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「僕は……」


 命令に背かず、剣となり盾となりその身を守り、常に弱き者のため正義のために戦うと誓う……。

 竜との戦いを経験した後では、その果てしない重さを感じる。

 言葉の上では正しくても、人はその通りには行動できない。

 血を吐くほどの誓いであったとしても、人の精神は、そして肉体は、その痛みに耐えきれない。現実の重さに勇気が挫け、目の前の残酷さから目を背けてしまうだろう。


「ツバキ、偽の誓約ではあるが、これだけは伝えておく。わたくしは……本当はひとりの力で戦いたい」


 手順通り、剣で僕の両肩を叩きながら、彼女は囁いた。


「黒曜のように都合よく誰かを利用したりせず、命もないがしろにしたくないのだ」

「そんなことできるはずないよ」


 彼女のそれは究極の理想論だ。

 銀華竜と対峙してわかった。人間ひとりの力はあまりにもちっぽけで、それがわかっているからこそ黒曜も百合白さんも力を求め、力を使い、他者を利用した。命を踏み躙った。

 そうしても、欲しいものは何一つ手に入らなかったのだ。


「それでもあきらめない。たったひとりでも戦う」


 そう言った紅華は輝いていた。

 彼女を色々なものが踏みつけようとしている。

 今の僕にはその片鱗が見えている。


「……だから、望むなら、もう一度お前を扉の向こうに帰そうと思う」


 僕は儀式中だということも忘れ、はっとして顔を上げた。

 扉の向こう。

 元の世界に、帰る。

 再び、その選択肢に恵まれるとは思わなかった。


「もちろん黒曜の意見は真逆だ。奴はお前を手放すつもりはない。だから、彼らの手が及ばぬよう、向こうに帰ってもしばらくは姿を隠す必要はあるだろうが……どうする?」


 表面上は滞りなく式は進行している。

 どこからか美しい紅色の紙吹雪が舞い、何が楽しいのか生徒たちはお祭り騒ぎだ。

 問題は黒曜だけじゃないと思う。

 今の僕は、普通の人間とは存在のあり方が少し違っている。

 女王国と元いた世界では、魔法の働き方が未知数だ。

 オルドルの魔法が弱まりでもしたら、どうなるかは誰にも保障できない。

 僕は考えていた。

 ここで、こうして沈黙している限り誰も僕を責めないし裁きもしないが、その代わりにどこまでも愚かで卑怯で正しくなれない自分に万雷ばんらいの拍手が贈られるだろう。

 紅華は何も知らない生徒たちに微笑みかけ、手を振る。

 勝利者への賛辞が、それを贈られるべきではない僕を罰する。


 偉大な知恵に、我らの師に。

 王姫殿下、万歳。

 女王国よ永久であれ……。


 たたえる言葉を耳にする度、苦しい。

 偉大じゃない。

 僕は僕を守るために最悪の方法に手を染めた。

 逃げてばかりの、ただの弱い人間だ。


『……バカだね、ツバキ。また間違えるつもり?』

「……オルドル?」


 一瞬だったが、はっきりと声が聞こえた。

 聞き間違いではない、と思う。それから、また沈黙が続く。

 式典は終わった。あとはステージから降り、歓声の間を去り、ウファーリの件で紅華を交え灰簾理事との会見を済ませるだけだ。


 大丈夫。僕は冷静だ。


 オルドルは言葉で人を翻弄ほんろうする。かき回したいだけだ。

 でも同時に、その冷静なはずの自分は何もかもめちゃくちゃにしてやりたい、叫び出したいって思ってもいる。


 いったい、どうすればよかった? ……って。


 前に戻るかどうかと問われたとき、僕は母親を許したいと思った。


 それは本当だ。

 母が僕にしたことの全部を許して、そうして……。


 僕は自分のしたことをつぐないたかったんだ。


「ツバキ」


 喝采かっさいの中、名を呼ばれた気がして、僕は絨毯じゅうたんの上で振り返った。

 天藍アオイは無表情な横顔で、剣を――フラガラッハを差し出した。


「王姫殿下に剣をお返しする」


 そう言って前に進み出た。

 僕は紅華に視線をやり、彼女がうなずく。

 お前が受け取れ、と言っているみたいだった。


 そして、剣から天藍の手が離れる。


 剣という錘を外された後、天藍の白い両手が伸ばされ、不意に僕の顔を包んだ。

 顔っていうか、耳だ。

 喝采も、僕を賛美する言葉も、聞こえなくなる。


「恐れの中でどう戦えばいいか聞いたな」

「何…………?」

「答えよう、恐怖は消せない。恐怖と後悔の中で足掻くしかない。私も恐ろしい……だが、これから挑む戦いがいずれ償いになることを信じている」


 天藍の言葉もろくに聞こえないままに、両手がそっと離れていく。

 外界の音がやっと入ってくる。


「……今の、なんだ?」

「忘れろ」


 そう短く言って元の場所に帰って行く。

 僕も促され、校内に入る。

 僕と紅華を追って生徒たちが垣根かきねを作るが、警備員に追い返されている。

 その光景を背後にして、僕はずっと考えていた。

 天藍が僕の両耳を塞いだ瞬間、よけいな雑音が聞こえなくなって、英雄でも殺人者でもなくなった気がして、ほっとした。


 あの感覚に覚えがある。


 いつ、どこで? そのあたりは全く記憶には残ってない。

 でも同じことがどこかであった。

 ひとりぼっちで、辛く、耐え難いほど苦しいとき。

 誰かがそばにいてくれたような気がする。


 もちろん、そんなはずない……。

 誰も僕を助けてくれなかったから、あんなことが起きたんだ……。


 後悔や苦痛は消えない。

 母さんを殺そうとした。

 いや、殺したつもりだった。さらに最悪なことに、僕は逃げた。

 罪の重さに耐えられなくて、辛いと思う自分自身を葬り去りたくて逃げた。

 与えられる痛みにも、自分の内側に湧き出る苦しみにも耐えられなかったんだ。


 そのはずなのに、

 紅華が図書館まで駆けてきてくれたみたいに、

 リブラがこっそり心臓から呪具を取り除いてくれたときのように、

 誰かが僕を助けようとしてくれていたような記憶の手触りがあった。


「……紅華」


 少女がゆっくりと振り返る。不思議そうな顔で。

 胸の痛みは辛くて、苦しい。

 でも彼女は鮮やかだった。

 赤い瞳も、ドレスの色も。

 困難に立ち向かおうとする意志も。


 僕はここに来て、たくさんのことを知った。

 知ってはいけないことも、

 知りたくなかったことも、たくさん。


 そのことを抱えたまま、何もせずに帰ってもいいのか?

 また逃げるつもりなのか?

 これを言いたかったのか、オルドル?


 さあね、と道化の声がした。


「やっぱり、僕は帰らないよ」


 広場のほうを振り返る。

 生徒たちの向こうに、反対の方向に去っていくふたりの姿が見えた。

 僕がそうするのを見越していたように、星条百合白はなびく白金の髪を押さえ、まったく同じタイミングでこちらを振り向いた。


 桃色の瞳が意外なほど強く、こちらを見つめてくる。


 出会ったときは、彼女はただ儚げで可憐なだけの少女だった。


 その華奢な体の内に秘めた気高さやしたたかさ、愛するもののために多大な犠牲を払うことを選んだ激しさを知らないまま彼女を好きになったつもりになっていた。


 僕は彼女に今、この瞬間、初めて出会った。


 そんな気がする。

 

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