48 地下道

 まるで昨日のことのように思い出せる。

 誰もいない家。

 僕しかいない部屋。


 机の位置も、置かれた地球儀の角度も、ベッドのシーツの柄やカーテンの色……。


 そして、そこに響く音も。


 ゲホっ、ゲホっ。


 布団の中に潜りながら、小さな男の子が咳をこらえてる。

 だんだんと高くなっていく体温、パジャマをじっとりと湿らせる汗。


 それは過去の僕だ。


 今なら、アイリーンが何故僕からあの頃の、しまいこんだままの記憶を引き出してきたのかがわかる……。


 あのときの僕は、布団に隠れながら誰にも助けを求められなくて不安で、怖くて、寂しくて、惨めで、誰よりも孤独だった……。


 父さんと母さんが離婚したのは、僕のせいじゃない。

 僕が父親に似ているのも、僕のせいじゃない。

 僕にはどうしようもないことなのに、どうして。


 そして。

 僕は、僕をこんな目に遭わせた母に《怒って》いた。

 怒りはいつからか憎しみになっていった。

 なんで、どうして。

 どうして僕だけがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。


 いったい、誰のせいで……?


 だから、僕には……オルドルの気持ちが手に取るようにわかった。

 彼も、誰にもぶつけることのできなかった憎悪を抱えてる。

 家族だと思っていた者に与えられる屈辱。

 そして怒りが、僕たちの共通点なんだ。


 オルドルの魔力の波長が途切れる。


 金の短杖は一瞬、ぶるりと震えて静かになった。

 黄金の剣をつくりだし、あの場に停滞させることをやめたのだ。

 僕は溜息を吐いて、その場に座りこんだ。


「……うぐっ」


 暗い水路に、短い悲鳴が反響した。

 ばつん、と音を立てて、爪が三枚、弾け飛ぶ。


「多すぎだろ……!」


 暗い水面が揺らめき、オルドルの声がした。


『え~っ、これでも企業努力してるんだけどナ~?』


 わかってる。前に比べて青海文書の力を使った《代償》が格段に減ってる。

 庭での決闘、内臓が全部もっていかれた。

 屋上では手足の爪全て。

 今では、なんと半額だ。片手の爪だけでいい。破格過ぎる。

 何故なのかは想像つく。

 病室で……僕はオルドルの《血》を飲んだ。

 そのことが関係してるんだ。


「休憩している暇はないぞ」と、天藍が言った。「急がなければ、市警に囲まれて脱出不可能になる」


 彼の言うことは正しいが、でも、痛みと、ひどい空気のせいで返事もできない。

 通路脇を流れる水路からは汚泥の臭いがした。

 僕たちは市警の追跡から逃げるため、下水道におりたのだ。


「でも、かなり出血してますよ。手当てしたほうがいいですよ」


 幸い、病院でもらった替えの包帯や化膿止めがあった。

 それらを取り出して、イブキは手早く僕の手に巻いていく。

 これらの品には医療魔術がかかっている。

 明日の朝には、無くなった爪ももとにもどる。

 そうしたら……また、魔法が使える。


「あの……ありがとうございました」


 手当てが終わると、イブキはそう言って、頭を下げる。


「あの状況を切り抜けて、助けてくれて、本当に感謝してもしきれません……。それに、天藍……班長」


 天藍はじっと地図を睨んでる。


「少しだけ、見直しました」

「何がだ、副班長」

「公園で……ヒナガ先生をかばって戦っていたでしょう。カガチ先生の《本気》の剣を受けながら、他人を庇うなんて……。貴方は本当に竜鱗騎士なんだって……民の盾であり、女王家の剣であろうとしているんだってわかったんです。それだけしかできないのが玉に傷ですけど」

「それだけしか……」


 できないってどういうことだとよけいなことを言いかけた奴の口を、空いている手で塞ぐ。


「自分も、本当に竜鱗騎士を目指すなら……正騎士になるなら、班長についていけるようにならないといけないんですよね」


 さっきまで、自分の将来ばかりを悲観していた少女は、少しだけその姿を変えていた。

 小さなペンライトの光に照らされて、彼女の表情は暗く落ち込んでいた。

 どうやら、家計の負担に加えて、将来の責任まで抱え込んでしまったみたいだ。


「きみは結構がんばってると思うけど……」


 もちろん本心だ。

 家計を支えるために、ちゃんと、自分で働き口を見つけて稼いでる。

 しかも昼間は学校で授業を受けて、エリートとよばれるだけの成績も維持して……母親の稼ぎに甘えて、とくに何の目標もなく学校に行き、日々を漫然と過ごしていただけの僕には耳が痛すぎる話だ。


「……おい、何か言ってやれよ」


 天藍は無言で僕の手を払いのける。

 だが、様子がおかしい。

 闇の中で、灰の瞳に浮かぶ竜の虹彩こうさいは、細くすぼまり、敵をとらえようとしていた。

 そちらを振りむいて、僕もぎくりとする。

 通路の奥に、光。

 カンテラ……のような古めかしい明かりを下げた人物が、こちらに近づいてくるのだ。

 それは、老人だった。

 貧民のようで、擦り切れたコートに、マフラーをつけている。

 白いひげが口元を覆い隠していた。


「班長、どうしますか?」


 僕は杖に手をかけた。


『よ~し、がんばっちゃうゾ! まだ、左手も、足もあるもんねっ♪』


 オルドルが水面を媒介に楽しそうに言うが、無視。

 そっと、杖を抜く。

 そのとき。

 老人が、明かりとは反対の手を、少しだけ動かした。

 その瞬間、僕の腕は僕の意志を離れ《見えない力》によって捻り上げられ、通路の壁に叩きつけられた。


「…………あッ!!」


 手から、杖が落ちる。それでも、その力は僕の腕を捕えたままだ。指一本、動けない。

 それを見た瞬間、天藍は動いた。

 迷いは無かった。

 風のごとく懐に踏み込み、老人の首筋に手刀を伸ばす。

 天藍の目つきは、十代の少年のそれじゃない。

 冷酷で無慈悲な暗殺者のそれだ。

 決闘のときとかわらない。

 殺す気だ、と僕は思った。


『やっちゃえ!!』とオルドルがわらう。


「天藍、やめろっ!」


 老人は一瞬だけ目を細め、まるで蚊でも払うように何気なく、天藍の右腕を外側から払いけた。

 老人の腕は、天藍の体にはまったく触れていない。

 だが。

 その瞬間、少年の体は突風に吹かれたようによろめいた。

 老人は少しだけ体を動かして、ほんの一歩だけ前進。

 老人が天藍の体の内側にするりと入り込む。

 痩せた肩が胸のあたりを軽く押さえこみ、まずは騎士の右腕、右足の動きを止めた。うまい。逃げるのではなく、間合いを詰めることで、むしろ技の出を封じてる。すかさず襤褸靴ぼろぐつをはいた左足が、天藍の足を払った。

 まただ。

 はっきりと触れたわけではないのに、天藍の体が浮かび上がる。

 そして――。

 老人が下からすくい上げるように、右掌底を鳩尾に向け、放つ。

 無駄のない、美しい動きだった。

 また、触れてもいないのに天藍は大きく弾き飛ばされ、水路の天井に叩きつけられた。

 凄まじい衝撃と、轟音。

 天井に罅が入り、割れたコンクリートが落ちて来る。

 天藍は必死にもがくが、叩きつけられたまま動けないみたいだ。

 ばき、とイヤな音。


「がはっ」


 血を吐いて、そのまま水路に落ちた。

 カガチ戦で負傷してるんだ。


「……班長! ……援護します!」


 イブキは天藍がやられたのを見て、老人に向かっていく。


「やああっ!!」


 きれいなフォームの右ストレート。

 あれが僕なら、吹っ飛んでいたと思うけど……。

 彼女の拳は、老人が突き出した掌よりもずっと手前で止められた。


「体が……動っ、かない……!?」


 イブキの白い頬を、汗が流れ落ちる。

 老人は足元に明かりを置く。

 そして彼女に近づくと、その細い手首を引き、肩を押さえるようにして体勢を崩す。額に指を近づけ……人差し指で、小突く。

 次の瞬間、糸の切れたマリオネットみたいに、彼女は地面に転がった。


 《海音かいおん》だ。


 しかも、ウファーリと同じ。

 彼女より強くて、効率よく力を使いこなしてる……。


「ふーむ……」


 老人は短杖を拾い上げる。

 いや、宙に浮かびあげている。


「少しらしめてやろうと思うたが……お前さん、怪我をしとるようじゃな」

 老人は僕のそばに来て、そして屈みこんだ。

 老人の瞳がきらりと輝く。


「ウファーリと同じ……金の瞳……」

「ウファーリを知っとるのか?」

「と」

「と?」


 僕は迷った。でも、悩んでいられる時間は多くない。


「友達……です……」


 老人は目を見開いた。

 そして何事か考えこんでいるようだったが、おもむろに、杖を僕に返してくれた。

 体も自由になる。

 水路から、天藍が飛び起きる。

 全身汚水まみれのひどい格好で、肩で息をしている。ずっと、この老人の《海音》で水中に沈められていたらしい。


「来なさい……」


 老人は明かりを持ち上げる。

 輝く石が三つ、ぶつかりあって音を立てた。

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