112 ただいまは迷いながら

 紙のにおいとインクのにおい。

 古い本のページの間のように少し埃っぽくて、図書館の空気は停滞している。

 時間がぴたりと止まっていてどこにも出ていかず、風がふきこんでも本達は知らん顔するだけ。

 よそよそしいような懐かしいような空気を思い切り肺に吸い込んで、吐く。


 ただいま、だろうか。

 帰って来た、のだろうか。


 記憶が、ここにもう一度来たんだとさりげなく教えてくれるだけで、迷いは消えない。


「せんせいっ!?」


 奥から飛び出してきた真ん丸の瞳が、恐怖に震えている。


「まさか……竜と戦って生きて帰って来れるはずがありませんにゃ! 先手必勝、悪霊退散!」


 ぽすっ、という小さな音と共に、柔らかな拳が僕の腹のあたりを叩いた。

 勝手に僕を死人にしたニャコ族の少女は、幽霊に触れるという事実に、勝手に驚愕きょうがくした表情を浮かべた。


「さ……触れる! もしかして、新型幽霊っ!?」


 僕は微笑んだ。

 そしておもむろにアリスのふかふか三角耳をぎゅっと掴み、軽く真上に持ち上げた。


「あにゃー!! ごめんなさいにゃー!!」

「怒ってない。全然怒ってないよ。死人扱いされてたことなんて、全然怒ってないからね」

「怒ってますにゃ! すっごく怒ってますにゃあ!!!」


 天藍は騒々しさに巻き込まれるのを嫌って、三歩下がって、巨大な荷物を避けるように窓辺に逃げて行った。


「……彼女にはお前を探すのに尽力じんりょくしてもらった」

「え、そうなの?」


 僕は三角耳を解放した。


「そういえば、ウヤクと親しいんだったっけ。あいつに友達がいるかどうかちょっと疑わしいけど」

「ウヤクは寂しい奴なんですにゃ。幼少の頃にお母さまと生き別れて……黒曜家の伝統と格式にがんじがらめで、少し歪んだ育ち方をしてしまいましたにゃ」


「「少し」」と僕と天藍の声が、珍しくハモる。


「はい。あの家ではご存知の通り《海音かいおん》の保有者が家長となりますにゃ。しかし、海音の発現傾向は未知の領域……よって、跡継ぎが生まれるまでは、ウヤクはあの姿のまま……役目を放棄することはおろか老いることも死ぬことも許されませんにゃ」


 いつか、乱暴に酒瓶を空けていた姿を目撃したことがある。

 十五歳の姿のままで、いつ終わるともわからない長い時間を大宰相としての重圧を背負って生きなければならないというのは、あまり愉快なことには思えない。

 あいつにも……あいつにも事情があるんだということは、僕も飲み込まなければいけないだろう。けれど、何もかも飲み込んでばかりでは小石を飲み込んで血を吐くことにもなりかねない。


「理解者が少ないだけで、本当は心の優しい子なんですにゃ……」


 アリスはしゅんと頭を垂れる。


「心の」と天藍が言い「優しい……」と続けた僕が言葉を失う。絶句だ。


 優しいというのなら、アレを見て『優しい』と評価を下せる彼女がまさに慈母のごとくだ。そして母親というものは、ときどき愛情の深さのあまり、無限に盲目になれるらしい。


「頭のイカれた、の間違いじゃないのか」との天藍のぼやきには、全面的に賛成だ


 天藍アオイが助けに入らなかったら、僕は今頃、どうなっていたか。

 お茶を媒介に軽く幻を交えながら、僕は僕がいなかった五日間の、大まかなあらすじを聞いた。

 銀華竜とマリヤと戦った後、僕と天藍は事実上、戦闘不能状態に陥った。

 僕は瀕死の大怪我。天藍は暴走の直前までいった。

 彼が治療を受け、目覚めたときには……僕は黒曜に連れ去られたあとだったそうだ。

 ノーマン副団長やアリスさんの力を借りて天藍が来てくれても、黒曜ウヤクは僕たちより一枚上手だった。思い出して、吐き気がする。

 事が露見ろけんしても、大宰相は余裕の態度を崩さなかった。


「あれでよかったのか?」と天藍は不機嫌そうにたずねた。


 どうする、と訊ねられ、僕は僕なりに答えを出した。


 それは黒曜を罰することでもなく、事実を公表して事を荒立てるとか、そういうことでもなかった。


「いいんだ」


 黒曜に騙されて最終的に殺されかけたことは、許すと決めた。

 まだ心にくすぶるものはあるが、その火を消していこうと、誰かに責任を求めたり罪をなすりつけたりはしないと決めた。

 その代わりに……。いくつかの代替案を黒曜に飲ませた。

 市民図書館を無暗むやみに探らない、というのもそのうちのひとつだ。

 イネスやアリスさんを使って、僕の動向を探ったりさせない。――口約束でしかないが、安全に眠れる場所が欲しかった。

 黒曜は嘲笑あざわらうような表情で、全ての条件を請け負った。

 黒い衣を着た、オルドルよりも悪魔のような人間。あいつと話をするとき……人間と話しているとは思えなかった。

 大広間での話を思い出す。


「式典の会場で言ったな……この国の未来を二人で決めるってさ。あれも嘘だったの?」


 人を人とも思わないやり方には共感することも、協力することはない。

 しかし、黒曜は歪んだ笑みを浮かべたままこう答えてみせた。


「ああ……あれか。君は実によく働いてくれたよ」


 あのとき、こいつは僕と取引しながらも、僕に何をさせたいのかまでは語らなかった。

 そりゃそうだ。そのとき既に僕はこいつの筋書きどおり、《マリヤを殺す》という目的を達成するために動かされていたのだから。

 チェスの駒みたいに。


「黒曜と真正面からやり合っても……いいことないだろ」


 黒曜ウヤクは女王国に必要な人材だ。その性格がねじ曲がっていても、目的のためには命を命とも思わない奴でも……紅華は、彼が女王府にあることを選んだ。

 それは、女王国のためだ。そしてここに住む無数の人々のため。


「殺せと言われれば、殺すつもりでいた」


 そう、天藍は言った。あながち冗談でもなさそうだ。


「……君が僕のことを探してくれるなんて、思いもしなかった」


 それが正直な気持ちだ。


「はっきり言って、気持ち悪い」


 それも正直な気持ちだ。

 天藍はフン、と鼻を鳴らす。


「ツバキ……。あいつは、目的が何であれ竜を倒すために全てをささげた。その借りを返そうとしただけだ」


 あいつ、という物の言い方が、ちくりと……いや、ざくりと心臓を刺していく。

 天藍アオイは知っている。

 ここにいる僕と、彼と組むと言った《日長椿》をちゃんと区別している。


「俺がまだ、騎士団長でいられる間にな」

「……えっ?」


 最初、綺麗な二つの宝石がはめ込まれただけの人形のようだと感じていた美貌には、苦しみとか、悩みとか、重みのある決断とか、ちゃんとした人間の呼吸があった。

 だから、冗談ではないと伝わった。


「騎士団長としての務めを返上する」

「まさか……ノーマン副団長の力を、僕の捜索のために使ったから?」

「違う。遅かれ早かれ、そうなるべきだったからだ」


 それは、つまるところ騎士団と女王府、そして王姫、紅水紅華の関係を修復して元に戻す、という意味だった。

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