第三章 雨(5)

 僕は缶詰に入ったクッキーをネズミよりも遥かにゆっくり、少しずつ齧りながら、日光仮面の日記を読んでいた。それは単純で完全な時間潰しだった。そこには日光仮面が来る日も来る日もサタンの爪を追い求めて真中市じゅうを走りまわる珍道中が記録されているのみで、この街の日常そのものの写し絵だった。驚愕すべき新たな事実はどこにもなかった。サタンの爪はどこにもおらず、危険は兆しさえ見えなかった。彼が何故わざわざ大雨の中、僕の家を訪れてこれを託したのか、その理由はノートのどこにも未だ見つからないままだった。

 日光仮面は今どこにいるのだろうか? 彼の愛車ドリーム号は、この大雨の中、濁流をかき分けて進むことができるのだろうか。それとも上も下もない川と化した道を彼は単身泳ぎ続けているだろうか。彼の敵はどこにいるのだろうか。彼の敵はなんなのだろうか。それはそもそも人なのだろうか。彼とのこれまでの会話で伝わってきた「サタンの爪」のイメージを僕の中で斟酌するに、それは「誰か」ではないように思えた。少なくとも日光仮面自身よりは遥かに大きな存在だ。とてつもなく巨大な悪の組織が真中市を支配しようとたくらんでいるという発想は、もちろん馬鹿げている。この街には、悪の親玉がわざわざ支配しなくてはならないようなものなど何もない。貴重な資源も、重要な機関も、優れた人材も、僕の三人の友達を除いては、何一つない。侵略し、破壊すべき街は、真中市以外であればこの国のどこにでも存在する。決してこの街では無い。僕が思い描くサタンの爪は、人でもモノでもなく、悪意の総体のようなイメージだ。それは人と人との間にあり、僕らをそそのかし、陥れ、他人を傷つける、漠然とした空気や精神の塊のようなものだ。それはどこにでもいるが、どこにもいない。しかし、誰がそんなものを正確に捉えることができるだろう。

 そんなことを考えるのは、興味があってそうするのでは無かった。見知らぬ世界の他人事に思いを馳せることが、今夜眠らないと決めた僕にとって最良の夜明けまでの時間稼ぎであったというだけだった。

 日記の中で、日光仮面は時折、真中市に住むあの人たちとコンタクトを取ろうとしていた。あの、大量の空き缶を背負った男や、公園でエイリアンを待つ老人や、軒先で怪しげな鍋を一日中かき回している中年女や、日光川の上流で河童を見たという男や、セーラー服を纏った中年男といった、おなじみの錚々たる顔ぶれだ。もちろん目的は、打倒サタンの爪のため、団結して挑むことを企図してだろう。日光仮面は、異常なものに対しては異常な者たちで徒党を成して立ち向かうべきだと考えていたのに違いなかった。だが、果たしてその挑戦はその都度失敗に終わっていた。誰ひとり、日光仮面の高邁な理想と危機意識を共有することはできなかった。日光仮面は残念がったが、僕からすれば、止むを得ない結末と言えた。彼らはそれぞれに孤立し、互いの世界を共有するには各々のビジョンが強固に過ぎたのだ。やがて日光仮面もそのことに気がつき、彼は一人で戦う決心を新たにするのだった。

 今も日光仮面はきっと、一人だろう。一人でこの街を泳いでいるだろう。彼がどこに向かっているのか、彼以外には誰にも分からない。

 僕は傍らに置かれたラジオの音に耳を澄ました。そこから聞こえる知らせでは、雨の勢いはどうやら、少しずつではあるが、弱まりつつあるようだった。未明には雨は次第に収まる見込みである、とアナウンサーは告げた。しかし、日光川にはまだ誰も近付けないため、決壊した堤防と川の様子が実際のところどうなっているのかは、続報はないままだった。

 心なしか、実際に窓をたたく雨の音も遠ざかった気がした。腕時計を見ると、間もなく深夜12時を迎えようとするところだった。雨が少しずつ弱まりつつあるというニュースは、静かに、そして一瞬のうちに伝わって我々全員の共通認識となった。それは緊張が解けて安堵が広がるのとほとんど同じ意味だった。大人たちが交代で見張りに立つことになり、再び教室の明かりが消された。少しずつ、僕を包囲するように、周囲の人々は横たわり、眠りに落ちて行った。だが僕はまんじりともせず、暗闇の中で目を見開いていた。まだ朝までは折り返し地点に来たのに過ぎない、と僕は自分に言い聞かせた。雨は少し弱まったかもしれないが、まだ何一つ終わっていない。僕たちは誰ひとり、自分たちの家がどうなったかすら知らないのだ。

 僕は頭の中で日光仮面のことを考え続けた。脳みそを回転させ続け、眠気を遠ざけることさえできれば考えることは何でもよかった。彼のイメージは、さっきまでの読書によってだいぶ僕の意識に定着していたため、引き続きそれを推し進めるのが最も楽な行為だったのだ。

 そして僕の頭の中にやってきたのは、過去の記憶だった。日光仮面が宣言した通り、僕が彼に会うことはもう二度と無いのかもしれない。そうだとしたら、僕は訊き忘れたことがあった。訊いても答えなかったとは思うが、どうしても一つだけ訊くべきことがあった、と僕は思った。

 あの小学生の夏の日に、日光仮面が片付けた男の死体についてだ。彼はどうやって全ての始末をつけたのか。あの死体は今どこにあるのか。僕たちは――少なくとも僕は――あの薄汚れた、あらゆる場所から切り離された孤独で小さな神社には、結局あれから一度も訪れていない。そこに至る道は消えていた。本当にあそこにはもう死体はないのだろうか。それはいまだに骨と皮だけになって、あの鳥居にぶら下がって雨に打たれてはいないのだろうか? そうではないと、日光仮面がいなくなってしまえば、もはや誰に言いきれるだろう? 

 日光仮面が僕たちに勧めていたのは、全てを忘れることだった。忘れるということは考えるのを止めるのと同じことだ。そうすることが正しいのかもしれないとも僕は思った。あの男は死んだし、僕たちは逃げだした。いまさら考えたところで取り返せるものは何もない。死んだ者は死んだ者だし、逃げた者は逃げた者だ。だが僕は今、どうしてもその死体の行方が気になった。これまでの3年間、時々僕の脳裏をよぎることはあっても、すぐに通り過ぎて別の物事の陰に隠れて行ったあの死が、今ほどちくちくと飲み込み切れずに僕の胸の中に留まり続けたことはなかった。何故なのか、その理由は分かっている。さっき夏が言った言葉が針となって消えないのだ。

〈あの人、生きてたんじゃないかな?〉

 あり得ない、と僕は夏に応えた。今もそう思う。論理的には。そして記憶の中にまだ鮮明に残る事実も、僕を支持している。しかし、夏にそう思わせ、今僕にその疑念を生み、揺さぶろうとするものは、論理とも記憶とも事実とも関係が無い。

 それは想像力だ。何も無いところから一を生み出し、一を百にも千にもするあの力だ。想像力がある限り、記憶は無効化され、幻想は事実を容易く凌駕する。想像力は闇の中で広がる。目に映る影と形が薄まれば薄まるほど、それを頭の中で補完するために、その力は勢力を増す。今日は僕も夏も、この街の誰一人として体験したことの無いとびきりの闇が街全体を覆っている。頭の中で死んだ者が蘇るにはうってつけの日なのだ。

 だから僕は日光仮面にあの男の死体の始末をどのようにつけたのか、確認するべきだった。是も非も無い、想像力が入りこむ余地のない圧倒的な事実が把握できていれば、どんな真っ暗闇でも迷うことは無い。無意味な想像、あり得ない空想の出番はどこにもない。

 でも今の僕にはその事実が無い。僕にはもちろん分かっている、例え日光仮面が死体を処理した段取りを克明に僕に知らせてくれていたとしても、そんなものは何の保証にもならない。それはどれだけ克明な記録であっても、この目で見たものではなく、自分の身に刻まれた事実ではないのだ。それでもいいから僕は今日光仮面から、その言葉が聞きたかった。死体は確かに埋めた。全ては誰の目にも触れないように完璧に片付けた、と。何故なら、そうでなければ、あの時「死体を私たちで埋めよう」と言った夏が正しかったことになるからだ。あの夏の言葉と意志は、あの男が今も生きているかもしれないと感じる現在の彼女の想像力に直結している。

 僕は眼を見開き、軽く頭を横に振った。頬を両手でぴしゃぴしゃと叩き、やはり止めよう、と思った。考えるのをやめろ。誠二の言った通り、今考えても仕方がない。今は何も考えずに、無事に夜が明けるのを待てばいい、そう思ったが、なかなか上手くいかなかった。僕には何が「無事」なのか分からない。僕の家は今どうなっているのか分からないし、両親の居場所も分からないし、健一もいない、日光仮面はどこかで誰とも分からない誰かと戦っている。そして、僕たちのあの秘密基地は既に砕け散って跡形も残っていない。僕と夏と誠二の体以外には、僕の大切なものの何が無事に残っているのか今は全く分からないでいるのに、のんびり待っていればいい根拠などどこにあるのだろう?

 僕は頭を激しく振って、立ち上がった。そして夏が眠っているのを確認して、教室の外へ出た。廊下は明かりが点いている。僕はどうしてもその光の方へ近づき、暗闇から離れたかった。暗くて無意味で非建設的な妄想から離れ、別の何かをしたかった。

 廊下は部分的に明りが灯され、まるで真中市の南北を走る幹線道路の脇に点々と立つオレンジ色の街灯のように、視界をぼんやりと照らしていた。人いきれから解放されたそこには風通しがあり、僕の体の熱を冷ましていく。風のやって来る向こう、廊下の先は暗闇が広がり、あたりはまるで下水道のような雰囲気だった。教室からあふれた何人かの人が毛布を敷いて眠っているから、野戦病院のようなムードでもある。僕は窓枠に手をついて、そこに映る自分の顔を眺めた。弱々しい光に照らされたガラスの中には色彩がほとんど存在しなかったが、それでも自分が血色の好い顔をしていないことだけは分かった。

 僕は歩きだし、校内を散策し始めた。特に当てはなく、単に、じっとしていると廊下の奥に広がる暗闇に意識が引っ張られ、結局また重苦しい不安が頭の中を支配してしまいそうだったからだ。風と雨の音に混じって、遠くから大人たちの雑談する声が聞こえ、落ち着きのないざわめきがどこまで歩いても続いている。具体的な意味をなす言葉や、立って歩いている人間の姿はどこにもない。ほとんどの人が教室や体育館で静かに眠っているか、一階で漏水に備えて交代で見張りに立っていた。

 だから、四階の廊下を歩いていた時、誰かがさっきの僕と同じ格好で、窓枠に両手を置いて外を眺めているのにはすぐ気が付いた。そこには僕たちの他に起きている者は誰もいなかった。ここに避難してきてから自分と同年代の顔見知りにはほとんど会わないでいたから、彼が同級生だということもすぐに分かった。僕は廊下で寝ている人の体を踏んでしまわないように気をつけながら、彼に近づいて行った。

 だが、僕が彼の名前を思い出したのは、彼の目の前まで近づいて、彼が僕の方に振り向いた後だった。知り合いに出会えたという安堵だけが僕の背中を押し、頭の中では何も考えていなかった。彼の前で足を止めたのとほとんど同時に、僕は後悔した。なぜなら彼は、ある日以来、僕が語る言葉を持たない相手だったからだ。

 彼が暗く沈んだ目つきで僕の方を見たとき、彼の名前が横山一紀だと思い出した。記憶が一瞬の内に蘇り、現実の目の前の彼に重なった。僕は横山とはあまり話をしたことがなかった。だが他の同級生たちと同じように、彼のことを知っていた。彼の父親は一年近く前に亡くなったということを。

 そして日光仮面が彼の父親を殺したかもしれないということを。

 僕は自分の表情が硬直するのを自覚した。頭の中から言葉がフェードアウトし、目に映る画面に横山の姿がコメントもなくクローズアップで映し出されていた。彼の顔は疲れきっていて、学生服の白シャツはぐしゃぐしゃに汚れていて、目に見えない何かが肩に重くのしかかっているかのように気だるげだった。窓枠に置かれた手の支えがなければ、今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 彼は細い目で僕の顔を見て、「中原?」と訊いた。

 僕は頷いた。二、三度頷いた。

「横山だよな?」

 僕がそう聞き返すと、彼は頷いた。

 何かを喋らなければならなかった。

「一人?」

 横山は頷いた、「避難してきた」

「家族は?」

 僕がそう訊くと、横山は首を横に振った。そして暗い顔がより一層の暗く沈んだムードに覆われた。

 僕は頭の中で舌打ちをした。俺は馬鹿じゃないだろうか。横山に向かって「家族」の話をするなんて馬鹿な事があるか? 

 僕は唇を舐めながら、横山の顔をのぞき見た。彼は俯きがちで僕と視線を合わせようとせず、ちらちらと窓の外を眺めている。こんなに暗い顔をした奴だったろうか、と僕は思った。確かに彼は以前から目立たない生徒だった。何の特徴もない、容姿においても能力においても秀でたところの何もない、どこにでもいる存在感のない一人の少年だった。特徴の無さについては定評のある僕が思うところなのだから間違いはない。だが、今の彼が僕たちと同じ教室にいれば、注目を集めずにはいられないだろう。彼の目つきと佇まいは、ついさっき地獄を通り抜けてきたか、今その真っ只中にいるかのどちらかであるかのような憂鬱でどす黒い雰囲気をまとっていた。理由は全く分からなかったが、それは全く日常的なものではなかった。

 僕はすぐに話を切り上げて、この場を去ることにしようと思った。お互いに、話すことなど何もないはずだったし、横山の体から発せられているのは、あらゆるものに対する明確なネガティブのオーラだった。僕は今、せめてこの夜の闇よりは明るいものの傍にいたかった。

 俺も一人なんだ、お互い大変だけど気を付けて、そう言って立ち去ろうと思った時、僕の言葉が始まるか始まらないかの内に、横山が遮った。

「中原、今ちょっと話せないかな」

 ぼそぼそとした、雨音に踏みつけられて消えてしまいそうな声だった。

 だがはっきりと聞こえた。僕の眉間に自然としわが寄り、首が傾げられた。

「話?」と僕は訊いた。

「大事な話なんだ」と横山は言い、周囲を見回した、「ここじゃ話せない」

 廊下には、何人か毛布にくるまって眠っている人たちがいた。だが彼らと僕たちには隔たりがあり、横山の小さな声が彼らを起こすとは思えない。

「別にここで話せばいいんじゃないか?」

「ここじゃ話せない」と横山はもう一度言って、首を横に振った。

 嫌な予感がした。僕はその話を聞くべきではないと思った。それは全くの非論理的な直感だったが、明確な拒絶反応だった。彼は既に僕から目をそらすのをやめ、その暗い目で僕を上目づかいに見つめていた。僕は横山と僕の間にこれまで存在した会話を思い出した。一年半前に中学校に入学して以来、朝、おはようと何度か声をかわしたのと、理科の実験のときに、そのシリンダーを渡してくれ、と言ったことくらいしかない。要は無関係の間柄なのだ。

「頼む。中原にしか話せない」

「なんで俺にしか話せないんだ?」

「日光仮面の話だから」

 横山はそう言った。

「日光仮面?」

「中原、日光仮面と知り合いだろ? だから、ここじゃ話せない」

 横山は踵を返し、ゆっくりと歩き出した。僕が彼の背中が廊下の向こうの暗闇に遠ざかっていくのを突っ立って見つめていると、暗闇と光の中間で彼は立ち止り、僕に手招きした。その姿はまるで幽霊のようだった。

 迷った末に、僕は横山のもとへ向かった。今ここで彼を無視して立ち去れば、幽霊のような彼の姿が脳裏にまとわりつき、この夜じゅう僕を蝕むような気がしたからだ。

 誰もいない階段の目の前で横山は立ち止った。曲がり角の向こう側、廊下を照らす明りが反射して、かすかに光は届いているが、そこはほとんど真っ暗闇に近かった。僕たちは向かい合った。

「日光仮面から聞いたんだろ?」

 横山は僕にそう訊いた。彼の表情はほとんど見えなかったが、さっきより明るくなっていないことだけは想像がついた。

僕は返事をしなかった。

「中原、日光仮面から聞いたんだろ?」

「話があるって言ったのお前だろ。お前の話をしろよ」

 僕がそう言うと、横山は微笑んだ。微笑んだように見えた。

「日光仮面は俺の親父を殺したんだ。中原が知ってる通り。それが本当だってことを伝えたかったんだ」

「嘘だ」と僕は反射的に言った。

「嘘じゃない。本当だ。誰も俺に本当のことを聞かないから、本当のことを知ってるやつに、それが本当だって言いたかったんだ。そして、どうして中原が今まで何も言わなかったのか聞きたかったんだ、俺や、日光仮面のことについて、警察とか教師とか、誰にも」

 僕は首を横に振った。

「知らなかったから言うことなんかできない」

「なんで誰にも言わなかったんだ」

 横山が再び訊き、僕はもう一度首を横に振った。

「知らないって言ってるだろ」

「中原、お前いいやつだな。それとも嫌なやつなのかな」

 僕はまた首を横に振った。

 その時、目の前の横山の体の形がゆがんだ。実際には、彼は深くうつむいて腕で自分の体を抱き、身をよじらせるという動きを取っただけだったのだが、暗闇の中では彼の体が変形したように見えた。彼は体を震わせ、真冬の外に吹く風のような息を漏らした。

 横山は泣いていた。奇妙で、激しい泣き声だった。ボリュームは小さいのだが、極低音で腹に響く嗚咽だった。僕は唖然としてその様子を見降ろした。横山には悪いと思ったが、それは生理的な恐怖を覚えさせる不気味な泣き声と姿だった。

 彼は大きく息を吸って、吐き出した。必死になって呼吸を整える彼を見て、僕は、大丈夫か、と声をかけざるを得なかった。大、丈夫だ、と彼はとぎれとぎれに言い、何度も深呼吸した。

「もう一つ、だけ、言いたいことが、あるんだけど、言っていいか?」

 もう何も言うな、と僕は思った。

「俺、母さんを殺したんだ、今日」

 横山は小さくかすれた声でそう言った。その声はすぐに、どこからか吹きつける微かな風の中に溶けて消えていった。

 僕は横山の目を見ようとしたが、暗闇の中でそれがどこにあるか分からなかった。

「階段から突き落としたんだ。頭から血を流して、しばらくしたら死んでしまった。俺は母さんの死体を置いて家を出てきた。俺の家は日光川のすぐ傍にある。この雨できっと水没してしまう。母さんの体は水の中に浸かって、後から誰かが見つけても、きっと殺されたのか事故で死んだのかなんて、誰にも分からないと思う。誰にも本当のことは分からないんだ」

 僕は首を横に振った。やめろ、と僕は思った。

「俺には分からないんだよ。本当に母さんは死んだのかな。俺が殺したのかな。分からないのは俺だけなのかな? 俺だけが、この世で起きるどんな物事にも現実感がないのかな。誰も俺にそれを教えてくれないんだ。親父も、母さんも、日光仮面も、他の誰も、現実感がないんだ。なんでみんなには分かるのに俺には分からないのかな。なんでこんなことになったのか俺には分からないんだ。分からないのが怖いんだ。殺したのが怖いんじゃない。分からないのに分かるふりをしてるのも怖いんだ。俺は本当に母さんを殺したのかな? 俺は本当に日光仮面に親父を殺してくれって頼んだのかな? 中原、どう思う?」

 僕は首を横に振った。

「雨はただの雨だ。でも俺はこう思うんだ。この街と、ここに住む俺たちは、みんな大事なことを隠していて、知ってるふりと知らないふりを繰り返しているんだって。正気な振りと狂った振りを繰り返しているんだって。この雨はきっとそういうのを全部押しつぶしちまう。もう限界だよ。みんなで嘘を突き通すなんて無理なんだよ。俺にはもう無理なんだよ」

 横山はそう言うと、再び体をくの字に曲げ、今度こそその場にくず折れた。その泣き声は、雨の音にかき消されて最早全く聞こえなかった。

 僕には横山が何を言っているのかほとんど分からなかった。分かったのは彼の狂気だけだった。

 そして同時に、奇妙な感覚が僕をとらえていた。彼が何を言っているのか全く分からないというのに、僕も長いこと横山と全く同じことを感じていたような気がした。そしてそう自覚した瞬間、僕は一段と強く首を横に振った。

 横山は泣き続けている。だが僕は彼に声をかけることはできなかった。彼に掛けられる言葉がもし僕の中にあったとしても、それを口にするわけにはいかなかった。もう彼の傍にいたくはなかった。彼は今日という夜の闇をその一身に引き受けているように僕には感じられ、それを是が非でも遠ざけなくてはならないと思った。

 僕はゆっくりと後ずさり、彼から離れた。踵を返して、振り返りながらじりじりと歩き、彼の姿が曲がり角の向こうの暗闇の中に消えてしまうと、僕は深く息をついた。

 そして胸に手を当てた。全力疾走した後のように、心臓がばくばくと脈打っている。僕は何度も深呼吸したが、それは全く収まる気配がなかった。それどころか、刻一刻と、耳の奥で血の流れる音が聞こえるほど、拍動のリズムと音量は激しくなっていく。周囲の壁や天井が、学級新聞や子供たちの水彩画が貼られたコルクボードが、僕に向かって押し寄せ倒れ掛かって来るような感覚が僕をとらえて離さなかった。何度も瞬きし、息を限界まで深く吸い込んで、それは幻想だ、と自分に言い聞かせた。何もかも幻想だ。本当のことは、ただ、今外では激しい雨が降っていて、ここは僕が昔通っていた小学校で、僕たちはそこで夜を明かしている、それだけだ。それ以外には何もない。

 僕の足は自然と、僕たちの荷物が置かれ、夏が眠っている、あの元いた教室に向かっていた。結局僕はあそこでじっと夜を明かすしかないのだと思った。体はへとへとに疲れ、脳は熱を発していたから、今あの場所で座り込んだら僕はすぐに眠りに落ちてしまうかもしれないと思ったが、行く場所などどこにもないのだから仕方なかった。教室の扉の前に立つと、僕はゆっくりと戸を引き、体を半身にしてその中に体を滑り込ませた。教室の中にいる誰もが眠りに落ちていたので、横たわる人の足や頭を避け、静かにおそるおそる歩いて行った。

 だが、僕は自分たちが陣取っていた場所をすぐに見つけることができなかった。一段と濃度を増した暗闇の中で視界が見通せなかったからだったが、それ以前に、あるはずのものの姿がどこにもなかったからだった。

 夏の姿がどこにも見えなかった。眠っているはずの彼女がどこにもいない。僕はやがて、教室の中央後方、ぽっかりと不自然に誰もいない空間、空っぽの寝袋だけが敷かれた場所を見つけた。確かにそれは僕が家から持ち込んだ寝袋で、隣に置かれたリュックや水筒やラジオは、僕のものだった。

 僕はそこに腰を下ろし、水筒のふたを開けて、麦茶をごくごくと飲んだ。夏は眼を覚まして、トイレにでも行ったのだろうと僕は思った。よかった、と僕は考えた。彼女はここにやって来てから合計でもう7、8時間は眠ったのだから、もうこれ以上眠る必要はないだろう。朝まで起きていられるに違いない。僕は夏と二人で話をして夜を明かすことができる。この夜を、もうこれ以上、一人で過ごすことには耐えられそうにない、そう僕は思った。

 僕は夏が戻って来るのを待った。真っ暗い教室の真ん中、誰もが眠りに落ちた部屋の真ん中で、僕だけが目を覚ましていた。

 5分待っても、10分待っても彼女は戻ってこなかった。

 僕は水筒のカップに、麦茶をなみなみと注いだ。そして一気に飲み干し、ふたたび注いだ。最後の一滴が水筒の口から滴り落ちた後も、僕は水筒を垂直に逆さにして振った。僕は震える手で水筒のカップを握りしめた。口の端からお茶がこぼれ、僕の胸を伝って落ちて行った。額にぽつぽつと汗が浮かびあがり、僕は微動だにしない教室の扉をじっと睨みつけていた。

 大丈夫だ、と僕は自分に言い聞かせた。もうあと5分待てば、あの戸はゆっくりと横にスライドして、その向こうから夏が現れる。そして僕たちは話し合う。日光仮面について、家族について、秘密基地について。5分経ったが彼女は現れない。10分の間違いだった、と僕は思う。10分経てば彼女は必ず戻って来る。大丈夫だ、と僕は夏に言う。みんな無事だ。誠二だって無事だった。健一も、僕たちの家族も、全員無事だ。そして10分が経った。戸は壁のように硬直したまま動かない。雨の音だけが聞こえる。凄まじい勢いだ。今日この夜の中でも最も激しい、全てを破壊するような音だ。だが、雨は弱まったはずだ。さっき確かにニュースでもそう言っていた。さっき実際に、雨音は僕たちがかつて聞きなれた、日常に近い音に変わっていた。じゃあこの鼓膜を突き破るような轟音は何なんだ? どうしてこんな轟音の中でみんな平気に眠っていられるんだ?

 そして僕は想像した。こなごなに砕け散って、濁流の中に吸い込まれていく、あの秘密基地の姿を。まぶたの裏で、克明に、ゆっくりと崩れ落ちる。最初に屋根が吹き飛び、壁が倒れ、周囲の敷石が押し流され、僕たちが持ち込んだ「武器」とかボールとか様々な全ての遊び道具が泥の中にうずもれていく。その全てがどす黒く変色して、ばらばらになる。僕たち四人はもう二度と、そこに座り込み、空を見上げることはできない。目を開くと、そこには何もない。目を閉じても、もう何の跡形もない。

 僕は右手を口元に押し当て、叫びだすのを必死にこらえた。あの三年前の夏、僕は人生で最も恐ろしい体験をして、これ以上に恐ろしい思いをすることはきっと二度とないと思った。だが今僕を取り囲み、体中を満たす感覚は、その予測が間違っていたのだと僕に告げていた。今僕に突き刺さる恐怖は、あの時とは質も量も全く違う。怖い、と僕は思った。怖くて怖くてたまらなかった。雨も、その轟音も、すべてが寝静まっているこの場所も、時が止まってしまったかのようなこの光景も、夏がいなくなってしまったことも。

 ごめん、と僕は口を押さえつける指の隙間で呟いた。

 そして僕は立ち上がった。吐き気をこらえ、崩れ落ちそうになる膝をかばって、這い出るように教室の外へ出た。途中で誰かの体を蹴飛ばしてしまったかもしれなかったが、振り返る余裕もなく、その感触も体に残らなかった。

 夏、と僕は声に出したが、かすれていてほとんど音にならなかった。夏がいない。僕は、午前1時を示す腕時計と、廊下の向こうの暗闇と、背後の教室とを何度も見比べた。

 夏がいない。どこかへ消えてしまった。

 僕は廊下を走りだした。僕に残っていた理性は、まず僕を保健室に向かって走らせた。彼女は体調が優れないのを自覚して、再び保健室へ行って薬をもらいに行ったか、それともよりよい寝床を求めてベッドを借りているのかもしれない。保健室のある廊下は明りが灯され、大人たちが談笑を続けていた。僕はその人波をかき分けて通り過ぎ、目的地のドアをノックした。

 中には、先刻僕たちが頭痛薬を受け取ったのと同じ、白衣の中年女性保険医がいた。彼女は机に肘をついてうつらうつらしていたが、僕が入ってきたのに気付くと目をしばたたかせて振り向いた。

「女の子が来ませんでしたか。僕と同い年の」と僕は尋ねた。そして手を自分の肩の高さに添えて、これくらいの髪の長さで、と付け加えた。

 保険医は眼を何度か瞬きさせた後、首を横に振った。「しばらくは誰も来てないわ」

 僕はカーテンに囲われたベッドスペースを見やって、そこに寝ていたりしませんか、と重ねて訊いた。

 再び保険医は首を横に振った。「ベッドは二床あるけれど、私くらいのおばさんと、おばあさんが寝ているから、違うわ。二人とも、ひどく体調を悪くしていて」

 僕は閉ざされたカーテンの前に立ち、中を覗き込んだ。底に眠っているのは確かに老婆で、夏ではなかった。保険医が制止するのも聞かず、もう一方のベッドを覗き込んだが、そちらも彼女の言った通り、眠っているのは眉間にしわを寄せた中年の女だった。

 誰を探しているの? と保険医が訊くのを無視して、僕は保健室を出た。

さもなくば夏は電話をかけているのかもしれない、と僕は考えた。両親と連絡を取ろうとして。僕は職員室に向かった。職員室は保健室のすぐ近くにある。僕はほとんど全力疾走しながら職員室の扉を開けた。部屋の中に残っていた教員たちが、一斉に僕の方に振り向いた。僕は部屋の中を右から左に一気に見渡した。

夏の姿はどこにもない。「女の子が来ませんでしたか。僕と同い年の」と僕は再び同じ問いを発した。だが僕を見返すばかりで誰からも反応はない。やがて、近くにいた若い教員が首を横に振って、ここには先生たちしかいないよ、と言った。

僕は振り返って再び走りだした。だが、もうどこにも当てはなかった。教室を一つ一つ覗いて歩き、理科室や音楽室や視聴覚室といった特別教室の扉を片っ端から開けた。だがどこも明りが消され、避難してきた人たちが眠っている。彼女がこの中にいても外から目ではとても分からない。あっという間に息が上がり、僕の額の汗は大粒となって滴り落ちた。

 僕は叫びだしたかった。夏、と大声で彼女の名前を呼びたかった。そうすれば誰もが目を覚ますだろうが、そんなことはどうでもいい。僕がそうしなかったのは、僕がここで大声で騒げば騒ぐほど、彼女は見つからないのではないかという、何の論理性もない直感からだった。自分でも、そんな考えは馬鹿げていると思った。僕が馬鹿だったらいい、と僕は思った。きっと何もかも勘違いで、夏はどこか僕の気がつかない場所にいて、すぐに戻って来る、きっと間違いなくそうだ。だから叫んでも大丈夫だ。僕は走り続けていて、次の曲がり角を曲がった瞬間からそうすることにした。

 だが、その直前に誰かが僕の腕を強く掴んだ。急に勢いを止められ、僕は転倒しそうになりながら足を踏ん張り、その誰かに振り向いた。「どうした」と彼は言った。

 それは誠二だった。彼は僕の肩を支え、僕を見下ろした。裕司、なにかあったのか、という声とともに彼の唇が動くのを僕は見上げた。冷静ないつもの調子の声、そして常に二手三手先を読む落ち着いた眼差しが、僕の両足をその場に縫い付けた。僕の唇の端が震え、眉間にしわが寄った。

 目の前にいるのは間違いなく誠二だったが、僕にはまるで夢のように見えた。誠二はその僕の心の動きを読んだかのように、言った。

「俺だよ。誠二だ。お前が廊下を走ってくのが見えたから追いかけてきたんだ。何があった?」

「夏がいない」と僕は言った。「どこに行ったのか分からないんだ」

「さっきのお前たちがいた教室に戻ってこないのか?」

 僕は頷いた。

「いついなくなった?」

「俺が、ほんの十五分か二十分、校舎の中を散歩している間に、戻ってみたら、もういなかった」

 誠二は唇に手を当てて眉をひそめた。こっちに来い、と彼は言い、僕の腕を引いて歩き出した。廊下の隅で彼は立ち止り、周囲に誰もいないのを確認した。

「どうしていなくなる理由がある? こんな天気で外になんか行けやしないし、あいつ、体調も悪そうだった。裕司、分からないのか?」

「分からない」と僕は言った。本当に全く分からなかった。「すぐに戻ってくると思ったんだけど、いつまで待っても戻らないんだ。保健室にも、職員室にもいなかった」

「お前がいないときに誰かに会ったのかもしれない。お父さんとかお母さんとかが、さっきこっちに着いて、合流したのかもしれない」

「誠二、どうしよう。夏が戻らなかったら。俺の責任だ」

 誠二は握りこぶしで軽く僕の胸を突いた。そして僕の耳元で、落ち着け、と言った。

「落ち着け。絶対に見つかるに決まってる。俺に任せろ。俺は今から職員室に行って、校内放送を使わせてもらう。学校中に呼び掛ける。そうすればすぐに見つかる。お前は別の心当たりを探すか、元いた教室に戻ってろ。お前とすれ違ったら今度は夏がお前を心配する。俺も後でそっちに行く。俺に任せろ、大丈夫だ」

 僕は頷いて、分かった、と言った。

「裕司、本当のことを言え」、と誠二は言った。「お前、理由が分かってるだろ? 夏がどこに行ったのか、想像がついてるだろ?」

 僕は首を横に振った、「馬鹿げた妄想なんだ」

「それでもいいから言え」

「夏、さっき言ってたんだ。ひょっとして、あいつがまだ生きてるんじゃないかって。そして、俺たちの基地はもうぶっ壊れちまったんじゃないかって」

「あいつって誰だ?」

「あの鏡を探してたおっさんだよ」

「生きてるわけがない。それに、俺たちの基地がぶっ壊れても、それは当たり前だ。この雨でこの街のほとんどはぶっ壊れちまうんだから。だから、夏が戻ってきたら夏にもそう言え。全部当たり前だって。いいな」

 僕は茫然と頷いた。誠二は僕の頬を軽くたたき、僅かに微笑んで、僕に背を向けて走り出した。

 僕はその背中が消えるのを見送ると、ゆっくりと歩き出した。どこかへ向かおうというよりも、さっきまでフル回転で稼働していた筋肉と心臓が、まだ冷めきらずにその余熱を放出しようとするのに任せてのことだった。

 階段を降り、元いた教室の扉の前に立った。だが僕は、その扉の前で立ち尽くした。窓から教室の中をのぞけば、夏がまだ戻ってきていないことが分かった。

 僕は首を横に振った。夏はいない。この学校の中には、もういない。

 廊下の壁にもたれかかり、僕は窓の外を眺めた。暗闇に自分の横顔が映る。その時、チャイムの音が廊下に響き渡った。そしてその後に誠二の声が続いた。

〈みなさんお休みのところ申し訳ありません。校内放送をお借りして、みなさんにお願いがあります。人を探しています。名前は上村夏。十四歳の女の子です。身長は百六十センチくらいで、ビートルズのTシャツを着ています。五年二組の教室にいましたが、先ほどから行方が分からなくなりました。見かけた方がいましたら、職員室か五年二組にいる中原裕司か、西島誠二までお知らせください。僕たちの同級生です。よろしくお願いします〉

誠二はそう言うと、もう一度全く同じメッセージを繰り返した後で、声の調子を変え、付け足すように言った。

〈それから夏へ。この放送が聞こえていたら、すぐに五年二組の教室に戻れ。裕司がお前を死ぬほど心配しているから〉

 再びチャイムが鳴り、放送は終わった。

 教室に明りが灯された。五年二組も、両隣の一組も三組も。人々が目を覚まし、ざわめきが広がった。何人かが廊下に出てきた。彼らは手に懐中電灯を持っていて三々五々散っていく。夏ちゃーん、と彼らは暗闇の向こうに声をかける。

 僕の眼頭は熱くなり、耳から音が遠ざかった。

 僕は首を横に振った。駄目だ、と僕は呟いた。夏はもうここにはいない。いくら探しても無駄なんだ。理屈では全く説明がつかないけれど、感覚で分かる。できることなら分かりたくなかったが、自分に嘘をつくことはできない。この夜の中で、自分が感じていることは全部僕だけの妄想であってほしかった。本当は今でもそうなのかもしれない。でももう、僕はそれを頭の中から消すことができない。

僕は五年二組の教室の扉を開け、自分の荷物のところまで歩いて行った。かばんの中を漁って、懐中電灯を見つけ出し、傍らのスニーカーをつかみ上げて教室を出た。そして、人の目を逃れてひっそりと階段を降り、一階のとある真っ暗な教室に入り込んだ。そこには誰もいない。一階は漏水が続いているので、数人の見張りを除いてみな二階より上に避難しているのだ。

 僕は両足にスニーカーを履いて、靴ひもを限界まできつく縛った。雨水が叩きつける窓の前に立ち、鍵を開けた。そしてゆっくりと枠に手をかけ、窓を開いた。わずかな隙間が開いた瞬間、凄まじい勢いの風と雨が、轟音を立てて僕の顔に突き刺さる。僕は机の上に登り、窓枠に足をかけて立った。街灯の明かりは一切落ち、あたりを暗闇が包んでいる。それでも、校庭が河川と化して水がうねり狂っている様はよく見えた。ゆっくり体をかがめ、窓枠を握りしめながら、そろそろと足を外に向かって下ろした。

 くるぶしの上まで水に浸かる。僕は背後の窓を閉め、額の上で手をかざして、あたりを見渡した。視界がとてつもなく狭い。雨そのものが風景を遮断しているのに加えて、その勢いが激しすぎて、目を大きく開けていられないのだ。懐中電灯のスイッチを入れて前方を照らしたが、光が雨粒に遮られて伸びず、視界には全く変化が無い。僕はゆっくりと歩き出した。水が重く、踏みしめる足元の土はぐしゃぐしゃで、流れてきた何かがコツコツと足に当たる。雨が跳ねて目に突き刺さり、僕の全身はあっという間に水と同化した。

 夏、と僕は彼女の名前を呼んだ。一歩一歩足を踏み出すごとに、水位が上昇していき、膝の高さを超える。何度か彼女の名前を呼んだあと、僕はひときわ大きく、夏、と叫んだ。この常軌を逸した雨の中では、その声の射程は十メートルもないかもしれない。何度もバランスを崩しそうになりながら、僕は校門までたどり着いた。木々が倒れ、校庭を取り囲むフェンスはすべて押し倒され、かつて僕たちが授業後に駆け出して行った校門前の道路は、暗闇の中で完全な川と化しているのが分かる。遠くから押し流されてきたさまざまなもの、折れた木々やゴミや、暗闇の中で判別できない何かの破片が目の前を横切っていく。校門の柱に掴まっていないと、僕も倒されて流されてしまうに違いない。

 こんな中を夏が出かけて行ったわけがないと、僕の理性は忠告していた。彼女も、そして今ここを歩いている僕自身も、どこへだって行けるわけがない。今からでも間に合うから、教室に戻って彼女の帰りを待つべきだと。僕は狂っているんだ。大体、僕はどこへ行こうというのだろうか。今夏が行こうとする場所など、この街に存在するのだろうか。僅かな可能性だけが無限に広がり、それが一つの現実の場所に定まるイメージなど全く感じられない。せめてあと数時間待てば、夜が明けて、そうしたら雨は上がり、誰かの助けを借りて、彼女がどこにいてもすぐに見つけられるだろう。

 だが僕は濁流に向かって歩き出した。懐中電灯を放り捨てた。身をかがめ、股下まで達している水の中、細心の注意を払って一歩一歩足を踏み出した。まずは、僕の家へ行こう。ここからはそこがいちばん近い。彼女は僕の家に何か忘れものをしてきたのかもしれない。もし、そうではなかったとしたら、次は夏の家に行こう。彼女は両親の安全を確かめたくて、一人でそこに向かったのかもしれない。更にもし、そうではなかったとしたら、次は健一の家に行こう。夏は、体の不自由な母親と一緒にいる健一が心配だったのかもしれない。あり得ないとは言い切れない。夏は優しい女だ。誰よりも優しい女の子だ。いつも僕たち三人の傍にいて、昔から、嫌な役を買って出て、代わりに先生に怒られたり、一刻も早く僕たちが遊びに出掛けたいときは、面倒な当番を代ってくれた。お菓子は絶対に分けてくれたし、漫画の最新刊はすぐに貸してくれた。僕が悲しんでいるときは気遣い、僕が喜ぶことを自分のことのように喜んでくれた。でも重要なのはそれだけじゃない。もっと重要なことがあった。夏のような女は僕にとって他に一人もいない。彼女の絵にも、音楽にも、彼女の優しさが満ちていた。彼女だけの色、彼女だけの音、彼女だけの言葉だった。それは何よりも美しい。僕は夏のことが大好きだった。

 そうだった。僕たちは友達なんかじゃない。健一にとっても、誠二にとっても、きっとそうだと思う。「一際仲のいい友達」だとか、「親友」だとか、そんなのは嘘だ。僕は夏のことをずっと前から愛していた。彼女は他の誰にも替えられない、この世で一番大事な存在だ。僕にとって、自分の命よりも大切な存在だ。絶対に彼女を傷つけることはできない。誠二が知性によって彼女を守り、健一が肉体的に彼女を守り、そして今それが叶わないのであれば、僕が想像力によって彼女を守るしかない。サタンの爪だろうと何だろうと、絶対に彼女を傷つけさせはしない。

 彼女はこの暗闇の中のどこかにいる。本当と嘘の境目のどこかにいる。間違いならそれでいい。僕が馬鹿だったなら、それが何よりも一番いい。それでもいいから朝まで歩き続けて彼女を探し続けよう。

 息が上がり、僕は急速な水の流れに何度も足を取られた。何度も水の中に手をつき、流れ来る残骸に体を突き飛ばされ、そのたびにふらふらと立ちあがって歩いた。そして彼女の名前を大声で呼んだ。

 



 だが僕は夏を見つけることができなかった。夜が明けたとき、雨は上がり、僕は自分がどこにいるのか分からなかった。すべてが光に照らされた、水没した街が浮かび上がった。僕はどことも知れぬ場所の家の壁に体を持たせかけて、太陽を見つめた。僕は力尽きてその場に崩れ落ちて、少しだけ休憩することにした。眠るつもりはなかった。またすぐに立ちあがって、彼女を探すつもりだった。だがそうはならなかった。僕が落ちたのは深い眠りだった。

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