第三章 雨(4)
やがて夜になった。窓の外の闇は更に濃密になり、雨の勢いはいよいよ盛んになり、その轟音はもはや雨音と言うよりエイリアンの襲撃のようだった。避難してきた人たちは、みな何もしていないのにぐったりと疲れ切っていた。子供たちは泣きやんで眠り、大人たちはおしゃべりをやめて俯いている。窓に時折びしゃっと一際大きな音を立てて雨の塊が突き刺さるのにも僕たちは慣れ、ほとんど動かずにぼんやりしていた。まるでこの学校全体が催眠術にかかってしまったような光景だった。
結局僕は、両親とも、夏の両親とも、健一とも連絡のつかないままだった。不安ではあったが、憂いたところでどうしようもなかった。彼らがそれぞれ無事でいることと、僕らのことを心配していないよう祈るしかなかった。それに、それよりも僕の目下の心配事は目前にあった。
夏のことだった。僕は夕食用に家から持ってきたおにぎりをカバンから取り出したが、夏は食べようとしなかった。クッキーもゼリーも、夏は何も食べようとせず、小さな声で、大丈夫、と言って横たわってしまったままだった。保健室に行こうと僕は言ったが、夏は首を横に振って、大丈夫、とまた言った。しかしどう見ても彼女の顔色は「大丈夫」には程遠かった。僕は意を決した。彼女の両腕を手に取り、「保健室に行こう」ともう一度言った。「大丈夫なら立てるだろ」
夏がまた首を横に振ったので、彼女が上半身を少し起こした隙に、腕をそのまま引っ張り上げ、無理やり立ちあがらせてから背負った。夏は抗議の声を上げ、僕は少し――いやかなり――よろめいたが、とにかく彼女を背負うことに成功した。夏の両腕が僕の胸の前で交差され、髪の毛の先端が耳に突き刺さった。僕は人をかき分け、教室の入口のドアを傍にいた人に開けてもらい、ゆっくりと歩いて保健室に向かった。
下り階段の前までやってきたとき、これをどうやって攻略したものかと逡巡すると、夏が「歩けるから大丈夫」と言って僕の背から降りた。僕は彼女の肩を抱えて、二人でゆっくり階段を下りた。
「ねえ裕司」と夏が言った。「間違ってたら、教えてほしいんだけど、訊きたいことがあるんだ」
何だよ、と僕は応じた。
「あの人、生きてたんじゃないかな?」
「あの人って、誰のことだ?」
「名前が分からないあの人のことだよ。あの、神社で首をつってた、人」
「死んだ人間が生きてるわけないだろ」
「だから、死んでなかったんじゃないかな」
僕は首を横に振った。わざわざ思い出そうとするまでもない。さすがにあの日の直後ほどの衝撃は去ったが、まだ彼の死に顔は僕の記憶の中に鮮明に残っていた。あれほど完璧な死に顔を僕は見たことが無い。眠りでも気絶でもなく、一〇〇パーセントの死が刻まれた顔だ。あれが死でなかったらいったい何が死なのか、僕には全く分からない。
「あの人が生きてることは、俺たちが死んでることよりあり得ない」
僕がそう言うと、夏は、そうだよね、と言った。「変なこと言ってごめん」
僕は首を横に振った。僕は、また夏の持病が出た、と思っただけだった。彼女にはいつも、僕たちに見えないものが見えた。それは彼女の才能そのものでもあった。彼女はそれを絵に描き、風景と僕たちの間にある感覚的なもの、予兆のようなものを視覚的に表現した。彼女の描く絵は普通の人間の描く絵とは違っていた。夏が描く絵は、人が目を閉じていたり、夢を見ていたりする時に見る光景に近かった。足元は揺らいでいて、事物は地球上では物理的に存在しえないバランスと形態で描かれる。彼女は技術的に高度で、視覚的にスクエアな絵を描くこともできる。だが近頃はそうした絵を描くことはめっきり少なくなっていた。夏にとって重要なのは、自分に正直であることだった。たとえ他人から見れば幻想であっても、自分にとって正直なら、それは真実になる。それは芸術の基本的な原則で、彼女はその原則を忠実に守っていた。
絵に描けば、思ったことはその場限り本当になる。だから僕は言った。
「いいけど、それを絵に描くなよ」
夏は頷いた。
「もう一つ聞きたいんだけど」
「何だ?」
「日光仮面はあの人に会ってから別の人間に変わっちゃったんじゃないのかな?」
夏はそう言った。
その問いは唐突過ぎて、僕には意味が分からなかった。
意味が分からないのに、心臓が凍りつくような感覚がした。
「どういう意味だ?」
「私たちの代わりに日光仮面があの人のところに行った時、日光仮面は別の人になったんじゃないのかな。あの人が、呪われた鏡を見た時に別の人間になったみたいに」
「日光仮面は日光仮面だろ。今日会ったじゃないか。前と何も変わらなかった。そうだろ?」
夏は頷いた、「そうだよね」
「それに、呪われた鏡なんて無い。現実の話をするときに、架空の物を現実の物みたいに言うな。だとしたら、俺たちだってあの時別の人間に変わってるはずじゃないか」
夏は再び頷いて、分かった、と言った。
保健室にたどり着くと、体調を崩した人々が何人かいて列を成していた。即席の診療所となったそこで、僕と夏は廊下に置かれたパイプ椅子に腰かけた。彼女はすぐに目を瞑り、僕の肩に頭を預けた。
夏には熱やのどの痛みといった風邪の兆候はなく、訴えるのは頭痛と行き場のない気持ちの悪さだけだった。特に対処のしようもなく、保険医から頭痛薬と胃薬を処方されると、僕たちは再び教室へと戻った。教室の中は、明かりの量が減らされて薄暗くなっていた。左手首のカシオの防水腕時計を見ると、既に午後8時だった。
水筒の麦茶を器に注いで夏に渡すと、彼女は眉間にしわを寄せてお茶とともに薬を飲み込んだ。夏は再び寝袋の上に横たわり、僕の上着を布団代わりにした。
僕は再びラジオのスイッチを入れ、ぼそぼそとニュースを囁くスピーカーを耳元に近付けた。極めて大型の低気圧により本州太平洋側の広い範囲で大雨が続いております。雨量の激しい地域では一時間に一〇〇ミリを超える非常に激しい雨となっており、気象庁では引き続き厳重な警戒を呼び掛けております。
数時間前と全く変わり映えのしないニュースだった。だが、アナウンサーは次の一言で遂に僕の気を引きつけることに成功した。それは真中市についてのニュースだった。
「この大雨により、市の中心を流れる日光川の水位が上昇し、夕方ごろから危険水位となっておりましたが、先ほど入った情報によりますと、増水した川が堤防の一部の個所を乗り越えたとのことです。この大雨により川の水位が上昇し、堤防の一部の個所を乗り越えたものと推測されるとのことです。今後詳しい情報が入り次第お伝えします。繰り返しお伝えいたします。先ほど入った情報によりますと、市の中心を流れる日光川の堤防が大雨により……」
僕はラジオのスピーカーを耳もとから離し、ボリュームをぎりぎりまで落とした。教室の中は雨と風の音だけが響いていて、僕以外にはまだ誰もこのニュースを聞いている風には見えなかった。
僕は立ち上がり、窓際に立って外の景色を眺めた。雨ですべてがぐしゃぐしゃになった視界の向こう、暗闇の中で目を凝らすと、水浸しになった地面が見えた。まるで街全体が巨大な川と化したかのようなその光景が、現実の忠実な反映なのか、僕の想像力による補完でそう見えているだけなのか、僕には判別できなかった。
そのため僕は自分にこう言い聞かせることになった。
嘘でも幻想でもなく、俺の目にはっきり見えていないだけで、いま本当に、この街は水没しかけているんだ。それが本当のことだから、俺はきちんと理解しなくてはならないんだ。明日の朝になれば、雨は止むだろう。永遠に降り続く雨など無い。でもその時、全ての光景は昨日までとまるで変わっている。俺の家もきっと水に覆われて浸水してしまっているはずだ。生活は、それがどれくらいの期間かは分からないが、以前とはまるで変わってしまう。これは俺の今までの人生で最も大きな災害だ。でも何より大切なことは、俺たちは、運よく、正しい判断の結果、安全な場所に避難できたということだ。たとえ街全体が川に沈んでも、いくらなんでも学校の三階まで水が訪れることはない。ここにいれば安全だ。それは間違いない。それでも、油断してはいけない。俺はこれからの夜、絶対に気を抜いてはいけない。俺は今日眠らないで見張り番をしていなくてはならない。何が起こるかは誰にも分からないのだから、いつ何が起こっても大丈夫なように、ずっと起きていなくてはならない、と。
僕は寝袋に腰を下ろした。そして目を閉じて横たわる夏の顔を見下ろした。薄暗闇の中で、彼女は静かに眠りに就いている。僕は片膝を両手で抱え、彼女の寝顔と窓の外を交互に眺めた。
やがて、ざわめきが教室の中を覆い始めた。誰かがラジオを聴き、日光川の一部が決壊したというニュースが人々の間に伝播し始めたのだった。再び教室に全ての明かりが灯り、皆ラジオの音に耳をそばだてている。しかし、アナウンサーが読み上げるセリフはさっきまでと全く変わっていない。詳しい情報が入り次第お伝えしてまいります。不安と緊張と、八つ当たり気味の抗議の声が部屋の中を包み込み、眠っていた子供たちが目を覚ました。テレビがある職員室を目指して何人かが部屋を出ていく。誰もが一様に不安そうな表情だった。そして奇妙な興奮状態が、目に見えない粒子となって空気に満ち、人々に感染していく。皆、自分の家や、生活や、この街のことについて声高に意見を交わし合い出した。それらの声の行き着くところは、たった一つの答えのない問いだった。
「この雨はいつ止むんだ?」
不安で興奮しているのは僕も同じだった。頭の中では、冷静になるように、という理性の声が大勢を占めていたが、それを侵食するように、血液や細胞から非日常の呼び声が高まり、それは僕の精神の隙間をちくちくと刺すのだった。
何故あの時、健一と一緒に行動しなかった? 彼は今、本当に無事なのだろうか? そして、父さんと母さんは今どこにいるのだろうか?
僕はそんなことを今考えても無駄だと自分に言い聞かせた。無言で、奥歯を軽くかみしめ、膝を抱えたまま動かなかった。
教室の中に男が駆け込んできた。一階の職員室までテレビを見に行ったうちの一人だった。彼は言った。
「一階は水浸しだ。もう完全に浸水してるぞ」
その声を合図に、誰もが入れ替わりに一階まで階段を下りて行き、下足ロッカーの前まで水位が達しているのを確認した。僕も立ち上がって階段を下り、それを見た。頭では、見なくても分かっているのだから見る必要はないと思っても、実際に確認する必要があった。イメージと実際は、今夜だけは互いに限りなく近い場所にいる必要があったからだ。僕は階段を下りる途中で靴下を脱いで裸足になり、濡れた廊下に足を踏み出した。
教室に駆け込んできた男が報告した通り、水は既に廊下まで達していた。校内に通じるすべての扉は閉ざされているというのに、どこか隙間からこんこんと水は漏れ続けたのだ。それはまだ薄い膜のような微かな浸水だったが、廊下の一段下の下足ロッカーが立ち並ぶあたりでは、その足元で深い泥水がうねり、刻々と勢力を増していくさまが見て取れた。生徒たちが靴を脱ぎ履きする簀(すのこ)はすでに引き揚げられ、廊下の脇に並べて立てかけられていたが、置きっぱなしであったら今頃は、泥水の中に浮いて漂っていただろう。
僕はその様子を確かめるとすぐに教室に引き上げることにした。下足ロッカー前には多くの人が集まって騒然とし、大人たちが排水のために人手を集め始めたからだった。道具が必要だ、と誰かが言った。水を捨てて、浸水を防ごう。バケツや土嚢がどこかに無いか。教師たちが首をかしげ、用具室を探しましょうと言った。前者はともかく、後者が都合よく校内に大量に準備されているとは思えなかった。今日までは、誰もこんな大雨が降ることなど想像していなかったはずだ。
僕は、自分もこの排水の作業を手伝うべきかどうか迷った。だが結局は教室に戻った。既に十分すぎるほどの数の大人が揃っていたし、何より本当に重要な仕事ではないと思ったからだ。這入ってきた水はネズミのようなものだ。ネズミは家の中の食物を食い荒らすかもしれないが、家を倒すことはできない。水をかき出したところで、それは別の場所に水を移し替えるだけで、この街を包む水の量が減るわけでも今すぐ雨が止むわけでもない。今僕たちがいるこの根城から一滴残らず水を排除しようとするのは、僕には現実を拒否する行為のように思えた。たかが足元が濡れるくらいどうってことはない。ネズミの一匹や二匹どうということはない。普段の生活なら、それは追い払わなくてはならない存在かもしれない。でもどう見ても、今はもう「普段」ではない。雨は既に降っているし、どう足掻いてもこの街全体がそれに覆われている。重要なのは僕たちが立てこもる二階や三階に水がやって来ないことで、そこまで雨が降ることはあり得ない。あり得ないはずだ。もしそうなるのであれば、今何度水を止めても意味がない。水は扉を突き破り窓を割って、僕たちのところにやってくるだろう。
僕は教室に戻り、横たわる夏の隣に再び腰を下ろした。彼女の眉間に寄ったしわが、さっきまでより深くなったのか浅くなったのか僕には分からなかった。
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