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 机の上にうず高く積まれて行く書類を眺めながら、僕こと日長椿、学院の新米教官にして社会人経験の何ひとつない、別名ただのクソガキはただ茫然ぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。


「こちら雇用に関する契約書類です、署名と捺印なついんをそれぞれよろしくお願いします。それから年間の授業計画表を早急に提出してください……早速、一週間以内に。それ以上は待てません」


 メガネをかけた小柄な事務官がひとつひとつ説明をして、いちいち最後に冷たい目つきで僕を見る。

 魔法学院の教官は国民の尊敬と信頼を一身に受ける重要な職業だが、彼らにとっては事務スキルの無い者は何人たりともゴミクズ以下なのだ……と如実にょじつに語っている。目が。

 授業計画表とか言われても、授業なんて何をすればいいのかすらわからない。

 だけど一週間以内に提出できなければ、殺されるかもしれないと割と本気でそう思えるほど、みがき抜かれたメガネの輝きが鋭利だ。


「それと、こちら……」


 残りのスペースに最後の書類が滑りこむ。


「ウファーリ・ウラルが破壊した校舎の賠償額概算になります」

「げえっ……」


 額を日本円に換算するまでもなく、凄まじい金額が書かれている。

 これだけあれば、十分に高級車が買える。

 雇用契約書類なんてどうでもいい。

 これが、彼女たちが僕を早朝から呼び出した大いなる理由だった。


「うそだろ、マスター・カガチと折半せっぱんしてこれかよ……!」

「旧校舎は歴史的に重要な文化財扱いですから。なお給与と前倒し分を全ててたとしても、灰簾かいれん理事が設定した返済期限には間に合いません。資金の調達が必要です」


 振り返ると、さっきまでそばにいたウファーリの姿が消えている。

 慌てて追いかけると「ちょっと用事が!」と言って出口から消えていく赤い髪の毛の先がみえた。

 そっと、足音を立てず海音を使って抜け出したんだろう。


 これだから友情は信頼がおけない……!


「……残りの額ってどれくらい?」


 事務官が平然と提示した額に、さらに頭を抱える。

 意外と給料が安いことを恨んでも仕方ない。

 幸いにして飢えることはなく、住む場所を追われることもないが……灰簾理事が僕を敵対視している限り、支払いを遅らせるという選択肢はなさそうだ。


『手伝ってあげてもいいヨ?』


 オルドルの金貨は、あまり使いたくない……。

 甘いと言われるかもしれないけれど、これは僕のけじめだから、魔法に頼りたくない。

 それに、医療魔術による治療費がかなり高額だという現実的な問題もある。

 何か手を考えなくちゃ。

 できれば僕が一生思いつか無さそうな、上手い手を。

 椅子に座って項垂うなだれた僕に、事務官は淡々と連絡事項を告げる。


「それから……まあ、これは関係ありませんが、一応……校内戦のお知らせです」

「校内戦?」


 分厚い冊子を手渡された。

 冊子というか、装丁のちゃんとした古めかしい本、みたいだ。

 びろうどの貼られた表紙を開くと、見たこともないみみずののたくった文字が並んでいた。


『……古語こご、みたいだネ』

「一年に一度、各教室対抗で模擬戦闘を行うんです。厳密には戦闘だけではないんですが……もっとも、ここ数年は開催されてません。竜鱗学科の独壇場どくだんじょうですからね」

「ああ、なるほどね……」


 僕の教室には在籍する生徒がいない。

 教室対抗なら出る幕はないし、それにマスター・カガチと彼が率いる竜鱗魔術師どもと真っ向からやりあうなんて自殺行為どころじゃない。

 破滅主義者かド変態のマゾヒスト、あるいはその両方だ。


「まあ、他の教室の先生方にとっては……名誉のほうが大事なのでしょう」


 彼女が言葉を濁した部分には《マスター・カガチにボロ負けして、醜態しゅうたいを晒すよりは》と入るのだろう。

 だけど、実際のところ、醜態を晒すだけで済んだら上等だ。

 その戦いには、命を持って帰るという難事業が待ち構えている。


「ま、僕も命がしくないわけじゃない……これは見なかったことにしよう……」

「それじゃ、午後から中庭で新任の挨拶がありますので準備なさってください」

「挨拶って、もうやったじゃん……」


 そう言うと睨まれた。

 あのときはウファーリの妨害に遭い、めちゃくちゃになってしまった。

 だからとりあえず簡単な挨拶をしておいて、体裁を整えよう、ということらしい。

 大人たちの考えはよくわからないが、もう決定事項らしい。

 事務官はとりあえず伝えるべきことは伝えたので、もう用はない、といった顔だ。

 たった一つ手元に残った校内戦の開催要綱を見つめて溜息を吐く。


「ああ、今年も開かれないなんて、残念ですね。毎年の優勝賞金がプールされて、相当な額になっていっているんですけどね……」


 独り言のような世間話をひとつして控室を出ようとする事務官の方を、僕の手がガッチリとつかんだ。


「ごめん、その話もっと詳しく聞かせてくれる?」


 脅えた彼女の瞳には、金の亡者と化した必死過ぎる僕の形相がうつっていた。

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