107
マリヤは驚いているように見えた。
「何故、私をその名で呼ぶの……?」
「まずはこれだ。無関係な人間の杖を所有していた説明がつかないからね」
僕は、リブラの屋敷で拾った杖を彼女に見せ、地面に転がした。
「
サマリ。その名前は――クヨウ捜査官がもたらした情報から引き出したものだ。
何十万という市民から、リブラの屋敷に残されていた杖の持ち主を探すのは、僕にとっては海中の砂を探す行為に等しい。でも、警察官ならば簡単に照会できる。さらに市警のある一部署は、海市に非難してきた雄黄市出身者の詳細なリストを持っていた。
避難民の中にテロリストや犯罪者が
「どうやって、この短期間で市警に繋がりを持てたのかしら……」
「いろいろあってね」
返す返すも、あれは奇縁だった。
杖の持ち主はアルニカ・アメス。間違いない。
十歳年上の夫を銀麗竜の侵攻によって亡くし、本人は行方不明。アルニカは藍銅系で、玻璃家のように代々医師を輩出した名門の出身だ。
彼女の一人娘の名がサマリ・アメス。
サマリの名は、
「このサマリという名前の子……君とちょうど年頃が釣り合うんだ」
「何を言っているのかわからないわ……私は、マリヤよ」
「マリヤ・ワトー? それもリストに名前があった」
「私たちは友達だったのよ……。怪我が治ったらお互いの家族を探しに行きましょうと約束しあったの。杖は彼女の遺品として預かっているだけのことですわ」
「理屈は通る。でも聞きたいことがあるんだ。どうして、あの女性をリブラに
あの、女性。
「ステラ奉仕院で、君が看護していた身元不明の彼女だよ。彼女は君にとって《特別な人間》だ。違うかな」
あの患者は、看護師のヘレンに虐待を受けていた。
ヘレンを殺したのはその手口からしてマリヤだ。《試し斬り》にヘレンを選んだのは患者を……それも、特別な患者を救うためだったと、僕はそう考えている。
「あの医院には他にも救いを求める人々が大勢いるわ。その全てを、リブラ様に無償で救ってもらえ、とでも
完璧な答えだ。
リブラは
マリヤ本来の良識と、倫理観を兼ね備えた答えだと思う。
一瞬、ここがステラ奉仕院で、僕たちはあの会話の続きをしているんじゃないかという気分になった。
もちろん、ほんの気の迷いだ。
今頃、あの居心地のいい
「仮定の話をしよう。君は奉仕活動の最中に、あの女性が誰だか気がついた。……たとえば
「その根拠のない仮定に、意味があるとは思えませんわね」
僕は
「君は当然彼女を救いたいと考えるはずだが、決してリブラに頼むこともなかった。何故なら……ステラ奉仕院のあの女性は《君の母親だったから》だ……どうかな?」
それをオルドルが作りだした鳥が、その銀色の
小さな嘘に、少しだけ胸が痛む。
それが鶴喰砦でリブラが使った禁術……かどうかは、残念ながら僕は知らない。
でも、そう思っていてくれたほうが都合がいいだろう。禁術の効力がどんなものか彼女はその身をもって知っている。
「君がこれ以上僕たちの妨害をするなら、あの護符は破壊する。リブラが死んだ以上、どう控え目に見積もっても、五年、眠り続けている彼女の蘇生の可能性は……あの護符しかないけどね」
マリヤの表情をうかがう。
彼女は肯定も否定もせず、沈黙を
僕はただひたすら、正解であることを祈った。
彼女が小さな嘘を信じてくれること、その嘘が彼女にとって価値があることの全てについて、この世を支配しているだろう何者かに祈った。
そして、無限にも思える時間が過ぎた。
「ふふっ……ははは」
突然マリヤの唇から、激しい
それは、嗤いでありながら、笑いでもあり、どこか絶望を
「あははははは、ははっはははははははは! ――ああ、おかしい。彼女がサマリの母親、アルニカ・アメスで……私はマリヤではなく、本当はサマリ?」
細い体を二つに折り曲げ、爆笑している。
そして体をびくつかせ、口元を引きつらせながら、訊ねる。
「もしも――それが見当違いだったら、どうするおつもりなのかしら?」
「真実がどんなものであっても、僕はこの可能性に賭ける」
僕は探偵ではない。
警察でもない。
この国には何も関係のない異邦人だ。
真実を必ず解き明かさなければいけない責任など、どこにもない。
だからこそ、無数の可能性のひとつだけに僕の命を賭けることが可能だ。
マリヤは、僕の返答に妙な表情を浮かべた。
「真実? あなたの言う、その穴だらけの推理が真実ですって?」
僕は答えに詰まる。
「いいわ……ではこう考えてみたらどうかしら。あの患者はアルニカじゃない。シリル・ワトー……マリヤ・ワトーの母親だ……と」
シリル・ワトー……。
思いもよらない名前に、僕は一瞬だけ呆然とする。
「そのほうが全ての物事に納得がいく。そうでしょう。私がシリルのことをリブラ様に教えなかった理由、そして、海府議員一家を殺した理由」
彼女がシリルなら、本当のマリヤは母親を真っ先に助けようとしたはずだし、リブラも親身になって治療を施したに違いない。でも、マリヤはそうしなかった。
できなかったんだ。本当の娘は既に《サマリ》として死んでいて、目の前にいるマリヤに血縁関係は無いからだ。
おまけに……鶴喰砦の事件の情報公開が進み市警がリストを公開したならば、シリルがステラ奉仕院の彼女と結びつくのはそう遠くない未来のことだ。
「それに、マリヤ・ワトーは……既に連続殺人事件の真犯人で、おまけに女王殺しの大罪人の名前になる。サマリはもしかしたら生きているかもしれない家族に、その責めを負わせたくはない。もちろん、シリルと出会ってしまったのは不幸な偶然だった……でもそのために危険は
「それが真実なのか? 何故そのことを話した……?」
「どちらにしろ、賭けはあなたの勝ちだから、ですわ」
そう言ってマリヤは白い杖を投げ捨てた。
「わかりませんこと? ……本当はシリルを助けたいの、死んでしまった友達のために。最後まで……彼女の名誉を汚したくない」
そう答えたマリヤは、竜人ではない。
玻璃家の娘でもない。
残忍な殺人者でもなかった。
「マスター・ヒナガ。お願い、私をここで終わらせて……」
「なんだって……?」
「リブラ様を殺した犯人を許せないと言ったのは、本当のことですわ。私は私が許せない。だから犯人を殺して。今ここで」
さっきまで、罠にはめたのは自分だと思っていた。
でも違う。ほんの短い時間の後、敗北の予感に脅え、震えているのは僕のほうだった。
いま、この瞬間。
僕こと日長椿は単なる脅迫者であると同時に、敗北者で、あまりにも
所詮ハッタリだけの詭弁では、勝利者にはなれない。
それでも、逃げられない。
それは選択だからだ。
選択する前には、誰も戻れないんだ。
護符を持ち去った鳥は飛竜の追撃を
すなわち、天藍の肩の上だ。
《天藍……僕のタイミングに合わせてくれ》
鴉が伝言を告げる。
空を舞う戦女神は地上のマリヤと椿を眺め、胡散臭そうな表情を浮かべている。
《マリヤのことは気にせず戦え……》
「元より気にする余裕などない」
銀華竜が巨大な前肢で遅いかかってくる。
フラガラッハを頭上で構え、受け流す。
後退した騎士の目の前で、竜が頭を下にもぐりこませ、ちょうど前転の要領でぐるりと回転する。その背中、背骨の上に沿った鱗が変型し、巨大すぎる
竜の背を彩る刃を避ければ、さらに棘の生えた尾が落下してくる。しかも尾の先端部分には、巨大すぎる鉄球が魔術によって形成されていた。
死角から、絶対に避けることのできない圧倒的な暴力が重力に従って降ってくる。
天藍は構えたフラガラッハごと地上に押し戻され、叩きつけられる。
――土埃と轟音があがった。
埃が去った後には兜を粉砕された天藍が血に染まりながら荒い息を吐き、辛うじて立っていた。
《あああ、気に入らない。人間のくせに、竜のにおいがする。竜になろうとしているおぞましいバケモノ! おまえと遊ぶのは楽しくない! ぜんぜん楽しくない! だから殺す!》
銀華竜の翼は回復しかかっていて、しかも、地上に降り立った竜の両腕からは、鎌状の刃が生えていた。自らの体を構成している金属であれば、白鱗天竜の力は及びにくい。それに大地の魔力で体を
《あの再生能力を封じなくちゃダメだ……いけるか、天藍》
応えるかわりに天藍はフラガラッハを
灰色の眼差しは銀華竜から逸らさない。敵の一挙手一刀足を読もうとし、繊細な注意を払っている。
銀華竜が
彼は静かに
そして、鞘走り。
閃光のような素早さと
そうしてできたほんの隙間を縫い、顔や肩の露出部を焼きながら銀華竜の懐に飛び込んだ。
滑らかな白磁の肌が焼かれ、煙を上げる。
《よし――フラガラッハへの魔力供給を最大にする。その状態を維持できるのは、せいぜい五秒ってとこ。タイミングは――今!》
天藍の目の前に、鋼鉄の防壁がある。
たとえそれがどれほど
十字剣の先端が竜の喉の下、胸の中央部を深く貫く。
切っ先は魔力の籠った鱗を引き裂きさらに深く、深く誘われるがごとく潜りこんでいく。
竜種の一部は、ここに弱点を持つ。図書館の警備員――イネスも、同じ個所を狙っていた。竜が《息吹》を吐くための魔力炉に刃が届きやすいからだ。
天藍は剣を抜き、その傷を指し示す。
「二の竜鱗、その名は《飛旋飛翔》!」
竜騎装の光輪に輝く十枚の鱗が、傷口の奥まで突き立てられる。
次の瞬間、白波が噴き上げるように、体の奥から成長した純白の結晶が噴き出してきた。
銀華竜が絶叫を上げる。
どんな痛みだろう? 想像もつかない。いつものように再生したくとも、白鱗天竜の力が尽きぬ限り、結晶に再生を阻まれ、不可能だ。
これが僕たちがとれる唯一無二の戦法だ。
弱点があるとすれば――銀華竜が死ぬまで天藍の魔力が尽きず暴走しないことと、そして。
視界が反転し、僕の体は地面に崩れ落ちた。
フラガラッハに送る魔力の出力を上げた。魔力が一瞬で底を尽くまでだ。
当然、このままでは二撃目の攻撃ができない。
地上にいる僕を、マリヤの二つの瞳が見つめている。
僕を殺そうと思ったら、すぐにでも可能だろう。
でも彼女はそうしなかった。
「あなた、まさか……」
さっきまで殺し合っていたのに、僕は不思議な連帯感を感じ、頷いていた。
「……オルドル、やれ」
僕は、オルドルに命じる。
『お任せあ~~~れっ!』
オルドルはただでさえ死にかけの体を食らう。
手も足も、内臓も骨も、顔も髪も爪も、ありとあらゆるすべてを。
「おああっ!! うぐああああああァッ!!!」
確実に死にいたる、極大の苦痛が襲ってくる。
それが、《その僕》の最期だった。
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