翡翠の王国

2 紅の王姫


 優しい夢をみてた気がする。


 そこはどこか白くてふわふわな雲の上みたいなところで、とても優しい手が額を撫でてくれていた。お母さん……実際の、僕の母親はそんな優しさは持ち合わせていないけれど、まあ一般的概念での《母親》みたいな印象だ。


 もうだいじょうぶよ。


 そんな声がきこえたような気もする。

 そして目がさめると、僕はベッドの上に寝かされていた。

 すばらしくすべすべで、清潔で、真っ白なシーツの上だ。

 ベッドもただものではない。

 大人がふたり寝ても余裕のキングサイズ、まわりには薄い桃色の紗幕しゃまくがかかっている。いわゆる天蓋つきベッド、というやつだ。

 それに、とてつもなく気分がいい。

 胸をナイフで刺されたことは、きっと夢だったにちがいないって思えるほど。

 それにしても、こんな気持ちのいいベッドに寝そべるなんて、人生初の体験だ。

 もしかして、ここって天国なのかな……?


「ここはどっ…………」


 瞬間、目の前に白い火花が散った。

 どこだろう、と口にしかけた僕は聞くにたえない苦悶くもんのうめき声をあげ、寝台のうえをのたうちまわるはめになった。

 左胸にすさまじい痛みがある。


「う、ううううう~~~!」


 我ながら、どこからこんな声が出てくるのか意味不明だ。

 でも痛いもんは痛い。

 目じりから涙をこぼし……自分の胸を見下ろすと、制服の白シャツは血染めになっていて、今まさにそこから血が流れ出している真っ最中だった。


「なにっ、なんなんだ!? 助かったんじゃ、もしくは死んだんじゃなかったのかよっ」


 体を二つ折りにして苦しんでいると、何か、なめらかな感触が僕の頬を撫でた。

 むせるようなバラの香りがするのにも気が付いた。

 人がそばにいるのだ。


(神様!!)


 誰でもいい、助けてくれ。

 この苦しみから解放してくれ。改めて死んだっていいから。

 必死に祈りながらまぶたをあける。

 そこには、鮮烈すぎる赤と白のコントラストがあった。


「おはようねぼすけさん。これ以上寝てると出血死するぞ」


 優しいんだか、残酷なんだかわからないせりふが赤い唇から吐きこぼれる。

 僕は、そこでやっと、女の子が……それも、真っ赤なドレスを着た女の子が隣に寝そべっているのに気がついた。

 唇の赤、ドレスの赤、黒猫みたいないたずらっぽい瞳も、真っ赤だった。

 短い髪だけが、黒だ。


 容姿は……すごく美人だ。

 テレビにでているタレントなんて目じゃない。バラエティ番組よりは、世界のトップモデルが集まるようなファッションショーのランウェイがふさわしい。

 ただし、僕よりも若いはずだ。

 あどけなさの残る顔立ちは、十四歳とか、十五歳とかではないかな……たぶん。


 彼女は僕から約十五センチの距離にいる。

 薔薇の香りのする吐息が頬にふりかかる。


 こんな状況でなくて、僕が冷静で、もっとリラックスしていられれば、幸運だと思ったかもしれない。


「陛下っ! 離れてください! 危険だと申し上げたばかりですよっ」


 慌てた男の声がして、ピンク色のカーテンを割ってこちらを覗き込む。

 限界まで不快そうにしかめっ面で。


 ヘイカ…………。


 ……陛下?


「いいだろう。長いつき合いになるかもしれん。わたくしの顔をよく覚えておいてほしいのだ」

「よくありません。しかも、女王陛下とあろうものが、人前でそんなはしたない恰好かっこうをなさるものではありません!」


 はしたない。なにが?

 僕の視線はなんとなく――足下の方向にに降りていく。

 彼女の着ている真紅のドレスは、胸元が大きくはだけていた。

 そして、彼女は少女ではあるが……その、なんというか、華奢であって豊満ではない……が、痩せているということは、要するに布地に余裕が生まれるということでもあり…………そこまでだ。

 これでも死にかけているので、あまり余裕はない。

 僕は必死に視線を頭のほうに戻した。


「女王?」と、訊ねる。


 彼女はベッドの上に体を起こす。

 しなやかな猫みたいな仕種はなんともいえない色気があって、大人びている、というより、子ども離れしてる。


「即位の儀式が済むまでは、まだ女王ではない。わたくしは翡翠女王国の王姫おうき紅水紅華こうずいべにか。敬意をもって呼ぶときは、王姫殿下と呼ぶがいい」


 ヒスイジョオウコク。

 ジョオウ、ソクイ、デンカ、ヒメ。


 耳から入ってきた様々な単語が、脳内で変換されないまま、漂っている。


「ここは……どこなんだ?」


 少なくとも日本は王政ではない。

 そして、そんな国の名前など知らない。

 地図帳にだって載っていないだろう。

 彼女はとまどっている僕に微笑んでみせた。

 その微笑は、どちらかというと、肉食動物が獲物を前に舌舐めずりをしているようにみえた。

 彼女の、ピンヒール以外なにも身に着けていない脚が――なんと、太もも近くまで大胆に入ったスカートのスリットからするりと抜け出して、苦しむ僕の脚を蹴りつける。


「ううッ!!」


 僕はベッドを転がり、天を仰いだ。

 うれしい? とんでもない。地獄の苦しみだ。


「貴様、陛下の御身体に触れるとは、無礼だぞ!」


 すっかり忘れていたが、第二の登場人物である若い男……背が高くて洋画に出てきそうなハンサム、鳶色とびいろの髪にブルー・アイズの二十代男性がそう言った。


「僕が触られたんだよ、節穴…………!! お前ら、こんなところに連れてきて、俺をいったいどうする気だっ」


 もしかしたら、こいつらのどちらかが俺の胸にナイフを刺したやつかもしれない、という想像が頭によぎる。


 これって、ひょっとするとかなりヤバイ状況なのか?


 紅華は、丁寧な口調で答えた。


「勘違いしてるみたいだな。あなたを連れてきたのではなく、あなたが、この世界にやって来たのだ。異世界ってやつにな」

「は?」


 異世界って、あの《異世界》だろうか。

 最近流行りのケータイ小説みたいになってきたな。

 テンプレ通りに、信じられないのも無理はない、とか言い出すのかな。


「信じられないのも無理はない」


 そら来た。

 さあ、次は、僕の信用を勝ち取るために、何かするに違いないぞ。


「リブラ!」


 彼女は……王姫だか、紅華だかは、パチンと指を鳴らした。

 とてもいい音だった。


「もう、仕方ありませんね。《杖》!」


 ぶつくさと言いながら、リブラは、右手を頭上に掲げる。

 すると、指先がきらりと光り、その手に杖が握られていた。

 杖、というには妙な形だ。

 銀白色の棒の上に、水晶で飾られた天秤のようなものがくっついている。


「あいかわらず色気のない呪文だな……」

「医療魔術に色気があってたまるものですか。《術式開始オペラシオン》」


 リブラは彼女の溜息を無視し、杖を持った手とは反対の手を僕の胸に伸ばした……と思った次の刹那。

 ぐじゅり、と音を立てて指を傷口に、勢いよく突っ込んだ。


「くっ……あッ!! …………あ? あれっ?」


 その指が引き抜かれる。

 傷口は薄く銀色の燐光をほとばしらせていた。

 星みたいな光は、やがて小さくなり……ウソみたいに、胸の刺し傷は消えた。

 痛みが全くない。

 心なしか、気分もいい。


「リブラは我が国でも有数の医療魔術の使い手なのだ。これで信じてもらえたかしらね」


「すごい……」と呟くと、リブラはフフン、とばかりに前髪をかきあげた。


 展開通りにしても、実際に体験するとやはり感動が違う。

 確かに傷口を一瞬で治すなど、魔法以外ではできないだろう。異世界だのという言葉にも信憑性が増す。

 にしても、このリブラっていうやつ、ちょっとちょろいな。


「貴方の世界のことは少しだけ知っている。あの世界には魔法は存在しないはずだから、これで信じてもらえたと思う。まあ、たとえ信じなくても協力はしてもらうがな」


 ますます、異世界転生ものの小説みたいになってきた。単純な善意から、人助けをしたわけではない……というのも、次の展開への軽い伏線ふくせんにちがいない。


「目的とは、なんですか?」


 僕を魔王を倒す勇者にするつもりかもしれないし、もしかしたら異世界の婿候補にするつもりかもしれない。いずれにしろ目の前の彼女がヒロイン、という可能性がかなり高いが、そのあたりはどうなんだろう。美少女には間違いないが……。

 彼女は僕の瞳を見据え、告げた。


「目的はひとつ。君を女王府立魔術学院の、教師にすることだ」


 教師。


「……えーっと? 今、なんて」

「だから、魔法学院の教師になってくださいって言ったのだ」


 教師。あれ、聞き間違いじゃなかった。


「するとその……算数とかのですかね?」


 国語でもよかったのだが、まあ、数学と言わなかった時点で察してほしい。

 僕の成績は至極平凡か、平均より下だ。

 親戚のこども相手の家庭教師ですら、ためらうレベルだ。


「いや、算術は専門の講師がそろっている。だいたい女王府立学院は全国でも指折りの秀才が集う高等教育機関だ。どうみても十五、六の小僧に勤まるはずもなかろう」

「なんでいきなり常識的なんだよ……」


 紅華はあたりまえだろ、みたいな顔をしている。


「もちろん、魔法のだ。君は魔法を教える先生になってもらう」

「いやいや、僕は魔法なんて使えないですし……魔法って、さっき、ケガを治療したやつみたいなのだろ? あんなことができるなら、さっさと自分で治してるよ」

「あれは正確には魔術なのだが。……まあいい」


 彼女は、にっこりとほほ笑んだ。

 背筋にぞくりと冷たいものがよぎった。

 なぜだろう。彼女の笑みは、笑っているのに、とても怖いのだ。


「できるかできないかの問題ではない。できなければ困るんだ、わかるか? 君、名前は……」

「日長……日長、椿です」

「ツバキ。いい名前だ」


 彼女が右手を挙げる。

 隣で、リブラが物も言わずに、天秤の杖を振った。

 そして、僕は、また血を吐いた。

 シーツの上に、真っ赤な花が咲く。


「………………ッ!!!?」


 さっき、魔法で治癒した傷口から、また血がにじみだす。


「致命的に察しが悪いねようですね」とリブラ。「どうしてあんなに長い間、血を流し続けて平気だったのかまったく理解していないらしい。普通なら痛みだけでショック死していたところだよ」


 つまり、と、甘いマスクのまま、残酷なセリフが付け足される。


「君はかろうじて生かされていたんだ、私の魔術に。その出血は、私の意志でしか止まらない」

「な、なんで…………」

「もちろん、第十四代翡翠女王となられる御方に害を与えさせないため……そして、君に我々の要求を呑ませるためだ」


 血を失いすぎたせいか、体は冷たくて、とても重い。

 確かに、これでは何もできないだろう。

 抵抗も、拒否も。


「いいか? よくお聞き」


 彼女はベッドの上に四つん這いになり、あやしく僕のあごに指を這わせた。


「わたくしがお前を連れてきたのはこの世界を救うためでもないし、魔王退治みたいなのはまあやってくれればいいなあとは思ったが、べつに期待はしてないし、反対に魔王になって国土を害そうなどとすれば殺さないといけないと思っているし、ましてや、私の婿になって世界の半分をあげましょうとかも言ったりしない」


 こっちの若者文化にやけに詳しいな……。

 要約すると、僕の知ってる異世界転生ファンタジーものとはなにかがちがう。

 この女は、どうやらヒロインじゃないらしい。


「ゆめゆめ忘れるな。私はお前の《運命の女》だ。それ以上でも、以下でもない」


 男を手玉にとって、やがて破滅に導く《運命の女》……ぴったりだ。言うことをきかないと、心臓にしかけた《魔法》とやらで殺すっていうんだから。

 残虐で融通がきかない《運命》そのものだ。

 しかも極めてサディスティックな。

 その後、彼女はリブラに再び傷を治させた。

 でも、今度は、体の重さはそのままだった。極度の貧血って感じ。

 彼女は力なく横たわる僕を置いて部屋を出ていく間際、こう言った。


「そうそう……お前は、魔法が使えないといっていたが、それはちがう。お前は魔法を使えるよ」


 誰よりも《可能性》を秘めた魔法がね、と。

 その言葉について考えるより、先に、眠気がやってきた。

 目が覚めたら……いったいどうなってるんだろう。

 あまり、わかりたくなかった。


 朝目覚めたら、いつもの朝になれと必死に祈った。


 掃除洗濯が山積みで、薄っぺらな人間関係しかない学校に通い、母親の仕事の愚痴ばかり聞く、いつもの日常……。


 かつて、自分には未来がないと思ってた。

 いつか母親みたいに、愚痴ばかりの大人になるだろうって。


 でも今は、明日の自分もわからない。

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