113 過去を忘れて

「姫殿下への忠誠を捨てたわけではないが……もっとはやくこうするべきだった、という後悔はある」


 星条百合白が王姫である資格を失っている現状、彼女を守るという誓いは、天藍アオイの個人的な感情の問題――実際がどうであれ、そう取られても仕方がない。

 この頑固な奴が自分からそう言い出したのだ。

 きっと銀華竜やマリヤの一件が影響しているだろうけれど…………僕はただ、そういうタイミングにたまたまいただけだ。

 だから何を訊ねても、否定しても、肯定しても、行く先は変わらないんだろう。

 僕の選択に意味はない。

 何もできない。

 ただぎゅっと拳を握るだけ。

 何かを決めた彼から視線を逸らさないでいるだけだ。


「辞めた後、どうなるんだよ」

「ただの学生に戻る。竜鱗魔術師であることは変わらないが……もう騎士ではない」


 こいつが、ただの学生なんて……うまく想像ができない。拍子抜けだ。

 ……いや、拍子抜けどころじゃない。


「騎士を続けるっていう選択はないの? それとも、あきらめてるのか?」


 星条百合白せいじょうゆりしろの騎士であるということは彼の大切な一部分のはずだ。

 天藍は質問には答えず、全く見当違いのことを訊いて来た。


「蘇生の最中のことは記憶に残っているか」


 蘇生? オルドルが《蘇生》の魔法を使っている間のことは、うろ覚えだ。

 そう答えると、天藍は言葉を選びながら話し始めた。


「たとえ騎士でなくなっても、《過去》には戻らない。俺には星条百合白殿下が示してくださった道がある。あの方を恨むと言ったが、それでも彼女がいさえすれば戦い続けられる」


 たとえ何を失うことになっても、と続く気がした。

 どうして唐突にそんな話を始めたのかはわからなくても、それでもあまり多くを語らないこいつが何かを伝えようとしているということだけは理解できる。

 そして、今のでわかった。

 こいつは諦めてなんかない。どれだけ困難な局面でも、逃げたりしない。

 彼女を守るための最善を選び続け、その先に戦いがあれば、躊躇ためらわない。

 騎士ではなくなっても戦い続けるんだ。


「ヒナガツバキ、お前は準長老級の竜を倒し、文字通り命を賭けて女王国を救った。戦士としてお前を誇りに思う。だから――お前も過去は忘れろ」


 それだけ言うと、天藍は席を立った。

 ぴんと伸びた背中が、図書館の出口に向かっていく。

 赤いお茶の残量は半分程度。

 窓ガラスには天藍が出ていって、ゆっくり閉じていく扉がうつっている。


「……オルドル、食べていいぞ」


 左手に鋭い痛みが走り、血のしずくが垂れる。


 僕を誇りに思う……。


 肉体の痛みより、その言葉のほうが、何倍も辛い。

 出会った最初から、あいつは百合白さんを守るのに必死だった。

 プライドが高すぎだし頑固だし、暴力的だし、とても好感は持てない人物像だ。

 でも、強くても、誰かを守れるわけじゃないってずっと苦悩していた。

 今もそれを続けている。

 未来永劫みらいえいごう、彼女が生き続ける限り、この後もずっと変わらない。

 不思議だ。

 彼は孤児として生まれた。

 父親も母親も知らずに。それなのに、誰かを守るために生きている。

 強くあれる。

 認めよう。

 天藍アオイは星条百合白に相応ふさわしい。

 本当のプリンセスを守る、本物の騎士だ。


 僕もそうなれたらどんなにいいだろうと感じる。


 彼の言うように過去を忘れ、僕が欲しかったものや、失ってしまったものや、してしまったこと全てを忘れて、誇り高く生きられたら。


 でも、それはすごく難しいことだ。


 過去の小さな引っかき傷が、今の自分を傷つけてるのを感じる。

 喉に刺さった小さな骨が、うまく飲み込めないでいる。

 大切な人の、通り過ぎていった人たちの些細ささいなひと言に縛られて、身動きできない。動けと言っても小指ひとつ動かない。全てをふり払えるほど、そして未来の可能性を一つに絞れるほど、人はそんなには強くなれないんだ。

 少なくとも僕は忘れられない。

 僕は強くなれない。

 僕は正しく生きられない。

 善人でもなく、忘却を選べない。

 それを確かめるまで、一歩も前に進むことができない。

 そう、つまり。





 







 竜の爪痕つめあとは、海市の平穏にはっきりと傷をつけた。

 それは時間が経過してもえないどころか、み、肉を腐らせていく。

 銀華竜は表向き騎士団が倒したことになっていて、詳細はあまり語られていない。

 それよりもするべきことが山のようにあった。街のあちこちは破壊され、その片付けが残っている。対策を取っていたにも関わらず出た死者のため、とむらいの日々が続く。

 人々は不安がり、その不安は解消されないままだ。

 解消しようとしないのではない。

 不可能なのだ。

 危険はゼロになることはない。

 ただ、一時、それが無いもののようにふるまうことができるだけだ。

 今度のことでみんな知ってしまった。

 何かが少し変わるだけで、平穏な日常なんていとも簡単に消えてしまうんだって。破壊されるんだって。危険はいつもそばにあって、無くすことはできないのだということを、やっと思い出したんだ。

 部外者ですらそう思うんだから、市民感情はかなり動いてるはずだ。

 竜鱗騎士団の在り方や、女王府の動きが変わるのも仕方ないことかもしれない。


 僕はというと、あれから暇つぶしにアリスさんから語学研修を受けていた。


 ……成果はあまりかんばしくないが、少なくとも数字は数えられるようになった。まさか、百人中百人が文系の烙印らくいんを押す僕の人生で国語より算数が得意になる日が来ようとは。

 そして、とくに動きのないまま二日が経った。

 図書館の玄関前に車がまった。

 車種なんかは知らないが、高級そうだ。

 ガラスは外から覗けないようになっている。

 まず、緊張した顔のイネスが呼びに来た。


「もの凄い車が停まってますよ、先生……。あれは政府の公用車じゃないですか」


 察しの良すぎる赤毛の警備員は、手に僕の上着を持っていた。


「竜に槍を突き立ててやった男の発言とはとても思えないね」

「竜は政治はしませんよ。先生、お気をつけて」


 抜けるように青い上着に袖を通すと、少しだけ緊張する。


「そういえば……イネス、マルテはどう?」

「少し落ち着きました。気にしてくださってありがとうございます。よかったら、今度会いに来てください」


 マリヤのことは、公表されていない情報のひとつだ。

 あの連続殺人事件は、黒曜の手によって闇に葬られた。


 それを許したのは僕でもある。

 だから、そのことを批難したりはできない。


 彼はかつての上司を殺した者のことを、その理由を、何一つ知らないまま日常に戻ったのだろう。日々を図書館の警備員として過ごし、空いた日は福祉施設に引き取られたマルテの様子を見に行っているようだ。

 突然、あの子のことをいたのは……聞きたかったからだ。

 竜に襲われても、逃げず、立ち向かうことのできる彼が……昔の上司を殺した者に立ち向かいたいかどうか。復讐をしたいかどうか。

 でも、聞けなかった。


「それじゃ、また今度。も少し落ち着いたらお邪魔するよ」


 そつのない挨拶あいさつを返し、僕は玄関に出た。

 車の前で、魔法学院の制服を着た生徒がひとり、立っている。


「マスター・ヒナガ。準備が整いましたので、お迎えに上がりました。学院までお送りします」


 最初、後ろ姿しか見えなかったが、振り向いた姿を見て、驚く。

 送りに出て来ていたイネスは、そんな僕を見て、怪訝けげんそうな顔をうかべている。

 そうだ。

 こいつは公の場には代理を立てて、姿をみせないんだった。

 女王府の黒曜石、大宰相……黒曜ウヤクは。


「何故、そんな顔をなさっているのですか?」

「冗談きつすぎる。なんだよ、そのコスプレ」


 黒曜は得意げにえりを立ててみせる。


「いいだろ? 俺はこっちの学校には通ったことがない。最近、それも上手い手だなと気がついた。転校してもいいかもな」

「馬鹿言うな」


 僕を殺そうとしたり、監禁した奴が間近にいるってだけで、こっちは落ちつかない気持ちだ。


「それに、お前が迎えに来るなんて聞いてないぞ」

「私は責任感があるほうなんだ。お前から頼まれていた全ての手筈てはずととのったことを、伝えに来ただけさ」

「手筈って?」


 彼は先に後部座席に乗りこみ、「道すがら話す。乗れ」と合図した。

 僕は覚悟を決め、座席の隣に乗り込んだ。


「式典が始まるまで、二時間だ。それで約束は履行される。最終確認だが、それでいいのかね? もっと高望みすればいい。こうなった以上、うなるほどの金でも、名誉でも、受け取る理由は十二分にあるぞ」

「いいよ、これで。他に高望みはしない。また変なことされたらたまらない」

「本音を言えば、私は天藍アオイのような奴より、俺には君のほうがよく理解できる。君がこれから何をしようとしているのかもな」

「……何の話だ?」

「些細なことだ。私も君と同じように、熱意に燃えた異世界転移者だった過去があるという話さ」


 黒曜はごく普通の十五歳の学生……にしては鋭すぎる瞳を三日月のようにゆがめて、笑っていた。


「ひとつ、愉快な情報をやろう。君たちが銀華竜と戦っていた間、翡翠宮では厄介な出来事が起きていた。何かわかるかね?」

「わかるわけないだろ。僕は仙人じゃない」


 黒曜は鷹揚おうように頷く。


苦礬公爵くばんこうしゃく……といっても君には伝わらんな。親百合白派の有力貴族……とでも言えばいいか、そいつが武力でもって王姫殿下に危害を加えようとした」

「紅華に……ってことだよな」


 それってクーデターとか、謀反むほんって言わないか?


「公爵殿は拘束し、かかわった者たちには既にしかるべき処分を下した。手口といい、何から何まであれはお笑いだった。だがな、日長君。ノーマン副団長が来なければ、我々は死んでいたかもしれない。私と……王姫殿下は」

「らしくないな、大宰相」

「無理もない。今の女王府に紅水紅華こうずいべにかを真の忠誠でもって女王にえよう、などという人物は存在しない」


 それだけ星条百合白の人気が高く……とかいう問題でもなさそうだ。


「原因は様々だが、紅水紅華は私が女王府に戻るために立てた王姫だと、貴族連中は本気で信じているのだよ」

「違うのか?」

「事実ではない。私にとって必要な権力とは、天市にて守られ、竜の脅威にほとんど触れたこともなく民の痛みと慟哭どうこくを理解することもない、愚鈍ぐどん蒙昧もうまいな貴族たちを屈服させる《力》に過ぎない」


 黒曜の瞳には、光はない。

 だが炎がたぎっていた。復讐でも、怒りでもない。理性の炎だ。

 天藍アオイの冷たさ、ウファーリの嵐、マリヤの怒り……今まで、いろんな人たちの戦い方を目にしてきた。黒曜にも同じものがある。


 だが……僕はそれを妄信もうしんしたりはしない。


 こいつが屈服させたのはそういう貴族たちだけではない。

 黒曜大宰相が引く計画は物がデカすぎる。

 彼を信じた者も力なき弱者もいっしょくたに計画の犠牲になってしまうし、そうだからといってこの男が方針を変えたりもしないんだということも知っている。

 こいつも、竜とは違う形の嵐なんだ。

 巻き込まれたら吹き飛ばされるだけだ。


「女王府で言ったように、どれだけの犠牲を払ったとしても、玉座を星条百合白に戻すわけにはいかない。私の生きているうちは、時は前にのみ進み続ける」


 黒曜は重ねて言った。

 天藍が百合白のために戦い続けると言い切ったように。

 車の窓から学院が見えた。


「かつての《先輩》からアドバイスを贈ろう。現実は、砂糖菓子のように甘くはない。真のヒロインとは、無力なものではないのだ」


 黒曜は門の前で僕を車から降ろすと、不気味な予言を残して去って行った。

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