123 いつかきっと

 大気に混じっていた分厚い竜の魔力の層はあとかたもなく消えてしまった。

 往来を行く通勤中の人々の表情からも緊張が取れた。

 それ自体は喜ばしい出来事なんだけど、目立つ制服を着ているからか、ときどき帽子を脱いで会釈する大人がいることだけが僕の頭痛の種だった。


「えーと、《車》かな……?」


 相変わらず言語とは思えない文字列を、なんとか判読する。

 すかさずオルドルの声が聞こえてきた。


『鳥だネ』


 健康的に欠伸あくびをかみ殺しつつ朝日を浴びながら固い石畳の上を革靴で叩き、旅行雑誌でしか見たことのないような欧州風の街並を単語帳をめくって歩く……しかも教師として、毎朝、職場に出勤するために……。

 こんな日が来るなんて思ってもみなかった。

 普通は想定しなくていい事態だと思うけど。


「次は……パン」

『鉛筆』

「……窓」

『ドア』

「……箸」

『橋』


 即席の単語帳をめくる手を止め、さっきから正確な回答を出し続ける水筒を睨む。


「……なんで毎日こつこつ勉強してる僕よりお前が詳しくなってるんだよ……」


 秘密の単語帳には、女王国の言葉と日本語訳が書かれているが、オルドルのおかげで日本語訳は必要ない。こいつは物語中の存在でしかないはずだが、アリスさんの授業を受けるまでもなく、立ちどころに言葉や文法を覚えてしまった。

 しかも酷くもの覚えがよくて、一回耳にしたことは二度と忘れない。


『あれれ、ようやくボクの天才性に気がついてくれたのかナ? 今でこそロートルだけど魔術師っていうのは古今東西の学問にけたインテリジェンスの塊なの。エリートなの。そもそもキミとは頭の出来が違うんだヨ』


 僕は無言で水筒の中身をぶちまけようとした。

 わざとらしい咳払いが聞こえてくる。


『マア――冗談はこれくらいにして』

「……冗談じゃなかっただろ」

『それよりおかしくな~い? 文字がこれだけ違うのに、会話だけは通じるの……しかも、パンとかドアとか英語まで通じてるし~』


 かなり誤魔化そうとしているのがバレバレではあるが、言われてみれば思い当たる節がないこともない。


『ぜったい、あのクソ大宰相が何かしたんだと思うんだよね』


 クソ大宰相、という響きは気に入った。


「クソ……いや、ウヤクが? 何のために?」

『情報の入手先を制限して、自分の計画に乗せやすくするため……とあとは、青海文書をこれ以上読ませないため、カナ?』

「あの野郎……次に会ったら覚えてろよ……」


 僕は元の世界には戻らず、仮の身分のまましばらく学院に残ることに決めた。

 母さんのことは、当然、心の隅に引っかかったままで割り切れもしない。

 僕はより良くなりたいと願う普通の人間であると同時に、自分の望みのためになら人を食らうバケモノにもなれる。優しくはなりきれない。正しくもなりきれない。他者を傷つけずにもいられない……愚かな人間だからこそ、オルドルと共感し続けていられる。

 それが僕だ。

 そしてそれは、ある意味百合白さんと同じだ。

 かつて彼女がしたことについては、誰にも何も話していない。

 危険すぎて誰にでも聞かせられる話ではないし、聞かせたところで何かが変わるわけでもない。

 黒曜ウヤクが気づいている素振りをみせながら、彼女を自由にしているのがいい証拠だ。

 星条百合白は王位継承権を奪われてもクーデターを扇動できる程度には影響力が高く、そして紅水紅華の体勢はもろすぎる。

 彼女が竜たちから天藍の安全を《買った》だけで満足すればいいが、きっと《何か》が起きる……そんな予感が燻っている。


 いつか……。


 僕は青空を見上げた。

 光が眩しく、右手を掲げて遮る。

 何気なくその掌を返せば、それは飛ぶ鳥に似ていた。


 いつかきっとまた、この空を竜が舞う日が来る。


 たとえ百合白がそれ以上を望まなくても、紅華が女王として即位したとしても、竜族が女王国の人々に向ける敵意は本物だ。

 今回は準長老級が相手で、能力の質と相性の問題でなんとか切り抜けられた。

 でも長老級が相手だったなら、僕と天藍が払った犠牲はこんなものでは済まなかった。

 また、マリヤのように悲しく切ない思いをする人たちが出るのかもしれない。

 憎悪に身を焼き焦がすのかもしれない。

 次は女王国の白い竜が飛ぶはずだ。そうなったら百合白さんはどんなことをしてでも止めようとするだろう……どんな犠牲を支払ってでも。

 何万人、何十万人殺してでも、それが目的のために必要ならば彼女はやる。

 そのために青海文書という《力》を望んだのだから。

 その日のことを考えるだけで、重たい感情が胸に蓋をする。

 息苦しさを感じる。


 だけど、。ここで待つ。そう決めたんだ。


 誰も選択する前には戻れない。そう知っていての決断だ。


「ヒ~~~ナ~~~ガ~~~せ~~~ん、せッ!」


 苦しみに胸が飲まれる寸前に、明るい女の子の声が聞こえた。

 僕は後ろを振り返らず、無言で魔法を発動し地面を蹴る。

 元いたところに鋼鉄の刃が突き刺さり、逆さまになった風景に迫る二つの刃がある。

 ただ僕は天藍やカガチみたいに弾いたり受け止めたりできないので、ただひたすら死にもの狂いで避けるしかない。

 目標を失った刃が石畳を割り削いで飛んでいく。


「ウファーリ!! 学院の外でやるのやめろって言っただろ!」


 本人がどこにいるのかがわからないが、とりあえず足は止めない。

 止まった瞬間に狙いを定められ、致命傷を食らうと学んだからだ。

 とりあえずゴミ箱の裏手に隠れる。

 魔法学院の暴れん坊娘、ウファーリ・ウラルは灰簾理事との話し合いで退学処分を保留し、半年後の会議で再審査することになった。

 つまり首の皮一枚で繋がっている状態で、学院の生徒として残されたのだ。

 僕の生命の値段としては安すぎる……が、一度決定されたものを前例もなくひっくり返しただけ奇跡なのだと説明された。

 それを柄にもなくありがたく思ったのか何なのか、彼女は近頃、毎朝迎えにきてはこうして死角からの攻撃を繰り広げている。

 はたから見れば全く意味がわからないと思う。僕にも理解不能だ。

 ただ彼女の攻撃を退けることに専念していれば余計なことを考えなくてもいい……というのは紛れもない事実でもあった。

 ゴミ箱の側面に、手裏剣が回り込んで突き立つ。

 攻撃の方向を限定させようとしても、できないところが彼女の海音の厄介なところだ。

 路地に走りだしたところで、僕はウファーリと正面衝突することになった。


「ふあっ……!?」


 衝突……というか、ウファーリはその行動を予測してたらしく、待ち構えていた格好だ。両腕でぎゅっと抱きすくめられ、みっともなく受け止められて二人とも石畳に投げ出される。

 野次馬たちの視線がすごく痛いが、あまり深くは考えないことにした。

 僕の顔面は柔らかくて弾力があってそれでいて柔らかい二つの物体の間に挟まれたままだった。


『ちょっとちょっと、ツバキ~~~』


 精神的な衝撃で魔法の構成が崩れ、散り散りになっていく。

 ふわふわでとても集中できそうもない。


「ママがね、年頃の男の子ならみんなこれでイチコロだって! あたしの勝ち」


 やっと解放され、最初に飛び込んできたのは笑顔ではなくシャツを限界まで開けて露わになったこの年頃の男の子には残虐すぎる殺戮凶器……年の割に豊かな胸の谷……やめよう。これ以上考えると僕の思考力がぐんと下がって再起不能になりそうだ。

 にしても、最初っから派手目な少女ではあったが……不思議と制服はちゃんと着ていたはずなんだが……。


「服」と僕は端的に伝えた。


 だめだ、さっそく語彙力が失われてる。


「ああ、これ? マスター・カガチとの勝負も無しになっちゃったし、いいかなあと思って」

「よ…………よくありません! 絶対によくない!」


 これ以上素行不良が続けば半年後の再審査に響くし、目のやり場に困る。


「そうかな? その割にさっきよりましな顔になってるぜ」


 ウファーリは人さし指で鼻の頭を軽く小突いた。

 意表を突かれる、というのはこのことを言うのだろう。


「心配はしてるけど、自分から言い出すまで聞かないからな」


 ウファーリはそう宣言してから強い力で僕の体を引っ張りあげる。


「……さ、行こうよ。ヒナガ先生!」


 金色の瞳はまっすぐに僕を見据えている。

 怯えでもないし、僕を過剰に見積もってるわけでもない。

 そこにいるのは英雄でも悪魔でもなく、そのどちらでもある等身大の僕だ。

 彼女の信頼が、立ち竦んだ僕の足を再び動かしてくれる。


「うん……」


 もしもこの女王国が再び竜の災禍に塗れることがあったなら、僕も、もう一度、戦いたい。

 彼女や……彼女たち、彼らのために。

 戦わなければ手に入らないもののために。

 不完全すぎる僕の背中を押してくれる人たちをせめて、守れるように。

 そしてまだ遠く感じられる未来で、もしも十分な償いができる日が来たら……そうしたら、帰ろう。


 帰って、謝ろう。


 母さん、助けられなくてごめん。

 優しくなれなくてごめん。

 逃げてしまって、ごめんなさい。


 広げた掌をぎゅっと、拳に握りしめる。


 その袖のところで、タイミング良くカフスの石が光った。


「あれ……呼び出しだ。しかも、これ……学院からだ」


 その瞬間、超ド級のいやな予感が過った。

 銀華竜と戦ったときなんかじゃ目じゃないような……。

 僕は学院への道を、できる限り速く、歩きはじめた。

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