第一章 日光仮面(4)

 基地の完成後、僕たちはそこで毎日膝を突き合わせて作戦会議を行った。議題はもちろん、「真中市のどこに冒険があるか」だ。それぞれから提案があり、意見交換がなされた。人が立ち入らず、謎が隠されていそうな場所であればある程良い。打ち捨てられた病院や、夜の学校や、町はずれの林の奥へ探検しようと三人が言った。どれも魅力的なアイデアだと僕は思った。だが僕がまず考えていたのは、どこかに行くことよりも先に、誰かに出会うことだった。インディ・ジョーンズがそうであったように、冒険とは誰かとの出会いをきっかけにして始まると思ったからだ。

 裕司はなにをやりたい、と誠二が僕に訊いて、僕は答えた。

「日光川に、変な奴が住んでるって聞いたことある」

 それが日光仮面のことだった。以前、クラスメートの誰かが彼のことを話すのを僕は耳にしていたのだ。それは有名な噂だった。そいつは日光川の橋の下に住み、変な格好をして、警察でもないのに、毎日真中市をパトロールして回ったり、川に向かって正拳突きをしたりしているらしい。

「そいつに会いに行こう」

 僕がそう言うと、健一が、俺はおっさんのくせにセーラー服着てる奴が駅前のスーパーにいるって聞いたことがある、と言った。夏は、宇宙人を呼び寄せる男が市営公園に出没する、という噂を聞いたことがあった。

それにしよう、と誠二が言った。「この町の変な奴らに会いに行こう」

僕たちはさっそく自転車に乗って、数々の噂の発信源の中でも基地から最も近い、日光川に向かった。

 私鉄が走る線路の脇、堤防の上で、僕たちは自転車を停めた。そしてどす黒い川を見下ろすと、コンクリートの川べりのぎりぎりに、男が大股を開いて立っているのを僕たちはすぐに見つけ出した。

僕たちは堤防を降りて行き、四人で並んで、サングラスとマスクを着けた姿で正拳突きを繰り返す男の隣りに立った。

男は僕たちの方に振り返りもせず黙々と正拳突きを繰り返し続けた。

「おじさん、何をやっているんですか」

 僕がそう訊くと、突き出された拳がそのまま中空で停止した。やがて、彼はゆっくりと拳を下ろすと、胸の前で両手で三角形を形作り、何度か深呼吸した。大きく開いていた両足を閉じ、腕を下ろし、ようやく僕たちの方に向き直ると、彼は言った。

「私は日光仮面だ」

 それは、僕の質問に対する答えではなかった。だが、今考えてみれば、それは日光仮面にとっては正しい答えだった。正拳突きは正拳突き以外の何物でもなく、説明することなどない。私はたった今日光仮面としての行為を全うしており、正拳突きはその一環に過ぎない、そう彼は言いたかったのだと思う。その論理の飛躍を理解したわけではなく、彼の断定的な口調と異様な迫力に押されて、僕はなんとなく頷かざるを得なかった。

「何の用だ」と日光仮面は尋ねた。「まさか、サタンの爪が現れたのか?」

 何それ、と誠二が訊いた。

 そう訊くべきだったのかどうか、分からない。

そこから日光仮面の長い話が始まった。サタンの爪をめぐる日光仮面の長い闘いの物語だ。僕たちは日が暮れるまでそれから解放されることは無かった。

 これが僕たちと日光仮面の出会いで、彼の館が僕たちが建てた基地にごく近かったこともあり、事あるごとに僕たちは彼を訪ねるようになった。彼の語る物語が魅力的だったわけではないが、僕たち四人は直感的に、彼が普通の世界に生きていないことだけは理解した。それは、目指す方向は全く違うが、ある意味彼が僕たちの先輩であるということだった。どこからどう見ても変人なのだが、ただ変人というだけでは説明が付かず、彼には、僕たち四人に親近感を抱かせる何かがあった。

 その後も僕たちは真中市に生息する数多くのあの人たちに出会ったが、日光仮面と比べると、彼らの異常さは典型的で分かりやすいものだった。

 例えば、市営公園に一日中入り浸るとある老人に、僕たちは出会った。見かけはごく普通の老人だが、その習性に特徴があった。彼の日課は、エイリアンを空から呼び寄せることだった。公園の片隅に膝立ちでたたずみ、祈りの言葉を呟きながら、掲げた両手を振りおろし、ひれ伏すように大地に手を突き、また振り上げる。その動作を何百回と繰り返す。

「おじいさん、何をやっているんですか」

 僕が、日光仮面にしたのと同じ質問を老人に向かってすると、老人の動きがぴたりと止まり、僕たちに振り向いた。

「メニアル星人を呼んでいるのだ」

「メニアル星人って何ですか」と夏が訊く。

「宇宙の支配者だ」

 老人はそう言った。

 彼によると、この地球にメニアル星人は何度となく訪れ、我々を監視し、宇宙のかなたにあるというメニアル星に向け、地球の衛星軌道上に設置された彼らの前線基地から、地球人の情報を送っているのだという。彼らは現在の地球文明よりもはるかに進んだ科学技術を持っており、地球人類がいつか彼らの技術を授けるに足る存在かどうかを検証しつつ、我々の歴史の行く末を見守っている。時折、彼らは小型の偵察艇で大気圏外から飛来し、地球人と接触を図ることがある。老人がメニアル星人の存在を知ったのも、その接触の一端だった。数十年前のある夜、彼が居酒屋で気の合う仲間たちとしこたま酒を喰らった帰り道、一人、この市営公園で裸踊りをしていると、突如まばゆい光が天空から差し、彼はメニアル星人に捕獲され、彼らの基地の研究室に拘留された。そこで彼は奇妙な装置によって全身を検められ、さまざまな質問を受けた。メニアル星人は、我々はメニアル星人であると名乗り、我々の存在は一切他言無用であると言い渡した後で老人を解放した。老人は記憶を操作されたため自分が何を話したのかまるで思い出せないが、完全な記憶の抹消には失敗したらしく、自分が宇宙船に連れて行かれたことと、メニアル星人という名前だけははっきり覚えているという。

 僕はその話を聞きながら、耐えがたい既視感に苛まれた。僕は間違いなく、これと全く同じ話を「コロコロコミック」か「小学2年生」のどちらかで読んだことがあった。

「どうしてメニアル星人を呼んでいるんですか」

「わしをメニアル星に連れて行って欲しいからだ。地球には何の未練もない」

「次にメニアル星人が来たら教えてください」

それは無理だ、と老人は言った。「次にメニアル星人に会う時は、わしが地球を去る時だ」

僕たちは名前を名乗り、彼も自らの名を答えたが、それが何と言ったかはもう忘れてしまった。僕たちがそれから老人と話す機会はもう二、三度しかなかったからだ。彼は来る日も来る日も宇宙に向かって祈祷し続けるばかりであり、いつまで経ってもメニアル星人との再会を果たせず、僕たちとの会話には何の発展性もなかったため、僕たちは彼から冒険の手がかりを見つけ出すことをすぐに諦めてしまった。

僕たちはその他にも数多くのあの人たちに出会った。

 自宅の軒先で一日中焚き火に掛かった鍋の中身をひたすら掻きまわし続けていた「料理おばさん」。

 コーラのペットボトルのロケットで空を飛ぼうとした「ロケットおじさん」。

 軍服姿で街を一人で毎日行進していた「軍隊じいさん」。

 日光川で毎日河童を探していた「河童おじさん」。

 ドラえもんののび太の扮装をしてアニメのテーマ曲を歌い続ける「のび太おじさん」。

 毎日倉庫の壁に向かって目には見えない子供たちとドッジボールをしていた「ドッジボールおじさん」。

 ……

 個々の単純さの一方で、彼らの姿は多種多様だった。一人として同じ格好の者はおらず、同じ目的で活動する者はなかった。彼らはそれぞれに孤立し、あの人たちの間にネットワークと呼べるものは存在しなかった。彼らはそれぞれに自分たちの世界を持っており、それを変更させることは誰にもできなかった。まるで彼らはそれぞれが一冊の書物のようだった。そこには物語が描かれており、僕たちに向かって何かを伝える。しかし、書物と書物の間で会話が交わされることはない。彼らという本は既に書き終えられていて、これ以上訂正されることも書き足されることもない。あくまで受け取るのは僕たちであり、学ぶのも、読むのも、聴くのも、彼らではなく僕たちなのだった。

 彼らは、書物が僕たちに教えるのと同じことを僕たちに教えた。それは、この街に悪が潜んでいるという妄想のことでも、メニアル星人の存在のことでもない。もっと単純な事実、つまり、「世の中にはいろんな人がいる」ということを。それは、世界と人間が多様性に満ち満ちているという事実で、ことによると僕が人生で学んだ中でも最も重要なことの一つだった。




 そんな風に、互いに徹底してばらばらの存在だったあの人たちだが、何事にも例外はある。一度だけそれは起きた。

 それはごくささやかな瞬間だった。何の前触れもなく訪れたし、事象としてもさざ波のごとく小さなものだったので、ずいぶん後になって振り返るまで、それが二度と起こらない例外的な出来事だったのだということに気が付かなかったくらいだ。

 その日僕たちは夏の家の近所の公園で音楽を演奏していた。学校の音楽の授業で、課題曲を鍵盤ハーモニカで演奏するテストがあり、その直前の練習をしていたのだ。夏は一瞬でそれを習得してしまっていたので、先生となって僕たち三人に指導した。

 課題曲はブルーハーツの「トレイン・トレイン」だった。確か、それが単に教科書に載っていたからなのだが、小学四年生向けにしてはなかなか渋い選曲だった。

 夏は家から小さな電子キーボードを持ってきて、歌いながら弾いて僕たちに見本を示した。僕たちは夏の歌に合わせて演奏した。指の遅れや息の量の不足を都度指摘する、辛抱強くもなかなか厳しい先生だった。

「もう一度はじめからやろう」と夏はその日何度目かのセリフを言った。

 ええー、と健一と僕は同時に言った。

「休憩しようよ。て言うかもういいよ。俺向いてないし」と健一は言った。

 確かに、どう考えても健一には全く向いていない訓練だった。

 夏は首を横に振って、駄目だと言った。夏の目はきらきら輝いていた。音楽が本当に大好きだったのはもちろんのこと、普段の遊びにおいては僕ら三人に後れを取ることが多いので、この機を逃してなるものかと思っていたのだろう。

 誠二は生まれついての要領の良さにより、練習が始まってすぐにほぼ完璧に弾けるようになってしまい、僕たち二人を余裕の目で眺めていた。

 健一と僕は諦めて練習を続けることにした。

 才能のない者にとって、反復練習だけが技術を身につける手段である。次第に、少しずつではあるが健一も僕も上達し始めた。サビの部分の直前まではほぼミスなく演奏できるようになっていった。

 少しだけ日が傾き、何度も繰り返している途中で、夏の声に遠くから別の声が混ざった。


 

  栄光に向かって走る

  あの列車に乗っていこう

  裸足のままで飛び出して

  あの列車に乗っていこう

  弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく

  その音が響きわたれば ブルースは加速していく



 日光仮面の声だった。彼はどこからともなく現れ、自転車に乗ってゆっくりとこちらに近付いて来て、僕たちの隣に立って歌った。

 彼が自分のテーマ曲以外を歌うのを僕は初めて聴いた。僕たちは彼に構わず練習を続けた。日光仮面は夏の声に合わせて一緒に歌った。夏は心の底からの笑顔を浮かべて嬉しそうに、指を鍵盤に走らせた。

 そのうちに、また別の声が遠くから被さってきた。

 ドラえもんののび太の格好をした「のび太おじさん」だった。彼も日頃はドラえもんのアニメ主題歌しか歌わない男だったが、公園の入り口を通りがかると、僕らの方にやってきて、日光仮面とともに歌った。僕たち四人は顔を見合わせたが、旋律が続いていたのでそのまま練習を続行した。

 そこから後は、短い時間の出来事だった。

 次々に、何人かのあの人たちが公園に集まってきて、そして歌い始めたのだ。ロケットおじさん、河童おじさん、ドッジボールおじさん、セーラー服おじさんが、示し合わせたように公園を通りがかり、夏と一緒に「トレイン・トレイン」を歌いだした。

 彼らは僕らを少しだけ遠巻きに取り囲み、僕たちの下手な演奏に合わせて歌った。

 異様な光景の合唱だった。

 これには夏はもちろんのこと、僕も健一も誠二も笑った。

 彼らはこの公園にたまたま通りがかり、たまたまこの歌を知っていた。

 この公園は、もともと大して広くもない、彼らの普段の活動圏内にあった。だから、彼らがそろって偶然この公園の近くにいて、通りがかったことは不思議でもなんでもない。そしてこの楽曲は、子供の僕たちでも知っているくらい日本中に周知の歌だったから、彼ら全員が知っていることにも、別に不思議は何もなかった。

 だが、何が彼らをこの場に引きとめたのだろうか。何故彼らは僕たちと一緒に歌おうと思ったのだろうか。この歌や、僕たちの演奏の何が、この時だけ、彼らを引き付けたのだろうか。僕にはこの時も今も、それが分からない。

 とにかく、僕たちは可笑しかった。日常ではあり得ない馬鹿馬鹿しい光景だった。可笑しくて可笑しくて、笑いが止まらなくて、まともに演奏ができなくなった。夏だけが指の動きを崩さず続けることができて、僕たちに演奏に戻るように指示をしたが、無理な注文だった。

 あの人たちの合唱が続く中を、ひとしきり笑った後、夏の「最初からもう一度」の指示に従って、僕たちは演奏に戻った。そして僕たちは最後までやりきることができた。



  見えない自由がほしくて

  見えない銃を撃ちまくる

  本当の声を聞かせておくれよ


  TRAIN TRAIN 走って行け TRAIN TRAIN どこまでも

  TRAIN TRAIN 走って行け TRAIN TRAIN どこまでも



「できた」と健一が言った。

 夏が頷き、もう大丈夫だと言った。

 僕は疲れきって、大きく体を伸ばし、深く息をついて振り返ると、もうそこにはあの人たちは一人もいなかった。




 去っていくあの人たちの背中が、あの時の僕には見えなかった。いつも彼らはいつの間にかそこにいて、いつの間にかどこにもいなかった。

 あの時それはそれだけのことだった。彼らがいようといまいと構わなかった。現れた理由も気にはならない。いなくなっても気にはしない。幾ら唐突に始まり、唐突に途切れてしまったところで、どうせまた明日街を歩けば嫌でも彼らとすれ違うのだから。

 しかし、今はもうそんなことは起こらない。

 今の僕は、彼らの後ろ姿を思い描く。昔はそんなことをしようとも思わなかったし、しようとしてもできなかっただろう。

 今ならそれができる。現実にあの時目にすることができなかった光景も、僕は今なら描くことができる。あの頃は、ありもしないものにリアリティを覚える想像力はあっても、物事の裏側を見ることはできず、五感から切り離された事物は存在しないも同然だった。だが今は、野放図な想像力は失っても、途中まで描かれた線の先を推し量ることができ、彼らが僕の中で生きているのを感じることができる。

 僕は今、それを写し取り、描きたいと思っている。

 僕はこの真中市で生まれ、そして育った。幾つかの小さな出来事と、幾つかの大きな出来事を経て、ある日僕はこの街を去った。去ってからも多少の事件があった。それらが僕の中に今も留まっている。その滞留し続けているものたちの中に、あの人たちの後ろ姿がある。

 ここまで僕が記し、そしてこの後も続けようとしているのは、僕の視点から見たその記録であり、記憶の整理だ。僕の頭の中だけで処理するにはその渦は大きすぎる。文字にして吐き出さない限り、それらはまだ混沌としていて、僕自身にも全てを見通すことができない。

 記憶には、鮮明なものもあれば、掠れぼやけてしまったものもある。言葉には、正確な言葉と漠然とした言葉がある。理解できることとできないことがある。

 僕は今それを書こうとしている。

 一度に全てを語ることはできないので、一つ一つ拾い上げて行こうと思う。全ての出来事に意味があると決まっているわけでも、全ての出来事に関連があるわけでもない。可能な限り時に沿い、過去から未来へ順に積み重ねていくように努めるため、あたかも一つの歴史のようになるかもしれないが、過去と未来の因果関係に保証はない。これは物語かもしれないし、それとは全く別の何かかもしれない。今はまだ、一切は雑然としていて、ばらばらの方向を向いている。それらが一つの統一を成すことなどあり得ない気がするし、自分自身それを期待しているわけではない気もする。何の保証もないし、約束もできない。何が起きるのか分からないが、どういう結果になっても、僕はこれから、そのページを拾い集めながら歩いていき、一つのテキストとして提出することにしたい。

 どれくらいの長さになるのか、どんな文章になるのか、そして、僕が最も肝心なことを言葉にできるのか、まだ何も分からない。

 ただ、今、どうしてもそれを書きたい。

 そして誰かに読んでもらいたい。この街と、僕のできる限りの正直を、誰でもない誰かに。

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