第三章 雨(3)

 僕と夏は簡単に昼食を摂ることにした。冷蔵庫にうどんがあったので、夏がつゆを作って麺を茹でる間に僕が油揚げとねぎを切った。ごくシンプルなうどんを食べながら、僕たちはテレビのニュースを見続けた。雨は一向に収まる気配がない。最後のうどんの一本をすすった時、電話が鳴った。麺を飲み込んで受話器を取り、もしもし、と言うと、「俺、中川」と暗い声が聞こえた。同級生の男の声だった。

 どうした、と尋ねると、緊急連絡網、と彼は応えた。

「緊急連絡って、この雨のことだよな?」

「そう。避難しろって。雨が凄いから」

 彼は長い文章を一度に口にすることのできない男だった。

「どこに避難すればいいんだ?」

「近くの小学校か、中学校。それがだめなら別の。丈夫で背の高いやつ。公共の建物。気をつけろって。避難する時。やばけりゃ自宅待機で」

 分かった、と僕は答えて受話器を置いた。そしてすぐにそれを再び取り上げ、壁のコルクボードに貼り付けられた緊急連絡網の次の相手に電話をかけた。

 電話に出たのは同級生の野沢の母親だった。こんにちは、野沢君の同級生の中原裕司と言います、緊急連絡網で案内が伝わってきたので、お電話しました。

 野沢の母親は、電話に出た瞬間から、完全に取り乱していた。こんなひどい雨は初めて、風はすごいし雨は物凄いし、雨漏りもするし、買い物にも行けないし、車も怖くて走れないしどうしたらいいのかしら、中原君のおたくは大丈夫?

「はい、うちは大丈夫です。それで学校からの連絡なんですが、雨が止まないので避難するようにとのことです。近くの小学校か、中学校に」

 小学校か中学校ってこんな天気の中でそんなところまで歩いて行けないわよ、うちはさっき停電してニュースも見られなかったのよ、雨は一体いつ止むのかしら、主人がまだ帰ってこれないから心配でしょうがないの、なんでこういうときに男って頼りにならないのかしら、うちの息子はさっきからゲームばっかりやってて私がこんなに不安なのにずーっと部屋に閉じこもってるのよ。

 放っておくと永久に話が止まらないように思えたので、僕は強引に口をはさみ、連絡網の次の方にも伝えてください、よろしくお願いします、と言って電話を切った。

 夏に緊急連絡の内容を伝えると、僕たちはどんぶりを洗い、身支度を整えた。僕たちの出発の準備はほとんど既に終わっていた。最後にもう一度、夏は自宅に電話をかけたが、やはり誰も出なかった。

 僕は自分の両親に宛てて、「夏と二人で小学校に避難します」と書いたメモをコルクボードに貼り付けた。僕たちがかつて通っていた小学校までは、僕の家から歩いて10分もかからない。窓の外を見ると、雨はさっきまでよりもほんの僅かに弱まっていた。出かけるなら今すぐがよさそうだった。




 再びさんざん雨に打たれて小学校に辿り着くと、下足ロッカー前に設置された即席の避難名簿に名前を記入した後、僕たちは三階の五年生の教室をあてがわれた。机と椅子が全て端に寄せられて、そこには僕たちと同じように避難してきた近隣の住民が何人かいたが、見知った顔は一つもなかった。老人とおばさんとが不安げに話しこんでいて、幼稚園に入るか入らないかくらいの子供が毛布にくるまってすやすやと眠っていた。僕たちと同年代の者はいなかった。まだ卒業から二年も経っていないから当たり前だが、校内の様子は以前とほとんど何も変わっていなかった。窓際に立ち、校庭を見下ろした。かつて僕たちが昼休みにドッジボールやサッカーをし、夏休みにラジオ体操をした土のグラウンドは、一面暗い影の中に沈んで水浸しだった。

家から持ち込んだポータブルラジオのアンテナを窓に向かって伸ばし、NHKに周波数を合わせた。アナウンサーが暗い声で、変わり映えのしない天気予報を復唱し続けている。極めて強力で大型の低気圧が本州の太平洋側をゆっくりと北上しております。東海地方を中心に激しい雨が降っており、気象庁では厳重な警戒を呼び掛けています。僕はボリュームをぎりぎりまで小さくして、座布団代わりの寝袋に腰を下ろした。

「夏、大丈夫か?」

 僕は隣に座った夏の顔を覗き込んだ。彼女の顔は幾分青白かった。元気がないのは酷い天気の中を歩いてきたせいかと思ったが、よく見れば単なる疲れではなく体調が悪そうに見えた。

 大丈夫、と夏はかすれた声で言った。

 どう見ても大丈夫そうではなかった。僕はリュックから水筒を取り出し、冷えた麦茶を器に淹れて夏に渡した。ありがとう、と言って夏は受取ったが、少し口に含んだだけで、器を床の上に置いてまた俯いてしまった。

 僕は夏の額に手を触れた。熱は無い。だが彼女の体は少し震えていた。彼女は顔をあげて、僕に向かって少しだけ微笑んだ。大丈夫だから、と彼女は言った。

 僕は夏がこういう顔をするのをかつてどこかで見たことがあった。だが、それがいつ、どんな場面で、誰に対する表情だったか、一切記憶が連結して行かなかった。既視感だけがやってきてどこにも辿りつかず、僕はもやもやとした気持ちで夏の顔を見返して、少し横になれよ、と言った。

 夏は頷いて、敷いた寝袋の上に横たわった。僕は持ってきた上着を夏の体に掛けた。夏は微笑んで目を閉じた。ねえ裕司、と夏は眼を閉じたまま言った。

「覚えてる? 私たちの秘密基地のこと」

「忘れるわけないだろ」

 僕はそう言った。たった二年前まで、僕たちはほとんど毎日をそこで過ごしていたのだから。僕はまだ、四人であの小さな小屋を建てた日のことをつい昨日のことのように思い出すことができた。

だが、やがてそこに訪れる回数は減っていった。最後に残ったのは僕一人で、何をなすこともなく孤独に時間を潰していた。そしてやがて僕もそこから離れた。小屋を建てた日のことははっきりと思い出せるのに、最後に訪れたのがいつだったか、僕はどうしても思い出せなかった。

「あの基地、この雨で、どうなっちゃうのかな」

 夏は小さな声でそう言った。彼女は眼を閉じたままで、少しだけそのまつ毛は震えていた。それはほんのわずかな震えで、体調によるものか感情によるものかは判別できなかった。

 素朴な問いだった。だが多くの場合、重要な問いとは素朴なものだ。

 僕は夏のその閉じられた瞼を見つめながら、返答ができなかった。答えが分からなかったからではない。僕の半開きになった口は、しばらくふさがらなかった。

 答えは明らかだった。この雨で僕たちの基地は、跡形もなく砕け散るだろう。いや、未来ではなく、僕たちがまだ確認していないだけで、既に崩れ落ちている可能性が高い。これだけ激しい嵐に耐えられる基地を建てられるほど、僕たちの建築技術は洗練されていなかった。防ぎようはない。今もう一度、同じ基地を造るか補強しようとすれば、もう少しは上手くやるだろうが、結局は耐えることができずに壊れてしまう。それは止むをえない結末と言えた。

 だが僕は、あの空間に思いを馳せるや否や、それが起こったのはきっと今日ではない、ということにまで気が付いた。もっと前だ。おそらく僕たちの基地は、実際は今日よりもずっと以前に、砕けてしまっていた。真中市の一年の三分の一は雨だ。僕たちはあの基地に常駐していたころ、しょっちゅう基地の補修作業を行ってきた。屋根が吹き飛び、壁が倒れ、穴が開き、そのたびに僕たちは木々や粘土や釘で基地の体勢を建て直した。僕があの基地から離れてから二年の間に、今日ほどではなくとも激しい雨は何度もやってきた。あの小さくて頼りない基地がそれらに耐えられたとは、僕には思えなかった。

 僕が夏に答えることができなかったのは、このことを自分が今まで全く考えてこなかったことに気付いたからだった。僕は自分自身にショックを受けていた。僕は自分の身にまつわること、情熱や憧れといった感情を自分に抱かせたものについては、忘れることなく覚えているつもりだったのだ。

「もう壊れてるよね?」と夏は言った。

「いや」と僕は言った。「まだ分からない」

 口に出してすぐ、僕の全身を違和感が包んだ。僕には、なぜ自分がそう言ったのかが分からなかった。意味のない気休めでそう言ったのか、少しでも本当にそう思ったのか。僕は自分に対していらいらした。雨の音が更にやかましくなり、僕の感情を逆撫でした。

 夏はそのまま沈黙した。目を閉じて、ゆっくりと呼吸していたが、眠りに落ちたのかどうかは分からなかった。

 僕はカバンの中から手帳を取り出した。日光仮面から預かった、あの手帳だった。それほど興味があるわけではなかったが、僕は本を家に置き忘れてきて、他に一人で時間をつぶせるものが何もなかったのだった。

 そこに書かれていたのは日光仮面の過去だった。より正確には、それは彼の日記帳だった。僕はこの手帳によって、日光仮面が金属バットを取り上げられて正拳突きを始めたエピソードや、いかに枝葉末節な種々の事件を解決すべく、真中市をかけずり回ってきたのかを知った。それらは無味乾燥な報告書文体で綴られていたが、日光仮面の奮戦ぶりは目に浮かぶようにありありと想像することができた。

 だが、肝心なことが抜け落ちていた。「サタンの爪」だ。日光仮面が常日頃口にしていた悪の総大将の名称については、一切その日記帳に登場する気配がなかった。「サタンの爪」の正体が、日光仮面の妄想の結実であり彼の脳内にしか存在しないと、何年も前に誠二が説いて以来、僕はその悪役に心を惹かれたことはなかったが、全ての読み物は何かを解き明かすこと、あるいは解くことができなくても謎を提示しようと努めることが望ましい。にもかかわらずそれが何も無いのだから、僕はすぐに日光仮面のリアリティにあふれた日常的な武勇伝に退屈し始めた。

「裕司」と僕の名を呼ぶ声がした。

 顔を上げると、そこに誠二がいた。彼は教室の中に入ってきて、僕に向けて少し手を上げて、微笑んだ。

 僕も微笑んだ。彼に会うのは久しぶりだったし、友達の無事を確認できたことが単純に嬉しかった。久しぶり、元気か? と僕は言った。

 ああ元気だ、と誠二は応えた。そして僕の隣に座り込んで、小さな声で、夏、具合悪いのか、と訊いた。僕は頷いて、そうみたいなんだ、と言った。「目が覚めたら、保健室に連れて行こうと思う」

 誠二は市外の中学に通っているが、朝から電車が止まっていたので今日は初めから学校を休んでいたという。家で母親と兄と三人でテレビのニュースを見ていたが、市の避難勧告を受けた。家に留まる選択肢もあったが、大事に備えてここにやってくることにした。4階の6年生の教室に家族とともに避難している。

「きっとお前たちもいると思って探したんだ。健一はどうした?」

 僕は首を横に振った。「途中で別れたんだ。中学校から一緒に帰ってきたんだけど、あいつはお母さんの面倒をみるって」

 そうか、と誠二は言った。「だとしたらあいつは動けないだろうな」

 僕は頷いた。健一の母親は体が不自由だった。僕たちは健一に詳しい事情を尋ねたことはないが、左半身に麻痺があるらしいということは知っていた。僕たちが初めて会ったときからそうだったから、一生付き合う不自由なのだろう。

「それ、なんだ?」

 誠二が、僕が手に持った手帳を指差した。

 僕は苦笑して、日光仮面のメモリー、と言った。

 つまり俺たちの街の事件簿か、と言って誠二は頷いた。

 僕は誠二に、事のあらましを語ることにした。周囲の避難してきた人たちに声が届いていないのを確認して――彼らはラジオのニュースに聞き入っているか、互いに不安をかき消すような大声で話し合っていた――小さな声で誠二に話しかけた。聞かれて困るような話でもないとは思ったが、馬鹿馬鹿しすぎて頭がおかしい奴だと思われないとも限らない。

 そして僕は、彼についてはびこる種々の噂と、彼がこの大雨の中僕の家にやってきて、今日がサタンの爪が到来する時だと告げて去っていったことを話した。

「その時この日記帳を僕に渡してったんだ」

 ふうん、と誠二は言った。

 いつもなら、それで会話はほとんど終わりだった。彼がやることについてもやったことについても考えていることについても、結局の出発点と終着点は妄想にすぎないのだから、深く思い遣る必要はない。僕と誠二にとっては日光仮面はそういう存在だった。

 だが誠二はしばらく僕の目を見つめたままでいた。彼が、僕の目の中にシリアスな感情があることを読み取ったのが、僕にも分かった。

「本当に日光仮面は殺したのか?」と誠二は僕に訊いた。

「分からない。証拠が何もないんだ。でも俺は変な感じがする。本当だとしたら、変だと思う。日光仮面らしくないんだ」

「じゃあ誰が殺したんだ? 誰が横山って奴の父親を殺して、犬を焼き殺して、車を破壊したんだ?」

「分からないよ。実際に死んだ横山の父親はともかく、他の噂については本当にそんなことが起こったのかどうか誰も確認してないんだ。噂なんてそういうもので、根も葉も別に必要無く広まるだろ?」

「じゃあお前どうしてそんなに不安そうにしてるんだよ」

「そんな風に見えるか?」

 誠二は頷いた。

 僕はため息をついた。

「うまく説明できない。誰にも説明できない。自分自身にも」

「俺には分かるよ。お前は日光仮面に感情移入し過ぎてる。頭ではあのおっさんが気が狂ってると分かってるのに、その行動に付き合うから、振り回されるんだ」

 誠二は更に小さな声で、夏と同じだ、と付け加えた。

「誠二は日光仮面が殺したかもしれないと思うか?」

「もちろん確実なことなんか分かるわけないが、絶対無いとは言い切れない。三年前、日光仮面自身が俺たちにそれを教えたんだ。自分はやると決めたら徹底的にやると。実際にあいつは、一人の人間の死を徹底的に秘密にすることができたんだ。それ以上の行為をやるかやらないかの境は相当曖昧だ。どっちにしても断定はできない」

 僕は頷いた。僕も同じ意見だった。境は曖昧だ。でも、と僕は言った。

「でもその境を超えないのが日光仮面だと思ってるんだ」

「だから言ってる。今感情移入するな。どうせそのうち何もかもはっきりするか、消えて無くなるかのどちらかだ。今考える必要はない」

「考えるのを止めることができても、感情を消すのが難しい。頭から消えないんだ。日光仮面がこの雨の中、サタンの爪を探しまわってる光景が」

「分かってる。消せないなら隠すしかない」と誠二は言った、「夏に伝染するぞ、気をつけろ」

 僕は頷いた。

「誠二は、サタンの爪は本当にいると思うか?」

 その馬鹿げた問いは、僕の中から唐突に無防備に現れた。

 この並はずれて頭の切れる友達になら、それを素朴に尋ねても許されるような気がした。

「さっきの話と同じだ。解釈次第でどうにでもなるものは、どこにだっているし、どこにもいないものだろ。神様と一緒だ。それ以上の具体性があるんなら、それが現れてから考えようぜ。それよりさしあたってこの雨はやばいよ。あの汚え日光川があふれ出てきたら、物理的な水害だけじゃ済まない。あれは病原菌の塊みたいなものだ。何人かが死ぬだけじゃなくて、何年もこの街に痕が残り続けるかもしれない」

 僕は再び頷いた。誠二の声は、夕暮れ時に遠くから聞こえてくるピアノの音のようにずっと静かなままだった。それはすぐ外の暗く激しい嵐と並べられた今、岬の突端に立つ灯台の明かりのように僕の心を落ち着かせた。




 誠二が母親のいる教室に戻ると、僕は、リュックからノートを取り出してページの一部を破った。そこに「夏と僕の家にもう一度電話をしてくる」とメモ書きし、眠り続ける夏の顔の横に置いて立ち上がった。

 目的地の職員室は、僕と同じ目的の人々でごった返していた。在学中は誰も積極的には近づかないこの場所に、この場に似つかわしくない大人たちが集合している。全員が電話の順番待ちだ。職員室の中に入りきれなくて外の廊下に人々が列をなしており、僕はその最後部に並んだ。つくづく僕は何か本を持ってくるべきだった。

 僕は前に並ぶおばさんと話をして時間を潰した。彼女の家は自営業で酒屋をやっていて、この雨で止むを得ず逃げてきたのだと言った。商品は可能な限り二階に上げてから家を出てきた。小学校高学年の娘と小学校に入ったばかりの息子の四人家族全員で避難してきたが、実家の両親が心配しているはずだから電話をかけて無事を知らせることにした。僕は彼女に家族は無事なのかと尋ねられたので、首を横に振った。友達と逃げてきたんです。両親は共働きだからまだ会社にいるかもしれないんですけど、僕が避難した先を知らせたくて。

 偉いわねえ、とおばさんは言った。ただそう言い、何が偉いのかはよく分からなかった。

 何度かおばさんとの会話が尽きた後、ようやく僕の順番が回ってきた。僕は夏の家の電話番号を押して、受話機を耳に押し当てた。だが誰も出ない。ダイヤル音が十五回以上鳴って、留守番電話モードに切り替わった。「中原裕司です。雨がひどいので、夏と一緒に小学校に避難しています。避難先は五年二組の教室です。こちらに来ることがあれば尋ねてください。僕たちは大丈夫です」。

 僕はそう言って電話を切ると、今度は自宅に電話した。しかしこちらも同じく、誰も出ない。さっきとほとんど同じ内容の伝言を留守電に残すと、僕は受話機を置いた。両親の勤め先の電話番号を僕は控えていなかったから、これ以上連絡を取る手段はなかった。

 諦めて電話から離れようとした時、ふとした思いつきがそれを留まらせた。僕は再び受話機を手に取り、記憶の中の一つの番号をプッシュした。

 健一の家の電話番号だった。受話機を握りしめて、彼が出るのを待った。

 だが、誰も出なかった。何十回も同じダイヤル音が耳を打ち、僕は諦めて受話機を置いた。きっと、彼は既にどこかに避難したのだろうと僕は思った。お母さんの体が不自由だから、タクシーでも呼んで。既にここにきているかもしれないし、健一の家は、市の運営する病院にも福祉会館にも近いから、そちらに避難したのかもしれない。僕はそう考えて、職員室を出ることにした。

 その間際、僕は自分の名を呼ぶ声に振り向いた。そこにいたのは、僕たちが六年生の時に担任だった先生だった。彼女はもともとよく太った血色のいい人だったが、この二年で更に太ったように見えた。

 裕司君、久しぶり、と先生は言った。

 お久しぶりです、と僕は微笑んで答えた。

 背が伸びたんじゃない? と先生が訊き、はい、やっと伸び始めましたと僕が答える、ごく普通の教師と卒業生の受け答えの後、先生が言った。

「あの三人とはまだ仲良しなの?」

 はい、と僕は答えた。

「大切にね。仲のいい友達は何よりも大切なものだから」

 僕は頷いた。それは僕たち四人の関係を知る教師にとって、ごくありふれた忠告だったと思う。だが僕は、彼女の言葉が胸に深く突き刺さるのを感じた。おそらくそれは意味の問題ではなくタイミングの問題だった。大切にするというのは、壊れる可能性があるからそうするのだ。

 先生は微笑んで僕に手を振り、職員室に戻っていった。僕は廊下を歩きながら、健一の姿を探した。やはりこの校内のどこかに既に彼がいるかもしれないと思って。だが見つからなかった。ほとんどの教室は、避難してきた人々でいっぱいになりつつある。僕はその中に知っている顔を一つも見つけだすことができなかった。全てを知ったと思うほど走りまわったこの街で、家から徒歩10分の距離にあるこの小学校で、僕の知る人間が一人もいないことに、僕は強烈な違和感を覚えた。窓の外の空は見たこともない黒と灰の中間色で、今が何時なのかも分からない。

 僕の中で、それらの目に映るもの、心の中に渦巻くもの、そして今自分が一人で廊下を歩いていることは、まとめて一つの象徴となりつつあった。僕はその解釈を必死に拒否し続けた。

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