純心にさよならを告げて

121 虚飾の栄光

*****


 


 その言葉が呪いみたいに僕の手足を動かしていた。

 常日頃は時間にルーズなほうだが、具合の悪いことに午後七時以降のスケジュールは決まってる。自然に振る舞わなければ誰かの記憶に残ってしまうかもしれない……と、無意識で思っていたというより、どうしていいかわからなかったんだ。


 考えるための、長い時間が欲しかった。


 まずは弁当屋に行く。

 いつもと同じ注文をして金を払い、二筋離れたビルに向かう。

 一階の手狭てぜまな駐輪場に自転車を放り込んで、二つある入り口のうちコミックスのコーナーから店内に入る。

 控室で騒いでる大学生アルバイトの声が裏から聞こえてくる。

 漫画の陳列棚をななめに見て、カウンターの前を通り過ぎて、限界まで安売りされてる小説の棚へ。

 既に十五分くらい遅れてる。

 いつも通りに、いつも通りに。そうとなえながら端から本を眺める。

 本なんてどれでもいい。物語ならなんでも。

 僕は物語が好きなわけじゃない。

 でも想像力の世界には、本当のものは存在しない。

 辛いことや悲劇は存在しているけれど、それは血と肉と果てしない時間と距離で隔てられた他人の世界だから、


 物語と僕の間には見えない無敵の空間があると感じる。


 そのへだたりが僕を守ってくれる……いや、そういう実の無い空虚な遠さで、僕は現実と離れていたかったんだ。

 目に留まった、陽にけてくすんだ背表紙を棚から引き出した。

 その手に後から誰かが手を伸ばして、触れた。

 触った、というよりかすめた、といったほうが正しい。偶然同じ商品を見ていて、それでほんの少しだけ手を伸ばすのが僕のほうが速かった、そんなタイミングだった。

 相手は女性だった。女の子、だと思う。

 帽子を目深まぶかにかぶっていて、口元が、何かに驚いているような……。

 そんな表情に気がついて、僕は必要以上に強い力で文庫本を棚から引き抜きレジに持って行った。心臓の鼓動が早鐘のようだった。

 そこでようやく気がついたんだ。


 ……。


 思い返せば、たぶんあの時だ。

 僕は古本屋から帰宅してエレベーターに乗り込んで、殺されるまで、誰にも会っていないし、触れられてもいない。

 生誕のサナーリアは、対象に触れることで致死的な威力を発揮する。

 だから、あの女の子がマリヤだったと考えるべきなんだ。

 ただ、あのときは気が動転していて、顔立ちや服装なんかろくに覚えてなかった。

 そのこと自体が思い出したくない出来事で、実際に、忘れてた。


 


 殺した、と思っていた。

 だいぶ前から、母さんはおかしかった。

 突然機嫌が悪くなり、酒を飲むと手がつけられなくなる。

 その日は馬乗りになって首を絞められて……。

 でも本当は少しだけ冷静だった。

 力は強いけど、僕は男で、全然抵抗できないってわけでもない。

 気がついたら母さんは頭から血を流して倒れてた。

 薄暗くて汚い部屋で、一瞬、これはいつもの僕の妄想なんじゃないかって、そんなふうに考えた。母親を殺そう、と思ったのはこの一度きりじゃない。包丁を見れば、これで刺せるな、とか、そこらじゅうに転がってる酒瓶で殴りつけるとか、紐で首をしめるとか……そういうのはずっと考えてた。でもそれが現実に起きることはなかった。

 魔法の呪文が彼女を守っていたからだ。

 呪文にはいろんな種類がある。


 昔は優しかった。

 父親に捨てられてかわいそうだ。

 あの人も苦労してる。

 暴力はいけないことだ。

 家族のことが好きだ。

 いつかきっとわかってくれるはず。


 物語が僕を守ってくれる。

 魔法の呪文が彼女を守ってくれるはず。


 だけど、本当は違ってた。

 僕のことも、母さんのことも、誰も守ってはくれないんだ……って思い知っただけだった。


 女王国に来たのは、僕にとって。

 日長椿にとって千載一隅せんざいいちぐうのチャンスだった。


 彼は変わりたかった。


 良い人間になりたかった。

 たとえ自分の命を失っても、絶対に許されないことをしてしまった自分以外の誰かになりたかったんだ。それが僕の罪だ。



*****



 魔法学院の広場に喝采かっさいの声が響き渡る。


「偉大な知恵に!」

「我らの師に!」

「栄光あれ!」


 祝福あれ、光あれかし。

 湧きあがる拍手と歓喜と祝いの言葉。

 竜鱗騎士の卵たちは剣を、居並ぶ教官たちは杖を、一斉に抜き、ささげる。


 賛美を一身に受けているのは、この僕だった。


 彼らが僕をたたえるのは僕が学院でも最年少の教官で、任官直後に海市を襲った竜を倒してみせたから。そういう英雄物語に対してだ。

 彼らの中には僕がどんな方法でマリヤを殺したのか、彼女がなんのために罪をおかしたのか、そんなことを知っている人も、知りたいと思っている人もいない。

 僕がただの汚い殺人者だってことを知っているのは、生徒たちの中に何も知らない素振りで紛れ込んでいるだろう星条百合白ひとりだ。


 マリヤは僕を殺したあと、本を奪った。


 服のポケットに鍵が入っていたはずだ。あと、携帯電話も。たぶん、マリヤは鍵を使って部屋に入り、倒れている母を見つけたんだ。

 僕の手に血が付着していた理由にも気がついた。


 マリヤはどうしただろう……見殺しにしたのか、それとも。


 確かめる勇気は、僕には無い。

 ただひとつハッキリしていることは、最初から彼女は知ってたんだ。

 僕がどんな人間なのかを。

 マリヤから見たら、こんなにおかしいことはないだろう。

 この世で最もおぞましい殺人者が、異世界から自分を追って来たのだから。

 だけど、彼女は僕の心の中までは読めなかったに違いない。

 僕は、僕のしてしまったことが恐ろしい。

 それを認めることがまだ、怖い。

 喝采は、勝利者の栄光なんてものではなかった。

 彼らが僕をめ讃える度、苦しい気持ちがにじみ出てくる。

 でも戻れない。

 どんなに願っても、選択の前には戻れない。


 檀上に、紅いドレス姿の少女が待っていた。

 王姫、紅水紅華だ。


 すべて、段取り通りだ。

 僕は黒曜の冗談を冗談として認めるために、まずは真珠イブキの名誉回復を求めた。次にウファーリ・ウラルの復学について。

 できれば灰簾理事かいれんりじの反発を受けない形がよかった。

 そこで、黒曜は学院で式典をり行うよう手配した。

 僕の挨拶のときなんかとは、規模も違う。

 魔法学院に在学する教官と全ての生徒たちを集め、紅華はまずイブキが指名手配を受けたのは間違いだったと言明げんめいする。

 正式な場と王姫みずからの謝罪の言葉があれば、学院の関係者は納得するだろう。

 そして次に、ウファーリの復学に向けて足がかりをつける。とはいえ校内の人事に直接口を出してひっくり返せば反感を買い後を引く。

 目標は、彼女の退学を決めた会議の続きをやることだ。

 黒曜はノーマン副団長が上げてきた報告に目をつけた。

 ノーマンは貧民街に向かった際、地元の住民を積極的に助け、避難させるウファーリを目撃していた。これは僕も驚きだったが、副団長にとってもそうだったらしい。

 かなり詳細な記述が遺されていた。

 これを根拠に、黒曜は紅華の手から直接ウファーリに《星》を授与することを決めた。

 星、というのは、女王国の国民が目標とするべき勇敢な行いや奉仕の精神を示した人物に贈られる名誉の証明で、要するに、僕が知ってるものだと勲章に近い。

 銀華竜の侵攻にあたっては、他にも軍人や市警の職員なんかが表彰される予定で、そこにウファーリも加えよう、というのだ。

 星の授与はかなり市民の注目を集めることになる。

 中でも、貧民街の出身で、苦学して魔法学院に通う少女となれば話題性は抜群ばつぐんだ。

 そしてウファーリが退学処分を受けた主たる理由は非行となっているため、この処分の内容と、授与の理由は大きく食い違うことになって、さらなる関心を集めるはずだ。

 灰簾理事はかなり気まずい思いをするだろうが、不自然にならない流れで再び審議の場をもうけ、灰簾理事の意地とこちらの要求の折衷案せっちゅうあんを探ることが黒曜の狙いだった。

 まあ黒曜のことだから、再度の話し合いの落とし所ももう決めているはずだ。

 最終的には、僕の要求のそう遠くないところに着地する。

 というか、してくれなければ困る。

 さて、その二つを効率よくやるために、もうひとつだけするべきことがある。

 学院に入り込んでわざわざ派手な式典を開くための、表向きの理由が必要だ。

 既に退学処分を受けているウファーリの星の授与というだけではダメだ。


 そこで、僕がひと肌脱ぐことになった。


 今、僕は王姫の前に片膝をついている。

 紅の瞳は王姫の目つきで僕を見下ろし、差し出した儀礼用の剣を抜いた。


「……不思議な光景だな、ヒナガツバキ」

「まあね」


 僕は生徒たちからは会話の内容がわからないよう気をつけながら、苦笑いを浮かべる。


「誓いを述べよ、マスター・ヒナガ」

「ええと、本当にやるの?」

「もちろん。言葉は祝福であり呪いだ。誓いの言葉をもって、お前は私のものになる」

「演技、なんだよね?」


 このあたりは全部、小声だ。


「ああ、もちろんだとも」


 紅華は十四歳とはとても思えない、艶然えんぜんとした微笑をみせた。

 何だか、よからぬことを企んでいるカオだ。

 でも後ろには引けない。


「マスター・ヒナガ。銀華竜を倒した勇気と知恵をたたえ、そなたに騎士の称号を与えます」


 いつか図書館でほとんどふざけて約束したことが、現実になってしまった。

 騎士団に入るとかじゃなくって、僕は紅水紅華に忠誠を誓う、ごくごく個人的な騎士になるのだ。

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