第四章 雨の後(1)
第四章 雨の後
真中市に訪れた大雨は、この小さな街に甚大な傷跡を残した。二〇〇棟近い住居が全壊ないし半壊、床上浸水が六〇〇棟。九割以上の世帯が停電し、完全な復旧には二週間以上を要した。下水処理のシステムの一部も破壊された。直接の死亡者数は二十二名、けが人は二〇〇名以上。紛れもなく、真中市の歴史上最大級の災害だった。
もちろん傷ついたのはこの街だけではない。周囲の市も状況は似たようなものだった。特に、真中市と同様に日光川の決壊の影響を受けた街が悲惨だった。
雨の過ぎ去った翌日以降、水の中に沈んでしまった街の復旧が最大の懸案事項となったが、それと同様に問題となったのは、大雨の直後から各種の疾患、感染症が市民に蔓延したことだった。洪水の残骸の処理に立ち会った者を中心に、破傷風や腸チフス、低体温症や肝炎といった症状が多発した。数え切れないほどの人々が真中市とその周辺の街の病院に担ぎ込まれ、ベッドの数は幾つあっても足りなかった。その中に、僕の名前もあった。
全ての雨と雲が通り過ぎ、突き抜けるような青空と、四方八方に強烈な光を打ち下ろす太陽の下、濁った泥水に浸かりながら、僕は眼を覚ました。光があたりに敷き詰められた水の上で乱反射し、眩しくてまともに目を開けていられず、僕は自分がどこにいるのか全く分からなかった。見渡す限り360度、全ての風景が昨日までと違いすぎた。昨日までの、ごく普通の、何の特徴もない、何の凹凸もない、平凡な街と。そして、昨日この街を隅から隅まで覆って、二度と離れることはないかと思えた暗闇と。全ての家が灰色と茶色に汚れ、見渡す限り濁った湖面に沈んでいる。さらさらと水が流れる音が聞こえる以外、街は静まり返っており、僕たちの耳を殴りつけ続けた雨の音はもうどこにもない。だが僕の耳にはまだ大雨の残響があって、実際の静寂と記憶の轟音という両極端のどちらに落ち着いたらよいのかと耳が迷っていた。
僕は立ち上がろうとしたが、足に一切力が入らなかった。座り込んだ膝の裏をゆっくりと汚水が流れていく。僕は夏の名前を呟いたが、既にそれは意味を失っていた。昨日の夜の暗闇に向かって数え切れないほどその名を呼んだおかげで、意味が極限まで摩耗し、名前から言霊が消えてしまっていた。僕は自分がなぜここにいるのかも分からないほどだった。目を覚ましても、まだ意識が覚醒と眠りの間でゆらゆらと揺れ動いて、僕という人間を形作ることができなかった。
道の向こうから音がして、車輪の大きなトラックが、ゆっくり水をかき分けて進んできた時も、僕はぼんやりと見上げる以上の反応ができなかった。トラックは僕の目の前で停まり、中から迷彩柄の作業服とヘルメットを身に付けた男が降りてきた。
大丈夫か、と彼は僕に声をかけ、僕はぼんやりと頷いた。
私たちは自衛隊だ、もう大丈夫だ、と彼は言い、僕の肩に手をかけて、立ちあがらせた。その瞬間、僕の口からうめき声が漏れた。左足首に強烈な痛みを感じた。
足を怪我しているのか、と彼が訊くので僕は頷いた。
彼は僕をトラックに乗せた。そこには僕の他にも何人か先客がいた。彼らは一様に濡れそぼって悄然としていたが、どんな人々だったかはあまり記憶がない。僕を車に乗せた男は大きなタオルを寄こして、僕に名前を聞いた。
膝の上に広がるタオルを見下ろしながら、中原裕司です、と僕は名乗った。
既に車は走り出していた。彼は僕に、両親はどこか、家はどこか、体調に異常はないか、と訊いた。僕はその全てに対して首を横に振った。彼は僕の額に手を当てて、ひどい熱だぞ、と呟いた。
「夏という名前の女の子がいませんでしたか」
僕がそう尋ねると、彼は僕の顔をじっと見つめた後で、首を横に振った。私たちは知らない、だけどおそらく避難先の学校か、自宅にいるだろう。
僕は首を横に振って、そこはもう探したんです、と言った。「探したけど見つからなかった」
分かった、と彼は言った。「私たちが探すから、君はゆっくり休みなさい」
そして彼は僕の肩にタオルをかけた。僕は首を横に振りながら、再び眠りに落ちた。
そのまま僕は真中市内の病院に担ぎ込まれ、入院病棟のベッドをあてがわれた。
両親と再会したのはその日の真夜中だった。二人はどちらも、昨夜は仕事先から家に戻ることができずにオフィスに泊まり、翌朝合流して僕を探しまわったらしい。両親は僕を見つけて泣いて喜び、僕は微笑んで大丈夫だと言った。熱は刻一刻どんどん上がり、ぬぐい難い悪寒が全身を覆い、呼吸も喉につかえ、意識は幾分朦朧としていたが、そのダメージは僕にとって日常や過去の経験の範囲を大幅に逸脱するものではないことが、自分自身で分かっていたからだ。
僕は両親に訊いた。
「夏は見つかった?」
両親は、ああ大丈夫だ、お前を探す途中で、小学校で会った、と言った。
「本当に?」と僕は訊いた。何度も何度も訊いた。
本当だ、大丈夫、夏ちゃんは親御さんたちと一緒だ、と父は答えた。
僕には信じられなかった。事態のそんな簡単な解決を、すぐには受け入れることができなかった。だが同時に、そんな安易な決着こそ、現実の行きつくところなのかもしれない、とも感じた。何故ならもう夜は明け、この街を覆った想像力という魔法は解けているはずだったからだ。
夏に電話したい、と僕は言った。今どこにいるのか教えてほしい。
両親は首を横に振った。私たちにも分からない。夏ちゃんの家は被害が激しかったから、市外の親戚の家に避難するらしいんだ。
どうしてその親戚の家の電話番号を聞いてくれなかったんだ、と僕は言った。
二人は首を横に振り、そして、僕にとにかく今はゆっくり休むようにと告げ、落ち着かなくベッドの脇で立ちあがったり椅子に座ったりを繰り返していた。
僕は夢と覚醒の間で、夏のことを考えていた。どうやら見つかったのは本当らしい、見つかったのならそれでよかった、と。次に会うときは笑って、どこに行ってたんだよ、と彼女に訊けばそれで終わりだ。全ては僕の勘違いだったに違いない。だから僕は彼女には、お前を探して俺は大雨の中に出掛けて行ったんだとか、余計なことは何も言わなくていい。たった一夜だけの、たった数時間の錯乱だったのだ。
そう思いながら、完全に眠りに落ちてしまうと、誰かが夢の中で、それは嘘だと言った。その時僕が見たのは悪夢だった。どんな内容だったかは、次に目が覚めたときに一瞬で消えてしまい、今はもう全く思い出せないが、その夢が僕の心臓を握りつぶすような冷たい不吉な感触だったことだけはよく覚えている。夢の中で僕は恐怖に怯えていた。
診断の結果、僕は左足首を捻挫しており、おまけに肺炎に罹っていた。それに加えて肉体の耗弱が激しく、結局五日間も入院することになった。それだけ長期間になったのは、街の交通網や一部の電気、ガスといったライフラインが依然として復旧していなかったからであり、僕の自宅が人の住める状態でなくなってしまっていたからだ。雨は僕の家の床上まで浸水し、一階部分は水が引いた後も一面泥まみれになってしまっていた。諸々の事情を勘案した結果、僕が病院のベッドでおとなしくしていることが、両親にとって最も望ましい状態だったのだ。
そして両親が望んでも望まなくても、僕は最初の二日間、ベッドからほとんど動くことができなかった。全身から力が失われていて、起き上がろうとすると体中の筋肉や関節が悲鳴を上げた。だが僕は何としても病院の外の様子を知りたかった。ぎりぎり立ち上がれるまで体に力が戻ると、松葉杖を突いてよろよろ歩き、僕は体力の許す限りの時間をテレビの前で過ごしてニュースを見た。入院患者は誰もが僕と同じ気持ちだったらしく、ロビーのテレビの前はいつも物凄い人だかりだった。ヘリから撮影された映像で、茶色い水の中に水没した街の様子が映し出されていたが、見慣れた風景とは全く違ったので、あの雨を全身で浴びた僕ですら、それが今の真中市だと言われても容易には受け入れがたかった。報道では、これはこの地域における観測史上最大の雨であり、多くの市民が避難生活を余儀なくされていると伝えていた。水を捌けられた学校や公園などに避難キャンプが張られ、炊き出しを受ける人々の様子が映し出された。彼らは確かに真中市民に違いなかったが、疲れ切ったその表情と汚れたりくたびれたりしている服のおかげで別の世界の難民のように見えた。そして、そんなニュースが伝えられたのは、雨の後の三日程度までだった。何の特徴もない地方都市群を襲った大雨のことなどニュースとして継続して報道する価値はないらしく、被害地域の大半で電力系統が復旧したという善き知らせの後は、真中市がテレビに映る機会は全く無くなった。
テレビに何も映らないのに苛々するうちに、僕の体力は徐々に回復し、自分の望みを抑えることができなくなった。三人の友達と連絡を取りたいという望みだ。誠二はおそらく大丈夫だろう。でも健一はどうだろうか。両親に訊いても彼の安否を知らなかった。夏が無事なら、あの時結局、彼女はどこに行っていたのか確認しなくてはならない。
誠二と連絡を取るのが最優先だ、と僕は考えた。彼は他の二人の居場所や状況を知っているかもしれないし、知らなかったとしても今の僕よりは早くそれを調べられる環境にあるだろう。僕はテレホンカードを手に、公衆電話の前に形作られた長大な行列の最後尾に並び、ディズニーランドのアトラクション並みの待ち時間を経て、誠二の家に電話をかけた。
だが電話は繋がらなかった。呼び出し音やNTTのアナウンスさえなく、返答は沈黙だけだった。健一の家に掛けても、夏の家に掛けても同じだった。僕は小学校に電話をかけ、西島誠二がそこにまだ避難しているかどうかを尋ねた。電話先の教員は、分からない、と応えた。雨が明けた翌日以降、学校には新たに避難してくる人々と自宅に戻る人々とが一気に大量に交換されたことから、名簿の正確な管理ができなくなっている状況らしかった。時間や手間をかければ調べてもらえるかもしれなかったが、たとえ僕の背後に並ぶ長大な行列のプレッシャーを無視したとしても、刻一刻と点数が減っていくテレホンカードがその猶予がないことを僕に告げていた。僕は、もしも西島誠二がまだそこにいたら、中原裕司は今は病院にいるが、元気でいると伝えてほしい、と言い残し、それ以上は諦めるしかなかった。僕は受話器を置いて、松葉杖を突いて歩き出した。
そして僕は夏のことを考えた。両親が僕に言うには夏は既に市外に避難しているらしいから、電話が繋がらないということはそれが本当だったという裏付けではあるのだ。彼女は無事に違いない、僕はそう自分に言い聞かせた。そう言い聞かせながら、自分が楽天的になるべきなのか、悲観的になるべきなのかが判断できなかった。
僕は一刻も早く退院しなくてはならない、と考えた。とにかく僕に必要なのは「事実」だった。友達の無事という事実だ。それをこの目で確認しない限り、僕は結局いつまで経っても安心できないだろう。
高熱と足首の捻挫によって全身の機能には制限がかかったままだったが、食欲はかなり回復し、僕の頭の中には完全な回復までのイメージが描かれていた。脳細胞には熱の幕が掛かっていたが、そのすぐ裏側では血が脈動しているのが感じられた。病室の窓から外を見やる限り、水は真中市の主な通りから消え去りつつあった。残っているのは泥だけのはずだ。僕は退院までの数日間、ひたすら友達のことを考えて過ごした。そして医師に会うたびにいつ退院できるのかと訊いた。彼はもうすぐだと言った、「君みたいな元気なやつには早く退院してもらわないとこっちも困る」。
遂に退院の日がやってきて、父が運転する車の後部座席に乗り込んだ。
そこで僕は、砕け散った街を目の当たりにした。衝撃的な光景だった。道の端に泥が押し寄せられて山積し、全ての街路樹は押し倒され、家々は古いものから順番に崩れ落ちて、人々がその復旧に当たっている。剥がれ落ちた瓦や、砕け散った窓ガラスや、種々雑多な判別しがたい大量のゴミたちは、空き地や全ての稲穂が押しつぶされた水田に一時的に積み上げられている。何より僕の視界を埋め尽くすのは、全体的な灰色だった。街の全てがグレー以外の色を失って沈黙に覆われている。もともとなんの面白みもなかったこの街も、確かに何かが生きていたのであって、そして今確かに何かが死んだのだということが、どんな言葉で説明されるよりもその色を見ればはっきりと分かった。僕の五感と精神はそれらの破壊の情報を物凄い勢いで体内に吸収していった。
その情報量は僕にとってはあまりに過剰だった。だから僕には、その破壊を解釈して別のものに置き換えたり、それが広がっていく先の事を考えることまではできなかった。破壊は破壊のままで、そこから先には一歩も進まずに止まっていた。
僕は、肝心なことは何一つ感じ取ることができていなかった。まだ僕は、自分にとって一番重要なことを分かっていなかった。
徹底的な破壊の痕を目前にしても、僕はまだ、自分が生き残れたことに安堵し、仲間の無事を無邪気に信じていた。僕はこの時まだ、あの暗闇の半日間だけが特別で、全ては放っておいてもやがて元に戻っていくものだと思っていた。僕はこの街に起こったことがどういうことなのか、現実というのが一体どういうものなのか、全く分かっていなかった。雨がこの街を破壊したということは、その破壊が僕たちにも直接降り注いだということで、起こった現実には一切の容赦はないのだ。だから、その破壊が仲間たちを傷つけたところで何の不思議もない。そういった論理的に訪れ得る現実を、僕は全く理解できていなかったし、想像できなかった。それは愚かなことだし、みじめなことだ。後に事実を知った僕に、後悔という二文字に埋め尽くされた感情がやってきた。
そもそも既に間違いを犯していた僕が、起こってしまった破局について想像することができなかったとしても、それはやむを得ない帰結だったのかもしれない。何故なら、不幸なことなど何も起こらず、友達が無事だと思いこむことは、既に現実が起こってしまった今、僕にとっては現実逃避でも思考停止でもなく、切実な祈りだったからだ。
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