10.5 リブラと紅華
明るい昼下がり。
丘の上では、針仕事をする老女と、野の花を摘んではそれらをより合わせ、簡単な細工ものをつくっている少女の姿がある。
穏やかな風がふく花咲く丘からは、村一帯が見渡せる。
畑を耕す農夫たちの姿や、その合間にある、
丘の下の道をおりていったところには、農家風だが塀の覆いもきちんとして堀にかこまれた二階建ての屋敷がみえる。
屋敷はこのあたり一帯の地主である子爵家の別荘で、彼らが不在のあいだ、建物や家畜の世話をするのが老女の仕事だった。
「ん~と、こうして、こうでしょ……ああくそっ、全然うまくできないなあ」
仕事の手をとめ、さきほど、野に咲く花をつみ何かつくっていた少女のほうをみる。
ワンピースをまとった少女は、燃えるように赤い瞳をして、髪は黒々として美しい。
だが、少々お転婆でいつも腕や足に傷をいくつもつけていたし、髪は短く、言葉づかいも荒いのだった。
そして年頃の娘らしい遊びにはほとんど目もくれず、まわりには屋敷から持ち出してきた医学書が山のように置かれて、散らばっている。
「ねえばあや、これ、何にみえる?」
「そうですねえ。草冠、でしょうか」
ばあや、と呼ばれた老婦人は、花がほとんど取れて落ち、茎がねじれて絡まっているだけの不格好な輪っかを見て、苦笑を浮かべる。
「やっぱり、そうだよな。こんなの、花冠には全然みえないもの」
少女は輪っかを放り出し、丘の上に寝そべった。
「ねえ、どうしてリブラは王宮からもどってこないの? お仕事はそんなにたいへんなの?」
「……若様には若様のご苦労があるのですよ、姫様」
やっぱり、そうだったか……とばあやはひとり納得した。
花輪作りはどちらかといえば女の子らしい遊びだが、このやんちゃな小さな姫君が好む遊びではない。
つい先ごろまで姫君の遊び相手を務めていた、若様……青年医師・リブラは、手先が器用でよく花冠をつくり、姫君に差し上げていたのだ。
王宮で医師として働くこととなったリブラからは時折、少女の身を心配している旨を記した手紙が届いた。
いくら先代侍医長の子とはいえ、権謀術数のうずまく王宮では息苦しい思いをしているようだった。先輩たちからいじめに近いしうちを受けていることも手紙に書かれていたが、少女には伝えないようかたく口止めをされていた。
そういう優しさは、なおさら王宮には不向きな性格に思えた。
「ですから姫様も、お寂しいとは思いますが、がまんなさらないと。医学書や花輪つくりもいいですが、女の子らしく裁縫や歌の勉強をなさってみては?」
「それはイヤ」
あまりにもはっきりと拒絶する。
立ち上がった少女の瞳は、どこか遠くを見つめているようだった。
「いまさら姫君らしいことを学んでも、私のこれからには役に立つまい。たとえ何があっても姉君が次期女王という事実はかわらぬ。女王の娘であることに価値がないならば、わたしくしはこれからの人生を一人で生きのびる術を学ばなければいけない」
あまりにも年齢不相応な言い分だった。
まだ子供らしい赤みを帯びた頬、小さな手、眼差しは、大人になろうと必死だった。
彼女は散らばった本をかき集めると、その腕に抱いた。
「先に屋敷に戻っている。ばあやはゆっくりと帰ってくるがいい。また足腰を痛めるといけないからな」
「御意に」
ばあやは深々と頭を下げる。
そして荷物を片付け、ゆっくりと彼女の後を追い、屋敷への道を下っていく。
小さな姫君は、本を両手に抱えて一生懸命に駆けていく。
やんちゃな姫君ではあるけれど、根は素直で優しい良い娘なのだ。
だからこそ、幼くして母を失い、それと同時に家族同然の人々を失っても、まっすぐに前を向こうとしている……そうした姿が、不憫でならない。
(若様は、なんとかはやく王宮からお戻り頂けないものかしら……)
医師として実力を認められ王宮に召し抱えられるというのは名誉ではあるものの、その両親の最後を思えば、幸せなことばかりとはとても思えない。
年若い姫君と青年医師のふたりの姿が、どうしても彼らの
せめて、少女の、少女らしい時間ができるかぎり長く続いてくれたなら……。
ささやかな願いと裏腹に、なぜか、この穏やかな生活はきっと長くは保つまいと感じさせるものが常にあった。
堀の上にかけられた小さな橋をとおり、裏口から屋敷にもどる。
医学書を書斎に片付けてきた少女がちょうど二階から降りてくるところだった。
「ばあや、馬の蹄の音がしたわ……」
馬は、主要な道路から外れたこのあたりの村々では今でも普通に使われている移動手段だった。
「おや、そうですかね」
「まちがいない。こっちに向かってきてる!」
そういわれてみれば、そんな気もする。
近ごろ歳のせいで耳が遠くなってきて、いけない。
「リブラが戻ってきたのかもしれない!」
少女は笑顔を輝かせ、玄関に向かって走りだす。
「こ、こら、お待ちなさい、紅華姫!」
リブラが帰ってきたのだとしたら、このあたりの領主の娘である彼の母に敬意をはらい、誰かが馬で迎えに行ったとしてもおかしくない。
しかし、リブラが帰ってきたという証拠はなく、来客が危険な人物かもわからないのだ……。
ばあやは必死にあとを追いかけた。
果たして、屋敷の表には確かにリブラが立っていた。
彼は正装をしており、首には赤いタイをつけている。
そしてもうひとりの管理人である老人と、思いつめた顔で話をしていた。
そのうしろには、馬と、馬車、そして、見慣れぬ男たちが控えている。
その光景を前にして、赤い瞳の少女は立ちつくしていた。
ばあやも気がつく。
馬具や、馬車に立てられた翡翠色の旗には、女王府からの遣いであることを示す王家の紋章が染め抜かれている。
そして男たちは、女王府の高官や武人である。
この時点で、聡明な少女には何が起きているのかが薄々わかっていたのかもしれない。
「お帰りなさい、リブラ……」
少女は、呆然とした表情で、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「どうして知らせもなく、突然かえってきたの? 驚いた。けど、久しぶりに会えてうれしいよ。医学書のことで教えてもらいたいことがたくさんあるし、あと……」
紡がれた紅華の言葉は、うしろにいくにしたがって、小さくなっていった。
「恐れながら、殿下……」
リブラは紅華の前に片膝を突き、左手を胸に当てる。
「つい今しがた、星条百合白姫が海府議会の議決の場において、失政をお認めになられました。先の大竜侵攻による雄黄市壊滅の責任をとり、王位継承権を放棄なさったのです。ただいまより……殿下は……」
しばらく、彼は二の句を継げないでいた。
「殿下は……王姫殿下となられます」
ばあやは息をのむ。
夕暮れに差し掛かり、それぞれの表情はオレンジ色の陽光に隠れてしまっている。
だが、リブラの声ははっきりと震えていた。
「王宮に戻るのか?」と、少女が問うた。
「はい」
「わたくしは女王にはなれないから……王宮から追い出され、母上の死に目にも会えず、それなのに突然必要になったから王宮にもどれと……?」
少女の声も辛い運命に震えていた。
「私がお守りいたします!」
少女の不安をかき消すように、リブラは声を張り上げた。
「いついかなるときも命令に従い、盾となり剣となりお守りすると誓います。この命は……王姫殿下のために……!」
少女は俯いた。
歯を食いしばり、こみあげるものを耐えている。
なんということだろう……。
なりゆきを見守っていた老婦人は言葉を失った。
この瞬間、次代の女王となった少女に、もはや自由はなくなった。
看護師になる夢をかなえることはないし、もう二度と丘や村を駆けまわって遊ぶこともない。
リブラは「命令に背かず」と忠誠を誓ったが、少女がもしそれらを……自由な人生を望んだところで、誰にも叶えられないのだ。
聡明な少女にはそれがよくわかっているはずだ。
王姫となった彼女には、少女の自由は無い。
ここから先は私を捨て、ただ国家のために、国民のために心身を費やす日々がはじまるのだ。
「……では、リブラ。わたくしはこれより王宮への帰り支度をしようと思う」
紅華は淡々とした口調で告げた。
「そのあいだ、わたくしを裏の丘に連れて行き、きれいな花冠を編みなさい。これは王姫として初めて下す命令と心得よ」
リブラはゆっくりとうなずいた。
少女の手を取り、裏庭に向かって歩き出す。
そんな子供時代の終わりを、ばあやは深々と頭を下げて見送ったのだった。
二人の歩む道に幸多からんことを。
そう祈らずにはいられなかった。
~~~~
「ひとつだけ聞きたいんだけど」
揺れる馬車の中で、日長椿は人差し指を立ててみせる。
日長の前には紅華と、新聞を広げているリブラが並んで座っている。
「二人って……付き合ってるの?」
この質問に、紅華もリブラも真顔のままだった。
リブラの、読書用眼鏡の奥の瞳が、若干歪んでいるだろうか。
「質問の意図がわかりませんので、なんでも恋愛に結び付けたがる精神的に未発達な若者独特の傾向という診断を下しておきますね。つまり思春期……」
「勝手に一番嫌そうなやつに分類するのやめてくれない? 人間関係を読み間違えると今後いろいろ困るだろうから、わざわざ確認を取ってるんだよ」
「心配することはありません。誰もが必ず通る発達過程であり、君は健康そのものですよ」
「心配してないし、医者顔するのやめろ」
隣では紅華が「うーん」と、真顔のままうなっていた。
「ないな」
実に端的な答えだった。
「たしかに、男子にくらべ外遊びより室内の遊びが推奨され蝶よ花よと世間から隔絶されがちで一般常識にすらうとい少女時代、優しくて外見だけはいい年上の男に惹かれる傾向にあるのは否めない……。だが、成長してそれなりに世間や社会を知り、理不尽なしうちを受けることにも慣れていくと、優しさが必ずしも自分を守ってくれるわけではないことを知ってしまい、優しさはえてして優しいだけの男、と否定的に捉えられがちだし事実その通りだな」
「思ったより生々しいし、なにげに全否定しててかわいそうなんだけど……」
「そういう心配をするなら姉君のほうを心配したほうがいいぞ」
日長椿の頭の中に、天使のように清らかな姿が思い浮かぶ。
生まれてこのかた汚れを知らぬような、愛らしい少女を。
その隣にくっついている余計な騎士の姿が続いて思い浮かんだが、頭部を毎秒十回の高速で振ることで、その姿を無理やりかき消した。
「あんなきれいでかわいい人に、悪い虫がつくはずがない! そう、彼女は純粋で清らかで、何も知らない聖女なんだ!」
豪語する日長を、リブラと紅華は遠巻きにしていた。
「なんだあれ。ちょっと気持ち悪いぞ」
「重度の思春期ですね。別名もありますが、下品なので私の口からは申し上げられません」
馬車は、貴族たちの領域である天市と、海市を隔てる門の前に到着した。
リブラの屋敷で血を吐いて倒れた日長が、こうして元気に、しかも紅華といっしょに馬車に揺られているのかというと……それはこれからの話である。
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