49 今一番会いたくない、君

「なーにやってんだァ? センセっ」


 マンホールの向こう、まぶしい地表から顔を出したのは、燃えているのかと見間違えるほど赤い髪、そしてこちらを見つめてくる好奇心いっぱいの金色の瞳だった。

 そして、それは。


 僕が今一番見たくない顔で……。

 会いたくない人、で。

 合わせる顔のない友達、だった。



「行くぞっ、覚悟しろよ!」


 大量の水が降り注ぎ、地面に打ちつけられ、水飛沫がはねる。

 バケツに入った水を頭からかけられ、濡れそぼった天藍は、何も言わずにうつむいていた。

 服を脱いだ背中には、五つの鱗が、白い花のように開いていた。


「アレ、どうしちゃったんだ?」


 冷たい水をかけられて、不機嫌になる彼を想像してたに違いない。

 ウファーリは薄気味悪そうな表情だ。


「マスター・カガチと戦ったんです。どうやらそのときに、肋骨ろっこつをやられていたみたいで……今は全力で回復に力を使っているんです」


 ダメージはかなりのものだったのだろう。

 僕やイブキは全く気がつきもしなかったが、地下水道で強かに攻撃された天藍は血を吐いた。彼は負傷を耐えながら、顔色ひとつ変えずにここまで来たのだ。

 イブキはそのことを申し訳なく思っているらしい。


「なるほどねぇ……。あのカガチと、本気でやったら、そうなるわな」


 ウファーリは複雑そうな表情だ。

 ドラム缶に溜めた水をバケツでひとすくいして、もう一度、黙って座っている天藍の頭からかぶせる。

 水が入って重たいバケツが宙をひらりと飛んで、天藍の頭上でひっくり返り、大量の水がこぼれ落ちる。

 僕はその様子を、少し離れたところで見ていた。

 情けないと自分でも思うけど……ウファーリに合わせる顔がない。彼女が退学になるってわかっていても、何もできなかった。

 ここは、スラムの片隅だ。周囲は、薄汚れたビルに囲まれていて、瓦礫が転がっているだけで人目につかない空間になっている。

 僕たちは地下水道を抜けた先で待ち構えていた彼女に出会ったのだ。

 スラム育ち、とは聞いていたが、偶然過ぎる再会だった。


「ヒナガ先生!」


 ウファーリは、まるで退学のことなど無かったかのように快活に笑ってる。


「ん?」


 違和感を感じて空を見上げると、そこにはバケツの底があった。


「……んんッ!?」


 いきなりのことに避けることもできず、僕は頭から冷水をかぶった。

 息を止める。

 次の瞬間、大量の水が降ってきた。

 ようやく目を開けると、そこには、「あははは」と声を立てて笑う彼女の笑顔があった。

 風が冷たく感じられ、ぶるりと震えた。

 口から出てこようとしていた文句は、腹の底に引っ込んだ。


「ごめんごめん。でも、先生もすごいニオイだったんだよ。天藍に肩を貸してここまで来たんだろ?」


 実にうらみがましい目つきをしていたのだろう。

 ウファーリはおどけて、両手を合わせてみせる。

 笑う彼女は、綺麗だった。

 学校で見ていた姿とは、全然違う。

 本当だ。

 彼女は今、髪をきれいにまとめてい上げ、金色のドレスを身にまとっていた。体のラインを強調したドレスも、ヒールの高い靴も、よく似合ってる。


「服、何か着れそうなやつ見繕みつくろうからさ、おいでよ」


 ウファーリはそばの建物の二階につながる階段を軽快に上っていく。

 僕も後をついて行きながら、視線は黙ったまま、彫像みたいに動かない天藍を見ていた。


「あいつは大丈夫だろ、しばらく放っておいても。今日はうちに泊まっていきな。ここに来たからには、スラムの連中にも、市警の連中にも、手出しさせないぜ」


 階段は、ビルの中にあるとある店舗のキッチンに繋がっている。

 フロアに通じる扉から、酒場の空気がただよってきてる。アルコールと雑談がまじりあった臭いだ。

 ここは、彼女……ウファーリの母親が経営する酒場なんだそうだ。

 ウファーリも、学校が無いときは、こうしてドレスを着て接客してるらしい。

 カウンター席では、地下水道で会ったあの老人が琥珀色こはくいろの飲み物が入ったグラスを傾けていた。


「まさか、先生がヒゲじいと知り合いだったなんてな」と、ウファーリ。

「あの老人、なんなの? めちゃくちゃ強いじゃないか……」


 負傷中とはいえ、天藍を圧倒してた。


「さあ……? アタシもよく知らない。でもこのへんでは結構有名なジイさんでさ、何か困ったことがあるとみんなヒゲじいに相談してるんだ」

「君と同じ海音かいおんを使うんだよな。もしかして、親戚とか……?」

「ん~~~……」


 衣裳部屋らしい小さな部屋に入り、色とりどりのドレスの下から、衣裳ケースを引きずり出す。


「ヒゲじいいわく、なんか、このあたりに住んでるやつって、何十年かに一度、アタシみたいな力を持ってるやつが生まれるんだってさ。だから、別に血の繋がりとかは無いんだ。……ほら、これ着てなよ」


 適当に選んだ服を投げてくる。

 渡されたシャツやズボンは、僕には大きすぎた。

 なんとなく、だけど……地味で古いデザインは、ウファーリの父親のものじゃないかな、と思った。


「ありがとう」

「じゃ、アタシ、店の手伝いあるから。ゆっくりしてていいよ」


 身を翻して出て行こうとする彼女の、存外に細い腕をつかむ。

 とっさに、だった。


「あのさ……」


 言葉が出てこない。

 でも、言わなければいけないことがあるだろ、自分。

 そう、奮い立たせる。


「謝ったりしないでいいよ、先生」


 ウファーリは、はっきりそう言った。


「退学処分が決まったとき、カガチ先生から電話があってさ。ヒナガ先生、頭下げてくれたんだろ? うれしかった。だから、そのことはこれでおしまい!」


 ウファーリは僕の手を振り払い、店の方へと駆けて行ってしまった。



「あ~あ、これからどうするかな……」


 僕は、キッチンの奥でジャガイモをいていた。

 どうしてこんなことになってしまったのかはわからないが、今や公権力から追われる身だ。

 そしてウファーリのお母さんの好意で置いてもらっているものの、ただで泊まるのも申し訳ない……というわけで、手伝いをしている最中、なのだが。


「先生、へたくそですね」


 フライパンを片手に、イブキが端的に、感想を述べる。

 僕の手の中で、ジャガイモは小さく小さくなっていく。

 対して、数々のアルバイト先を転々としているイブキの料理は、プロとして通用しそうなレベルだった。


「料理って……大変なんだな」

「何をわかりきったことを言ってるんですか。さては、料理したことないでしょう」


 イブキは口を動かしながらも、手を動かして、皿に麺料理を盛り付けていく。


「食材をどうするか、とか、どんな味つけにするか、とか、手順とか、その他もろもろ……食べてくれる人のことを考えて、考えて、それでつくるんですから大変に決まってます! ……ハイ! これ、持っていってください」


 きれいに盛り付けられた皿を渡され、店との往復が、僕にできる精一杯だった。

 皿を持って行くと、店の様子が見える。

 ウファーリの母親は、歳はとっているけれど、美人だ。カウンターで愛想よく客と話している。 

 ウファーリは……というと。

 視線で彼女を探して、僕は硬直する。

 酔っぱらった客が彼女の腰のあたりに触れようとしていたからだ。

 彼女より二回りは年上の、太ったオジサンだ。

 咄嗟とっさに一歩、店側に踏み出した僕の襟首を、何者かが掴んだ。

 振り返ると、半裸の天藍がいた。

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