47

 必死に逃げていた。

 周りの連中も、逃げていた。

 なぜなら、彼は落伍者らくごしゃだからだ。

 彼の両親も、そのまた両親も、落伍者だった。

 それは運命と似ていて、ビルとビルの隙間、海風に晒された数ブロックに生を受けた者たち全てが享受しなくてはならないものだ。

 時折、ここから出て行く者たちもいる。そういう連中は他のやつらとは違ってる。ものすごく運がいいとか運動神経があるとか、ずば抜けて頭がいいとか、すごい美人だとか……あとは、すごく悪いことをするとか。

 でも大抵は、このあたりでごみを拾ったり、日雇いの仕事をして生きて、死んでいく。もちろん、真っ当に死ねるなら、それでもまあまあいい方だろう……彼の祖父はアルコール中毒で肝臓をやられ、最後は粗悪な密造酒にやられて死んだ。

 麻薬におぼれていく者も後を絶たない。

 こんな場所にいるのはイヤだ、と目が覚める度に何度も思う。

 でも彼には、他に行くところはない。


 金が無いからだ。


 彼らの不幸はただ一点、そこに集約される。金がないから、何もない。

 教育もないし、愛情もない。医療も受けられない。

 希望もないし、将来の夢もない。

 でも、金のかからないものは存在する。

 暴力や、犯罪だ。

 この二つに元手はいらない。

 市警は当てにならなかった。

 やつらは、暴力の一端だ。

 おまけに、病的なまでに短気で、その日食うや食わずやの生活をしてる貧乏人がぼろぼろの服を着て道端を歩いているだけで気に入らない。

 何か起これば何人か連れていかれる。

 根拠があっても、なくても。

 やつらがあんなに大勢やって来るのはわけがわからないし、珍しいことだが、逃げなければ何をされるかわからない……。


「どけっ」


 後ろからやって来た男が、若者を突き飛ばした。

 彼はつんのめって、じっとりと油で濡れたアスファルトに倒れた。


「う、ううっ……」


 誰ひとり、彼を助けることもなく、足音をばたつかせて去って行く。


 からんっ。


 彼の前に、何かが転がった。

 それはぴかぴか光る、丸いものだった。


「……?」


 それに手を伸ばす。

 表面にり込まれた刻印の意味はわからない。

 でも、それが何なのかは、一目でわかった。


 金貨だ。


 そして、それは、大量に空から降り注いだ。



「貧民街に逃げるぞ。あそこなら、派手な追跡はできん」


 公園から逃げ出すとき、天藍は渋い表情で言った。


「だが連中を撒くには、あれだけでは足りない」


 灰の瞳が、巨大な墓標が突き立つ公園を振り返る。


「僕がやるよ……」

「できるのか?」と天藍が問う。


 魔法は使えない、と言っていたお前に……そう言いたいんだろう。

 不思議だけど、今は違う。

 杖を握る手から、青海文書の力を感じる。

 オルドルの気配を感じた。

 ふざけた言動を繰り返す、半人半鹿の道化。

 でも、今のオルドルは怒りの塊だ。

 そして、僕の心にも復讐を望む心がある。

 あいつは嫌な奴だが、その一点だけで、僕らはわかりあえる。

 復讐がかなうなら、この怒りが晴れるなら、何を失ってもいい。


「《黄金の力を以て》」


 唇が、自然と呪文をつむぐ。

 それは、オルドルの呪文だ。

 彼が、僕の体を使って、魔法を使っているんだ……。

 不思議な感覚だ。屋上のときみたいにコントロールを失っているわけじゃない。オルドルがしようとすることが、僕にも見える。


「《罪人を裁く剣を与えたまえ。全ての根源たる水の力でもって、敵に災いを振らせたまえ……》」


 全身の血が震えて、ざわめく。

 天藍の魔術が溢れる力の奔流だとしたら、オルドルのそれは形のない、しかも不愉快な音波だ。

 持ち上げた杖の先から、それが四方に広がっていくのを感じる。

 瓶からこぼれた水は、あっという間に消えていく。蒸発しているのではない。オルドルがその力を端から食らい尽くして、無に返していっている。


「おい、ほかのやつらも呼んで来いよ!」

「なんでこんなところに金が?」

「そんなことどうだっていいだろう!」

「いいから拾え! 拾え!!」


 空から降り注ぐ大量の金貨を見上げ、カガチは苦々しい顔つきになった。

 大量の貧民たちが通りに溢れかえり、地面に散らばった金貨をかき集めている。


「……これも、幻ですかな?」


 彼の携える剣に脅えもせずに、貧しい人々は僕と彼の間に落ちた金貨をも必死になって拾っていた。

 カガチも、クヨウも、一歩も動けないはずだ……。

 何故なら、地面にばかり気を取られている彼らの頭上、はるか上空には、さっき公園で振らせたのより細かい金の剣が無数に停滞している。

 切っ先を、すべての人々の頭上に向けて。

 別の面があるといっても、マスター・カガチは仮にも魔法学院の教師であり、クヨウ捜査官は公僕だ。

 大勢の市民が虐殺される瀬戸際で、うかつな行動は取れないはずだ。


『さあね~? 賭けてみるぅ? ボクの良心ってやつに! ひひひっ』


 僕の周囲に浮かぶ水の粒から、声がする。


「その下劣な鹿を黙らせろ」


 天藍は翼を生やし、無我夢中で金をひろう集団から抜け出した。


「四の竜鱗、《白鱗竜吐息》ッ!」


 口元から、広範囲に竜の息吹が吐きかけられ、路地を塞ぐ大樹にまとわりつく。

 すぐに降り立つと、つま先から、白い結晶の花が開いていった。

 そして巨大なひし形の結晶へと組成を変化させ、成長させていく。

 長さは3メートルほど。

 巨大な長槍だ。

 それを持ちあげる。

 結晶の塊は竜の魔力を受けて、掌の上で浮かび上がる。


「二の竜鱗飛旋飛翔!」


 人の身にはおさまらない力を大気のようにうねらせ、白い結晶の槍を樹木の防壁にたたきつける。

 風が巻き起こり、金を拾っていた連中も流石に作業の手をとめた。

 大樹には大穴が開く。樹皮を引き裂くというより、結晶が崩れ落ちるもろさで砕け散っていった。

 似たような光景を屋上で見た。

 あの《息吹》はオルドルの巨人みたいな金属でも、樹木でも、なんでもあの結晶に変えてしまう。そして、その硬度は、天藍の思うがままなんだ。


「行くぞっ」


 僕は、カガチの顔が見れなかった。

 自分がした卑劣な行いのせいだ。

 金を求めて這いつくばっている人たちを、僕は愚かだとは思えない。

 貧しさに、明確な理由や原因があるとは、思えない。

 もちろん本人のせいだってハッキリ言えるケースだってあるだろうけど……何かが違っていたら、そう考えてしまう。

 ここの人たちは金を得て、よろこぶだろう。

 でもこの大量の金は、オルドルの魔力だ。

 彼の意志でなければ、誰の手にも渡らない。

 それなのに、必死にすがる人の気持ちにつけこんだ。

 棒立ちになるカガチの横を抜けるとき、思わぬ言葉が僕の耳に飛び込んだ。


「……イブキを頼みます」


 ただ、ひと言だった。

 あれだけ厳しく真珠イブキを追及した人が……許した。

 許す?

 許すって、何だ?

 ダメだ。

 それは、ずるい……。


「ツバキ!」


 足の止まりかけた僕を、天藍が呼ぶ。

 僕は必死に走った。

 邪魔な人たちを踏みつけ、蹴とばし、転びそうになりながら。

 大樹の大穴に辿りつき振りむくと、そこには……。

 脅迫でしかない、刃の下で。

 彼は……マスター・カガチは剣の柄に手を置き、足元の人々を見つめていた。

 戦士の凶暴さは消えている。

 優しげで、いつくしむ瞳だった。

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