい溶けて無くなってしまったような表情だった。僕の方を向いているが、僕を見ているのかどうかよく分からない。惚けた顔で、あの思慮深く眼光の鋭い彼とは全くの別人だった。

 僕は反射的に、人違いをした、と思った。表面的には誠二と瓜二つだったが、誠二がこんな顔をしているはずがないと思った。ひょっとしたら、彼のことを知らない人であれば、彼本人と全く変わらないように見えたかもしれない。だが僕には一瞬で、誠二とは別人だと分かった。僕は言葉に詰まり、目の前の少年の顔を見つめた。すみません、人違いでした、と言って立ち去ろうとした。

 だができなかった。

 形があまりにも似すぎていた。

 僕の表情は凍りついていた。呼吸もほとんど止まっていた。頷いて、ゆっくり肺に力を入れて呼吸を取り戻し、誠二、裕司だ、と彼に確認するように言った。

「裕司か」と誠二は言った。

 張りのない、柔らかすぎる声だった。

 僕は頷いた。

 頷くことしかできなかった。

 僕は沈黙した。ただ目の前の誠二を見つめた。誠二も、口を半開きにしたまま、沈黙した。

 彼の眼がきょろきょろと左右に動き、やがて僕を見つめて、右掌を軽く上にかざした。

 僕はその動作をじっと見ていた。そして彼が喋るのを待った。

 だが彼は喋らなかった。右掌をかざしたままだった。

 暫くして、その右手も下ろされた。僕は彼の膝の上に戻ったその手をじっと見つめていた。

「俺、健一の見舞いに来たんだよ」

 僕はそう言った。誠二の表情はぴくりとも動かなかった。

「あいつもこの病院に入院してたんだ。知ってた?」

 誠二は僕の顔を見返した後で、ゆっくりと首を横に振り、知らない、と言った。

 僕は、そうか、と言った。その「知らない」というのが、入院していることを知らないのか、健一のことをそもそも知らないというのか、どちらの意味なのか確認することができず、僕は、そうか、とだけ言った。

「健一」と誠二はつぶやいた。口の中でその言葉の感触を確かめるようだった。

「後で、会いに行こう。今日じゃなくて、明日でもいい。あいつもお前に会いたがってたんだ」

 誠二はまた僕の顔をじっと見返した。そしてまた同じように首を横に振った。

「いい、会わない」

「そうか、分かった」

「裕司、お前」

 誠二は僕に指をさしたまま、口を開閉させた。そして左手を自分の胸にあてた。

「俺は大丈夫だよ。誠二、俺は大丈夫だ。なんともない」

 僕がそう言うと、誠二はにっこりと微笑んだ。よかった、と誠二は言った。

「でも、まだ夏が見つかってないんだ。探してるから、見つけたらここに連れてくる。そうしたら四人で話そう」

 誠二は首をかしげて僕を見つめた。分かった、と誠二は答えた。僕の方を見ているのだが、彼自身、目の前の男が僕だと識別できているのかどうかよく分かっていないような視線だった。

 僕は誠二の顔を見つめ続けていたが、彼はやがて眼をそらして再びテレビの方に顔を向けた。

 僕の全身に、いつの間にか鳥肌が立っていた。体が内側から揺れるようにざわつき、得体の知れない感情が喉から溢れそうになって吐き気がした。心臓が全身を揺らす勢いで鳴り響き、体の先端から熱が急速に引いて行った。

 止めてくれ、と僕は思った。

 ただそう思った。僕は何度も瞬きをした。そうすれば目に映る現実の形が少しでも変わるとでもいうように。

 後になって、僕は誠二の両親に彼の病状について聞いた。あの大雨の数日後、誠二は髄膜炎から連なる脳症を起こし、この病院に入院した。痙攣や発作、錯乱を経て、症状は落ち着いた。だが、脳には重い後遺症が残ったままだった。主に記憶と言語野にその影響が強く残り、それが今後完全に回復するかどうかは全く未知数だということだった。正確な原因の特定は難しかったが、彼は荒れ果てた自宅とその周辺の片づけをするうちにそれに罹ったのだ。医師によれば、不幸な偶然が重なった珍しいケースだということだったが、現に起こってしまったことはどうあがいても取り返しのつかない現実であり、それがたとえ数万分の一の確率だったとしても今更何の関係もなかった。

 僕は誠二の横顔を見ながら、体の中のざわめきに必死で耐えていた。長い時間動かずにじっと耐えた。テレビで繰り広げられる大相撲の取り組みが結びの一番まで終わった頃にそれはひとまず収まったが、代わりに自分の感情が完全に停止してしまっていることに気がついた。彼の目には、あの理知的な鋭さも、僕をいつも助けてくれたあの力強さも感じられなかった。それについてどう考え、感じたらいいのか全く分からなかった。

 



 それから、僕にとって時間の流れはそれまでと全く違う動きを見せるようになった。昨日と今日が連続しておらず、今週と来週の区別がつかない。今日の次に何も変わらない明後日が来る。ひどい時には明日の次に昨日が来ているようにさえ感じられた。街の風景はどんどん以前と同じに戻っていくのに、僕の日常はそれとは全く逆に、自分自身から日に日に離れていくからそういうことになったのだ。僕はその齟齬を建て直し、正常な関係にすり合わせることがどうしてもできなかった。僕は毎晩悪夢を見てうなされた。悪夢の定番、走り続けているのにどこにも辿りつけない夢と、真っ暗闇の中を真っ逆さまに落ちていく夢の二種類だ。それが眠りに就くごとに交互に僕の頭の中にやってきた。僕は眠ることにも起きていることにも疲れ切っていた。

 この時自分が何を考えていたのかは、今でもはっきり覚えている。僕はたった一つのことしか考えていなかった。

 それはもちろん、夏はどこにいるのかということだ。

 僕は夏を探し続けていた。あまりにも手掛かりがなさすぎ、僕は毎日ひたすら真中市じゅうを自転車で走って回った。何の当てもない、無意味な捜索だった。何の収穫も得られずに家に帰ると、僕は風呂に入って、悪夢を見て、目覚め、翌日学校で茫然と授業を受けると、また自転車で真中市じゅうを走りまわる、という生活を繰り返した。このころの僕はほとんど夢遊病者と何も変わりなかった。

既に健一は真中市を去って北隣の県に引っ越しており、誠二は退院して、同じく県外への転居の準備に入っていた。今の彼が進学校の授業についていけるはずがなく、彼のリハビリテーションを中心にカリキュラムを組むことができる学校は、真中市の遥か西にしか存在しなかった。僕には、二人が去っていこうとするのを止めることなどできず、完全な一人ぼっちになろうとしていた。

 僕の中には、互いに全く矛盾する、二つの直感があった。自分は永久に夏を探し続けることになるだろうという直感と、自分は近いうちに必ず彼女を見つけるだろうという直感の二つだ。僕は後者を信じた。論理が保証するのはそちらだったからだ。既にあの大雨から一カ月以上の時が経ち、これにまつわる死亡者の身元は判明されつくしていた。その事実から導き出される論理を僕は頼みとしたのだ。彼女がもし死んでいたとしたら、それを隠すことなど誰にもできない。夏が生きているのは間違いないのだ。そうであれば僕はいつか必ず彼女に再会する。念仏のように僕は自分にそう言い聞かせていた。

 夏を探して真中市のありとあらゆる場所を走りまわったため、僕は街が日に日に復興していく様をその目に焼き付けることになった。昨日までは倒れていた街路樹が一本一本片づけられたり立ち直ったりし、閉じていた店が再開し、道が舗装され、街灯に明りが戻っていく様子を、まるで朝顔の観察記録を書くように、眠る前に日記として書きとめた。一方で、荒廃したままいつまでたっても元に戻らない場所もあった。僕達がかつて通った駄菓子屋や本屋などの商店、いくつもの住居からは、人の住む気配が消え、次にやって来る誰かが現れない限り打ち捨てられたままだった。そこには閉店を告げる張り紙もなく、ただ唐突で半永久的に続くグレーの色があるだけだった。

 時間が経つにつれて街に戻って来るのは光や景観だけではなく、そこに住む人々も同様だった。道を行き交う車の数はかつての勢いとほとんど同じに戻り、公園で遊ぶ子供たちの数も、道端で談笑するおばさんたちの数も、やがて全てが雨の前と変わりなくなった。いかに凄まじい水害だったとはいえ、六万五千人が住むこの街で、先の大雨で亡くなった人は数で言えば数十なのだ。街を行き交う人の様子は元の通りになるのが当然だった。

傷跡は街の中になじみ、元からあった風景と、新しく建て直されたものと混ざり合い、どこからが過去で、どこからが変更されたものなのか、最早見分けることは困難になりつつあった。

僕はそんな光景を眺めながら、何かが足りない、と思った。この街を構成する決定的な何かが足りない。自意識をほぼ喪失してひたすら夏を夢中で探していた僕にとって、その違和感ははっきりとした意識にまでは到達しなかった。それは無意識の中にぼんやりと揺蕩って、僕の中の漠然とした不安感と混ざり合って全く区別がつかない感覚だった。

 その何かが何なのか僕に気付かせたのは、あの雨の後で、最初に再会したあの人たちだった。それでようやく分かった。彼らがいなかったのだと。彼に会うまで、僕はあの人たちがこの街から一人もいなくなってしまったことに気がつかなかったのだ。

 僕は彼と、かつて僕達が秘密基地を建てた場所で出会った。その場所には、雨の後、体調が回復した最初の段階で訪れていた。僕達がかつてそこに築いたものの全てが砕け散っているのを確認する必要があったからだ。そして、予想した通りそこには何もなかった。雑草も、雑木林も、何もかもがなぎ倒され、水に押し流されて地面はぐしゃぐしゃになったままで、僕達の基地の一片の痕跡も残っていなかった。僕はそれがどこにあったのかさえ、自信を持って特定できなかった。僕は立ち尽くして、何もないその光景を眺めていたが、心臓が内側から破れそうな気がするほど胸が痛くなって5分と耐えることができなかった。

 だから僕は最初、この場所にはもう二度と訪れることはないだろうと思った。だが実際には、僕は時間を空けて、もう一度だけ戻ってきた。戻って来ざるを得なかった。夏がいる場所の見当がつかない以上、彼女と少しでも繋がりのあった場所であれば、いつまでも素通りすることはできなかった。行けばただ胸が締め付けられるだけだというのは分かっていた。あんな寂しい場所には夏はいないだろうと思った。何もないのを確認してすぐに立ち去るだけのつもりで、僕は奥歯を噛みしめてそこに向かった。

 だがその日この場所にやってくると、そこは「何もない」空間ではなくなっていた。木々が排除されてできた広場に、小さな小屋が建っていたのだ。厳密には、小屋と呼べるようなものですらない。木片や段ボールや鉄パイプや土管を集積させた、ゴミの山だった。ゴミたちが寄り集まって、オブジェの如きがれきの塔を形作っている。僕がそれを「小屋」と認識したのは、しばらく立ち尽くすうちに、そのゴミの隙間から一人の男が這い出てきたからだった。

純白の衣服の男だった。

 彼は空を掻き、ゆっくりと土を掻くような動きをして片膝立ちになり、少しの間俯いて動かなかった。呼吸を整えるような間合いの後、一気にすっくと立ち上がり、あたりを見回して、僕を通り過ぎて一周した後で、もったいぶって僕に視線を戻した。芝居がかった動きだった。

僕はその小屋と、現れた男を眺めながら、自分の頭を埋め尽くす感覚が既視感(デジャヴ)なのか未視感(ジャメヴ)なのか、判別することができなかった。

 彼は真っ白い綿製のぴったりした服を身にまとい、真っ白いマントを羽織り、頭には真っ白いタオルを巻き、真っ白いマスクで顔を覆っていた。頭の先からつま先まで、一か所を除いて全てが純白で、目元を完全に覆い隠すサングラスだけが漆黒だった。

 その姿はどこからどう見ても日光仮面だった。

 僕は開いた口がふさがらないまま、彼のサングラスの向こうの瞳を見とおそうとした。日光仮面の素顔をそもそも知らない僕にとっては無意味な行為だったが、そうせざるを得なかった。

 どう見ても目の前にいるのは日光仮面なのに、僕はその男に違和感しか感じなかった。僕は反射的にこう思った。日光仮面が生きているはずがない。彼は雨の中で死んだはずだ、と。

「あんた誰だ?」

 僕は、目の前で手足のストレッチ運動を繰り返している男にそう訊いた。

彼はすぐには返事せず、首を何度か左右に傾けた後で、僕の真正面に体を向け、両手を腰に当てて言った。

「私は月光仮面」

 そして彼は腰のベルトに垂れ下がったホルスターから二丁の拳銃を引き抜き、ばん、ばん、と声に出しながら何もない中空に向かって引き金を引いた。

「何仮面だって?」

「私は月光仮面」

 彼はもう一度そう名乗った。そして歌いだした。



  どこの誰かは知らないけれど

  誰もがみんな知っている

  月光仮面のおじさんは

  正義の味方よ よいひとよ

  疾風のようにあらわれて

  疾風のように去っていく

  月光仮面は誰でしょう

 月光仮面は誰でしょう



「知ってる」

 僕はそう呟いた。もともとこの歌はこういう歌詞だった。だが同時に僕は知らなかった。「月光」仮面など知らない。少なくともこの街の中でだけは、この歌詞は正確でない。

 単なる日光仮面の物真似だ。そう僕は思った。もともとの本物の名前を名乗る者が偽者、というのはややこしかったが、真中市において日光仮面のインパクトは強烈だった。彼がいなくなった今、この街で勝手にその後を継ごうとする追随者が現れたということ自体は、別に不自然なことではないと思った。

 だが、月光仮面と名乗る彼の歌声を聞きながら、僕の胸の中に制御しがたい感情がふつふつと込み上げてきた。それは怒りに近い感情だったが、何に対するどういう名分での怒りなのかが自分でも全く分からなかった。

「知っているのか、では話は早い。君に頼みがある」

 僕は沈黙したまま彼を睨みつけていた。

「この街に潜む悪を見つけたら私に知らせてくれたまえ。私がやつらに天誅を下す。この街の平和は私が守る。それが私の任務なのだ」

「必要ない」

 僕がそう言うと、彼は首をかしげた。

「君は気が付いていないようだが、この街に危険が迫っているのだ。悪は今、この街に潜み、何食わぬ顔で生き延びている。しかしやがてやつらは恐るべき手段を持ってして、この街を破壊し、殺戮の限りを」

「必要ない」と僕は言って遮った。「この街には日光仮面がいる」

「日光仮面? 何者だ?」

「この街を守る正義の味方だ」

「それは偽者だ」と月光仮面は言った。「正義の味方は月光仮面ただ一人」

「正義の味方のルールは知らないけど、日光仮面は偽者じゃない」

「では彼はどこにいる? 荒れ放題で、貧しく、笑顔の消え去ったこの街で、真の正義の味方たる彼はどこにいる?」

「いつか戻って来る」

 僕はそう言った後、首を横に振った。馬鹿馬鹿しい会話だった。この月光仮面が何者であれ、あの人たちの一人なのは間違いないと分かった。今の僕は彼らとは別のところにいた。別の世界の住人と意思を通い合わせようとするのは、それがまともな会話であれ荒唐無稽であれ、どうあってもまともな行為と言えない。僕はあっという間に彼に一切の興味を抱くことができなくなった。

僕は軽く手を挙げて、その場を立ち去ろうとした。

 待ちなさい、と月光仮面が呼び止めた、「何か困っていることがあるだろう。私に相談するといい。君の助けになる」

 僕は首を横に振った。

「俺はもうあんたたちの助けは要らないんだ。日光仮面はあの時俺に、もう守ってやれないって言った。だからもういいんだ」

僕はそう言って今度こそ月光仮面に背を向けて去った。

そして僕はもうこの場所に訪れることはなくなった。ここはもう僕達の場所ではなく、彼の場所だった。




 何の収穫もない毎日が過ぎ去っていった。僕の頬は痩せこけ、眼だけがギラギラとして、人相が数か月前までとまるっきり変わってしまった。いつも腹を空かしていたが、食欲は全くなかった。僕は常に何かを探し続けていた。具体的にはたった一人の女を探していたのだが、長い時間と集中力が費やされた結果、その対象は次第に僕の心の中で世界全体そのものと同一化してしまった。

その時間は永遠のように感じられた。だがもちろん永遠などない。それどころか、振り返れば誠二と再会した後のほんの数週間だった。僕はやがて夏を見つけ出した。彼女は日光川のほとりにいた。

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