36 人食い鹿

 オルドルは逆さまになりながら、ゴブレットを逆さまにして残りの爪を口腔内に流し入れ、噛み砕いた。それらが元々は僕のものだったのだと思うと、さっきから吐き気が止まらない。


「うぇ……は、半分は鹿のクセに……そんな調子で、僕の内臓も食べたわけか」


 しかも人肉を食うという、草食動物である鹿に真正面から喧嘩を売っている奇怪な生物だ。

 僕はベッドサイドに設置されたナースコールに手を伸ばす。

 オルドルは、手の中のゴブレットを投げつけてきた。


「当たるかよ! ……!?」


 避けたはずの金色の器は空中で《グニャリ》と歪み、鳥になって飛翔し、スイッチと電源を繋ぐコードをクチバシに挟んで食いちぎった。


「化け物!」


 僕はベッドを転げ落ちるように逃げようとして、足首に走った激痛にみっともなく悲鳴を上げた。


「ああああっ!」


 みると、金色の大きなリスが僕の足首に食らいついて牙を立てていた。

 しかも凄まじく重たい。

 オルドルが指先を動かすと、リスは再びグニャリと歪んで、僕の足首とベッドの脚をガッチリと繋ぐ足環あしわと鎖になった。必死に引っ張るが、びくともしない。

 幻なんだろうけど、まだ、幻じゃない。

 銀の巨人と同じ……。


『助けを求めたってムダだよ』


 オルドルはそう言った。


『だいたいさ、キミのそばにいるあの白い生意気な竜だって、このボク、オルドルの魔法に勝てないのに、いったい誰を呼び出すつもりなのさ』


 白い竜……天藍のことか。

 しかし、オルドルの言葉は正しい。

 ここにナースを呼んだところで、何の助けにもならないだろう。


『それにさ、ボクはずうっとキミといっしょにいたんだヨ。あの古本屋から、ずっと、キミの存在を感じてた』


 古本屋……。


「まさか、日本から?」

『そう』


 オルドルは僕の顔を覗きこみ、ニヤリと笑ってみせた。


『ボクは《青空の国の物語》のオルドルだからね。まあ、半分くらいは日本産の魔法ってこと』


 青海文書は、僕が古本屋でみつけたときは《青空の国の物語》というタイトルだった。そして何者かに襲われ、本を奪われて、残ったのが《師なるオルドル》の章の一部だった……。

 青海文書は、翡翠女王国と、日本の、二か所に存在してる物語だ。


「僕が殺されるのも、見てたのか? どこかから、こんなふうに」


 オルドルは少し意外そうな顔つきになった。

 そうしていると、普通の少年にみえなくもない。

 オルドルは、じっくりみると、白い肌の少年だ。

 瞳は黒く、唇は赤い。髪の毛は、夢の中とはちがって肩までの長さ。額の少し上から二本の、鹿の角がはえている。

 服は、翡翠女王国のものとも日本のものとも違う。たぶん、草花をかたどったものだと思うけれど、黒地に緑や明るい朱色で見たことのない紋様が描かれていた。

 袖口から見える腕は、ガリガリに痩せてる。


『ンー……残念ながら、それは見ていない。キミの鼓動が弱まったのは感じてたけど、ボクらはキミが思ってるより、現実世界には干渉できないモノなんだ。まっ、ただの登場人物だからね』


 そうか。もしかしたら、僕を殺したのが誰なのか、知っているかもと思ったんだけど……。


『こうして喋ってるのだってアイリーンの気まぐれで、あいつがいらない小細工をしない限り、こうしてボクが現実に姿を現すことはなかったんだ』


 ウファーリに襲われ、逃げ込んだ教室で、僕はアイリーンの姿を見た。

 彼女は僕に触れて、何かをした。

 そして、僕は風邪を引いた。

 それもものすごく急速に進行する、いやーな風邪だ。


 小細工とは、それのことか……?


「ひどい風邪を引いただけだけど……」

『それは、その状態のほうが、ボクに近いからさ』

「君に、近い?」

『だからさ、ボクは物語の登場人物なんだよ?』


 その表情には呆れが多分に含まれていた。

 知ってるよ。でも、こうして、目の前に現れてるじゃないか。

 期間限定なのかもしれないけども。


『ボクらは現実の人間みたいに、会って話せるわけじゃない。紙の上の文字とは、話せたりしないし、触れられもしない。ボクとキミが交差するのは、ただひとつだけ。キミがボクに共感したときだけ』

「共感……」

『キミがボクという存在に、ボクの思考に、ボクの行動に共感し、感情を揺さぶられるとき……《物語》と《現実》の境界がなくなる』


 《まるで知らない他人のことが、自分のことのように思えるのって、不思議なことだと思いませんか……?》


 百合白さんの言葉が思い出された。

 手と手が触れあったとき、その熱が伝わって、僕の脅えや緊張を彼女が読み取ったように。


『キミがボクを読むとき、ボクはキミになり、キミはボクになる。そしてボクは魔法使いだから、キミも魔法使いになる。それが《青海文書》の魔法だよ』


 もっとも、誰でもいいわけじゃないと彼はつづけた。


『残酷で、冷酷すぎたり、言葉が読めなかったり、誰にも共感しない者もいる。そんなやつが本を持ったって無意味だ』

「共感すれば、魔法が使えるんだな」

『そうだよ。ただし、もう気づいてるだろうけど、条件がある』


 オルドルは鋭い爪の生えた指で、僕の胸のあたりを突いた。

 爪には小さな穴があいていて、そこから下がる金色のくさりが涼し気な音を立てた。


『《青海文書》は《選択》の魔法だ。キミは僕に肉体の一部を捧げなければ、魔法が使えない』

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