41.5 二重らせんのオルドル

 鏡のごとく磨き抜かれた床に、彼の姿は揺らめく姿となってうつっていた。


 植物の紋様が染め抜かれた黒衣をまとった少年だった。

 とがった靴をはき、手には黄金の短杖を携えている。

 ふしぎな煌めく瞳がうつしているのは、扇の向こうに控える高貴なる人物だ。

 彼と少年の間には、一冊の本がある。

 青い表紙の書籍には《みずち》が描かれていた。


「これは写しだが、私のつくった魔法の中では最も偉大なもの、最も強きもの。そして王国のさらなる発展を、千年の栄光をもたらすだろう魔法書だ」


 少年は老練とした口調でそう言った。


「我らが師オルドルよ……魔法を見出し、王国にもたらすものよ。最古の魔法使いである栄光に浴するにあきたらず、これ以上何を求めるのだ……」


 貴人は重苦しい声で訊ねた。

 魔法書を譲り渡す契約には、大きすぎる対価がともなった。


「陛下……国王として翡翠の玉座に腰かける栄誉にくらべれば、金銀の鉱脈など安いもの。しかも、私はそれらの売買には興味がない。ほしいのはただ、それらが持つ魔力だけ……」


 姿を隠す扇の羽の向こうで、王は苦しげにうめいた。

 彼は狡猾こうかつな魔法使いであった。

 国に魔法という新しい力をもたらすのと引き換えに、全てを奪い去って行く、悪魔。

 そうとわかっていながら、国王は悪魔との取引に手を出すしかなかった。最初は小さな取引でも、対価はしだいに大きくなっていく。回り出した歯車は止まらない。今や、彼の国は魔法なしでは立ち行かず、魔法による恵みを求める民の欲は際限がない。

 彼は条件を飲むしかないのだ。

 莫大ばくだいな対価を得た魔術師は、足取りも軽く王宮を出た。


「今宵は素晴らしい夜だ。王国に千年の栄光あれ、そなたが燦然さんぜんと輝く太陽ならば私はさながら夜の王、闇に輝く者として、そなたに寄り添い続けるだろう! ははは!」


 傍若無人な振る舞いに、どれだけの怒りを買っているかは、理解していた。

 それでも彼には並ぶ者のない魔法の才があった。

 国王ですら止められない、この魔法使いを引き留めたのは、背後からその腹を裂いた銀の剣であった。

 彼は呆然として、自分の腹部から滴り落ちる赤い液体を見下ろした。


「あなたは強大になりすぎました……」


 女の声がした。

 彼の前に、姿を隠した若い女が現れた。見覚えがある。王宮のどこかで……。

 それが国王のはなった暗殺者だということは疑いようもない事実だ。


「何故、私を殺すことができる……?」


 少年は心の底からそれを不思議がっていた。

 植物の液とともに、何重にもかけられた身を守る魔法は、どれも働いていない。

 もしそれらがひとつでも働いていたら、彼は刃に捕えられることなく、闇の中を逃げ去っていただろう。


「殺すのか……この私を」

「いいえ、自然との対話から魔法を見出し、書に紡ぐあなたの力。それを失うのはあまりにも惜しい……」


 女は一冊の本を手にしていた。なんの変哲もない革表紙の本だ。

 オルドルは地面に魔法陣が浮かぶのをみた。

 まるで見たことのない文字、そして紋様だった。


「やめろ……!」


 彼は女に向けて必死に手を伸ばす。

 女は、光の紗幕の向こうへと消えていこうとしていた。

 心の底から恐怖した。

 それは魔術ではなく、本能だ。これから起きる恐ろしいことへの。


「私が消えても、私の呪いは続くぞ!」と彼は叫んだ。「王が与えた財宝は、全て私のもの! 私以外には扱えぬ魔力となる!」

「それくらい、あなたの才能とくらべれば、安いものです」


 女は微笑んだ。


「思い出した……! お前の名前! 許さないぞ、未来永劫、許してなるものか……!! アイ――――」


 彼女が表紙を閉じると同時に、その声はかき消えた。

 夜道にその姿はなくなっていた。

 ただ、彼を刺した剣だけが転がっていた。



「そして、傲慢ごうまんで愚かな魔術師は、悲惨な末路を辿ったのです……」


 恵み豊かな森に、語りの声が響く。

 大地の色をした髪と少しだけ赤みがかった瞳をした幼子は、鹿の体に寄り添い、人の腕に抱きかかえられながら、じっと話をきいていた。


「ねえオルドル……それは誰の話なの?」


 男の子が訊ねる。


「それはボクのことさ……」と、半人半鹿のオルドルは答えた。


「うそだあ、オルドルは悪い魔法使いじゃないし、こんなに手触りのいい毛皮を着てるじゃないか」


 小さくてふくよかな掌が、オルドルの頬を包み込む。

 オルドルは微笑んだ。その表情は幸福で、満ち足りていた。


「もちろん、これはただのお話だよ。でもね……昔、ボクは人だったんだよ。悪い魔女にこんな姿に変えられてしまったんだ……そう言ったら、信じるかい?」

「うん……昔にもどりたいの?」

「うーん、今はいいや」


 自分でも不思議なくらいだった。

 偉大な魔術師である彼は、この銀の森がどこにあるのかを知っている……。

 木漏れ日がどこからくるのか。

 水のせせらぎ、小鳥たちの鳴き声……すべてがまがい物であることを知っていた。

 それでも握った手の平は日差しと同じように暖かく、微笑みは輝く。

 物語の筋に従って与えられた人の子ではあるものの、育てるうちに情がうつっていくのを感じた。

 そして《愛情》というものを知った。


「それより食事にしようよ。何が食べたい?」


 男の子はぱっと顔を輝かせた。


「ベリーのジャム!」


 元気よく答える。


「いいよ。でも、それだけじゃ大きくなれないよ」


 もしかしたら、愛情ですら物語の作為なのかもしれない……。

 でもそれでもよい、と思った。

 人ならざる身にも、幸福のありかを教えてくれたのだから。


「どうか、ずっとボクのそばにいてほしい」


 そうは言ったものの、オルドルにはわかっていた。

 この時間は長くは続かない。

 次の瞬間、木漏れ日と、豊かな枝葉を茂らす木々、愛らしい生き物で満ちていた彼の森は、姿を変えていた。

 死を告げる鳥、鴉が悲鳴をあげるように鳴き、あたりに死臭が満ちる。

 空は曇り、木々は立ち枯れている。

 鋭い枝の先にはズタズタに引き裂かれた死体がぶら下がっている。

 さながら死の回廊と化した森で、オルドルは血色の空を睨んでいた。


 ページが繰られたのだ。


 理解はしていた。


 ここは物語の中なのだから……。


 誰かが物語を読み、そしてページが変われば、物語は変化する。

 けして戻れない。

 たとえページが戻ったとしても、それは新しくはじまるだけ。

 それが選択の物語だ。


 オルドルの胸には、深々と銀の刃が刺さっていた。

 心臓からこぼれた鮮血は、人と鹿の体を濡らし、魔の泉に流れこむ。

 剣の柄を持つのは、大地の色をした髪の若者。

 バケモノに愛を教えてくれた、ただひとりの赤子だ。

 あの愛らしい子は変わってしまった。

 瞳には感情というものがなく、急所を一突きにする確かな剣の技は残酷であった。


「滅びよ、異形のバケモノめ……」


 どちらが、という言葉を、オルドルは喉の奥に飲み込んだ。

 幼い頃は笑みを輝かせていたのに……今では、彼は人の姿をしたばけものになってしまった。

 これが竜と戦う勇者の運命なのだ。

 同じように、オルドルにも役割がある。

 物語の通り、この子を手に入れ、育て、愛し、そして人を食らい、殺されるのが運命。

 物語が終わり、始まって、終わるまで、何度でも。

 何度も何度も。


「人の肉など……食らいたくもない……!」


 オルドルは唇の端から血の筋を零しながら、呻いた。

 オルドルが人を食うバケモノだと定めたのは、彼自身の意志ではない。

 すべては《物語》だからだ。


「魔法の力などいらない……!」


 それがあるために、大切なものを奪われた。

 何度も、何度も。


「許さないぞ……アイリーン!」


 オルドルは血色に煙る空を睨みつけながら、血潮を吐きながら叫ぶ。


「ボクは絶対におまえを許さない! 必ずお前の鎖を解き、この物語から自由になってみせる!! そして復讐してやる!!!」


 オルドルは鉤爪のような腕を高く、高く伸ばす。

 まるで空を掴もうとするように。


「滅びよ、翡翠の玉座!」


 そう吠えかけて、オルドルは息絶えた。

 指先が地へと落ちる。

 胸の剣は引き抜かれ、その体は泉の中に倒れた。

 沈んでいく養父の亡骸を、勇者はただ一瞥しただけだ。

 ただひたすら無感動に剣の血払いを済ませると、踵を返し、森を去った。


 泉に沈んだオルドルは、不意に人の声を聴いた。


《絶対に、復讐してやる!》


 何をしてでも。

 誰を利用してでも。

 怒りが魔法使いの体に流れ込む。

 誰かの怒り……激しい憎悪が、まるで自分のもののように感じられる。

 その一瞬。


「ひひっ」


 赤く裂けた唇が、狂気の笑声を漏らした。

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