35 入院

「ありがとう」


 生真面目に、か、それとも優しさか、星条百合白は運転手に礼を言い、車を降りた。

 天藍アオイに促され、高層マンションに入っていく。

 本来なら天市に邸宅があるはずの身分だが、紅華べにかが王姫となってから、彼女は海市に居をうつした。

 ビルは灰簾柘榴かいれんざくろが所有する不動産で、最高層の三層が彼女専用のフロアになっている。その真下に、彼女の騎士である天藍てんらんアオイの住まいもある。


「日長先生は病院に運ばれたそうですが、大丈夫でしょうか」

「さあ……案外、生き意地の張った顔をしています。生きているか死んでいるか……いずれにしろ心配無用です」

「冷たいのですね」


 天藍は不服そうな表情を浮かべたが「申し訳ありません」と謝罪した。

 そんな彼をみて、百合白はおかしそうに笑っていた。

 専用エントランスの前で、天藍は預かっていた鞄を彼女に渡した。


「明日も、いつも通りの時間にお迎えに参ります」

「いいえ……その必要はありません」


 天藍は首をかしげる。


「私は今日、先生を助けようと、禁じられていた天律を使いました。その音は紅華に届いているでしょう。なんらかの処分が下ると思います」

「そんな……!」

「天律は女王の魔法なのですから、決まり事を破った私に非があります」


 天藍は悔しげに、奥歯を噛みしめる。

 彼にとっては、誰よりも高貴な存在である彼女が海市での生活を余儀なくされていることさえ、耐え難い屈辱なのだ。


「天藍……私は、王姫である資格を失ったあとも、こうして平穏な暮らしができることを感謝しているのですよ」


 そう言って微笑む彼女が、痛々しくて見えてしかたがない。

 ただ星条百合白が王姫であったときの紅華は、天市はおろか海市のそばにいることさえ許されず、田舎の屋敷で身分不相応な暮らしを余儀なくされていたのだが……それさえも思い至らないらしかった。


「名誉も、身分もさほど大事なものだとは思えません。今までと同じに、学校に通って……貴方が私を守ってくれさえすれば、それだけでいいのです」

「気弱なことを仰らないでください。必ず貴方を相応しい場所に連れ戻してみせます。紅華などに、女王の座はつとまらない。あなたがいるべき場所は、ここではありません」


 天藍は、彼を見つめる百合白の瞳のかげりには、気がつきもしないでいた。


「失礼します」


 そう言って去って行く彼の後ろ姿を、百合白は視線で追う。

 そして渡された鞄をぎゅっと胸に抱きしめる。


「天藍……私は、あなたがいれば、ほかにはなにもいらないのに……」


 そのひそやかな声音は誰にも聞き遂げられることなく、消えて行った。



 オルドルの姿は不可視でも、屋上に出現した銀色の巨人は、生徒たちにも灰簾柘榴にも目撃されていたみたいだった。

 灰簾柘榴はものすごーく怒っていたが、僕があまりにも尋常じゃなく泣きわめきのたうち回り、最後は痛みによって失神してしまったがために『それよりも医者』という判断になったらしい。

 ひとまず校医がやってきて応急処置をして、学院付属の病院に放り込まれた。

 僕は、両手足の爪を全て失っていた。

 手当をした医者の話じゃ、ショック死していてもおかしくなかったらしい。

 医者は僕の両手両足を、回復呪文をりこんだ包帯でグルグル巻きにした。

 これで痛み止めを飲んで一晩眠れば、ひとまず爪は再生するらしい。リブラなら一瞬で済むような治療だけど……これが本来の翡翠女王国の医療レベルということだ。

 そして、今現在、僕は病院のベッドで寝ている。

 病院といっても、なんだかおしゃれなデザイナーズ住宅という感じだ。

 消毒薬のにおいがして、薄暗くて陰気なやつではない。

 まるでホテルみたいな内装で、ベッドはふかふか、窓からは翡翠女王国首都の夜景が見渡せた。

 本当は入院なんかしたくなかったのだが、両手両足も動かせない状態で図書館に戻っても何一つ自分ではできないし、一番上等の個室を利用しても学院の福利厚生の一環で費用はタダだというので、甘えてしまうことにした。

 今日はいろいろありすぎた。

 ウファーリが引き起こした事件。


 そして、何よりも師なるオルドルだ……。


 ただの物語上の登場人物だと思ってた。

 まさか目の前に現れるなんて。


 それも、青海文書の力なのか?

 青海文書の魔法ってなんなんだ?

 それが僕のものになるっていう、予告カードの意味は?

 差出人は誰なんだ?


 わからないことがいっぱいある。

 でもそのひとつひとつに、解答をみつけていかないといけないんだ。

 百合白さんの別れ際の表情が、目に焼き付いてる。


 僕を責めていた……と、思う。


 あたりまえだ。

 幻とはいえ、ウファーリにあんなことをしたんだから。

 清潔なシーツにもぐりこみ、まぶたを閉じる。

 小一時間たったころ、異音で目がさめた。


 ボリボリ……。


 何か硬いものを、かみ砕くような……硬すぎるあられを至近距離でかじられてるみたいな音だ。

 すっごい気になる……。

 カーテンの向こうに、黒い影がうつってる。

 だれだろう。他の個室の患者が迷いこんだんだろうか。

 サイドランプをつけて、カーテンを勢いよくめくる。


「うるさいな、こんな夜中…………にっ!?」


 文句の言葉は続かなかった。

 目の前に、二本の角を頭に生やした少年がいた。

 心底、ぎょっとした。動けなかった。


「オルドル……!?」


 オルドルは椅子に腰かけたまま、手にもった金色のゴブレットから桜色の小さな貝がらみたいなものを取り出しては口に放り込んでいた。

 それは爪だった。

 たぶん、いや間違いなく僕の爪だ。

 慌てて枕元に置いた金色の杖を掴む。

 オルドルは、つまらなさそうに僕をみると、脚をソファの背もたれに移動させて頭を座面から下に垂らす。天地が逆さまで、立派な鹿の角が、カーペットをぐりぐり抉っている、変なかっこうだ。


『あ~……』


 溜息とも、落胆ともとれない声が漏れ出た。


『真人間になりたイ……』















 ……はあ?

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