第二章 夏(2)
僕たちは旅の支度を完全に整えて、その小学五年生の夏休みを迎えた。真中市から神社で出会った男が指し示した場所まで、数十キロの隔たりがある。おそらく朝から自転車をこぎ続ければ一日で辿り着くが、その日の内に戻ってくることはできないだろう。僕たちはきっと、目的地の近くで野宿をしなければならなかったし、それに、辿り着いた場所でどんな困難が待ち受けているか分からない。同じ宝を狙う悪党に出くわすなどとは考えてはいなかったが、万が一出会った凶暴な猪だの野良犬だのを撃退するくらいの装備は用意しておきたかったし、洞窟や明かりの無い建物の中などの暗闇を探索しなくてはならなくなるかもしれない。
両親たちには、去年の夏、誠二の父に連れられて行った近所のキャンプ場に行くと嘘をついた。いつも大量の子供と大人で繁盛しているキャンプ場だったから、それで親たちは安心し納得した。僕たちは、寝袋を自転車の後輪にくくりつけ、タオルと替えの下着と水筒を共通でそれぞれのリュックに詰め込んだ後は、思い思いのアイテムを携えた。誰のリュックもはち切れそうなほど一杯になって、ほんの僅かな隙間もなかった。
午前六時半、夏休みの朝は、小学校でのラジオ体操から始まる。それは夏休みの宿題の一環として僕らに課せられたノルマで、特に歓迎すべき慣例ではないが、四人が集まるのには好都合だった。僕たちは四人並んで文字通り準備体操としてそれを終えた後、校門の前に停めた自転車に乗って、そのまま旅に出た。
夏休み初日の、よく晴れた、暑い日だった。僕たちが自転車を漕ぎ始めた時、既に太陽の熱は周囲を少しずつ確実に覆い始めていた。僕たちは四人とも野球帽を被り、Tシャツにジーンズ姿だった。四人とも良く陽に焼けていたから、僕たちはその頃はまるで全員が兄弟のように見えた。
県道を軽快な速度で走りぬけて行くと、10分もしないうちに真中市を出て隣りの市に差し掛かる。風景は何も変わらない。ガソリンスタンドや本屋、喫茶店、そして延々と続く緑に輝いた水田だ。アスファルトに太陽の光がさんさんと照り返す中を、健一、誠二、僕、夏の順番で一列に並んで走った。先頭の健一が最も運動能力に優れていて、誠二の自転車が最も高性能で、その次がとくに特徴の無い僕、そして少し大人しい夏が最後をついてくる。いつもの僕たちの順序だった。僕は何度も後ろを振り返り、夏がついてくるのを確認した。健一も誠二も、待ちに待った冒険に精神が高ぶっていて、自転車を漕ぐペースがいつもよりも速かった。もちろん僕もそうだったのだが、意識してそれを抑えていた。夏は僕が振り返るたびに僕に片手を振って応えた。僕たちは予め、一時間に一度休憩を取ることに決めていたが、実際に走り始めると、気温が少しでも低いうちに距離を稼ごうと言う誠二の提案に同意して、最初の休憩は二時間後に取ることにした。
太陽が半分以上昇り、空が完全に真夏の大気に覆われた頃、眼に映る景色と、肌を撫でる空気が変わり始めた。山が目の前に近づき、緑の密度が増し、車の音が少しずつ遠ざかり、代わりに蝉の鳴き声が大きくなり出した。僕たちは車道にはみ出して、四人並んで自転車を走らせた。川の流れる音が聞こえる。5センチ先も見通せない濁った日光川とは違う、手にとって飲み干すことのできる水が流れている本物の川だ。僕は額から少しずつ滴る汗をぬぐって、辺りを見回した。ありとあらゆる緑に太陽の光が反射して、じっと見つめていられないほど何もかも光り輝いていた。二回目の休憩を、僕たちは小さな橋の下の河原で取ることにした。父親から借りた防水のデジタル腕時計を見ると、十一時半だった。一時間休憩しよう、と誠二が地図を開きながら言った。「凄くいいペースだ。もう俺たち隣りの県まで来てる。このまま行ったらあと一時間くらいで目的地に着くよ」
そして僕たちはピクニックシートの上に足を投げ出して弁当を食べた。四人それぞれ親に用意してもらった弁当を囲み、一品ずつメニューを交換した。卵焼きや唐揚げやナポリタンスパゲティをあっという間に食べつくしてしまうと、僕は水筒の麦茶をぐびぐび飲んで、大の字に寝転がった。鳥の鳴く声が聞こえる。たぶんヒバリだ。僕は空中でヒバリのオスとメスがもつれるように求愛しあうのをじっと見上げていた。その影は舞い上がったまま永久に降りてこない竹トンボのように見えた。
既に3時間半以上自転車を漕いできたというのに、僕は自分の体にほとんど疲れを感じなかった。このまま一日中走り続けられるような気がした。健一も誠二も、同じようにエネルギーに満ちあふれていた。僕は夏の横顔を見た。夏は僕たちと話しながら笑ってはいたが、少し俯いていた。健一たちが夏の様子に気が付いているかどうか分からなかったが、迷った後で、僕も気が付かない振りをした。
僕たちは休憩を終え、再び走り始めた。そこからの道は、さっきまでの穏やかで平板な田舎道とは違い、うねうね曲がりくねった勾配のきつい坂道だった。横っ腹がきりきりと痛み、汗がシャツを濡らした。一応アスファルトで舗装されてはいるが、長いこと整備されていないようで、タイヤの跡が轍となって刻まれたでこぼこの道だった。車は全く通る気配が無い。木々の美しい緑の隙間から太陽の光が射し、振り返ると眼下に広大な田園風景が見渡せたが、僕たちにはそれを味わう余裕は全くなかった。そして、誠二の予測は初めて外れた。僕たちは一時間経っても目的地に辿り着くことはできず、変わり映えのしない木々の緑の傘の中を走り続けていた。
ある時ふと気が付いて、僕は後ろを振り返った。そこに夏がいなかった。僕は前を行く二人に声をかけた、「夏がついて来てない」
二人はブレーキをかけてその場に立ち止まり、僕に振り向いた。僕は二人に手を振って、そこで待っていてくれと言った、「僕が迎えに行く」
踵を返して200メートルくらい坂を下っていくと、夏がいた。リュックを足元に下ろし、ハンドルを握ったまま俯いて、肩で息をしている。僕は夏の隣に自転車を停めて、肩に触れた。
「もう走れない」と夏は言った。
僕は頷いて言った、「ゆっくり行けばいいよ」
夏は首を横に振った、「もう走れない」
僕は背負ったリュックを下ろし、中から水筒を取り出した。麦茶を注いで渡すと、夏はぐびぐびと飲み干して僕に器を返した。
健一と誠二も坂を降りてきた。やってきた二人に僕は、休憩しよう、と言った。そう言う僕の息も上がっていた。さっきまで体力に満ちあふれていたのに、足が震えていて、どこでもいいからどこかに座り込みたかった。
僕たちは木陰まで歩いて行き、開いた地図を囲んで座り込んだ。誠二は自分の持ってきたタオルに冷たいお茶を注ぎ、夏の頭に巻きつけた。夏は僕の膝の上に頭を置いて寝転がった。僕が健一と誠二の顔を見ると、二人とも何かを考え込むような表情になっていた。僕は小さなため息をついた。僕たちは失敗した。オーバーペースだったのだ。健一と誠二の顔にもどっと疲れが押し寄せているのが僕には分かった。
「今俺たちどこにいる?」
健一が誠二にそう訊いた。誠二は地図を鉛筆で指し、道をたどった。
「このあたりだろう」
誠二が示したのは、小さく骸骨マークを刻んだ目的地から2、3キロと離れていない地点だった。
「本当にそうかな?」
健一が訊くと、誠二は怒ったふうでもなく、「多分あってると思うけど、分からない」と答えた。「でもここからはもっと道がきつくなると思う。自転車では行けないかもしれない」
「裕司はどう思う?」
健一が僕にそう訊いた。僕は自分の膝の上で眼を閉じている夏を見下ろしながら、少し考えた。そして健一と誠二の顔を見て、首を横に振った。
「夏は動けないよ。俺は夏と一緒にいる」
「ずっとここでこうしてるのか?」
誠二がそう応えた。僕はまた首を横に振った。
「とりあえずしばらく休憩しよう」
二人は止むを得ないといったふうに頷いた。まだ太陽は充分に高い位置にある。誠二が言った、目的地までの距離が正しい予測ならば、一時間休憩したとしても太陽が沈むまでには余裕を持って辿り着けるだろう。
健一は立ち上がって屈伸したりアキレス腱を伸ばしたり、誠二は地図とコンパスを交互に見たり本を読んだりして時間を潰し始めた。僕は夏の顔を野球帽でぱたぱたと扇いだ。夏は眼を閉じて、深い息を何度もついた。顔色が白かった。僕は夏の額に載った濡れタオルを裏返してまた載せた。
「裕司」
夏が僕を呼んだ。どうした、と僕が訊くと、夏はゆっくりと体を起こした。
「もう行こう。もう大丈夫だから」
僕は腕時計を見た。休憩し始めてから、まだ15分くらいしか経っていない。
「まだ休んでろよ。急ぐことない」
「ううん、もう大丈夫だ」と夏は言って、立ちあがった。そして健一と誠二に向かって、お待たせ、行こう、と言った。
大丈夫かよ、と言う健一に、夏は頷いて見せた。
誠二は夏の顔を覗き込んで、顎に指を当てながら言った。
「行こう。でもここからは歩きにする。自転車には鍵を掛けていく。夏の荷物は、三人で分担して持とう」
僕と健一は頷いた。僕が夏のリュックを肩に背負い、健一が寝袋と洗面道具を抱え、誠二が水筒やその他の小物を担いだ。曲がりくねった坂道を登り始めると、肩と足に荷物の重みがきりきり食い込んだ。だが夏が心配そうな顔をしていたから、僕は平気な振りをした。大した重さじゃない。倒れた夏を背負っていくよりよっぽど楽だ。
10分も歩かないうちに、坂道の途中、舗装された道の脇から逸れていく隘路があった。木々の傘の密度が周囲よりもずっと濃い、緑のトンネルのような道だ。その入り口に風雨に痛めつけられてぼろぼろになった小さな看板が立っていた。文字はかすれていてほとんど読めない。矢印と、「2KM」の表示だけが判読できた。
僕たちは、その「2キロ」が僕たちの目的地までの距離と意味を同じくすることを願って歩き出した。急勾配の坂道をじゃりじゃりと音を立てながらいつもの四人の順番で進んでいく。途中で急激に道が細くなり、頭上に掛かる緑の傘も一段と濃くなった。気を張っていないとすぐに疲れが全身の筋肉を緩めようとしていたので、僕は呼吸を一定にして、目の前を歩く誠二の背中と足元とを交互に見つめて歩いた。そうして歩いていると、辺りから光が遠ざかるとともに時間の感覚が消えてしまった。肩に食い込んだ荷物の重みが、足を小人が踏みつけてくるような負荷となった。蝉の鳴き声が、狂気じみているほどやかましい。あまりにも鳴き声が重なりすぎてただの破壊音にしか聞こえない。同調回路とボリューム調節機能が同時に壊れてしまったラジオのように、延々と一定の雑音が響き続ける。こんな状況でどうやってメスの蝉は一匹のオスを選ぶのか、僕にはどうしてもその方法が分からなかった。
いつの間にか、夏が僕のすぐ隣に立って、並んで歩き始めていた。夏は僕の顔を見て何か言ったが、蝉の鳴き声がうるさすぎて何も聞こえない。僕は首を横に振った。夏が僕の耳元に口を近づけて、荷物持つよ、と言うのがかろうじて聞こえた。僕はまた首を横に振った。僕は顎から滴り落ちる汗を手の甲で拭って、逆に夏に向かって、大丈夫か、と訊いた。蝉の大合唱の中で僕の声が届いたとは思えなかったので、唇の動きを読んだのだろう、夏は、大丈夫、と応えた。僕も夏の声が聞こえたのではなく、そう唇を読んだ。
自分の左右のスニーカーが一歩一歩踏み出されていくのをじっと見つめながら歩いていると、じゃりじゃり言う足音がよみがえっていることに気がついた。永久に続くかと思えた蝉の声が少しずつ弱まり、さっきまでの轟音が嘘のような静けさが辺りを覆い始めている。やがて、自分たちの足音以外には、木々の葉をゆっくりと揺する風の音しか聞こえなくなった。僕が顔を上げると、健一と誠二の背中は数十メートル向こうに見えた。
「裕司、引き返そうよ」
夏がそう言った。僕は歩きながら夏の方に振り向いた。夏は僕をまっすぐ見つめていて、引き返そうよ、ともう一度言った。
疲れたのか、と僕が訊くと、夏は首を横に振った。
「もう疲れてない」
「じゃあなんで引き返すんだよ。もうすぐだ」
「もうすぐだからだよ」
「宝を見たくないのか?」
「別の人間になんかなりたくない」
そう言った夏の表情は歪んでいた。僕は夏のそういう顔を見るのは初めてだった。恐怖とか畏怖とかの色に塗られていたのではない。あえて感情をその眼に名付けるとしたら、悲しみ、というのが一番近かった。
「別の人間になんかなりたくないよ。裕司にも健一にも誠二にも、別の人間になって欲しくない」
「別の人間になるってどういうことだよ。あるのは幸せになる鏡だろ」
「確かめてもいないのに、どうしてそんなの分かるんだよ。あのおじさんみたいに、別の人間に変わっちゃうかもしれない悪い鏡だったらどうするんだよ」
僕は夏の眼を見返したが、何と言ったらよいのか分からなかった。それでも僕は何か言い返そうとしたが、夏の目を見つめているうちに諦めて口をつぐんだ。夏の眼の奥にある感情は深く激しいもので、それに対抗する感情と言葉を自分が持っていないことに、僕は直感的に気がついた。相手の感情は重く、自分の感情は軽い。こんな時は何を言っても嘘にしかならない。そして僕たちの差は、信じるか信じないかの差だった。夏は信じていて、僕は信じてはいなかった。
恐れていたことが起きた、と僕は思った。
そう、「本当かどうか確かには分からない」といった曖昧さではなく、自分の心底を探れば、僕はもう完全に信じていなかった。火星人や超能力者やサンタクロースやドラえもんを信じないように、あの日真中市の神社で会った男の話を、僕は結局は信じてはいなかった。落ち着いて考えればそんな魔法のような鏡がこの科学文明の発達しきった日本に存在するわけがない。彼はただの頭のおかしい男で、真中市に住む他のあの人たちと同じく、自分の人生にたまたま振りかかった偶然とか不幸とかの責任を、自分の能力を超える架空の存在をでっち上げてなすりつけたのに過ぎない。僕はそのことをこの旅に出る前には理解していた。
でも僕は夏にそう答えることはできなかった。全ては嘘なんだから不幸なことなど何一つ起こらない、と。
嘘だと分かっていても、僕が彼に精神を揺さ振られたのは本当だったからだ。彼の話が事実だったからそうなったのではない。僕が彼に揺り動かされたのは、あの時物語が、特定の言葉とリズムによって語られた時にだけ持つ魔力、感情をドライブさせるもの、是も非もないその場限りの圧倒的なリアリティとなって僕に訴えかけたからだ。だからこそこの物語の終わりが嘘でも構わないと思ったし、僕たち四人だけでこの物語を独占したかったのだ。そういう意味ではこの物語は僕にとっても「本当」だった。そうした限りなく嘘に近い「本当」が、嘘を超えて実際に何らかの形をとり、僕たちにとって冒険となる何かを与えてくれるかもしれないという望みだけは、僕ははっきりと持っていた。
僕はもちろんこの時こんな風な自分の感情とか考えを、論理的に整理して夏に話すことはできなかった。僕はむしろ自分の中でも嘘と本当がぐちゃぐちゃに混ざり合って、自分が何を考えているのか分からなくなって混乱していた。だがもし冷静に整理できたとしても、どうやってもシンプルな回答にはならない以上、夏を納得させることは出来なかっただろう。その出来事が日常であろうが非日常であろうが、信じる者と信じない者とがぶつかった時、その瞬間においては勝利するのは決まって信じる者の方、単純な者の方だ。信じる者はただ一つの門をぶち破ればよく、信じない者は周囲の堀の全方位を深く掘らなくてはならない。
したがって、僕は事の真偽をこの場で明確にすることを避ける道を選んだ。
「神社の前に行くだけでもいいだろ。せっかくここまで来たんだから。俺たちが安全を確かめる。夏は中に入らなくたっていいよ」
僕はそう言った。計画を練り、周到な準備をし、苦労をしてここまで来た。それは僕も夏も同じだ。僕は夏に、このミッションを完遂するために払われた労力を無にすることの無念さを訴えることにしたのだ。そして僕が意図したとおり、夏は困ったような表情になった。
夏は曖昧に頷いた。
「神社が本当にあったとしても、中には入らない」
それでいい、と僕は言った。「健一にも誠二にも今のことは言わないでおく」
夏はもう一度頷いた。僕たちは健一と誠二に追いつくべく歩調を早めた。
二人は少し先で足を止め、僕たちを待っていた。そこで森が途切れ、視界が開けた。久しぶりに太陽の日差しが照りつけ、生い茂る緑と流れる川が見下ろせた。坂道も終わり、点々と雑草が生えてはいるが、均された土の道が前方に伸びている。
健一が前方を指さして、神社だ、と言った。斜めに傾き、茶色く、塗料が薄れて剥げかけた小さな鳥居が、道の向こうに立っていた。
辺りに人家の気配はない。電気や水道といった文明の気配もない。耳を撫でる風の音が、ここがどこからも切り離された場所であることを教えていた。
僕たちは軽くうなずき合って歩き出した。夏は僕の後ろに立ってシャツの袖をつまんできた。僕は振り返って、大丈夫だ、という目で夏を見つめた。どう考えても何も起こるわけがないのだから、恐れる物など何もない。
ぼろぼろの注連縄が結われた鳥居をくぐると、ほんの十数メートルの参道の向こう、そこにあったのは僕がかつて見たこともない小さな神社だった。神社と言うよりは、ただの小屋だ。確かに扉の上には小さな注連縄が掲げられており、屋根は木組みの切妻形で神社の体裁はかろうじて整えられていたが、僕の家よりも遥かに小さい。そして少なくとも第二次世界大戦が終わってからは一度も掃除されていないと思われるほど汚れている。建てつけの悪そうな木製の扉の前に、たった二段の階段がある。屋根は瓦が敷かれていたが、周囲の壁はトタンで覆われている。これに最も近い造形の建造物として、僕は小学校のグラウンドの隅にある倉庫を連想した。中には陸上用のハードルや石灰の白線引きやサッカーボールなどが所狭しと詰め込まれている。
「本当にここか?」と健一が独り言のように言った。
「地図通りのはずだ。それに、こんな山奥に他に神社なんか無いよ」と誠二が答えた。
僕たち四人はまた顔を見合わせた。それ以上どんなコメントをしたらよいのか、誰にも分からなかった。僕たちは呆然と、どす黒くぼろぼろに朽ち果てたその小屋の扉の前で立ち尽くした。
だが眺めていても仕方が無い。
入ろう、と僕が言った。そして振り返って続けた、「夏は辺りを見張っててくれ」。
夏は頷いた。そして数歩後ずさり、周囲を見回る振りをして小屋から眼をそむけた。
入り口は、外から見た限りでは錠前もなく、鍵は掛かっていないように思われた。僕たち三人は背負った荷物を地面に下ろしてから、じりじりと扉に近づいた。
健一はリュックサックに突っ込んでいた金属バットを引きぬいて右手で握りしめた。誠二は軍手をポケットから取り出して両手にはめ、戸に手を掛けた。僕が反対側の戸に手を掛け、三人で目配せして頷くと、僕は勢いよく戸を横に引いた。
すんなりとは開かなかった。だが、それは鍵が掛かっていたからではなく、見栄え通りの建てつけの悪さが原因だった。がたがたと音を立てて僕と誠二が戸を開けると、健一が中に駆け込んだ。
「なんだこれ」
間延びした健一の声が中から聞こえた。誠二が、どうした、と言ってそれに続いて中に入って行った。誠二も、なんだこれ、と健一と全く同じ調子で言った。僕は扉の陰から小屋の中を覗き込んだ。
何より先に、古ぼけた木の臭いが鼻をついた。鼻を擦りながら小屋の中を見渡すと、そこには、何も無かった。
何も無い。ただ、五、六メートル四方の板の間と壁が広がっているだけだ。ちょうど僕たちの秘密基地と同じように。ただ大きさが数倍になっただけで、ぼろぼろ具合もそっくりだった。ただ一つ違うのは、屋根の作りだけはこちらの方がずっとしっかりしていたことだった。太い梁が交差した木組が剥き出しになった、昔ながらの日本家屋の建築様式である。
見上げていた顔を下ろすと、健一は部屋の片隅を指さしていた。そこはちょうど誠二が陰になって僕には見えなかった場所だった。ぎしぎしいう床を恐る恐る踏みしめて、見える位置に移動すると、そこで初めて僕も、なんだこれ、と言った。
そこにあったのは誰かの荷物だった。リュックと、飯盒と、寝袋と、スコップ。なんだこれ、と疑問を呈してわざわざ正体を探らなくてはならないようなものではない。僕たちが期待していたものと余りにもかけ離れていたから思わずそう声に出ただけだ。どこからどう見てもそれはただの正統派のキャンプ用品だった。数百年前や数千年前から伝わるご神体どころか、せいぜい数年前にどこかの店で買ったものに違いなかった。あのリュックの中に、既に回収された「祝福された鏡」が入っているのでない限り。
健一はどうだか分からなかったが、少なくとも誠二はこうなることを予測していただろう。宝などなく、何も起こらないと。彼の横顔をみると、失望も怒りもなく、無表情だった。
「どうする裕司?」と誠二が部屋の隅に置かれた荷物を指さして僕に訊いた。
誠二が何を言いたいのか、僕には分かった。誠二は、リュックの中身を確かめるのかどうか、と僕に相談しているのだ。
今のところはっきりしている結論は一つしかない。ここには僕たちの前に誰かが先に訪れている。この荷物を捨てていったのでない限り、その誰かはいずれここに戻ってくる。
僕は首を横に振った。誰かが戻ってくるはずだからそれを待とう、と僕は言おうとしたが、その言葉は外から駆け込んできた夏の声で遮られた。
「誰か来る」
夏の声は震えていた。僕は夏の手を引っ張って、小屋の内側の扉の影、僕の背後に身を隠させた。僕は引き戸の裏側から外を覗き込んだ。健一も誠二も同じように、もう一方の戸の影から顔だけ出して外を覗いた。朽ち果てた鳥居の数十メートル向こう、確かに、誰かがゆっくりとこちらに歩いてくるのが見えた。次第にその誰かの輪郭がはっきりすると、僕はその姿をかつて見たことがあるのに気がついた。僕だけでなく、ここにいる全員が会っている。それは部屋の隅に置かれた荷物に気がついた時から、直感的に、そして消去法的に思い当たっていた人物だった。
近づいてくるのは、僕たちに鏡の伝説のことを、そしてこの場所のことを教えた、あの中年の男だった。あの時と同じカーキ色のツナギに身を包み、首から一眼レフカメラを提げている。彼は俯きながら、左の肩に水のなみなみ入ったポリタンクを重そうにぶら下げ、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
僕たちは神社から外に出て、彼のもとへ駆け寄った。こんちは、と健一が声を掛けると、彼は顔を上げたが、首をかしげた。僕たちのことが思い出せないようだった。
「あのとき神社で鏡の話を聞かせてもらった四人です」
誠二がそう言うと、男は口をぽかんと開いて、ああ、あああ、と何度か頷いた。
「ここで。何を、してるの」と男は尋ねた。
僕らも鏡を探しに来たんです、僕はそう言いながら男から水の入った袋を受け取り、神社に向かって並んでゆっくり歩き出した。
「それは、おつかれさん。暑かっただろう」
「ここが、日本の真ん中の神社なんですか?」
「そうだ」
「鏡はあったんですか?」
男は僕に答えずに、足を引きずってのそのそ歩き続けた。本殿の2段しかない階段を30秒掛けて乗り越え、部屋の隅に置かれたリュックに腰掛けるようにどっかと座り込んだ。
僕はポリタンクを足元に下ろし、四人で男を囲んで座った。
「鏡はあったんですか?」
僕がもう一度訊くと、男はそこで初めて僕の方を見た。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「無い。ここには、なんにもない」
男はそう言って、笑った。
「当てが、外れた、らしい。また、別のどこかに、探しに行くよ」
「どこへ行くんですか?」
「まだ、決めていない」と男は言った。「それまでは、ここに、いるよ。決めたら、出発する」
やっぱりないのかあ、と健一が言った。「そうかもしれないと思ったけどさあ」
「君たちは、どうするの。今日。帰るの。泊まるの」
「まだ決めてないです」
僕はそう応え、そして三人の顔を見た。皆今日一日の強行軍で疲れきった表情をしていた。腕時計を見ると、午後4時を回ったところだった。
リュックの中にはビスケットやチョコやカロリーメイトといった非常用の食料も、替えの下着も入っている。
「この神社に泊まろう」
誠二がそう言った。そうだな、と健一が答えた。「ゆっくり休んで明日の朝帰ろう」
僕も頷いた。特に夏は、そっくり同じ道を今日の内に戻りきるのは無理だろう。
そうするといい、と男も言って、何度も頷いた。
そうと決めると、僕たちは神社を出て、辺りを散策した。帰らなくて良いと決めると、疲れていたはずの体に無暗と元気が戻ってきた。虫を探して森の木々の間をめぐり、近くの川まで降りて水遊びをした。かくれんぼをすると永久に終わらない可能性があったので、僕たちは範囲の限定できる缶蹴りをした。意外にこの競技は夏が強いのだった。他の誰かの動きに合わせて、鬼に気付かれずに缶に近づくのが抜群に上手かった。
そして僕たちは四人で並んで、山の向こうに夕日が沈んでいくのを眺めた。鏡が見つからなかったことについて、誰も何も言わなかった。この日一日、完璧な天気だった。僕にとって、現在に至るまで、夏という季節を思い浮かべようとした時、最も典型的な一日として記憶の中から現れることになるのがこの日だった。僕たちの服も、肌も、風に揺れる樹の葉も、薄汚れた神社の鳥居も、全てが黄金色に包まれていた。空が、かき氷が溶けていくようにゆっくりと薄暗くなり、今日という一日が終わるのだと思うと、僕は一言では表現しがたい気持になった。忘れていた疲れが押し寄せてもいたし、一日が終わっていくことへの寂しさも感じた。だが、僕はこの日と同じ一日をもう一度繰り返せると信じていたし、頭の中では新たな冒険の計画を練り始めていた。今日は山に来た。だから僕たちは次は海に行けばよい。今日、計画して決めた通りにここまで来ることが出来たことに満足もしていた。僕は、真中市の僕たちの小さな秘密基地のことを思った。あの基地も今、この夕日と同じ夕日に照らされているだろうと。その様子が僕の頭の中に完璧な映像となって描かれた。そして映像はやがて、目の前で実際の太陽が沈んでいくのに合わせて、影の中に溶けて消えていく。明日あの街に帰ろう、と僕は太陽に背を向けながら思った。
カロリーメイトやチョコレートを夕食にして食べつくした後、僕たちはひとしきり星空を見上げた。完全な夜となった周囲に月と星の光が降り注ぎ、互いの顔をはっきり見分けることができるほど明るかった。風が限りなく優しく吹いていて、その音に包まれていると、僕たちは自分たちが今日一日分の力をすべて使い果たしたことを知った。猛烈な疲れが、全身を苛んでいた。
僕たちはお休みを言い合い、神社の本殿の板の間の上に寝袋を広げた。部屋の隅、小さな明かりの下で、ノートに向かって何か書きつけている男に向かっても、僕たちはお休みを言った。また明日、と男は答えて、僕たちが寝袋に入りこんでしばらくすると彼は明かりを消した。
僕は寝袋の中で眼を閉じた。全身の細胞が疲れきって休息を欲していた。深く息をつき、泥の中に落ちていくような感覚の中で全身の筋肉から力を抜いた。
だが、不思議と眠りはすぐには訪れなかった。もうこれ以上指一本も動かす気にはなれないのに意識は覚醒したままで、僕は何度も眼を開いたり閉じたりを繰り返した。神社の中は完全な暗闇で、眼を開けても閉じても瞳に映るものは何も変わらなかった。隣りで寝ている仲間の穏やかな寝息が聞こえた。僕は寝袋の中でじりじりと寝返りを打ったが、いつまで待っても眠りがやってくる気配は感じられなかった。心臓がばくばくと拍動し、手と足の指先まで血液が流れていく動きを感じた。
何度か寝返りを打っていると、僕の右隣の寝袋の中で誰かがごそごそと動き出す音が聞こえた。そこに寝ていたのが誰だったか一瞬分からなくて、僕は明かりが完全に消えてしまう前の光景を思い出さなくてはならなかった。
それが夏だと思い出したのと、夏が寝袋から抜け出して僕に顔を寄せてきたのとはほとんど同時だった。夏は僕の耳にぎりぎりまで口を寄せて、ほとんど聞こえない小さな声で言った。
「眠れないから一緒に寝ていい?」
その声は、空気を伝わってと言うよりも、鼓膜を直接さざ波のように振動させるような響きで聞こえた。
僕が頷いたり首を横に振ったりするよりも早く、彼女は僕の寝袋のサイドのファスナーを開いて体を滑り込ませてきた。夏はアンダーシャツと薄手のハーフパンツ姿で、彼女が入ってくると僕の体にその手足がぴったりと張り付いた。夏の体は熱く、僕の寝袋は父親から借りた大人用のものだったとはいえ、全く身動きが取れなくなった。暗闇の中で夢と現に片足ずつ突っ込んでいた僕の意識は、一瞬のうちに完全に覚醒した。
夏は僕の右耳の上に額を当てて、何度も深く息をついた。僕は自分の左隣に眠っている健一と誠二の方を横目に見て、耳を澄ました。暗闇の向こうから、確かに二人分の寝息が聞こえてくる。二人とも、絶対に眠っている、僕は自分にそう言い聞かせた。
「裕司も眠れない?」
夏がまた小さな声で囁いた。うん、眠れない、と僕も小さな声で答えた。なんか、疲れてるんだけど心臓がばくばく言って眠れないんだ。
すると夏は寝袋の中でごそごそ手を動かして、僕の胸元をさぐりだした。そして胸の真ん中の心臓に辿り着くと、手のひらをそっと置いて、本当だ、と言った。
お前がそんなことするから余計心臓が鳴る、とは僕は言えなかった。
「私は怖くて眠れない」
夏はそう言うと、僕の体に腕を回して抱きしめてきた。その力は強く、彼女の全身には鳥肌が立っていて、僕は息苦しくなった。夏の額に顎を当てて、僕は、何が怖いんだよ、と訊いた。
「私たち、明日の朝になったらもう別の人間だよ」
「何でだよ。鏡なんかどこにも無かっただろ」
「あるよ。無かったら四人でここまで来てない。私たちがここに来たってことは鏡はあるってことだよ。裕司は無いと思ってるから無いんだよ」
夏が何を言っているのか僕には全く分からなかった。
「じゃあ、どこにあるんだ?」
「眼に見えないところにあるよ」
「それじゃあ探せない」
「うん。もう遅いよ。もう私諦めた。だからここで寝ることにしたんだ。裕司の隣で」
「もう俺たち呪われてるってことか?」
分かんないよ、と夏は言った。「何も分からない。怖い」
大丈夫だよ、と僕は夏の頭を撫でながら言った。夏の髪は女の子にしては短い。しかし僕たち三人よりはずっと長く、柔かい。それを実感したのはこの時が初めてだった。
夏が女だということは、四人の間でこれまで何の問題にもならなかった。僕たちは仲間で、同じものを愛し、助け合い、冒険を求めて協力する友達だった。それは僕たちが出会ってからこの時まで何も変わらなかった。しかし、それは異なる種類の苗木が大地に並べて植えられた時、最初のころは互いに形が大差無いのと同じことだった。少しずつ少しずつ、成長するにつれ、僕たち三人と夏の姿の違いは明白になっていくだろう。それによって僕たちの関係がどう変わるのか僕には想像がつかなかったが、変化が確定的な未来だということだけはこの頃僕にももう分かっていた。
そして僕は既に夏を女として扱おうとしていた。
「大丈夫だ」と僕は夏の頭を撫でながら言った。「心配するな。俺が一緒にいる。健一も誠二もいるから大丈夫だ」
寝袋の中は二人分の熱が充満し、僕は顔や体中に汗をかいていた。そして僕の肩と胸の間、夏が顔を押しあてている場所がひときわ濡れていく。それが夏が泣いていたからだと分かったのは、彼女が顔を上げて、お休み、と僕に言った時だった。
夏は僕の寝袋から抜け出して、自分の寝袋に戻った。そして僕に、眠っている間手を握って欲しいと言った。僕は、分かった、と言って寝袋から自分の腕を引っ張り出して、彼女の左手を握った。
夏の手はあたたかく、僕よりも小さい。その手は僕の手を強く握り返してくる。その力が徐々に弱まっていくのを感じながら、僕は眠りに就いた。
結局僕は最後まで何も気が付かなかった。気が付いていたのは夏だけだ。その夏にしても、ぼんやりとした凶兆をこの物語全体に漠然と抱いていただけだった。僕たちは何も知らなかった。知らなかったことが許されるのかどうかは、あれから長い時間が経った今になっても、まだ分からない。
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