第三章 雨(2)

 僕は十四歳になった。1995年のことだ。自分の年齢と、それに重なる西暦を意識するようになったのはこの年が初めてだった。それは誰もが等しく強制的に与えられる刻印だ。そのことが起きた時、自分が何歳だったか。僕の場合は、1981年に生まれ、1995年に十四歳になり、1999年に十八歳になり、二十一世紀を迎える2001年に二十歳になる。想像することさえできない果てしない先のことだが、上手く生き残ることができれば、2011年には三十歳になる。生き続ける限りその刻印からは逃れることができない。もちろん数字はただの数字だ。重要なのは起こったことがどのように自分に刻まれるかということだ。

 1995年は真中市にとって決定的な年になった。恐らく僕にとってもそうだ。ある日を境に、物理的にも精神的にも様々なものが破壊されたり変化したりし、その日を遠く過ぎても元に戻らなかったものも多かった。

 1995年、その日に至るまでは僕たちの暮らしぶりには前年までと比較してそれほど大きな変化はなかった。仲間たちの生活は順調そのものだった。健一はサッカーの県選抜メンバーとなり、エースフォワードとして活躍していた。夏はピアノと絵画の両方で成果を出し続けており、高校に進む前にどちらの道を選ぶかという岐路に立ちつつあった。

 誠二と会う回数は少しずつ減ってきていたが、それでも僕たちは最近読んでいる本や聴いている音楽について時々語り合った。彼は自分の考えを文章にまとめるようになっていた。それは書評であり、随想文であり、時々は小説の形を取った。僕はしばしばそれを読ませてもらったが、そのテキストが持つ力には彼の知識と感性の鋭さを良く知っている僕でも驚かされた。彼に言わせれば、僕たちが生きる時代は「絶望が無い時代」だった。過去、この国には希望があり、それに伴う絶望があった。だが今僕たちには初めから何も無いため、僕たちは希望を持つことも絶望することもない。僕たちは自由で、全てを選択することができるが、その代わりに何も選択することができない。そうした内容の彼の文章を読んで、僕は共感するよりも感心するよりも、相変わらず彼が自分よりも遥か先を行っているという事実に打ちのめされた。そしてその差はこの後も縮まることなくどんどん開いていくことだろうと思った。

 差し当たって僕は、本を読み続け、音楽を聴き続け、映画を観続けていた。それ以外に何をやったらいいのか分からなかったし、実際それ以外にほとんど何かをした記憶がない。文芸部は相変わらず極端な少数精鋭の人員構成を保持しており、僕の成績も相変わらずオール4だった。何をやらせても普通だし、口数も多くはなかったので、僕はクラスの中でも最も目立たない生徒となりつつあった。

 そんなある日に雨が降り始めた。夏休みが終わり、9月になったばかりのことだった。隅々までべたついた蒸気のような暑い空気が街全体を覆う、真中市の一年で最も不快な時期だ。そこに雨がやってくるのだから、道を行き交う人々はまるで温水の中をくぐりぬけていくような感覚を味わう。真中市にとって雨は珍しい存在ではなく、むしろ一年中しょっちゅう登場したが、だからと言って慣れ親しむようなものではなく、不快さが軽減されることもなかった。

 静かな雨だった。僕はその日も文芸部の部室で本を読んでいた。文庫本のページは湿ってふやけ気味で、僕は人差し指と親指で紙をつまんで一枚一枚めくっていった。僕以外の二人の女子部員――先輩の女子部員は三年生になって引退し、後輩の一年生の女子生徒に入れ替わった――は、無言で、熱心に小説を読み続けている。彼女たちの読書に対する情熱は僕を遥かに超え、季節を問わず一切止む気配がなかった。

 17時過ぎまで本を読み続けると、僕たちは部室に鍵を掛けて校舎を後にした。雨が音もなく降り続けていたので、僕は左手に傘をさして右手にハンドルを握り、ゆっくりと自転車を漕いだ。空の色は灰と黄の中間で、風景全体がくすんだ古い教会画のようなムードに包まれていた。

 僕はその途中で、銀色の空き缶の山を背負った、あの老人に会った。街で拾った空き缶で家を作ろうとしていたあの老人だ。彼の空き缶造りの館には何年も訪れていなかったから、それが完成したのかどうか僕は知らないままだったが、彼が空き缶を拾い集める様には以前と全く変わりなかった。

 僕があの人たちから遠ざかるようになってから、既に長い時間が経っていた。日光仮面と同様、少なくとも中学生になってからは誰とも一度も会話をした覚えがない。それはごく自然な、ことの成り行きだった。自我の成長につれて、彼らの世界と自分たちの世界の違いは際立っていく。彼らは、現実に存在するかしないかの違いはあれ、子どもにしか見えない妖精のような存在とも言えた。やがてほとんど誰もが必ずその世界からは離れて生きていくことになる。それは彼らの存在に少なからずリアリティを覚える僕も例外ではなかった。

 だがこの日僕は老人に話しかけた。雨脚が少しずつ勢いを増していく中、彼が背負ったカゴとその中の空き缶が、水を吸って余りにも重々しく見えたからだ。彼は傘も差さずに全身を雨に打たれていた。

「今日は帰った方がいいですよ」

 僕の方に老人は振り向いた。彼は初めて会う人間を見るかのように僕を見返したが、実際僕のことなど全く覚えていなかったに違いない。彼らは他人に興味を持たないのだ。もしも何かの間違いで覚えていたとしても、僕の体はようやく日に日に成長し始め、顔の形も変わり始めていたので、以前とは別人にしか見えなかっただろう。

 老人は首を横に振った。

 僕は、一緒に空き缶を家まで持って帰ります、と提案した。

 すると老人は再び首を横に振った。

「今日、どうしても空き缶を集めなくちゃならん」

 明日、孫の結婚式でもあるんですか、と僕は尋ねた。

 僕は冗談でそう言ったのだが、もちろん彼らに冗談は通じない。孫はいない、と彼は言った、「家族は一人もいない」。

孤独であることも、彼らに共通する特徴の一つだった。

「じゃあどうして今日集めなくちゃならないんですか」

「川に堤防を建てる」

 老人ははっきりした口調でそう言った。

「堤防を建てる? その空き缶で?」

「そうだ」

「もう堤防はありますけど」

「あれじゃ足りん」

「どうして堤防を建てるんですか」

「このままだと雨で日光川が決壊する。徹夜でやっても間に合わんが、やるしかない」

 僕は何と応じたらよいのか分からなかった。差した傘の向こうに見える灰色の空を覗いてみた。重々しい雨が絶えず上空から降り注いできてはいたが、それはごく普通の、これまでこの街に何万回も訪れたことのある雨で、普段と特に何か違ったところがあるようには見えなかった。

 空き缶で堤防を作るためには何千万個の缶が必要になるのだろうか? そして数千万の缶と缶との隙間を埋める手段は存在するのだろうか?

 僕は、気をつけて、と言って、老人と別れた。老人は僕に手を振りもせず、空き缶探しに戻っていった。

 僕は家に帰ってテレビで天気予報を見た。

 明日は激しい雨になるでしょう、とアナウンサーが言った。十分な警戒が必要です、とも言った。具体的にどれくらいの激しさで、どんな警戒が必要なのかはよく分からなかった。




 翌朝になってもまだ雨は降り続けていた。そしてそれは昨日とは質も量も全く違う雨だった。凄まじい勢いで僕の部屋の窓を叩き、僕はその音を聞きながら目を覚ました。テレビで天気予報を見ると、真中市を含む県全域に大雨洪水警報が発令されていた。窓を開けて外を覗くと、庇に弾かれた雨の破片が顔に突き刺さり、視界のすぐ向こうでは錠剤のような大粒の雨が絶え間なく落下し続けていた。自転車に乗っていくには危険すぎたので、僕は早めに家を出て、歩いて学校に向かった。学校に着いたころには頭以外の全身がぐしゃぐしゃに濡れそぼっていた。

同級生たちも皆同じ目に遭っていたが、授業はいつも通り8時40分から始まった。教師の声が聞こえないほど雨音がやかましい。僕はずっと窓の外を眺めていたが、しばらくすると雨が強くなりすぎて、風景の全てが真っ白になり、何も見えなくなってしまった。

 ノートに一次関数のグラフを書き込みながら、僕は、この雨はどう考えても異常だと思った。いくらなんでも激しすぎる。僕の記憶にある限りでは、真中市にこれほど激しい雨が降ったことはなかった。僕は真中市の面積の7割を占める水田に思いを馳せた。米の収穫が間近に迫っているが、この雨で全て駄目になってしまうだろう。

三時限目の授業が始まった時、クラス担任がやって来て、本日の授業はここまでとします、と宣言した。「非常に激しい雨が降っています。予報では、雨はこの後更にひどくなるそうです。今の内に皆さん、気を付けて下校してください。家の近い人たちは声を掛け合ってできるだけ一緒に帰るように」。

 クラス中から歓声が上がった。男子生徒達はハイタッチを交わして休校を祝った。女子たちは不安げにいそいそと荷物をまとめ出した。僕は、これ以上「更にひどくなる」雨のことを想像しようとしたが、今の雨が既に僕がこれまで見たことがないほど激しい雨だったので、うまくイメージができなかった。ともあれ、教師が言う通り急いで帰ったほうが良さそうだった。

 かばんを肩にかけて教室の外に出ると、僕は健一と夏の姿を探した。二人との帰り道は途中まで一緒だったからだ。二人とともに傘を差して外へ出たが、風もかなり激しく吹いていたので、校門を出た頃には全身が水浸しになった。

 しばらく歩くと、断続的に猛烈な突風がやってきて、その度に僕たちの傘の骨は一本ずつ折れていった。僕たちはやがて、地面から吹き上げてくるような雨の中で傘を差しても無意味だと気がついた。全身を豪雨にさらして僕たちはゆっくりと前進した。急いで帰りたいのだが、雨も風も激しすぎて徐々にしか進めなかった。視界は激しい雨で遮られ、風で体が吹っ飛ばされそうになり、長時間歩き続けるのはいかにも危険だった。

 僕は二人に声をかけて、通りがかった公民館の入口の下に緊急避難した。体中が雨を吸ってずっしりと重い。僕は手のひらで顔を拭って水分を払ったが、髪からぼたぼたと水が滴り落ち続けた。間違いなく、人生で最もひどい雨だった。

俺の家に来なよ、と僕は二人に提案した。三人の中で僕の家がここから最も近かったからだ。「家の人には俺の家から電話をすればいい」

 夏は、ありがとう、そうする、と答えた。健一はどうする、と僕が訊くと、彼はしばらく考えたあとで、首を横に振った。

「俺は自分の家に帰るよ。母さんが一人だから」

 僕は頷いて、分かった、気をつけろよ、と答えた。

 僕たちは公民館を出ると二手に分かれた。健一と手を振って別れると、彼の姿はすぐに雨の向こうに見えなくなった。

 公民館から僕の家までは普段なら三分で着くが、倍以上の時間がかかった気がする。海を泳いで渡るような調子で歩き、家に到着したときには僕も夏も、滝に打たれて修業を積んだ修験者の様相だった。家の中には誰もいない。父も母も勤め先から帰ってきていないのだった。僕は夏に、バスタオルとスウェットパンツとビートルズのロゴが入ったTシャツを渡して、先にシャワーを使わせた。僕は服を脱いでレッド・ツェッペリンのTシャツに着替えると、タオルで頭をごしごし拭きながら、テレビのスイッチを入れた。チャンネルをどこに合わせても、この大雨のニュースをやっていた。県の中心市内では完全に交通がマヒし、空港はもちろん全航空機の離着陸を停止、東海道新幹線をはじめ全ての電車は運行を取りやめていた。運転再開の目処は全く立っていない。この嵐で既に三人の方が亡くなり、五人の方の行方が分からなくなっています、とアナウンサーが言った。県内でも最も雨の激しい地域では、一時間に百ミリを超える極めて猛烈な勢いの雨が降っており、気象庁では引き続き厳重な警戒を呼び掛けています。

 夏が髪を拭きながら部屋に入ってきたので、僕は入れ替わりに風呂場でシャワーを浴びた。温かい湯に全身を打たれながら、この雨はいつまで降り続けるのだろうか、と思った。頭の中に窓の外の景色を思い浮かべ、さっき見たまだ十二時にもなっていない時計の針を思い出した。予報では、少なくとも夜までは降り続けると告げられていた。もし、この勢いがその時間まで全く止むことがなければどうなるのだろうか。

風呂場を出てリビングに戻ると、夏はテレビの画面をじっと見つめていた。画面には濁流が滔々と流れ氾濫寸前のどこかの川の様子が映し出されていた。僕は彼女の隣に座って、家の人には連絡したかと訊いた。夏は首を横に振って、電話借りたけど、まだお母さんもお父さんも帰ってきてないみたい、と答えた。

「昨日、久しぶりの空き缶の爺さんに会ったんだ。覚えてる? 街の隅っこで、物凄い量の空き缶で家を建ててたあの爺さん」

 夏は頷いた。

「前と変わらずに、空き缶を拾い歩いてた。その爺さんが言ったんだ。今日、日光川の堤防が決壊するって」

「本当にそうなるかもしれないね」

 夏は静かな声でそう言った。

「そうしたら、この街はどうなるのかな?」

「何人も人が死ぬかもしれない。俺たちの家はみんな危ないだろう」

 真中市は、かつては海に面した港町で、市の面積の大半は海中にあった。明治期にそこに干拓事業を行った結果、現在の真中市ができ上がったのだ。したがって、市のほぼ全域が海抜ゼロメートル以下の埋め立て地だ。そこから論理的に考えれば、ひとたび日光川が決壊すれば、水は僕たちの町の隅々まで行き渡る、ということになる。僕たちの四人の家はそれぞれ、日光川から数キロと離れていない場所にある。避けられはしないだろう。

 僕と夏は支度を始めた。この家を出て避難する時に備えての支度だ。キャンプ用の巨大なリュックサックに、お茶を入れた水筒やクッキーやインスタントラーメンといった非常食や下着や防寒具を詰め込んだ。それはかつて小学生だった時にやった冒険の準備に似ていた。

 僕にはまだ危機感はなかった。不安を感じるより、どちらかといえば僕にあったのは未知の光景に対する期待だった。もし僕たちの予想通りの事態が訪れるとするなら、この街の風景は一変するだろう。危険を想像するよりも、訪れる非日常を漠然と想像する方が容易で、それは恐怖とはかけ離れていた。

 僕が押し入れの中の懐中電灯と、替えの単一電池を探している時、家の呼び鈴が鳴った。だがそれは雨の轟音でかき消され、最初は何かが軋む音にしか聞こえなかった。何度もボタンが押され、ようやく僕はその音を判別することができた。誰だろうかと僕は思った。父も母も家のカギを持っているから、わざわざインターホンを鳴らさなくても扉は開けられる。玄関まで出て行き、こんな天候の中で誰が我が家に訪れる用があるのだろうと思いながらドアを開けた。激しい風と共にあっという間に雨が吹き込み、僕は目を細めた。

 ドアの向こうに立っていたのは、僕がよく知っている、そして全く予想しなかった人物だった。さっきまでの僕と夏のように、雨で全身を徹底的に打たれ、バケツの中に浮かぶ雑巾のような様で立ち尽くしている。頭に巻かれたタオルも、顔面を覆うマスクと真っ黒いサングラスも、背負ったマントも、すべてが重く濡れて薄汚れていた。

 そこにいたのは間違いなく日光仮面だった。

 僕は口を半開きにして、茫然と彼の姿を見つめた。彼は肩で息をしながら、いつも通り背筋をまっすぐ伸ばして立っていた。

「繁、話がある」

 日光仮面はそう言った。何の話、と僕は反射的に訊いた。

「大切な話だ」

 雨がばしゃばしゃと僕の顔に突き刺さり、とにかく中に入りなよ、と日光仮面に言った。

「ここで構わない。私はもう、どの家にも入ることができない」

「僕が濡れるんだよ」

 僕は日光仮面の背中を押して、無理やり玄関の内側に入れた。ドアを閉じると雨の轟音が遠ざかり、代わりに日光仮面の全身から滴り落ちる雨粒の音がぽつぽつ聞こえてきた。

夏が僕たちに気がついて、二階から降りてきた。彼女は僕の隣に立って、日光仮面に「タオルを取ってこようか」と訊いた。

 日光仮面は首を横に振った。

「長居はしない。君たちに伝えたいことがあるだけだ」

「こんな日に? 明日とか明後日とかにすればよかったのに」

「今日でなければ意味がない。昨日でも明日でもなく今日でなければ」

「ここが僕の家だってどこで知ったんだ?」

「この街のことは全て知っている。少なくとも昨日までのことは」

「僕の名前も覚えられないのに?」

「繁、すまないが私には時間がない。もちろん君にも。話をしてもいいか?」

 好きにしろよ、と僕は言った。

「今日がこの街の最後の日だ。遂にサタンの爪がやってきた。誰にもそれを止めることはできない。やつらはこの街を破壊し尽くし、全てを奪い去るだろう。私はこれから、やつらとの最後の決戦に向かう」

「まさかとは思うけど、この雨がサタンの爪だって言うんじゃないだろうな」

「そのうちの一つだ。いいか、君らは高台に逃げろ。これから数時間後、日光川は決壊する。そうなればやつらの思うつぼだ」

「高台なんてどこにあるんだよ。この街は隅から隅まで平べったくて、高い場所なんかどこにもない」

「いいから高い場所を目指して逃げるんだ。そしてできるだけ頑丈な建物に身を隠せ。後は私が何とかする」

「わざわざそんなことを言いに来たのか? わざわざ来なくても、必要になれば避難勧告と避難場所の連絡は学校から来る予定になってる。日光仮面こそ、安全な避難先を探しておけよ」

「私がここに来たのは、そのためだけではない。これを君に渡すためだ」

 日光仮面はそう言うと、背負ったカバンから、近所のスーパーマーケットのポリ袋に包まれた四角い何かを僕に差し出した。僕は雨に濡れたそれを受取って、何だこれ、と言いながら中身を取り出した。それは厚手の革表紙の手帳だった。

「そこに、私のこの街における戦いの記録全てが記されている。これを君に託す」

 僕はぱらぱらとその薄汚い手帳を開いた。紺色のペンでびっしりと文章が刻まれている。「3月5日。柿泥棒を遂に発見す。現行犯にてこれを取り押さえ、成敗する。正拳突きを犯人の心臓に向かって打ち込んだところ、彼の者は蹲り沈黙す」。「5月1日。我が愛車ドリーム号の後輪がパンクする。5つの画鋲が突き刺さっており、目下犯人を捜索中。容疑者を市内の小学生の一団と推測。今後周辺での聞き込みと張り込みを実施する」。……

 僕はノートを閉じて日光仮面を見返した。

「なんでこれを僕に預けるんだ?」

「私が、今日死ぬからだ」

「死ぬ?」

「私が死んだあとにこの街を託せるのは君しかいない」

「だから、なんで僕なんだ?」

「君だけがいつも私の話を聞いてくれた」

 日光仮面は静かな声でそう言った。僕は口を開いたが、声が出なかった。代わりにゆっくりと首を横に振った。

「いいか、繁。君たちは死んではいけない。この街は私が守ってみせる。だがそれも今日が最後だ。これからは君が誰かを守らなくてはならないのだ」

 日光仮面は身を翻して玄関のドアを開けた。さらばだ、とつぶやくように言うと、彼は嵐の中に駆け出して行った。背中に声をかける暇もなかった。

 僕はその場に立ち尽くした。そして手に持った汚れた手帳と、既に閉ざされたドアを見比べた。

 日光仮面について流通していた噂の真偽を問いただす暇など、全く無かった。

 雨の音がごうごうと頭の中で鳴り響き、僕は手のひらで頭を押さえた。久しぶりの感覚が、僕の全身を包んでいた。現実と非現実、日常と非日常の境界があいまいになって、今自分がどちらにいるのか全く分からなくなる、あの感覚だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る