8 師なるオルドル
ごほっ。
げほごほっ。
リブラが苦しそうに
初日とは立場が逆転だ。
だが、僕もまた、背中越しに苦しそうな咳を聞きながら、自分の真上に振り下ろされる断頭台の刃を見つめているのだった。
それを振るうのは真昼の月あかりのような美しさを
彼の剣は、僕ごとリブラを両断しようとしている。
灰色の瞳に、殺人への迷いなんて無い。
こいつに暴力をふるうことにためらいなんてない。
荒れ狂う暴風が、嵐が、吹き飛ばした家や家畜に謝ったりしないみたいに、強いものは生きて息をしているだけで平等で、残酷だ。
僕が物語の主人公だったら……。
きっとこんな状況、凄い力で
でも僕は死ぬ。
何でもない、普通の人間だから。
このどことも知れない場所で、切り裂かれて死ぬ。
恐怖が、僕のまぶたを重く閉ざした。
暗闇の中、リブラの
これって……あのときみたいだな。
究極の現実逃避だと知りつつ、僕の記憶は過去へとむかう。
走馬灯ってやつかも。
小学生の、まだ低学年だったころ。
風邪をひくと、たいてい喉からくるんだけどそういう朝はいつも咳をこらえて布団の中でじっとしていた。
仕事に出かける母親に気がつかれないように。
やがて誰もいなくなった部屋に、咳の音だけが響いてるんだ……。
そして……。
いつまでたっても《その時》がこないことに、僕は気がついた。
額の上で、天藍の剣は止まっていた。
彼はそのまま振り下ろすことを
やけに下半身が冷たい。
もしかして、もらしたのか……!?
慌てて下を向くと、それは大きな勘違いだと気がついた。
膝の上には、例の《本》がある。
そして、閉じられたページから、こんこんと水が溢れだしていた。
ひどく透き通った水だ。
水は地面にしみこんでいくが、吸い込みきれなかった水が膝頭を一センチほど濡らすくらいの量になっていった。
まるで、湖みたいに。
「…………」
「……」
「………………」
「……」
耳をすますと、本からひそひそ声がきこえてきた。
「むかしむかし……」という声が。
「昔々……」
「ムカシムカシ……」
「昔々昔々……」
ちいさなこどもたちが、ひそひそ話をするみたいだった。
昔々……。
「ここは」と僕は続けて言った。
なにかに操られているみたいに、止めることはできなかった。
嫌な予感の、それもものすごく大きなやつが、背中にのしかかってくるのを感じた。
でも、止められない。
「ここは、偉大な魔法の国……」
次の瞬間、しっかりと閉じていた本の表紙が、激しい閃光とともに開いた。
*
一瞬だったけれど、僕は、現実とは違う夢を見ていた。
そこは僕の部屋で……。
ただし、小学生のときの部屋だ……。
学習机のそばに野球のグローブとバットが置いてあった。
あとボールも。
誰もいない部屋で風邪を引いて寝込んでいる。
誰かが優しく僕の額を撫でていた。
「いい子ね……いい子ね、ツバキ。かわいそうに。とってもつらかったのね」
それは金色に光り輝く女だった。
あまりにも
「誰……?」
僕は目を細めながら訊ねる。
その声が、やけに高い。
声変わりのしていない少年みたいなんだ。
「わたしはアイリーン。あなたに物語を読んであげましょう……」
彼女はそう言う。
そして、物語がはじまる。
とても、とても長い物語が……。
*
それからの出来事は、どこか映画でもみているような、現実感のないしろものだった。
僕は気がつくと、放心したように目を見開いて空を見上げていた。
「《魔法使いの王が住む都に、銀の森がありました……》」
同じように放心しきった唇が、物語を紡ぐ。
「《その森の木々は、すべて銀でできています……》」
言葉を
物語に
大地が割れ、そこから銀色に輝く太い枝が突き出してくる。
あっという間に、王宮の庭は見渡すかぎり醜悪な銀色の枝や葉で支配され、埋め尽くされていった。
天藍が刃を振り下ろす。
その刃を
天藍は刃を力任せに押し込むが、何重にも重なった枝はそれ以上の侵入を許さない。
「さあ」と僕は言う。「これから先、立っていたほうが勝ちだ、
口元が笑みをつくるのがわかった。
それは、僕であって僕じゃない。
天藍は結晶の羽を生やし、すぐに、空中に飛び
その右足に、伸びた
咄嗟に騎士は《
白色に硬化した茨を紙のように叩き折り、地面から延びる枝の上に降り立つ。
次々に襲う枝をブレスと剣とで切り払いながら、一陣の風となって枝の上を駆けて来る。
「いざ勝負っ!」と天藍が吠えた。
その剣がこちらに突き出される。
白い剣は僕の肩口を貫いた。
先端が皮膚を破り、肉を食らい、骨を折った。
だが、僕の体は地面に着いていない。
全身を銀の枝が支えて姿勢を保持していたのだ。
「これで僕の勝ちだ」
背後から枝が伸びて、天藍を吹き飛ばす。
攻撃は結晶によって防がれたものの、体は地面に叩きつけられた。
「はぁっ…………!」
僕は、こらえていた息を
斬りつけられた部分に激しい痛みを感じる。
傷口が熱い。
流れ出る血が。
「これは……」
傷口を押さえながら、
そっと指を伸ばし、銀の枝に触ってみた。
冷たく、確かに存在していた。
これは、僕がやったことだ。
僕なんだ。
僕の手には何かが握られていた。
本ではない。
五十センチほどの、短めの金色の杖だった。
先端に丸い輪があり、金の
鎖の先にぶら下がった青い宝石でできた小さな本が、光に反射してきらきら輝いていた。
「おめでとう。これで、殺されずに済んだな」
目の前に紅華が立っていた。
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