24 分岐点

          

 五年前。


 竜が現れてからのことは、にとってはまるで夢の中の出来事のように思えた。

 ひどい悪夢だ。

 それも苦痛を伴う。


 怒号と絶叫、狂騒につぐ狂騒。


 バスは死にもの狂いで道を走っていた。

 竜の息吹いぶきは街に雪崩なだれ込み、あちこちで建物が崩れ、焼かれ、火の手があがった。

 縮尺が狂ったのかと思うほど巨大な竜で、バスがどれだけ走っても、街のどこからでもその姿を視認することができた。

 その竜が吐く銀色の吐息は、それは熱された金属なのだと誰かが言った。

 金属をかすとなると、その熱は六百度を下回ることはない。

 どろどろに溶けたそれが恐ろしい大津波となって街中を飲み込んでいるのだ。

 しかも、吐き出すそれの温度は上がり続けており、どろどろした物体が輻射熱で赤く白く輝きだすのが見えるようになってきた。


 この地の人々は逃げまどい、絶叫を上げつづけていた。

 広場は既に銀の奔流ほんりゅうに飲み込まれていた。

 その意味するところは…………。


 だが、そのことを彼女はもう考えられなかった。


「……すけて。たすけて」


 凄まじい衝撃を受け、バスが横転した。

 竜のせいではない。

 自家用車での避難は禁止されていたが、事態が切迫し、逃げようとした市民の車とぶつかったのだ。

 窓から放りだされた少女は全身を地面に打ちつけたものの、生きていた。

 横倒しになったバスからは、まだ逃げられる者たちが次々に逃げていく。

 誰も、少女を助けようとはしない。

 当然だ。だって、他人なんだから。

 もう、守ってくれた母親はいない。

 誰も座席を譲ってくれない。


 もう、誰もいないんだ…………。


 横転したバスから同じように投げだされ、足を挟まれて動けなくなった若い女性がみえた。


「いっ……いや……!」


 彼女はケガの痛みではなく、恐怖に顔をひきつらせていた。

 少女もまた、そちらの方向を見た。

 見なければよかった、と思った。

 路地いっぱいに、銀色の巨大な瞳が浮かんでいた。

 白くきらめく虹彩こうさいと、亀裂のような竜の鋭い瞳孔。


「いやああああああっ!」


 女性の叫びは、そのまま少女のものだった。

 ただ少女はその叫びを秘めた。

 この先にあるのは耐えがたい痛みと、死にいたる苦痛だ。

 彼女は両腕で体をかき抱いた。

 それはすぐにやってきた。

 熱された金属の息吹、という常識では考えられない恐ろしいものが街路を飲み込み、すべてを焼き尽くす。

 バスを飲み込み、バスとぶつかった乗用車を飲み込み、逃げる人々にうしろから覆いかぶさる。

 熱を感じる。

 熱波が、触れてもいないのに彼女の全身を焼き焦がすのがわかった。

 強い恐怖が全てを悪夢にかえてしまう。

 全てが。

 まるで劇場みたいな恐れと熱。

 少女の足元にも迫る。


「…………!!!!」


 死が、体を焼いてる。

 焼く。


「痛いよっ!!」


 彼女は耐えきれずに声を上げた。

 激しい痛みに狂わないための、どうせ死んでしまうのに、むなしい防御反応だった。


「死にたくないよ! うあああああああああああああああっ!」


 でも、その意識がこと切れることはなかった。


 彼女を銀の奔流が覆い尽くすことはなかったのだ。

 何かが死を押しとどめている。


 少女の足元に、光り輝く女が立っていた。

 目映い金色の光の中に女の影だけがみえた。

 彼女は右腕を掲げているだけだったが、たったそれだけのことで息吹を防いでいる。


 少女は腹に抱いていた本が、彼女の全身と同じように熱波で焼かれているのに、一部分だけが焼け残って輝いているのに気がついた。


 竜はかぎづめのついた前脚を地面に立て、引き裂きながら猛りくるったかのように吠えていた。


 それだけで熱された風が路地に吹き荒れ、少女も吹き飛ばされそうになる。


「うふふ」と彼女は荒れ狂う暴風を浴びながら葉ずれのような音でわらった。


 竜が叫ぶ。今度は人の言葉だった。


《にくい、にくいぞあいりーん。われらのけんぞくをほふるだけほふったいせかいのまじょ。しんでなおあくまの書にやどり、いきながらえるあさましきたましい、ものがたりにとりつかれたバケモノよ》


 聖アイリーン。

 女王陛下とともに竜を倒した光輝の魔女。

 物語の存在だと思ってたけど、本当に助けに来てくれるなんて。

 でも、彼女は……目の前の女は、理想とする守護聖女とはどこか違っている。


「あら。わたしは別に、竜族と敵対するつもりはありません。あなた方が人間と敵対し続けて、そして人が国土防衛のために魔法を忘れないでいてくれれば、それだけでいいの」


《にくい、にんげんがにくい。そのむすめをよこせ、あいりーん!!!》


「お前はいい竜ですね、やはり竜は人間たちに良い試練を与えてくれる。物語は選択の連続なの。選択に耐えられたものだけが魔法の力を得る。さあ」


 魔女は少女に手を差し伸べる。


「哀れでかわいそうな娘よ。いまここで死ぬのか、それとも、私を選んで生き残る?」


 守ってくれているわけではないんだ……。

 少女はすぐに気がついた。

 この人は守ってくれているわけではない。

 この地獄を悪魔のように、ただ楽しんでいるだけ。

 理由はわからないが、ここで起きている地獄が彼女にとっては《楽しみ》なのだ。

 それでも。

 もう。

 お母さんはいない。あの青年もいない。

 自分を守れるのは自分だけ。

 体に刻みこまれた痛みは、彼女の手を理性から引きはがし、差し伸べられる指先へとゆっくりと持ち上げていった。




『彼女はパチパチと、火のぜる音で目覚めました。』


『自分がいつの間にか長椅子の上でうとうとと眠っており、燃えているのは暖炉の火だと気がつくのにそう大した時間はかかりませんでした。

 ですが、両の眼を見開いてみても、そこにあるのは見慣れた病院ではありません。

 そこはとても立派なお屋敷なのでした。

 出口を探して歩き回ってみると、使われていない部屋がいくつもありました。

 そして素晴らしい絵画や調度品の数々が目を楽しませてくれるのです。』


『彼女は歩いているうちにうきうきした気持ちになり、スキップをしながら中庭に出ました。

 お屋敷には窓のない部屋が多く、あってもカーテンで閉ざされていたので、彼女はてっきり外は夜なんだろうと勘違いしていたのですが、外は昼間の明るさでした。

 さんさんと日差しの降り注ぐ庭には池があり、そのほとりに美しい女性がたたずんでいます。

 彼女の髪はまっすぐでとても長く、アイリーンがいままで見たことのない色をしていました。

 彼女の髪や、瞳の色は天上の青空とそっくりな水色なのです。

 きっと間違いない、とアイリーンは思いました。

 彼女は魔法使いにちがいないわ。

 女性は、自分をそっと盗みみている少女を見つけると、にっこりとほほ笑みました。

 そこで、やっと、この女性が男性であることに気がついたのです。

 アイリーンは生まれてからずっと病院にいたので、髪の毛の長い人はみんな女の人だと思っていたのです。

 物語の出会いのすべてに意味があるように、この出会いもまた運命でした。

 彼は湖の名を持つ魔法使い。

 魔法の王国の大切な魔法書を守る家柄の生まれです。


「そんなところにいて寒くはないの?」


 魔法使いは少女を膝の上に抱き上げると、偉大な魔法の書によると、水は魔法の源になるのだと教えてくれました。

 幼い少女は魔法のお話が大好きなもの。

 アイリーンはあっという間に魔法の書の話のとりこになりましたし、この優しい青年のことがひと目で大好きになりました。』


 文書はとりとめのない雑多な物語の集合体だ。

 それでも大まかな筋立てはあり、何度も登場する人物がいる。

 この、魔法使いの青年はアイリーンとともに青海文書のいたるところに登場する、いわばメインキャラクター。

 この出会いのあと、王国は竜に襲われて青年は竜討伐のための旅に出る。

 旅に同伴するのはヒナガが言っていた《師なるオルドル》が育てあげた勇者だ。

 師なるオルドルの登場回数は少ないが、彼に関する間接的な記述はいくつか散見できる。

 ここまでが、アリスが翻訳したり、途中のページをかいつまんで理解した《青海文書》のあらましだった。

 昼時になり、アリスは研究室から出てきた。

 彼女の耳には、図書館の中のいろんなことが入ってくる。

 たとえば、警備員の青年――イネスが、ロッカールームでつけっぱなしにしてるラジオのこと。

 ニュースでは雄黄市に竜が攻め込み、壊滅して五年たつ。そのことばかりがくりかえされている。

 週末に執り行われる式典には王姫殿下が来賓として招かれるようだ。

 けれども、音はすれども警備員の姿はない。

 きょろきょろとあたりを見回すと、空中に何か黒いものが浮かんでいるのに気がついた。

 べったりと黒くて、丸い。ただ、あまりに黒いので、それは平面にみえた。

 アリスは指を伸ばし、それに触れた。


 その途端――ぱん、と音でもしそうな、まるで水風船がはじけるみたいに、無数の小さい粒になって、黒い円が空間に広がった。


 空気の中に溶けて大きく広がり、あたりは黒一色になる。


 そして、彼女の姿は闇のなかに飲み込まれた。

 そんなことがあったのだと、彼はまだ知らないだろう。

 知る由もない。

 師なるオルドルは。


 日長椿は。


 すべては、計画通りに進んでいるんだと。

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