第二章 夏(4)

 真中市に戻ってきたとき、僕たちは全員その体力の限界を超えて疲れきっていたが、そのまま家に帰ることはできなかった。僕たちはまだあれから、誰とも話をしていないが、家に帰れば家族と話すことになる。そうなる前に、どうしても最初に日光仮面に会わなくてはならなかった。

 ほとんど休憩もなく走り続けてきたおかげで、まだ太陽は空の頂点を横切って間もない位置にあった。日光川の河川敷に辿り着くと、日光仮面はいつもの通りそこにいて、泥川に向かって正拳突きを繰り返していた。傍に立つと彼のぜいぜい乱れた呼吸が聞こえ、汗臭いにおいが漂ってきた。

「日光仮面に話したいことがあるんだけど」

 僕がそう言うと、日光仮面は正拳突きを止めて振り向いた。

「何があった。サタンの爪が現れたのか」

「それよりひどいかもしれない」

 細い声で僕が言うと、日光仮面は、サングラスの向こうからじっと僕の顔を見つめた。そして僕の肩にそっと手を置き、詳しく聞かせろ、と言った。

「その前に約束してほしいんだ。この話は、絶対に誰にも言わないって」

 日光仮面は頷いた。「約束する。安心しろ、正義の味方は約束を破らない」

 立っているだけで眼がくらむような日差しを避け、僕たちは橋の真下の影に座りこんだ。

 話は、僕がした。神社で男と出会い、そして彼が死んだのを発見して、今真中市に戻ってきたことまで。事実だけを話した。言葉が足りないと思われた部分を時々誠二がフォローした。帰り道の途中、どうするべきかと四人で議論したことについては一切省略した。

 日光仮面は腕を組み、黙って僕の話を聞いていた。相槌も質問も何も無く、全く一言も発しなかった。

「それで、どうしたらいいのか日光仮面に相談したかったんだ。どうしたらいいと思う?」

 長い話を終え、僕がそう訊くと、日光仮面は組んだ腕を解いて言った。

「もう大丈夫だ」

「大丈夫って何が?」

「君らは良くやった。後は私に任せろ。もう何も心配することはない」

そして日光仮面は、もう大丈夫だ、と言いながら、僕たち四人の頭を順番に撫でた。

「任せろって、どうするんだ?」と誠二が訊いた。

「私が今からそこに行って、全て片付けておく。地図だけ渡して場所を教えてくれ。君たちはもう何もしなくていい。この事は忘れるんだ。もうこれ以上誰にも言う必要はない。家に帰って、元気な顔を見せて、親御さんを安心させてやりなさい」

「警察に言うの?」と夏が訊いた。

 日光仮面は首を横に振った、「私は無駄なことはしない主義だ。警察など何の役にも立たない。サタンの爪の前には公権力など無力だ」

「サタンの爪って、そんなの今なんにも関係ないよ。自殺なんだよ」と健一が言った。

「それは君が決めることではない」と日光仮面は言った。「私が君たちに言っておきたいのは、君たちは今日、不幸な事件に巻き込まれただけだということだ。これは単なる不幸な偶然だ。君たちは何一つ悪いことをしていない。それが分かったら、私を信じて全て任せなさい」

「一人で行くつもり?」と僕は訊いた。

「そうだ」

「僕たちも行くよ。案内するし、手伝う」

「駄目だ。必要無い」と日光仮面はきっぱり言った。

「なんで?」

「君たちはこの事件のことを一刻も早く忘れなくてはならないからだ。それが最も良いことなのだ」

「忘れようとしたって、忘れられないよ」

「いや、君たちは忘れる」と日光仮面は断言した。「今ここで、この事件に関わることを止めてしまえば、いつか必ず忘れる。それが君たちに与えられた祝福なのだ。私を信じて、地図を渡しなさい」

そう言って手を差し出す日光仮面に、誠二はあの神社の位置を示す地図を渡した。

「では行ってくる」

 言うが早いか、日光仮面は立ち上がり、白いペンキの剥がれた愛用の自転車のハンドルを握った。僕たちが声を掛ける間もなく、彼は全速力で堤防を駆け上がり、サドルに跨って走りだした。

 あっという間に去って行った日光仮面の後ろ姿を見送りながら、僕たちはその場に立ち尽くした。

額に光る汗を拭い、誠二が言った。

「帰ろう」

 僕たちはやむを得ず頷いた。そして自分たちの自転車に戻り、ゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。

 無言で仲間たちと並んで俯き加減に自転車を漕ぎながら、果たしてこれでよかったのだろうかと僕は考えた。日光仮面に相談しようと提案したのは僕だ。その時、このような結果になることも、僕には充分予測できていた。日光仮面の意志はどうあれ、僕たちは彼に物語の結末を押し付けることになるかもしれないと。そうなれば助かると少しでも考えたことは否定できない。それでも、もしそうなった時には日光仮面を一人にするわけにはいかないだろうと僕は思っていたが、予想を遥かに超えて、彼の反応は徹頭徹尾断定的だった。どうするべきかの判断が出来ずに揺れ動いていたこの時の僕たちに比べ、彼の意志は余りにも確信に満ちていた。僕たちは疲れきっていて、日光仮面は気力と体力に満ちていた。僕たちは彼に全てを託すという道を、彼に話した時点で自動的に選ばざるを得なかった。

僕は正しいことをしたのだろうか。それとも致命的な間違いを犯したのだろうか。

僕には分からなかった。

 後になって考えれば、僕たちはいかなる道を選んでいても正しかったし、同時に間違っていたことが分かった。僕たちの目の前には四つの選択肢があった。無視するか、警察を呼ぶか、墓を建てるか、日光仮面を頼るか。そのうちどれを選んでいたとしても、僕たちは他の三つの道を失ったのだ。どの道も何かを得、どの道も何かを失う道だ。他にもっと良い方法があったかもしれない。しかし、どれかを選ぶしかなかったし、僕たちにはこの時四つしか見つけることができなかった。選んだ以上は、その道が他の三つよりも良いものであることを信じるしかなかった。その保証はどこにもない。誠二と、健一と、夏が指摘した問題の全てを、この日光仮面に託すという結論が解決することなどできはしない。僕は直感的にそれに気が付いていた。願わくは、そこからこぼれる雫が出来る限り少量であるように祈るだけだった。

 仲間と別れ、家路を一人自転車で走った僕が考えたのは、昨日と今日、自分が一体何をしたかったのだろうかということだった。自分が本当に望んでいたことは何だったのか。今のような結末を望んでいなかったことだけは間違いない。でもだからと言って他に何を望んでいたというのか。僕は祝福された鏡などどこにもあるわけがないと思っていた。では何が僕にとってゴールだったのだろうか。それが漠然と冒険と名付けられるものであれば、僕は何でも良かったのだろうか。僕はただ意味もなく仲間と騒ぎ、遊ぶことさえできれば、最終的にどこにも辿りつくことが無くても満足だったのだろうか。僕はそんな事のために時間を掛けて準備をし、計画を練って、前夜は眠りにつけないほど興奮していたのだろうか。そんなはずはないと思ったが、実際、頭の中のどこを探しても、具体的に自分がしたかった何かが全く見つからない。そうだとしたらこれは冒険と言えるのだろうか。僕にとって冒険とは一体何なのだろうか。あの男が死んだことが僕にとっては冒険なのだろうか。

 僕は考えるのを止めた。それ以上考えることは恐ろしかったし、実際どう考えたらよいのか分からなかった。それ以上先は真っ暗闇で混沌としていて、何の手がかりもなく、自分が進んでいるのか戻っているのかも分からない場所に見えた。




 夏休みの残りの日々は静かに過ぎ去っていった。僕たちは自分たちに課した約束の通り、誰にもこの物語を共有することなく過ごさなくてはならず、それは自然と僕たちの声と行動を密やかにさせたのだった。僕は、日光仮面以外の誰にも、起こったことを話さなかった。他の三人もそうだったろう。そうでなければ僕たちの周囲はとてつもない大騒ぎになっていたに違いない。

 僕たちは再び日光仮面に会うこともなかった。彼が既に真中市に戻ってきており、普段通りの市内のパトロールに精を出していることは分かっていたので、彼に会って、あの死体をどうしたのか聞きたいのはやまやまだった。しかし、誠二はそうするべきではないと言った。彼は、僕たちはこの事件を忘れなくてはならないという日光仮面の意見に賛成だったのだ。日光仮面に会って話を聞けば、忘却の可能性は限りなく薄まり、僕たちはこの事件に関係したままになるだろう。そもそも誠二が僕の意見に賛成したのもこうなることを見越してのことだった。彼は初めから、日光仮面を完全に信じようと決めていたし、そして敢えて残酷な言葉で言うならば、日光仮面に全てを押し付けようと決めていたのだ。そうでなければ、全てを無視しようと提案した誠二が僕に賛成するはずがなかった。そして日光仮面は誠二の予測通り一人で事の始末を引き受けた。誠二はそれを口に出しはしなかったが、僕には分かっていた。それが分かっていて日光仮面に会いに行こうとしなかった僕も、結局は彼と同じ意志だったのだ。

 僕はそれから毎日、新聞の隅から隅までを虱潰しに読んだ。そこでは多くの人が病気で死に、火事で死に、交通事故で死に、時々は殺されて死んでいた。だが、山奥で身元不明の自殺遺体が発見されたというニュースには遂にめぐり会うことが無かった。

 したがって、僕たちにとってこの事件は終わった。続きが無い以上終わらざるを得なかった。やがて、少なくとも表面的には僕たちは日常を取り戻した。僕たちは四人で協力して、夏休みの宿題を早々に終わらせに掛かった。日誌も絵日記も自由研究も、全て七月の内に八月の最後の分まで終わらせた。そうなれば後はもうひたすら遊ぶしかない。

 僕たちは海に行って泳ぎ、小学校のグラウンドでサッカーをし、誠二の家でファミコンをやり、プールに行って泳ぎ、花火大会を見物に行き、互いの家に泊まり込みで遊び、秘密基地の拡張に取り掛かった。周囲に花や果物の種を植え、ゴミ捨て場からぼろぼろになった椅子やテーブルやパラソルを運び込んだ。そうしているうちに、僕たちは夏休みの初日に起こったことなどすぐにほとんど忘れてしまった。毎日の起きている全ての時間を使い尽くすことに集中していれば、自然と深刻で暗い感覚は遠ざかってしまう。

 だがもちろん、影は残り続ける。見えなくなっただけで消えはしない。僕はいつもの通り限界まで遊びつくしたある日の帰り道、ふと気が付いた。それは完全に唐突な発見だった。僕はその一瞬前まで、あの夏休みの初日のことなど、一切考えていなかった。

 誠二はあの時、想像のままなら本当ではない、と言った。僕は、道の先に長く伸びる自分の影を見つめているうちに、それが嘘だということにようやく気が付いたのだ。あの男を僕たちが殺したのだとしたら、たとえそれがどこまで行っても想像するだけで確かめようがないとしても、本当はもう答えは出ている。ただそれは、僕たちにまだ伝えられていないだけだ。殺したのか殺していないのか、関係しているのか関係していないのか。無関係を装い続ければ実際に無関係になる、誠二が言っていたのはそういうことだった。だが僕は、そうではないと思った。僕たちを含めた世界中の誰もそれを知らないだけで、真相はあの時あの神社にあった。想像するかしないかの問題ではない。それは誰かが暴こうと隠そうと、どちらにしても間違いなく存在し、眼に見えない時間の中に刻み込まれたのだ。

 僕たちは取り返しのつかないことをしたのではないだろうか。正しかったのは健一であり夏であったのではないだろうか。僕たちはあの時、あの男の死とつながり続ける道を選ぶべきではなかったのか。たとえどれだけあの死体が忌まわしかったとしても。

 何故僕はそう感じるのだろうか。あの時はこれが最善の策だと思った。他にどうすることもできなかったというだけでなく、こうすることが彼との物語に報いるに最もふさわしいと思えた、積極的な選択だった。そして僕だけでなく四人全員が同意した。それなのにどうして今、後悔の念が僕の中でくすぶり出すのだろうか。

僕にはこの時言葉では分からなかったが、いつもの通り直感では分かっていた。僕は、このままでは僕たちはあの男が死んだことを一生忘れられないだろうと予感したのだ。

 日光仮面は少なくとも一つ嘘をついた。彼は僕たちがこの事件のことを必ず忘れる、と言ったのだが、それは間違いだった。僕はあれから十数年の時が経った今も、まだこの日のことを覚えている。確かに細かい部分については忘れたかもしれない。男の死顔はくっきりとはもう残っておらず、輪郭はばらばらだ。だがぼんやりとした暗い影のイメージは、僕の中に未だに漠然と残り続けている。それは稀に僕の夢の中に現れさえする。そこでは時々、首を吊って死んでいるのはあの男ではなく、僕自身であったりするのだ。

 僕が恐ろしいのは、日光仮面は更にもう一つ嘘をついたのかもしれない、ということだった。つまり、忘れるということができない僕たちは祝福などされていなかった。既に呪われていたのかもしれないということだ。夏は、鏡は目に見えないだけでどこかにあると言った。それは正しかったのかもしれない。呪いは眼には見えないだけで、僕たちが気が付いていないだけで、僕たちが想像できなかっただけで、あの二日間、恐ろしく眩しい太陽の光に交じって、僕たちにずっと降り注いでいたのかもしれない。




 僕たちは小学六年生になった。十二歳だ。「ドラえもん」の野比のび太をはじめ、アニメや漫画の登場人物を超えはじめる年齢だ。生きていればいつかそうなる時が来るというのは、理屈では分かっていたが、感覚としてすぐには馴染まなかった。様々な馴染まない感覚の中で僕たちは成長し、大人になりつつあった。

 体の変化の著しかったのは健一と夏だった。二人とも身長が見る見るうちに伸び、顔つきも体つきも変わり始めた。健一の身長は六年生の夏休みには170センチ以上になり、天性の運動神経と相まって、あらゆるスポーツの大会で県の記録を塗り替えていく真っ最中だった。

 夏も同じだった。彼女の背丈は一時的に僕を超え、既にその体の線は女になりつつあった。音楽のセンスにはますます磨きがかかり、楽器と名のつくものは全て使いこなすかに見えた。中でも特にピアノの腕前は並外れていて、彼女の弾くベートーベンのピアノソナタを聞くことによって僕たちまで音楽鑑賞に開眼させられた。

 そして誠二の頭脳の明晰さは日に日にその切れ味を増していくようだった。彼は独学で高校数学を学び、僕たちにマルセル・プルーストやジェイムス・ジョイスやダンテ・アリギエーリと言った作家の本を紹介したが、僕にはそこに何が書いてあるのか、最初の一行目からさっぱり分からなかった。彼は県下で最難関の私立中学受験の準備を始めていたが、彼がそこに楽々合格するだろうと、僕たちはもちろん同級生の誰ひとりとして疑わなかった。

 つまり、仲間たちに備わった天性の才能はそのまま伸び続け開花しようとするところだった。僕だけが何も変わらなかった。相変わらず背丈は平均より少し上、成績も平均より少し上、体力測定も平均より少し上で、自分の特徴というものが一体何なのか全く分からなかった。この頃僕の心を占めていたのは、仲間たちに置いて行かれるという恐怖を伴う焦りだった。

 自分が何を望んでいるのかだけは分かっていた。三人の友達と共にいること、彼らと遊ぶこと、そして彼らと冒険することだ。だが、それが長くは持たないだろうという見通しは、愚鈍な僕の中にもはっきりとあった。誠二は僕たちとは別の中学に行くことはほとんど決定しているし、健一も夏も各々の才能を本気で伸ばそうとすれば、生活は僕とはまるっきり変わってくるだろう。それを抑え続けることはできない。そうであれば、僕たちが互いに共有する時間は、もう決して長くはない。既に僕らの基地に四人が集まる頻度は日に日に減少しつつあった。

 僕はただ一人当てもなく冒険の計画を練っていた。実行のめどが立たない荒唐無稽なプランが、頭の中で浮かんで消えていった。基地の前に置かれたぼろぼろの木椅子に座り、中空に向かってエアガンを構え、トリガーを引いた。弾は空っぽで、かちかち乾いた音を立てる。季節はまた夏になろうとしている。

 十一歳のあの夏以来、僕たちは具体的な冒険の計画を立てることができなくなっていた。日常を突き抜けて非日常に到達したいという気持ちは死んではいない。しかしそれがこの町を抜け出してあらゆる関係性や退屈さから解放されたいという欲求にはつながりにくくなっていたのだ。それにはもちろん、あの男の死も関係していただろう。冒険によって後悔や恐怖がもたらされるという危惧が僕たちに無かったはずはない。だが、もっと直接的な理由があった。健一も、誠二も、夏も、自分の才能を成長させることが、既に昨日とは違う今日に明確につながっていたから、わざわざ町の外部に冒険を求める必要が無かったのだ。自分を特定の分野で成長させることが即、自分の世界の拡大となる。そんな時に人は冒険を必要とはしないだろう。だから、四人の中でいつもこの町を出ることを望んでいたのは、未だに自分の中に何も無い僕だけだった。僕たちはまだ互いに同じ時を過ごすことを心から楽しんではいた。それとは別に、単に成長の当然の帰結として、それぞれの道に進む段階が来たというだけだった。

 僕たち四人が出会いの最初から未だに共有し続ける愛好物は、自ずと限られた物だけになりつつあった。ゲームや、漫画、映画。とくに重要だったのは、アメリカからやってくる幾つかの大作映画だった。バック・トゥ・ザ・フューチャー、ターミネーター2、ダイハード、バットマン、いずれも僕たちにとって掛け替えのない作品だった。僕たちがいつもヒーローの側に立つ限り、これらはすべて、生き残っていくこと、成長していくということを無限に肯定する映画ばかりだった。僕はこれらの映画の筋書きを頭の中で反芻し続けるだけで何時間も過ごすことができた。

 だが繰り返せば繰り返すほど、それは自分に跳ね返ってくる。僕はやはり人から与えられる物語だけでは満足することができなかった。僕が解釈する限り、それらの映画が何より僕に告げていたのは結局、お前も自分の冒険を探せ、ということだったからだ。僕は集中力の欠けた脳内でどうにか冒険のプランを組み立て、夏休みの初日に旅立つ用意を進めた。ちょうど一年前の夏のようにだ。

 それは、真中市のはるか南に位置する無人島を目指す計画だった。日光川のほとりに係留された小さなボートに、僕は以前から目を付けていた。時々、雑草が生え放題の河川敷の草むらで虫を探してさまよい続けていると、反対側の岸の朽ちかけた桟橋から、老人がボートに乗って川を下って行くのを目にした。それに気が付くと僕はしばらくそのボートの動向を観察したが、ほとんどの時間は係留されたままで、誰も使う気配が無い。ボートは桟橋に紐で結わえられ、簡単なカギを掛けられているだけで、それは壊して外すことなど造作もない代物だった。ボートのエンジンは生きていて、せいぜい燃料を調達すればそのまますぐに海に向かって走り出すことができるはずだった。ボートの簡単な操舵法は、図書館で本を読んで勉強した。動かすだけなら子供でもできる。残る重要なことは無人島に行って何をするかで、それも僕の中ではっきりしていた。

 目的はただ一つ、無人島で生き残ること。それも可能な限り長く。

 良い計画だと僕は思った。

 周到な準備に長い時間を掛けた後、僕は仲間たち三人に計画を打ち明けた。夏休みの初日に出発して、出来る限り長く旅に出よう。海は広大で、島は誰にも見つからない秘密の場所で、僕たちは限りなく自由になれるだろう。僕たちは戻ってきた頃には、まるで修業を積んでパワーアップした漫画のキャラクターみたいに、見違えるほど成長しているだろう。

 誠二が言った。

「駄目だ。俺は夏休みの最初から終わりまで、塾の夏期講習がみっちり入ってる」

 そして首を横に振った。

 健一も、夏も、同じだった。健一はサッカーと短距離走の合宿と本大会があり、夏はピアノとバイオリンのレッスンと発表会、そして家族との海外旅行の予定が既に入っていた。夏休み中、四人の予定が完全に合う日はほとんどなさそうだった。

 ごめんね、と夏は言った。

 僕は、いいんだ、と答えた。そう言って表情を変えずにいるのが精いっぱいで、微笑んだり三人にエールを送ったりすることはできなかった。

 たった一人でも旅に出ようかどうか、僕は考えた。そして自分に向かって首を横に振った。四人で行くのでなければ意味が無い。二人でも三人でもなく四人でなければ。予測される困難に、僕は一人では立ち向かえないし、そもそも仲間と冒険を共有できないのであれば冒険の意味が無い。僕は無人島行きの計画を諦めた。

 その結果、その年の夏休み、僕はほとんどの時間を一人で真中市をふらついて過ごすことになった。家にいてもすることが無い。僕は朝から自転車に乗って真中市の至るところを走って回った。しかし既にどこも何度も訪れた場所ばかりだ。そしてどこに行っても誰かがいる。その誰かは、一人残らず僕が一度以上会ったことのある人物であるように思えた。どこへ行っても同年代かそれ以下の子供たちが遊んでいた。一人で遊んでいる者はどこにもいなかった。退屈で退屈で死んでしまいそうだった。

 自転車を走らせていると、道端で空き缶を拾う老人に出会った。彼とはかつて、あの奇妙な人たちに出会うことに執心した時期に、話したことがあった。会うのは久しぶりだった。彼はあの頃と同じように、体中に空き缶や空き瓶の蓋をくくりつけて身に纏い、空き缶が一杯に詰まった巨大なかごを背負っていた。その姿は太陽の光を受けて眩しいほど光り輝き、そのシルエットは二宮金次郎か、レッド・ツェッペリンのアルバムジャケットに描かれた老人のように見えた。彼は道端に転がる空き缶を薄汚れたステンレスのトングで拾い、背負ったかごの中に肩越しに放り込んだ。

 自転車を停めて、こんにちは、と老人に声を掛けると、ごきげんよう、と彼は答えた。

 何故彼が空き缶を集め続けるのか、かつて僕は訊いたことがあった。彼は空き缶を百万個集めて家を建てるのだと言った。どうして空き缶で家を立てなければならないのかと僕たちが尋ねると、軽くて丈夫で美しいし、空き缶はこの国に無限に存在するからだと老人は答えた。真中市の西の外れにあるその建設現場に、僕たちは四人で訪れた。まだ土台ができているだけの状態だったが、辺り一面、太陽に照らされた銀色とその他狂おしいばかりの蛍光色の乱照が僕たちの目に突き刺さった。老人は二階建ての家を建てるつもりだと言ったが、それが完成するまでにどれだけの時を要するのか僕には想像もつかなかった。誠二が冷静な声で、爺さんが生きている間に完成するのは間違いなく無理だろう、と僕にささやいた。いずれにしても僕たちはその光景を見て、秘密基地を建て直すことがあっても空き缶で組み立てることだけは止めようと誓い合った。

 だがこの日、僕の気持はあの頃とは違った。

「おじいさん、僕も空き缶集めてきていいですか?」

 僕がそう尋ねると、老人は僕の方を振り向いて、無表情に頷いた。そして僕に、懐から取り出した巨大なビニール袋を渡した。それに空き缶を入れて来いと言うのだった。

 僕はビニール袋を受け取ると、自転車に乗って真中市中のゴミ箱を漁って回った。改めて探すとなると、真中市のような環境衛生にルーズな田舎町でさえ、空き缶はそれほど簡単に道端で見つけられるものではないことが分かった。コンビニや自動販売機の横に置かれたゴミ箱を開けて空き缶を一つ一つ取り出し、底に中身が残っていないかどうかを振って確認してビニール袋に放り込んだ。たちまちの内に僕の全身は汗に包まれ、喉はからからに乾いた。

 缶で一杯になったビニール袋を肩に背負い、アンバランスな姿勢で自転車を漕いだ。ふらふらしながら空き缶の家の建設現場に辿り着いた時、僕は息を飲んだ。

 そこに広がっていた光景はかつてとは全く違っていた。大量に積まれた空き缶が太陽を反射して光り輝いていることだけは同じだったが、その量が桁外れに増えていた。以前は膝の高さまでしか積まれていなかった空き缶の山が、僕の身長を遥かに超える高さの壁となって目の前に広がっている。その大きさは既に、二階建ての僕の自宅の背とあまり変わらない。コカコーラの缶だけで組み立てられた門柱があり、缶の裏ぶたが敷き詰められた敷石の道があり、ブラックコーヒー缶を積んで作った玄関階段の先には、極彩色の空間が広がっている。それはまるで、少し離れた場所から見れば礼拝堂の壁画のようであり、近づいて見ればジャスパー・ジョーンズか何かの前衛芸術のように感じられた。

 ポカリスエットの缶で縁取られた窓枠を撫でていると、老人が戻ってきた。僕は彼に、おじいさん凄いね、と言った。彼は僕から空き缶を受け取って、ビニール袋の外側から中身の缶をじろじろと見た後で、助かった、と無表情で言った。

僕はその後、日が沈むまで、老人が空き缶の家を組み立てる作業を横で眺めていた。できれば手伝いたかったが、老人が缶と缶を接着剤で繋げる表情は真剣そのもので、とても不器用な僕が手出しをできる気配ではなかった。作業は実にゆったりとしたペースで進んだが、着実に進行し、やがて僕が持ってきた空き缶は極彩色の壁の中に全て吸いこまれた。

 老人と別れ、家に帰り、夕飯を食べ、風呂に入った時、僕は一つのことを決めた。

 明日、一年前に訪れた、あの山奥の神社へ、一人で行こう。

 その考えは直感的に僕の頭の中に現れ、直ちに心の奥深くで承認された。そうしようと思う理由を自分自身で整理して説明することはできず、また僕はそれを自分に求めなかった。風呂から出ると僕はリュックに諸々の道具を突っ込んで支度をし、両親に、明日は自転車で出かける、明日の内に帰ってくる、と宣言すると、すぐにベッドに潜り込んだ。

 夜明けから間もない時間に、僕は自転車に乗って走りだした。未だに夏休みのノルマとして僕たちに課せされていた、小学校の校庭でのラジオ体操には参加しないことにした。しばらく走ると、空は、あの日に近い突き抜けるような青色に覆われた。前回の反省を生かし、きちんと休憩と給水を取りながら進んでいくと、やがて僕の視界は懐かしい風景に包まれ始めた。

 草木の緑が太陽の光に照らされ、道行く車は一台もない完璧な田園の情景だ。水田に光が反射して僕の目に突き刺さる。鳥と蝉が鳴いている。そして大粒の石達が敷かれた河原の真中をせせらぎが流れていく。あの日、僕たちが四人で弁当を食べ、四人であの男の死体をどうするのかを話し合った河原だ。そこを通り過ぎれば、延々と続く急な坂道がやってくる。僕はゆっくりゆっくり、自転車を走らせた。

そろそろあの森の小径に近付いたと思った頃、一年前と同じように、僕は自転車を降りて押して歩きだした。

 僕の頭の中に、あの日死んだあの男の顔がフラッシュバックした。その形相はまだ僕の網膜の裏にはっきりと焼き付いて残っていた。それは瞬きするたびに僕の目の前に現れ、まだあの鳥居に男がぶら下がって太陽と雨風にさらされ続けているという錯覚を呼び起こした。もちろん、それは錯覚ではなくまだ確認できていない事実かもしれない。まだあの死体はそこにあるままかもしれない。日光仮面がどのようにあの死体を片付けたのか、本当に片付けたのかどうかさえ、僕たちには知る由もなかったのだ。今もまだ死体がそこにあるとしたら、それは一体どんな状態なのだろうか。完全に干からびてミイラのようになっているのだろうか。それとも風と雨が全てを砕いて男の体は骨だけになり、大地に崩れ落ちたのだろうか。一年という時間でどれくらいのことが起こるのか、僕には分からなかった。

 恐怖はなかった。僕の心の中は妙に静かに冷めきっていて、ほとんど何の感情も存在しなかった。あえて僅かに湧き上がる感覚を拾い上げるとしたら、それは懐かしさだけだった。

 しかし、ふと気が付いて、僕は立ち止まった。

 いつの間にか、僕は歩き過ぎていた。どこまで進んで行っても大して風景に変わり映えはしない山道だが、自分が既に、一年前には通らなかったところまで登ってきてしまっていることに気が付いた。僕は立ち止まり、あたりを見回した。おかしい、と思った。風景を注意深く見守りながら歩いて来たつもりだったから、あの森への入り口を見落としてしまったとは考えにくかったのだ。

 僕はもう少しだけ坂道を登ることにした。しかし、歩けば歩くほど、既に自分にとって未踏の道であるという確信が濃くなっていくだけだった。僕は何度も立ち止まって、振り返って、周囲に目を凝らした。錆ついたガードレールと、補修の足りないアスファルトと、切り立った岸壁と、その上に木々が生い茂る光景に変わりはない。しかし僕はこの場所を間違いなく知らない。

 諦めて、僕は坂を下ることにし、再び周囲を注視して歩いた。額から汗が落ち、それを拭いながらゆっくりと自転車を押した。僕は頭の中にあの森の入口のイメージを描いた。その様子は、鮮明な記憶に裏打ちされた強いリアリティを伴ってはっきりと現れた。それはアスファルトの道から少し奥に引っ込んだエアポケットのような空間で、鬱蒼とした過剰な緑の入口に、朽ち果てた看板が立っていて、僕たちを招き寄せるように佇んでいた。

 だが僕はそれを見つけられなかった。どこまで行っても同じような光景が続き、自分のイメージにほんの僅かでも重なる場所は見つからなかった。道の脇は岸壁や急激な坂ばかりが続き、そもそも足を踏み入れられるような地点が存在しなかった。やがて僕は自分が間違いなく過去に通ったと確信を持てる道まで戻ってきたが、それまでに未知と既知の境がどこで発生したか、どうしても分からなかった。

とうとう僕は坂道の終わりまで来てしまった。僕は来た道を振り返り、深く息をついた。

 もう一度坂を登って、もう一度探してみるかどうか、僕は自分に訊ねてみた。無駄だ、と僕は自分に答えた。入口は間違いなく完璧に消えていた。

 日光仮面は本当に全てを片付けたのだ、と僕は思った。何もかも完全に、まるで初めからここには何も無かったかのように、全部をどこかに消してしまったのだ。日光仮面が言った言葉を僕は思い出した。「正義の味方は約束を破らない」。

 僕はしばらくの間、ぼんやりと突っ立っていた。汗がだらだらと額を流れ落ちていく。そして坂を見上げ、木々の合間の暗闇を眺めた。その先のどこかに、神社と鳥居があるかもしれないし、男の死体が埋まっているのかもしれない。だが確認しようがない。僕も、他の誰にも見つけることはできないだろう。かつて何かがあったことさえ二度と誰にも思い出されないのではないかと思うほど、完璧に隠されている。

 僕は茫然と立ち尽くして、まただ、と思った。また僕は、自分が何をしに来たのか全く分からなくなっている。昨日の夕方、どうしてもここに来たいと思ったのに、何のためにそうしようと思ったのか、その感覚がもう全く思い出せない。

 僕は緑に包まれた坂道の様子を目に焼き付けた。それ以外にやることがなかった。

 そして僕はその場を後にした。途中の河原で川の水を少しだけ飲んだ。真中市に戻るまで、誰にも会うことはなかった。帰って来た時、辺りは既に夕暮れを迎えつつあった。人の気配がいつもより少ない。風の音が妙にうるさい。道を車が走っていくが、乗っている人の顔が見えない。気付いてみれば僕は朝から誰とも話をしていない。いつも見慣れているはずの風景が、何故かどこか歪んで見えて、自分の街に帰ってきたという気がしなかった。日差しにも、立ち並ぶ家々にも、自分が自転車に乗って走っていることにも、現実感が全くない。僕は疲れていた。

 だから、僕の家の前に健一と夏が立っているのを見た時、僕にはまるでそれが幻のように感じられた。健一が僕に、よう、と声を掛けて、ああ、と僕が頷き返しても、まだ僕の意識はどこかうつろだった。彼らに会うのは一学期の終業式以来だった。

「何で俺んちの前にいるんだ?」

 僕がそう訊くと、夏が、明日一緒に映画を観に行こうと思って、と言った。「私も健一も、今日はいないけど誠二も、明日は休みだから、一緒に行こうよ」

何を観に行くのか、と僕は尋ねた。

「ジュラシック・パーク」と健一は答えた。

 ジュラシック・パーク、と僕は頭の中で範唱した。そのタイトルはもちろん知っていた。「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」を作ったスピルバーグの最新作だ。何やら物凄い映像技術で作られた恐竜映画らしいという漠然とした情報だけは事前に仕入れていたが、僕はこの時、この瞬間、そんな映画に全く何の興味もそそられなかった。それが一体何なのだろうと思った。どんな映画だろうと、所詮作りものだ。そんなものを見て一体何になるんだろう? 今僕は、偽物も幻想も、本当でないものは何一つ見たくはない。

 だが僕は結局、夏と健一に向かって呆然と頷き、行こう、と言った。友達がわざわざ誘いに来たのを断れなかったというだけで、そして僕が二人にそれを断る理由を上手く説明できなかったというだけで、自分の気分とは何の関係もない消極的な同意だった。

 健一と夏は微笑んで頷くと、明日の朝、駅に集合する時間を告げて、手を振って帰って行った。僕は反射的に手を振り返したが、明日自分が映画を観に行くということに全くリアリティが無いままだった。僕は家に入ってただいまを言い、夕飯を食べて風呂に入ると、あっという間に眠りに落ちた。

 朝、四人で駅で待ち合わせ、電車に乗って、開始の三〇分前に映画館に着いて並ぶ、といういつも通りの儀式が執り行われた後、僕たちは劇場内のど真ん中の席に座り、四人並んで予告編が流れるスクリーンを見上げた。僕は、にこにこ笑いそわそわと本編を待っている三人に囲まれて、何か退屈で、居心地が悪く、落ち着かなかった。

 だがそれも、映画が始まる直前までのことだった。

 結局この映画は「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」以来の、僕にとって人生で最も重要な映画の一つとなった。恐らく僕はこの映画を見たこの日のことを一生忘れないだろう。この映画は、スピルバーグの最高傑作であり、ハリウッドエンターテインメント映画の頂点であり、映画産業がCG技術を徹底的に追及する方向に突き進むことを決定づけた、90年代で最も重要な作品だったが、僕にとってはそれより遥かに大きな意味を持った。

 ストーリーが進むにつれ僕の脳は目覚め、徐々にざわつき始めた。ブラキオサウルスが最初の恐竜として観客に挨拶し、トリケラトプスが場を和ませた後、満を持して暗闇の中からティラノサウルス・レックスが現れた時、僕の全身は総毛だった。信じられない迫力だった。その時、昨日からずっと続いていた白昼夢のような感覚は完全に消え、僕は既に登場人物に同化し、恐竜たちがよみがえったテーマパークに居た。僕は目の前の映像に一〇〇%釘づけになり、手に汗を握ってスクリーンを睨みつけた。それは僕が生まれて初めて見る、完璧な映画だった。僕の求める全てがここにあった。いや、完璧以上、全て以上だった。

 僕はついさっきまで、嘘を見たくないと思っていた。他人の幻想や妄想を見ても仕方が無いと思った。本当のこと、例えば目の前で人が死ぬこととか、空き缶で巨大な家を作ることとか、そういう現実に起こったことを自分は求めているのだと思っていた。でも違う、と思った。この映画には本当以上の嘘がある。イメージが現実を超えている。僕がどう考え、どんな現実を生き、どんなに憂鬱で、どんな人間であったとしても、この映画はその全てを押し流し破壊し尽くすだろう。

 映画の最後、ティラノサウルス・レックスが巨体を画面いっぱいに伸ばし、全力で咆哮したとき、僕の目から涙が零れ落ちた。それは次から次へとあふれて止まることがなかった。映画を観て泣くこと自体が初めてで、何故自分が泣いているのか、自分では理由が全く分からなかった。

 僕の身に起こったことを、今になって言葉にするとなれば、こう言うことができる。僕はこの時初めて、自分自身を遥かに超えるイメージがこの世界に存在することを知った、と。僕はその事実に打ちのめされたのだ。僕はこの時、目の前に具象化されたとてつもなく巨大なイメージに対して頭を垂れ、自分もこのイメージに辿り着きたいと真剣に願った。だが同時にこうも思った。どれだけ願っても、僕は永久に辿り着くことはできないかもしれない、と。打ちのめされるというのはそういうことだった。

 エンディングクレジットが最後まで流れ着いた時、まだ僕の眼は真っ赤なままだった。僕は俯いて肩を震わせていたから、周りの三人は僕が泣いていたことに間違いなく気が付いていたはずだった。僕たちはほとんど碌に会話もせずに電車に乗って、真中市に帰ってきた。僕だけではなく、四人それぞれの中にまだティラノサウルス・レックスの咆哮は響いていた。インディ・ジョーンズを観終わった時、僕たちは秘密基地を作り始めた。だがこの日は何も起こらなかった。僕たちは目の前で起こったことを咀嚼しきれておらず、夢遊病者のような状態のまま、それぞれに別れを告げて家に帰った。




 これが、僕たち四人が揃って観た最後の映画になった。そしてこれが、僕の幼年期の終わりだった。純粋無垢な時代が終わり、誰もがそうであるように、希望や暗い感情が成長の中でぐしゃぐしゃに掻き回される時がやってくることになった。それはまるでこの後ハリウッド映画産業が進む道と同じような軌道を描いた。脳天からつま先までをエンターテインメントだけで走り抜ける映画は消滅し、反省や憂鬱や暗黒やナショナリズムや感傷がすぐ傍に潜む、弱弱しい映画が興行収入のトップを飾るようになって行く。スピルバーグは八〇年代と同じ夢を描くことはできなくなり、代わりに「シンドラーのリスト」や「プライベート・ライアン」といったハードな史実に基づく硬派な映画を作るようになった。それらはそれぞれに観るべきところのある作品だったが、イメージが欠けていた。僕の望むイメージがどこにもない。僕は成長を望み、時にそれは叶えられ、多くの部分では叶わないまま時間だけが過ぎて行った。

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