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 僕は百合白さんのしたことの善悪を決めかねている。


「……許されるわけない」


 だけど僕にはわかってしまった。

 人を好きになることは、好きにならない人との間に優劣を認めることだ。

 愛することは愛さないことと愛されないことの裏側にあって、守りたいと思う気持ちは突き詰めれば他者の存在を許容しないということだ。

 それは生きていくうえで当たり前で当然すぎて誰にも思考されない常識の話だ。

 だからこそ愛しているから、守りたいから……僕には百合白さんがしてしまったことの正しさを決めることができない。

 きっと誰にだってできない。

 愛情を感じたことのある全ての人間、苦しんでいるときに優しくしてあげたいと感じたすべての人たちと同じ気持ちで、百合白さんは天藍アオイを救おうとしたのだから。


「最早許す、許さないという領域を越えている。それを決めるのは私の仕事ではない。ただどちらに天秤が傾くのかを見極め、利用するだけだ」


 黒曜ウヤクはあっさりと切り捨てた。

 考えてもどうしようもないことには、結論を出さない。

 百合白さんもきっと、自分のしたことの善悪をはかっていない。

 彼女は誰かが自分を裁くと知りながら、天藍アオイを救うためのただ一つの方法を探った。そんなことに頓着とんちゃくしなかった。

 彼らはある意味、普通の人たちとは違ってる。

 理由はどうあれ、善悪という二項対立を軽々と飛び越えることができる。

 それができない僕たちだけが、彼らに踊らされる。

 粉々に打ち砕かれて、千々に引き裂かれる。


「それよりも、王室に対する不信が募ればこの国はもっと揺れる。女王国を食いたいのは竜だけではない。しばしの平穏を楽しみたまえよ、少年」


 黒曜は片手を竜に見立て、竜の鳴きまねをしてみせた。


「そうそう、リブラがかなり落ち込んでいたぞ。マリヤを失い君を裏切り……相変わらず責任感の強い男だな」


 黒曜はそう言い残して、きびすを返した。

 ……考えてみれば、今回一番振り回されているのは、僕を除けばリブラかもしれない。

 彼が黒曜ウヤクの側について僕を騙したことについては、意外なようだがうらんでない。

 はっきり言って、もうそれどころじゃない。

 だけど、ばかみたいに素直で生真面目きまじめな性格のあいつは、いちいちばかみたいに素直に生真面目に葛藤かっとうしたんだろう。

 黒曜の革靴の音が遠く離れていく。


「失礼、お嬢さん」

「ん……あんた、目が見えないの? 玄関まで送っていこうか」

「結構。お気遣いに感謝する」


 会話が聞こえて来る。

 振り向くと、そこにワンピースを着た美少女……がいた。

 赤い髪に見覚えがある。


「……ウファーリ?」


 僕に向き直ったウファーリは未だかつてないほど微妙な顔つきをしていた。

 奥歯に何か挟まってるような顔……とでも言えばいいか。

 彼女はスカートのすそをつまんで、必死に訴える。


「あ……この格好は、見なかったことにして!」


 こんなの、というのは、彼女が着ているワンピースのことだろう。

 白い生地に金釦きんぼたん、青いリボンとレースの飾り。

 赤い髪は丁寧にかされて、ハーフアップにまとめられ、バレッタが輝いていた。

 出会い頭に頸動脈けいどうみゃくを切り裂いて来る野生女じゃなく、学院の雰囲気に相応しいお嬢様って感じだ。見た目だけは。


「母さんが今日くらいちゃんとした格好しろってさ。失礼な話だよな」


 黒曜はにやりと笑って右手を挙げただけで、階下に降りていった。

 そういうんじゃない、と眼力だけで伝わったかどうか。


「すごくよく似合ってると思うけど……」


 ドレス姿も綺麗だったけど、あれは派手すぎたから、こっちのほうがいい。


「そうかなあ……」


 でも好みじゃないのか、ウファーリはぶつくさと文句を言っている。

 まあ、見た目や装いが人間性を決めるわけじゃないっていうのは、ウファーリらしい視点だ。


「それで、僕に何か用事でも?」

「あ、そうそう。先生……ありがとな」


 ウファーリは、新品の靴の爪先をきちんと揃えて僕の目の前に立った。

 お礼の言葉を口にしてから、眉をひそめて、ヘンな顔をする。


「……っていうのとは、ちょっと違うかな。自分でもよくわからないんだけど、学院から離れて初めて、少しだけ……いや、かなりかな。自分はまだまだ力不足だなって実感したんだ。周りのこと全然見えてなかったよなって」

「へえ……」


 周りにあったけど全然見えていなかったもの代表として、僕は無言で親指を立てて、頸動脈のあたりを撫でた。

 ウファーリはそっと目をらした。


「ごめんなさい。……できれば忘れてください」


 もちろん、冗談だ。

 あの件に関しては、僕も間違ったことをした。

 だから治った傷のことは、もういいんだ。


「今ままではさ、自分の境遇を呪ってばっかりで、すごくくだらないことしてた」

「……うん」

「もっと強くなりたいんだ。できればここに戻りたい。自分の力の使い方とか、もっと勉強できると思うから」

「うん」


 あのウファーリ・ウラルの言葉だとはとても思えない。

 僕に訴えかけてくる金色の瞳は、妙な険がとれて、輝いている。


「あたし、変われるかな……?」


 誰かに背中を押されるように、頷く。

 僕も変わりたいと、何度も何度も繰り返し願った。

 強くなりたかった。

 何でもできる力が欲しいって、そうしたら……守りたい人を守れる。

 誰も傷つけずに済むって。


「きっと……変われるよ。っていうか、もう別人みたいだ」


 ウファーリは屈託くったくなく笑って、ありがとう、って言って、くるりとその場で回ってみせた。

 スカートの裾がふわりと広がって、制服のときより丈の長いスカートのくせして、慌てて慣れない衣装の前のほうを手で押さえてる姿が、少し抜けてて、元気そうで、明るくて、いい光景だなって思う。

 彼女は変わっていっている。しかも、とてもいい方向に。

 でも何故だろう……それなのに、今のウファーリを見ているのは少しだけ切ない。


「先生……?」


 ウファーリの不思議そうな声が聞こえてきた。

 でも顔を上げることができない。

 どんどん良い方向に変わっていく彼女の明るさに耐えきれない。

 頭の中に鳴り響くんだ。声が。

 それは百合白さんの、去り際の言葉だ。

 彼女は魔法の言葉を携えて現れた。最初から何を話しても、僕が黙っているって自信があったから、彼女は僕に何もかもを打ち明けた。

 打ち明けられた内容が、さらに僕を苦しめるって知っていたからだ。



《お母様、ね。わ……まだ、息があったのですよ》



 彼女の言葉が、僕の一番嫌な記憶の輪郭りんかくを、はっきりと辿っていく。


 心臓を針山で刺されるような痛みと、自分自身への嫌悪感で吐きそうなのを堪えて顔を上げる。

 ウファーリの心配そうな顔が、おかしかった。


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