そして。
『ほら、三好さん。早く早く』
何だか、彼女の声が遠くから聞こえてくる気がする。
「ちょっと待ってよ」
声を掛けてみても、彼女の歩調は変わらない。
いや、彼女はずっと普通に歩いているだけだ。なのに、いくら追っても追いつかない。彼女の背に手を延ばしても空を掴むだけ。
『何やってるんですか。早く来てくださいよ』
彼女の声と、彼女と俺の足音。それだけが、やたらと耳に響く。それ以外の雑踏は、まるで古いラジオから聞こえてくるように籠もった音で耳に届いている。
彼女がゆっくりと、こちらを振り向く。居酒屋で乾杯した時と同じ、にこやかな笑顔だ。
けどその瞳は――夜の海のように、深く、暗い。
『こっちこっち』
わん、と彼女の言葉が頭の中で反響する。
さっき、彼女は言った。
――女はみんな女優なんですよ?
その時、俺は「葵ちゃんが会社で地味な女を演じていた」と理解した。
けど、それは本当に正しかったんだろうか?
「葵ちゃん」すら、目の前にいる女の演技のひとつなのかも知れない。
今こうやって俺を導いている、昏い目をした「魔女」。
彼女こそが、真の姿なのかも知れない。
彼女が足を掛けたエスカレーターが、ゆっくりと降りていく。
振り返って薄笑みとともにこっちを見つめ、俺を誘いながら。
――駄目だ。このままじゃ。
そんな自分の意志も、夢で誰かが言っていた言葉のようにかき消えてしまう。
ごん、ごん、ごん。
いつの間にか乗り込んでいた下りのエスカレーター、その進行方向に彼女の姿はない。
手すりを掴んだ左手を、放すという発想がそもそも浮かんでこない。
もう上下の感覚も無くなってきた。俺を包み込もうとしているのか、視界の両脇からエスカレーターのステップが迫ってくる。
不思議と、恐怖感は無かった。
みしりみしり、きしむ音が聞こえる。どうやらこれが、俺の骨がきしむ音のようだ。
それでも痛みは無い。
いつの間にか、下半身は雑巾絞りのように細く巻かれていた。
ついに俺の視界を塞ごうとしているエスカレーターのステップのすき間に、彼女の姿が見えた。
闇を背負ったような、不思議な笑みを浮かべていた。
――次の店って、何処だよ。
軽く冗談のようにかけようとした声は出ない。どうやら肋骨も砕かれて、声を出すための呼吸が既に出来ないらしい。
――ねえ、葵ちゃん、もうちょっと話そうよ。
そんな言葉とともに彼女に延ばそうとした手が、ステップに挟まれて。
ゴギン、と折れ曲がった。
扉の向こう、その階段の先 芒来 仁 @JIN
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