第三章 雨(1)

 第三章 雨




 僕は地元の公立の中学校に進学した。身に纏った学ランはいつも、ぶかぶかか窮屈かのどちらかで、何年着ても最後まで僕の体には馴染まなかった。

健一も夏も同じ中学だったが、誠二だけはやはり市外の私立中学に入学した。入学者の六割が東大か京大に進学するという恐ろしく偏差値の高い学校で、誠二はその中でもトップの成績を修め続けているということだった。

 健一はサッカー部に入部して朝から晩までサッカーに明け暮れ、夏は一日中美術室で絵を描いて、帰ってからは音楽教室に通った。僕には初めから分かっていたことだが、二人とも入学した途端に周囲の人間から一目置かれる存在となった。四人の中で僕だけが一人やることもなく取り残されているという状況には何も変わりがなかった。

 真中市の公立中学では、生徒全員が何らかの部活動に所属していなくてはならないというルールがあったため、僕もどの部活を選択するのか決めなくてはならなかった。僕は文芸部を選んだ。ほとんど理由はなかったが、強いて言うならば、誠二に影響を受けて、僕の読書量は少しずつ増えつつあったからだ。

 予想された通りというべきか、文芸部はとてつもなく暇な部だった。とにかくやることが何もなかった。文芸部に課せられたノルマは、一年に一度の文化祭に、毒にも薬にもならない読書感想文や創作文の展示会を行うことだけで、そんなものは直前の一週間で仕上げられてしまう。それ以外には目標は何もなく、あとはひたすら本を読んで過ごすことが求められている。その結果、部員は三〇人以上いるが、まともに部活動を行う者はほとんどなく、誰も部室にはやってこないという状況が恒常的になった。代々文芸部では、寺山修二の「書を捨てよ、町へ出よう」が部室の壁の中央に掲げられ、誰もが学外活動と称して街へ繰り出してしまい、そのまま戻ってこなかった。それはいいが、実際にその寺山修二のエッセイを読んだ者が誰もいないのが問題だった。

 しかし、部室はせいぜい十人が定員のせせこましい空間だったから、皆がそうして街へ出ていくことは、残された数少ない部員にとっては好都合ではあった。僕はその数少ないメンバーの一人だった。時々は同級生に誘われて外へ遊びに行ったが、既に小学生時代に嫌と言うほど隅々まで走り回った街だ。今更見飽きた場所へ行くよりは、本を読んでいる方が楽しめた。何よりこの時期の読書は、一冊読むごとに自分が精神的に成長するという、実感とも錯覚ともつかない感覚を楽しむことができる、黄金の体験と言えた。

 僕以外に、部室と図書室を往復して読書に勤しむ文芸部員は、たったの二人しかいなかった。一人は二年生で、もう一人は一年生の僕の同級生だった。二人とも女で、とにかく物静かだった。僕たち三人は毎日、無言で本を読み続けた。二年生の先輩が持ち込んだCDラジカセからビートルズのベストアルバムが流れ続けていた。ビートルズはどんな種類の読書にもぴったりだったためにBGMとして選ばれたのだ。今でも僕はビートルズを聞くとあの部室の空間を思い出す。特に「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」だ。ジョン・レノンとポール・マッカートニーが描いた風景は、英語のまだ良く分からない僕の脳内で捻じ曲げられ、極東の片隅のとある中学校の狭い部室という空間に歪に固着させられた。

 夕方まで三人の男女が一つの部屋で黙々と読書を続ける光景は、どこか非現実的だった。ビートルズの赤盤と青盤が日に日に交互に流れ、季節が変わっていき、僕たちは幾つかの定期テストを受けた。僕の成績は相変わらずオール4だった。試しに僕は、テスト勉強をほとんどしなかったり、またはその逆に入念に準備して試験に挑んだりして、その運命から逃れようとした。だが無駄だった。努力の有無に関わらず、僕の成績はほとんど常に一定だった。教師の方でも予め僕には75点か80点を与えることを決めているのではないかという気さえした。

 文芸部の部室から出て下足ロッカーまで歩いて行く途中で、しばしば夏に出会った。美術室が文芸部のすぐ傍にあったので、僕は中を覗いて行くこともあった。美術室のにぎわいも、文芸部と似たり寄ったりの密度だった。

 夏は僕に気が付くと微笑んで、一緒に帰るから少し待ってと言った。僕と夏はグラウンドに寄って、サッカー部で練習中の健一に声を掛けた。大体の場合、健一は、もう少しだけ続くから先に帰っていいよと答えた。二人で並んで駐輪場まで歩き、自転車に跨ると彼女の髪が風になびいた。夏の髪は小学生の頃の倍以上の長さに伸び、黒く艶やかだった。彼女は最早誰の目にも美しい少女となっていた。

 同級生たちからは、夏と僕が付き合っているのではないかと疑われていた。と言うか、ほとんどそう信じ込まれていた。夏の傍にいる男はいつも、僕か健一のどちらかだったから、そう思われても無理はない。もちろん事実はそうではなかった。僕たちは相変わらず友達で、それも一際仲の良い友達だというだけだった。この頃、僕にも薄々分かり始めていた、誰もが心の底から親愛を感じることができる友達を持っているわけではないということを。

 夏と僕は自転車で並んで走りながら話をした。何を話したのかは、ほとんど思い出せない。恐らくは大して中身の無い事柄についてだった。授業のこと、読んでいる本のこと、季節のこと、部活のこと…… 具体的な内容はほとんど消えてしまった。僕たちは大体笑っていて、笑いというのは記憶から時間も意味も消してしまう。だから僕が今思い出せるのは、ある一日の帰り道の会話だけだ。その時僕たちは笑わなかった。

 僕たちが話したのは、一人の男の死についてだった。数ヶ月前の夏の終わり、真中市に住むとある中年男が死んだ。彼は僕たちの同級生である男子中学生の父親だった。彼はいつも酒ばかり喰らっていて、風呂場で嘔吐物に喉を詰まらせて死んでいるのを息子に発見された。酒と睡眠薬を同時に服用した結果による、事故とも自傷ともつかない死だった。一時期、僕たちの中学はこの話題で持ちきりとなった。何しろ老衰と交通事故と病死以外には滅多に死が訪れることの無い街だ。死そのものが珍しいのに加えて、その男が家庭内暴力の常習者であることは、その男とその息子に関わりのある者なら誰もが知っていた。その同級生と僕とは親しい間柄ではなかったが、彼が腕や首に痣を作っているのはよく見かけていた。彼の名前は横山と言った。皆、あんな父親は死んで当然だし寧ろよいことだったと言っていた。横山自身はそれについて何も言わなかった。もとより物静かな少年だったが、父親の死後は輪を掛けて沈黙を固持するようになり、大体教室で一人ウォークマンを聴いていた。

 この日、横山の父親の死について話し出したのは夏だった。僕たちがこの事件について話しあったことはそれまで一度もなかった。夏が僕に、この事件を知っているかと訊き、同級生だから少しは知っていると僕は答えたが、何故夏が急にそんな話をし始めるのか分からなかった。

「横山君のお父さんを殺したのは、日光仮面かもしれないんだって」

 夏は呟くようにそう言った。僕は夏の顔を覗き込もうとしたが、彼女の方が僕の少し前を走っていたので、耳に隠れて目が見えなかった。

 それは、二重の意味で唐突な情報だった。自殺でも事故でもなく殺されたということ。そして殺したのは日光仮面だということ。

「それ本当か」

 僕がそう訊くと、夏は首を横に振って、噂で聞いたのだと言った。

「そんな噂聞いたことない」

「裕司が知らないだけだよ。みんな言ってる。裕司はどう思う?」

「どう思うって?」

「本当に日光仮面が殺したと思う?」

 僕は自転車にブレーキを掛けてゆっくりと止めた。夏もそれに気付いてすぐに立ち止まり、ハンドルを握ったまま自転車から降りた。僕は夏の隣まで自転車を押して歩きながら、日光仮面ならやりかねない、と反射的に思った。だが、口に出してはこう言った。

「分からないよ。今初めて聞いた話なのに分かるわけない。ただの噂だろ?」

「だけど、日光仮面と横山君が話してるのを見た人がいるんだって」

「話したからって何なんだよ。横山が日光仮面に、父親を殺してくれって頼んだってことか?」

「分からないけど、気になって。裕司は日光仮面が殺したと思う?」

 夏はそこで初めて顔を僕の方に向けた。僕の眼の色を覗き込むような視線だった。

 僕にはもちろん、夏が何を言いたいのかは分かっていた。夏は、僕たちが小学生の時に、首つり死体の片づけを委ねた時のことを思い出しているのだ。あの時日光仮面は、僕たちの言うことを100%信じ、事件にまつわる責任を自ら積極的に引き受けた。あの時と同じように、日光仮面が横山の話を聞き、父親を殺すしかないと結論付け、それを本当に実行したとしても、僕たちにはそこに論理的な飛躍を認めることができない。僕たちは日光仮面が必要とあらば本当に何でもやる人間だと、知っているのだ。

 だがそれが殺人であってもそうなのだろうか。殺人は物事を解決するにあたって最後に取るはずの、究極の手段だ。果たして日光仮面はそこまでやるだろうか?

 僕には分からなかった。だから、僕は逆に夏に訊き返した。

「本当に日光仮面が殺したのかどうか、確かめたいのか?」

 夏は頷いた。

「どうして?」

「私は日光仮面のことを友達だと思ってるから」

 友達、と僕は唇と歯の間で小さく呟き返した。違和感のある言葉だった。僕は彼のことをそう思ったことは一度もない。だが、夏らしい言い方だと思った。

「どうやって確かめるんだ? あのおっさん、聞いたって何も答えないぞ。質問には答えないやつだ。それに日光仮面じゃなくたって、人を殺したかどうか訊かれてわざわざ正直に答えるくらいなら、誰だって初めから警察に自首してる」

 そうだね、と夏は小さな声で言った。「多分何も言わないだろうね」

「でも、夏が訊きたいんなら、付き合うよ。横山に訊きにいくよりはましだ」

 時刻は午後5時を過ぎ、夕暮れの気配が近づいていた。今から行くか、と僕が訊くと、夏は頷いた。

 僕たちは日光川に向かった。日光仮面に会いに行くのは久しぶりだった。あの十一歳の年の夏休み以来だ。夏と二人だけで行くとなれば、それはそもそも初めてのことだった。

 殺人犯かもしれない男に会いに行くにしては、僕にも夏にも緊張感が無かった。殺人という行為に現実感が無かったからだと思う。まさに久しぶりに知り合いに会いに行こうとするのと何も変わらない感覚だった。

 だが、辿りついた橋の下に、日光仮面の姿は無かった。彼の姿だけでなく、あの木造りの小さな館も存在しなかった。川の反対側にも何もなく、あたりは壁に例の落書きが取り残されているだけの空洞だった。彼がこの場所からいなくなるのは珍しいことではなかったが、ここを訪れたこと自体が久しぶりだったので、夕闇の中でその空洞はより大きく、どこか物悲しく感じられた。河川敷には冷たい風が吹き始め、季節は秋から冬に移ろうとしていた。

 どこに行っちゃったんだろう、と夏が呟いた。

 僕はそれについて考えを巡らせたが、分からなかった。思いつかなかったと言うより、この街の中ならば彼はどこにいてもおかしくはなかったから、一つの場所に予測を絞る当てが全くなかった。それに僕は、ずいぶん長い間、日光仮面と街ですれ違ったこともなかった。彼の存在を身近に感じるための頭の中のイメージが薄れていた。

 夏も同じだったようだった。彼女は僕に訊ねた。

「日光仮面に最後に会ったのはいつ?」

 僕は首を横に振って、思い出せない、と言った。彼とは、長いこと話をしていない。最後に会話したのは、死体について日光仮面に頼んだあの日のことだ。あの日の後、何度か街ですれ違ったはずだが、それもかなり以前のことだった。少なくとも中学生になってからは一度も会っていない。

「ずっと見かけてないと思う。夏は?」

「私もずっと会ってない」

 日光仮面の行き先について僕たちが勘考するうち、特に答えが出ないまま完全に日が暮れた。仕方なく僕達は河川敷から立ち去った。

 帰り道、僕たちはしばらく無言だった。風が少し強くなり、乱れ、夏の髪を左右に引っ張った。

 信号待ちで自転車を停めた時、夏が呟いた。

「日光仮面はまだ本当にこの街にいるのかな?」

 彼女は少し俯いていて、僕の方を見ていなかった。僕は彼女の横顔をじっと見つめた。その表情は憂鬱そうに見えた。

「いるよ。日光仮面はいなくならない」

 僕はそう言った。根拠はなかった。ただ僕が、日光仮面がいなくなった真中市を想像できないというだけだった。

 しかし夏はそれで少し微笑んで、そうだよね、と言った。

 交差点で夏と別れ、僕は家に帰った。

 その日の後、夏と僕の間では、日光仮面についても、横山の父の死についても話し合われることはなかった。僕たちはまた他愛もない話を続けた。最近読んでいる本の話や、聴いている音楽の話だった。僕は彼女に小説を教え、彼女は僕に音楽を教えた。彼女が教えるのはアメリカとイギリスの、古いジャズやロックだった。それは僕には退屈すぎることもあったが、彼女が辛抱強く聴かせたおかげで幾らかは身に付いた。

 夏も健一も用があって、一人だけで学校から帰る時、僕は少し遠回りをして街を自転車で走った。だが、何度かそうしても、やはり日光仮面には会わなかった。しばらくしてまた河川敷まで行ってみたが、そこは空洞のままだった。僕が知っている以前ならば、しばらくいなくなっても川の反対側にやがて彼は移り住んでいたはずだったのだが、いつまで経ってもそうなる気配はなかった。やがて僕は彼を探すのを止めた。

 父親を亡くした横山についても、一度その表情を確かめてみただけで、何かを探ろうとするのは止めた。教室の隅にいる彼の表情は静かで、悲しげで、彼が抱えている問題は僕が軽々しく立ち入られるようなものでないことはすぐに分かった。不確かな情報を根拠に、彼の気持ちを逆撫でするようなことを僕はしたくなかった。彼には時間と、適切な距離が必要だろうと思った。

 ただ、噂だけが残り続けた。

 教室の中で耳を澄ますと、日光仮面についての噂は、その後も断続的に聞かれた。それは、シリアスなものからささやかなものまで多岐に渡ったが、いずれも僕にはとても彼の行為とは思えないという点において共通していた。彼が他校の不良中学生を半殺しにしただの、街をうろつく野良犬を何匹もまとめて焼き殺しただの、昼間から大音量で音楽を掛けている家に乗り込んで行ってスピーカーを叩きこわしただの、長時間路上駐車された車のガラスやボンネットやタイヤを破壊しただの、聞きかじったところはいかにも彼がやりかねない過剰な行為が折に触れて僕の耳に入ってきた。しかし僕はそれに違和感しか感じなかった。いざとなれば彼は何でもやるかもしれないとは思っていたが、どの話も彼の美意識に反する行為のように思えてならなかったのだ。だから僕はどの噂も信じなかった。

 しかし、僕はそれらの真偽を確かめることはできなかった。その後も日光仮面と会うことがなかったからだ。夏も健一も誠二も、彼とはあれからもずっと会っていないはずだった。あえて彼を探し求めるのはもう止めていたが、昔は嫌でもしょっちゅう顔を合わせていたのが、どれだけ近所をうろついてもまるで会うことがないので、本当にこの街のどこにもいなくなってしまったのかもしれないと思い始めた。誰かが彼と直接会って話した、という話も聞いたことがなかった。僕は不思議だった。彼がどこにもいないのに、何故彼の噂だけがはびこり続けるのだろうか。それは一体どこからやってくるのだろうか。

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